3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

2010年03月

『マイレージ、マイライフ』

(若干ネタバレです)リストラ宣告請負人のライアン(ジョージ・クルーニー)は年間322の出張をこなし、そのマイレージは1000万目前。しかし新人のナタリー(アナ・ケンドリック)がネットでの解雇通知による出張費の削減を提案。ライアンは嫌々ながら、ナタリーの研修をかねた出張に出る。
 監督は『サンキュー・スモーキング』『JUNO』のジェイソン・ライトマン。この人の監督作とは私は相性がいいらしく(多分編集のリズムが好みなんだと思う)、毎回楽しく見ることができている。今回も当たり。音楽のセレクトもよかった。どことなく懐かしいナンバーが使われている。今回は曲の歌詞も重要なファクターなので、ちゃんと日本語字幕を付けてあるのはうれしい。
 荷物は最小限、家族はないも同然の独身の身で、軽やかに移動を続けるライアンは、自分のライフスタイルに迷いを持っていなかったし変える気もなかったし、実際に社会的には成功している人物だ。しかし見ようによっては、ナタリーに責められるように、誰かと人生を共にする責任を回避し続けていることでもある。自分以外のことに責任を持つのがおっくう、他人と人生を共にするのが怖いという臆病さというか未熟さというかは、なかなか耳が痛いものがある。
 そんなライアンにも、自分のポリシーが揺らぐ出会いが訪れる。しかし、その結末は皮肉なものだった。出張生活をやめようという方向に傾くと、出張生活再開のお達しがくる。このほかにも、登場人物の気持ちと行動の結果とが裏腹な、皮肉な展開が多く見られた。ライアンが妹の婚約者に結婚について説くシーンも、いいこと言っているのだが、ライアン本人の人生とは全く一致していない、むしろそれ自分に説教してやったほうがいいんじゃないですかというものだ。また、クビを宣告する立場のライアンがナタリーの提案により自分がクビにされそうになるし、堅実な人生プランを描いていたナタリーはふとしたことでつまづいてしまう。思ったとおりにならない、というより、人生の転機がいつもタイミングを外してやってくるという感じなのだ。なんでそうなっちゃうんだろうな、とぼやきたくなる。
 結局ライアンは人生の方向を定められないままだ。変わろうと思ってもそう簡単には人は変われない。語り口は軽妙だが、ラストには悲哀がにじむ。ただ、ライアンは自分の中にもこういった感情がある、ということには気づいたわけで、この先変わっていくのかもしれないけれど。
 ところで、ナタリーが理想の男性の話をするシーンで、あまりに典型的かつ保守的な理想像なのでおどろいた。愛があれば、とはいわないが条件挙げすぎると却って非現実的になるなー。対する30代女性が「色々条件はあるけど笑顔が素敵なのが一番」というのは、それまでの人生を思わせるものがある。あとアメリカの30代女性ってこんなに大人なイメージなのかと愕然・・・。







『NINE』

 世界的に有名なイタリア人映画監督のグイド・コンティーニ(ダニエル・デイ=ルイス)は近年スランプに陥っていた。新作製作が決まっているものの、脚本を1行も書けないままだ。記者会見から逃げ出して海辺のホテルに身を潜めたグイドは愛人(ペネロペ・クルス)を呼びつけるが、妻(マリオン・コティヤール)に知られ、彼女の愛を失ってしまう。
 監督は『シカゴ』のロブ・マーシャル。前作と同様、ブロードウェイミュージカルの映画化となる。なおミュージカル『NINE』はフェリーニの『8 2/1』を下敷きにしたものなので、映画→ミュージカル→映画ということに。ややこし。映画として評価がいまいちだそうだが、ミュージカルの中継の張り合わせみたいな構造で、1本の映画としていまひとつまとまりが悪く散漫としているからだろう。ミュージカルのダイナミズムと映画のダイナミズムは違うのね。ミュージカルを撮影したもの、としても、ロングで全体を見たいところでクロースになっちゃったりショットの切り替えが妙に細かくて曲の流れを分断したりと、ちょっと難ありだったとは思う。
 もっとも、楽曲は確かにいいので私は結構楽しんだ。何しろ、代表曲である「ビー・イタリアン」(歌うのはファーギー)、「シネマ・イタリアーノ」(歌うのはケイト・ハドソン)からして、予告編にも使われているだけあって抜群に盛り上がる。そして出演している女優たちが艶やか。セクシーすぎてえらいことになっているペネロペ・クルスや可憐なマリオン・コティヤールを筆頭に、豪華絢爛。全員が顔を合わせるシーンはわずかだが、同じ映画の中でこれだけの顔ぶれを見られるというのは豪華。ただ、数をそろえたせいで1人あたりの持ち時間が短くなってしまったのは残念。ニコール・キッドマンが意外にいじらしい女役で、へぇと思ったのだが、あっという間にフェイドアウトしちゃうんだもんなぁ。
 デイ=ルイスが予想外に色っぽいのは収穫だった。決して美声というわけではないと思うが、そこがまたかわいい。しかし「50代だけど中身は7歳」てなぁ・・・。大人になれよ!と苦笑してしまうが、成熟できずに女性に翻弄され続けるからこそ映画を撮り続けられる、というキャラクターであることが最後に示唆される。なんだその自己弁護は!とも思うが映画監督はそんなもんかなー。




