3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

2010年02月

『イエローキッド』

 ほぼ寝たきりの祖母と2人で暮らしている、ボクサー志望の青年・田村(遠藤要)。仕事をクビになった彼は、ボクシングジムの先輩がやっている当たり屋の手伝いをしていた。ある日漫画家の服部(岩瀬亮)が、元世界チャンピオンの三国を取材する為、ジムに来た。田村は、服部のマンガに強い思い入れがあり、それを知った服部は、田村をモデルに新作を書き始める。
 脚本・監督は真利子哲也。本作が長編デビュー作となる。本作は東京藝術大学大学院の終了作品として製作された。制作費は200万、撮影期間2週間という厳しい条件下で製作されているが、メジャー作品と張り合える力があると思う。海外の映画祭でも話題になったそうだが、それも納得。
 田村や彼を取り巻く若者たちの貧しさ、逃げ場のなさが、息苦しいしヒリヒリする。内面の葛藤とか苦悩ではなく、生活に直結するような苦しみ、先のなさ(見えなさどころではない)が前面に出てくるのが、今の映画だなぁという印象を受けた。特に田村の家庭環境の示し方が、彼の人柄を示すことにもなっていて、こいつ悪い奴じゃないのにこんな・・・というやりきれなさを感じた。祖母に苛立ちつつも見捨てることはできない優しさがかえって痛々しい。ちょっとした希望すらすぐに立ち消え、その状況から抜け出すこともできないというどん詰まり感がある。
 また、服部の徹底した卑小さにもイタい気持ちにさせられる。「本気出してない」エクスキューズにしろ、元カノに対する勘違い気味の執着にしろ、頭をかかえたくなるような生々しい情けなさだ。彼の造形は、田村よりも言動・ルックス共にデフォルメされていた。キャラクターとしては田村の方が実体感が強いのはしょうがないか。
 田村は徐々に、服部の漫画の世界に同一化していく。多分、現実と世界と漫画の世界の並立、そして融合していく構成にしたかったのだろうが、映画前半が際立っていて、当初の意図が霞んでしまったように思う。田村が漫画世界と同一化していく順序だても、ペース配分間違ったかなという気がした。終盤無理やり畳む、「エピソード消化してますよ」な感じになってしまっている。
 何にせよ力作。監督の次回作が見たい。ただ、本作を超える密度のものができるかというと少々不安でもある。これに全部賭けた感が強すぎる。若さが魅力な作品ではあるのだが・・・。






『死は万病を癒す薬』

レジナルド・ヒル著、松下祥子訳
海辺のリゾート地サンディタウンでは、アメリカ式の保養所アヴァロンが再開発の目玉になっていた。負傷後のリハビリの為にダルジール警視はアヴァロンに入院するが、地元の名士がパーティー会場で殺害され、ダルジールの部下パスコー警部が捜査責任者となった。ダルジールは当然、休暇中にもかかわらず捜査に首を突っ込む。前作では大変な目にあったダルジール警視だが、本作では元気かつ例によってはた迷惑な姿を披露してくれる。よかったよかった。大長編シリーズとなっている本作だが、少なくとも近年の作品では面白さ・ボリューム共に衰えないところがえらい。毎度毎度、ほんと面白いんだよなー。今回は各章ごとに視点が変わる構成なのだが、その語り口によって語り手のキャラクターがすごく立ち上がってくるあたり、やはり上手い。特に、心理学を学んだ若い女性・チャーリー視点のパートはすごく軽やかで読みやすかった。本格ミステリとしてはもちろん(今回若干アンフェアですが)、個々のキャラクターがとても生き生きとしているところが魅力(パスコー君があいかわらずキュート・・・)。ところで今回、ダルジールとパスコーの因縁の人物であるルートが再登場するのだが、どうも彼をダルジールに拮抗するラスボスにしようとしている節があるので、ちゃんと完結させるまで長生きしてくださいヒル先生!なお、ペダントリィに満ちたシリーズでもあるが、本作はジェイン・オースティンの『サンディトン』が下敷きになっているそうです。