『幸せの隠れ場所』

 この邦題、日本語としてしっくりこないものがあるのは私だけか・・・。夫との間に2人の子供をもうけ、幸せにくらしているアン(サンドラ・ブロック)。ある日、真冬にも関わらずTシャツ1枚で歩いている黒人少年マイケルを見かける。少年を放って置けなくなったアンは自宅に泊め、食事や衣服を与える。徐々に家族のようになっていくマイケルは、アメリカンフットボール選手としての才能を発揮し始める。
 監督はジョン・リー・ハンコック。アメフトが物語のキーとなっているので、ルールやポジション名を知らない人(私も)は、冒頭のアンのモノローグを必死で頭に叩き込む必要があるだろう。ここを踏まえていないと後々意味がわかりにくい部分が出てくるので注意(逆に、アメフトを多少知っている人は、モノローグを多少聞き損ねても問題ないと思われます)。
 実話が元になっているのでストーリーの大きな改変は出来なかったのだろうが、いまどき「貧しい黒人を助けて庇護者となる裕福な白人」という設定が、ハリウッド映画として受け入れられているというのが、釈然としないというか何と言うか・・・。地域差(本作の舞台は南部)もあるだろうし、実際に平均的な収入格差等はあるとは思うのだが、南部富裕層白人の願望か?と妙な読み方をしそうになってしまう。日本人だから却ってうがった見方をしてしまうのであって、アメリカ人にとっては純粋に「困っている人を助ける」というキリスト教精神に則ったお話という側面の方が強いのかもしれないが。
 語り口によっては鼻持ちならない(これは双方白人・双方黒人の設定でもそうだったと思うが)話になりそうだったところをぎりぎり「良い話」に留めているのは、サンドラ・ブロックのキャラクターだ。これは登場人物のキャラクター造形というより、ブロック本人のアネゴ肌キャラによるところが大きいのだろう。同じ言動を他の女優がやったら、どこかしら偽善的だったりイヤミに見えそうだ。しかしブロックが演じると、この人は相手がどんな層の人であれ、本質を見抜けるし困っている人には手を差し伸べるんじゃないかなと思える。正に人徳。彼女は本作でアカデミー賞主演女優賞を受賞しているが、人柄で受賞したんじゃないかと気もしなくもない(笑)。
 アンがやることは、マイケルと、彼がこれまで生きてきた世界とのつながりを全く絶ってしまうことなので、あまりに独善的とも言える。しかし、彼女がマイケルが育ってきた過程の予想外の過酷さに密かに動揺する姿とか、マイケルの実母に対するビジネスライクにすればいいのか共感を示していいのか迷うような態度など、彼女も自分の行為に全く迷いがないわけではない、という部分を見せることで、映画のバランスが取れて単純に「良い話」一辺倒になるのを防いでいると思う。あと、何よりアン夫妻の小学生の息子のキャラクターがいい!こまっしゃくれていて生意気で、実に生き生きとしている。演じた子役がまたえらく上手かった。彼とブロックの存在で映画として引き立っているように思う。
 なお、アメリカの大学の、運動部のスカウトのシステムとか、大学運動部の活動に対する調査機関があるとか、アメリカの学生スポーツ界を垣間見る部分もあってちょっと面白かった。アメリカってやっぱりスポーツ大国なのね。






『函館水上警察』

高城高著
明治24年の函館。密漁や密輸など、船舶絡みの事件を手掛ける水上警察。渡米経験があり特技はフェンシングという五条警部を先頭に、警官たちが活躍する。著者にとっては40年ぶりの新作となる。新作書く気になってくれて本当によかった~。海外の文化が徐々に入ってきた明治時代が背景で、急激に文化が変わっていく空気が感じられる。実在の人物がちらほら登場するところも、歴史に詳しい人にはうれしいのでは。船舶の解説図が出てくるのは、物語上必須というわけではないので多分著者の趣味なんだろうなぁ(笑)。当時の風俗や商売のありかたなども興味深い。何より、五条をはじめとする登場人物が、一本芯が通ったりりしさを持っていて心地いい。また、番外編的に若き日の森鴎外が主人公となる短編が収録されている。こちらもなかなか。函館はイギリスやロシアからの来訪者も多く、やはり独特の雰囲気があったみたい。