『50歳の恋愛白書』

 理想的な妻として、年上の夫に尽くし2人の子供を育ててきたピッパ(ロビン・ライト・ペン)。夫の意向で郊外に引っ越してきたものの、周囲は老人夫婦だらけで馴染めずにいた。そんな折、隣家の息子クリス(キアヌ・リーブス)が離婚、失職し実家に戻ってくる。
 邦題はちょっとなぁ・・・。恋愛要素があることはあるが、それがメインというわけではない。一定の客層を狙ってかえって外してしまっている気がする。監督はレベッカ・ミラー。
 ピッパは良妻賢母の鑑のような生活をしているが、少女時代は家出し、ドラッグにハマり根無し草生活という、奔放な娘だった。それが今の夫とめぐり合い、彼とつりあうように自分を全く変えてしまったのだ。彼女は適応力がありすぎる。もし本作に、配給会社がターゲットとしているであろう50代既婚女性が共感するとしたら、恋をしたいというところではなく、この適応しすぎたというところなんじゃないかと思った。結婚に対するピッパの発言は説得力がある(カフェで「この中のどの男性とでも結婚できるわ、結婚は意志よ」とか)し、この人はこういうやり方で結婚生活を続けてきたのか・・・と思うと少々寒気も。
 結婚生活を続けるにはピッパ言うところの「意志」が必要だろうし、相手と折り合っていく為に多少は自分を変えなければならないだろう。ただ、変えるといっても限度がある。元々の自分とあまりにかけ離れた状態で、果たして何十年も生活できるだろうか。ピッパは恋愛をしたいというよりも、適応力の限界がきたんじゃないかと思う。夫の浮気に対するあてつけもあるだろうが(笑)。
 ピッパの「限界」が夢遊病という形で表されるのはちょっと笑ってしまうし、クリスとの仲の進展の仕方が急展開すぎたり(クリスのボンクラキャラにリーブスがあまりにハマっていてちょっと心配になったよ・・・)、夫の元妻の凶行が唐突だったり、夫との顛末が取って付けたみたいだったりと、結構難点もあるのだが、局地的にリアルなところがあって、予想より面白かった。ピッパと母親の関係、ピッパと娘の関係は、それほど多くは描かれないもののリアル。仲の良さにしろぎこちなさにしろ、行き過ぎているところが。これは共感できた。このあたりを突っ込んで描いても面白かったと思うが、それだと別の映画になっちゃうなぁ。
 何より、ライト・ペンをはじめ出演している女優が全員魅力的。ウィノナ・ライダーがピッパの友人役なのだが、いるいるこういう困った女!と大笑いしてしまった。






『ミレニアム ドラゴン・タトゥーの女』

 雑誌「ミレニアム」の看板記者ミカエル(マイケル・ニクヴィスト)は、大物実業家のスキャンダルを告発するが、名誉毀損で訴えられ裁判で有罪判決を受ける。仕事を下ろされた彼に、大企業ヴァンゲルグループのトップ、ヘンリック・ヴァンゲルから、40年前の少女失踪事件を調べて欲しいという依頼が舞い込んだ。ヴァンゲル一族が住む島に渡ったミカエルに、天才的ハッカー・リスベット(ノオミ・ラパス)が接触してくる。彼女はミカエルと彼が追う事件に興味を示した。原作はスティーグ・ラーソンのベストセラー。監督はニールス・アルテンオプレヴ。
 孤島、富豪一族、過去の連続殺人と、王道本格ミステリぽい道具立てが揃っているので、これは!と思ってワクワクしたのだが、途中から孤島設定の意味がなくなりがっかり。わざわざ橋封鎖まで示唆しておきながらお前・・・(笑)!謎解きはロジックよりも多分に雰囲気重視なのだが、ハラハラドキドキ感を楽しむサスペンス映画としてはこれでOKだろう。原作が元々、映像化に向いていたんじゃないかと思う(死体のあり方とか、いかにも映画映えしそう)。中盤がちょっと長すぎる気はするが、結構楽しめた。ハッカーが有能すぎるという突っ込みどころはあるものの、ちゃんと資料にあたったり足で稼ぐ調査もしているので、それなりに地に足が着いた感じはある。なにより、痛みに関わる表現が結構生々しい。
 ミステリ以外のちょっとした部分も気になった。ミカエルが実刑判決受けて、猶予期間に調査をしており、その後ちゃんと刑務所に入っているところとか(猶予期間に出国してしまっていいのだろうかと気になった)、ヴァンゲル一族の中にナチス協力者がいたとか、この国ではこうなのか、という新鮮さが。映画の中のハッカーはほぼ万能というのは万国共通というところも(笑)。
 ミカエルは特に個性が強い登場人物ではないが、ヒロインであるリスベットは、小柄・ゴスっ娘・天才ハッカー・トラウマあり等等、特徴的な属性がてんこもり。ヒロイン造形としてはかなり欲張りだ。面白いなと思ったのは、彼女が一貫して「復讐する女」であるところ。その容赦のなさは魅力的でもある。事件の被害者が男性だったら、彼女は一連の事件に関心は持たなかったんじゃないかと思える。彼女の背景は、2作目以降でもっと描かれていくのだろう。本作ではまだ謎の女という感じ。




『本格ミステリの王国』

有栖川有栖著
ミステリ作家である著者による、本格ミステリに関する評論や新人賞の選評、エッセイ、はては著者が学生時代に書いた直筆原稿(この頃から既に江神シリーズ。しかしよく公開に踏み切ったと思う。本人相当恥ずかしいのでは)等をまとめたもの。くくりは「本格ミステリ」。ややファンアイテム的な1冊ではあるのだが、「本格ミステリは楽しい!」という信念に貫かれているところに非常に好感を持った。何かちょっと、胸を打たれるものがありましたね・・・。諸々の文章を読んでいると、著者は案外精神的にタフな人なのかもしれないなとも思った。というかタフでないと、枷の多いジャンル内であれだけ安定生産できないよな・・・。また新人賞の選評が結構辛らつなのが意外(笑)。