『つまみぐい文学食堂』

柴田元幸著
英文学に登場する食べ物を、オードブルからデザートまでフルコースに見立てて、翻訳家である著者が取り上げたエッセイ集。しかしいわゆるおいしそうなものというより、その描写が特異なものが多く選ばれているように思う。巻末に収録された吉野朔美(本著の挿絵を手掛けている)との対談によると、どうも美味しそうなものよりはまずそう、ないしはどうも微妙そうな料理の方が印象に残るとか。不幸と同じでまずさの方がバリエーションがあるということでしょうか(笑)。そういうわけなので、読んでもそんなに食欲は湧かない。しかし英文学を読みたくなる、読書欲の湧くエッセイ。著者の軽妙な文章も魅力。翻訳文の時よりは(翻訳は他人の文がベースだから当然だけど)若干文章にクセが出るというか、クドくなる傾向があるか。




『シャーロック・ホームズ』

 19世紀末のロンドン。名探偵シャーロック・ホームズ(ロバート・ダウニー・Jr.)は連続殺人事件の犯人として、黒魔術に傾倒していたブラックウッド卿(マーク・ストロング)を捕まえる。ブラックウッドは自分は復活すると予言して処刑された。やがて予言どおり、ブラックウッドが甦ったという噂が流れ始める。ホームズは相棒の医師ワトソン(ジュード・ロウ)と共に調査に乗り出す。
 ガイ・リッチー監督の新作となるが、まさかシャーロック・ホームズものだとは・・・。コナン・ドイルのホームズシリーズを原作にした作品というより、キャラクターだけ拝借したパラレル英国ものと思って見た方がいいかもしれない。しかし、ホームズのキャラクターは思ったほど原作を逸脱していない。これまでの映像化作品(特にホームズ映像化作品としてはおそらく最高峰の、グラナダテレビ版。ホームズ役はジェレミー・ブレット)の影響もあって、ホームズはジェントルマンというイメージが定着しているが、本作のホームズは結構な武闘派だし難事件がないと廃人同然。部屋は汚いし服装もルーズだ。しかし、原作を読むと、ホームズは結構ダメ人間、少なくとも身近にいたらかなり迷惑な人なんですね(笑)。そういう意味では原作の設定を結構取り込んではいるのだ。
 私は原作のファンだが、ダウニー・Jrがホームズ役というのには、主にルックス面に関して若干違和感があったし、実は見終わった現在でもしっくりきていない。ただ、ガイ・リッチー版の名探偵ものはこれなのだ!と割り切ってしまえば楽しく見られると思う。ミステリ映画というよりも(ミステリとしての謎解きもあるにはあるが)まんが映画的な楽しさがあった。正直ストーリーの流れがかったるいところや、細かすぎるカット割(ホームズが格闘シュミレーションをするところなど、彼の思考をトレースしようという演出なのだが、正直話の腰を折っていると思う)が気になったりしたのだが(あと20分くらい短くできなかったかな~)、そのユルさも含めてOK。
 何より、ダウニーJrとロウが好演していて楽しい。本作のホームズはワトソンを好きすぎ(笑)で、結婚して新居へ移ろうとするワトソンを何とか引きとめようとするのだが、やり方は結構姑息。ワトシンの婚約者にも当然ライトな嫌がらせをする(が、あっさり逆襲されたり・・・)。そしてそれに「うぜぇ!」と思いつつ突き放せないワトソン。同性愛的すぎるとブーイングがあったみたいだが、ホモセクシャル的、あるいはホモソーシャル的というよりも、腐れ縁で別れる踏ん切りもつかない友情というか・・・。何より、「男子は男子だけで遊んでるのが一番楽しいんだよー抜け駆けするなよ(涙目)!」というガイ・リッチーの心の叫びが聞こえる。この人は予想以上に「男子」メンタリティなんだなー。ホームズの、本命の女性に対してはやたらと純情でぎこちなくなってしまうあたりも、男子的。結構かわいいのだ。逆に、男同士でうだうだやっている、成熟しきれないノリが苦手な人は、あまり楽しめない作品かもしれない。







『制服捜査』

佐々木譲著
北海道道警の玉突き人事のあおりをくらい、強行犯課から駐在勤務となった巡査部長の川久保。田舎町に配置されるが、田舎には田舎のルールがあり、なかなか馴染めない。駐在という警察機構の中でも地味な存在をフォーカスした短編集。普通の町である以上、当然犯罪は起こるし荒廃の気配も見える。そんなどこにでもある犯罪を描く。犯罪そのもというよりも、それを取り囲む田舎町というシチュエーションに特徴がある。よく言えばアットホーム、悪く言えば閉鎖的な町の中で「よそ者の警官」であることは実にやりにくそう。しかし外部からの目を持った川久保だから出来る捜査ともいえる。逆に、その土地に根付くことで出来る巡査としての活動もあるのだろうが・・・。このへんのジレンマは移動が頻繁だという道警ならでは。短編集だが、通して読むと一つのコミュニティのもう一つの側面が見えてくる。町がもう一人の主人公とも言える。相対しにくいしあまりお近づきになりたくない主人公ではあるが。それにしても著者の文章はものすごく読みやすい(私にとって)。ストレスフリーですっきり。







『カラヴァッジョ 天才画家の光と影』

 16世紀イタリア。ローマに上京した若い画家カラヴァッジョ(アレッシオ・ボーニ)は、彼の腕を見込んだデル・モンテ枢機卿の後ろ盾を得て、教会に納める壁画に取り掛かる。彼の絵は世間の評判となり、カラヴァjッジョは一躍名声を得るが、反面、ケンカ三昧や娼婦らとの付き合い等、悪評も広まっていた。やがて枢機卿らの後ろ盾も危うくなり、決闘で人を殺したカラヴァッジョはローマを追われる。
 監督はアンジェロ・ロンゴーニ。ローマに出てきてからのカラヴァッジョの半生を追った作品だが、彼の半生を連続ドラマにしたもののダイジェスト版みたいで、メリハリにはやや欠けた。どのエピソードもちょっと食い足りない、説明足りない(なぜこの人はこういう行為をしてそれがどう作用して~という流れをもっと見たかった)感があって、もったいない。予算はものすごくかかっていそうなだけに・・・
 で、その予算を食ったと思われる美術面は、さすがのクオリティ。当時の雰囲気を味わいたい人、コスチュームプレイが好きな人は満足できるだろう。特にカラヴァッジョの作品を意識したであろう、光の当て方は、陰影の深い美しい映像を作っている。撮影監督が『ラスト・エンペラー』や『地獄の黙示録』を手がけたヴィットリオ・ストラーロだそうで、これは納得。カラヴァッジョが、枢機卿に与えられたアトリエの窓を次々閉めて、光の作用を確認してはしゃぐシーンや、ボロ家の天井をぶち抜いてアトリエにしていく過程など、光が薄暗い空間に差し込むシーンが非常によかった。
 カラヴァッジョが非常に怒りっぽくケンカっ早い性格だったというのは有名な話だが、本作内のカラヴァッジョも、実にカっとしやすい。彼が巻き込まれるトラブルの殆どは、自業自得といえるものだ。「狡猾な男です」等と彼を評するセリフも出てくるが、そんなに狡猾には見えない。むしろ、自分の芸術に忠実である故に立ち回りは下手な方に見える。彼がローマでやっていけたのは、才能はもちろんだが、良いパトロンに恵まれたという部分が大きいのだろう。この時代の芸術家にとって、理解あるパトロンを得る、そしてそのパトロンの地位が安泰であることがいかに重要だったかということが分かる。






『すべて彼女のために』

 国語教師のジュリアン(ヴァンサン・ランドン)と編集者のリザ(ダイアン・クルーガー)夫妻は、幼い1人息子オスカルと幸せに暮らしていた。しかしある日、リザが殺人容疑で逮捕され、冤罪の訴えもむなしく20年の禁固刑を宣告されてしまう。徐々に生きる意欲をなくしていくリザを見たジュリアンは、ある計画を決心する。監督はフレッド・カヴァイエ。
 地味だが(なぜダイアン・クルーガーが主演しているのか謎)サスペンス映画としても犯罪映画としても面白い!裏社会とは無縁だったごくごく普通の人が犯罪に乗り出そうとするとどうなるか、という過程を丁寧にトレースしている。ジュリアンはいわゆるヒーロー的な人物ではなく、腕っ節が強いわけではないし特別な技能があるわけでもない。彼にあるのはあくまで一般人としての知恵と勇気だ。その知恵と勇気でどこまで乗り切れるか、というところで手に汗握った。
 偽造書類を入手するいきさつや、いちいち残金の計算をし手持ちの現金を作る為四苦八苦する、銃を発砲するのに躊躇するという、地に足の着いた(笑)ところが却って新鮮だった。いかに映画の中で超人的なヒーローを見慣れているかということかもしれないが。実際はかっこいいアクションを鍛えてもいない体でできるわけないし、初めて引くトリガーはあまりにも重い。
 で、ジュリアンはこのように至って普通の人なわけだが、彼が人並み外れていると思われる点が1点だけある。それは妻に対する思いだ。妻を救いたいという執念はもちろんすごいのだが、それ以上に、妻が無実であると信じ続けることが出来たというところがすごい。状況証拠では黒確定な状況下で無実を信じ続けることができ、かつ自分にとって戻れない一歩を踏み出すことが出来るというのは、ものすごい意思の力(いや感情の強さか)だと思う。いっぽまちがえると狂気のようにも見えるが、彼の強みはこの一点のみと言ってもいいくらいだ。その強みで彼がどこまで進めるのか、果たして一線を踏み越えるのかどうか、最後まで引っ張って飽きさせない。
 主演のランドン、クルーガーをはじめ、出演俳優が皆好演しており、安定感がある。特にオスカル役の子役がかわいく、重いトーンの中でアクセントになっていた。また、ジュリアンの両親や、出番は少ないながらも弟の造形がいい。ジュリアンと不仲であった父親が、ジュリアンの決意を知って別れ際で見せる表情がなんともいえない。




『イヴの時間』

 人間型ロボットを人間が「家電」として扱う時代。見た目は人間とかわらないアンドロイドに、必要以上に執着する「ドリ系」と呼ばれる人たちも現れ、ロボット倫理委員会は人間とロボットの差別化を強調するキャンペーンを行っていた。高校生のリクオ(福山潤)は自宅のアンドロイド・サミィのログに、奇妙な部分があることに気づく。友人のマサキとログを辿って行き着いたのは、「イヴの時間」という喫茶店だった。この喫茶店には人間とロボットの区別をしないというルールがあり、店内ではアンドロイドの認識用リングも消える為、見た目でも区別がつかなくなるのだ。戸惑いつつも店に通うようになったリクオは、常連客らとも顔なじみになっていく。
 2008年にweb配信がスタートしたシリーズ。ファーストシーズンの全6話を再編集、新作カットも加えた劇場公開版が本作となる。監督・脚本は吉浦康裕。私は監督の作品を見るのは今回が初めてで、web配信版も未見なのだが、劇場版だけで独立した作品としてみることが出来る。
 元々web配信だからしょうがないとは思うが、映画館のスクリーンサイズで見ると少々辛い。画質の問題ではなく、構図やカメラの動きが映画向けのものではないところが辛さの原因かと思う。本作はデジタル制作だと思うのだが、それゆえズームアップや極端なカメラの引きがおそらくやりやすく、多用されている。これが大画面で見るとちょとうるさかった。全体的にカメラを動かしすぎで、何を意図して動かすのかという意識が薄いように思う。動かせるから動かした、というような印象を受けた。効果音に関しても同様で、特に前半は入れなくてもいい音が多いように思う。
 また、おそらく監督の手癖だと思うのだが、一人称視点(誰かの目線になっている)のショットが多い。ただこれも、なぜこのシーンでこの人の一人称になっているのか、ということがあまり意図されていないように思った。ただ、これらは映画後半になるとだんだん補正されていくので、シリーズが進むうちに慣れてきたのかなとも思う。
 妙に古臭い演出をするところも気になった。星の飛ぶウィンクを見たのは何年ぶりだろう・・・。時々非常にマンガ的な演出が出るのだが、キャラクターのベースの演技がさほど派手ではないので、ちょっと浮いてしまって見ていて気恥ずかしい。
 気恥ずかしいといえば、作品全体がかなり気恥ずかしく、よくいえば初々しく、悪く言えば青い。セリフがこなれていないせいかもしれないが、いい年した身で見るとかなりキツいものがあった。こういうのは10代のうちに見た方が幸せなんだろうなぁ。アンドロイドと人間というテーマ上は、さほど目新しいものがなかった。「ドリ系」はオタクへの揶揄か?というぐらい。ただ、人間とアンドロイドが共存するという方向へもっていきたいのだと思うが、その中で「ドリ系」がどう位置づけられるのか見えてこないのは気になった。




ギャラリー
最新コメント
アーカイブ
記事検索
  • ライブドアブログ