『シャーロック・ホームズ最後の解決』

マイケル・シェイボン著、黒原敏行訳
英国南部で養蜂にいそしむ「老人」は、司祭に引き取られた口のきけない少年と出会う。少年は奇妙な数列をしゃべるオウムを連れていた。ある日、殺人事件が起き、オウムがいなくなる。司祭の息子が疑われるが。シャーロック・ホームズのパスティーシュものとしては正統派、かつ品があって楽しめた。動物がからんでくるあたりもホームズものらしいといえばらしい・・・か(笑)?探偵小説としての面白さの一方で、時間の流れの残酷さを感じさせる部分も。ホームズの老いというよりも、時代が変わっていく様の容赦のなさの方にしんみりする。舞台が第二次大戦中のイギリスなだけに。ホームズが爆撃を受けたロンドンを見てショックを受けるあたりは辛い。著者はこの寂寥感を一番書きたかったのかもしれないと思った。ただ、読後感はいい。これは少年とオウムというキャラクターの勝利かも。






『涼宮ハルヒの消失』

 クリスマスと終業式を控え、SOS団のクリスマスパーティーをやるとはりきるハルヒ(平野綾)と、彼女に付き合わされるキョン(杉田智和)はじめSOS団の面々。翌朝、キョンが登校するとクラスの誰もハルヒのことを覚えておらず、朝比奈はキョンのことを知らず、小泉がいた9組そのものがなくなり、長門はおとなしい普通の女子生徒になっていた。キョンを残して世界が変わってしまったのだ。
 人気シリーズがついに劇場アニメーションに、といっても私は原作にもTVシリーズにも全く触れたことがない。キャラクターとその相関関係程度を突貫工事で頭に入れて見に行ったのだが、予想以上に楽しめた。正直、SFとしてこんなにガチだとは思っていなかったのでびっくり(もしかして今の10代のSFリテラシーはめっさ高いのだろうか)。
 ネット上では既に色々な方が指摘しているが、私も「ビューティフルドリーマー」(押井守監督作品)を思い起こした。逆ビューティフル~と言った方がいいか。あと設定以外でも、キョンのモノローグが何かに似ている・・・と思いながら見ていたのだが、これは押井作品における古川登志夫(あたるに限らず)に似てるんじゃないかと。声質はそんなに似てないと思うのだが、モノローグの長さと語り口調に彷彿とさせるものがある。とするとキョンの語りは80年代オタクの語りに似ているということか・・・。
 ただ、ファンではない身からすると「惜しい!」感も否めない。キョンの色々と過剰なモノローグは原作ファンにはおなじみなのだろうが、初見、しかも青春が終わって久しい身には、まだるっこしく気恥ずかしく、少々辟易とした。モノローグ説明に頼るのは基本ご法度、というのが映画のお約束だが、あえて禁じ手を使ったのは、原作に忠実であるためだろう。しかし映画にする以上、映画としてベストなアレンジにしてほしかったというのが正直なところだ。せめてもうちょっと短ければ・・・。長いなりによくまとまっているとは思うので、よけいに惜しい。
 なお、アニメーションとしての絵心はさほど感じなかった。キャラクターの演技はいわゆるアニメキャラクターの動きをなぞったような、ある種のテンプレだし(作画面でも遠近感が微妙なところが気になった)、演出もどちらかというとやぼったい。特に後半、キョンの自問自答シーンの演出には、いくらなんでも今これはなぁと苦笑してしまった。多分、本シリーズで突出しているのはシナリオの部分なんだろう。絵は月並みで十分なのだ。それにしても、本作の絵柄が既に少々古臭く感じられるということにびっくり・・・。そりゃTVシリーズ開始からは結構経つが、風化が早すぎる。
 なお本作は、本筋ではサブヒロインな子をヒロインとした(といっても最終的には正ヒロインであるハルヒをキョンは選ぶわけですが)スピンアウト作品という面もあるのだろうが、スピンアウトが大々的に映画になって大ヒットというのは、シリーズとしては末期症状なんじゃないかという気もする。あと、「改変後」のサブヒロインが、「お前らこういうのが見たかったんだろ?」的な非常に萌えそうな造形になっているのが、なんとなく居心地悪かった。よく出来たパラレル設定二次創作見ているみたいで・・・。本作、サブヒロインが見た「夢」であると同時に、シリーズファンが見た「夢」とも言える。最後には「それはないわ」となるわけだが。




『新しい人生のはじめかた』

 ニューヨークからロンドンへ、娘の結婚式に出席しにきたCM作曲家のハーヴェイ(ダスティン・ホフマン)。しかし娘の父親役は離婚した元妻の再婚相手に奪われており、疎外感を感じる。更に仕事でクビになり、落ち込んで酒に溺れる。一方、ロンドンで空港の統計調査をしているケイト(エマ・トンプソン)はお見合いデートに失敗し落ち込んでいた。カフェでたまたま同席した 2人は、いつしか意気投合していく。監督はジョエル・ホプキンス。
オーソドックスな大人のラブストーリーでありファンタジーだが、キャラクターの細部の描き方がなかなかよかった。期待値が低かっただけに(笑)満足。特にエマ・トンプソン演じるケイトの造形がいい。実家の近くで1人暮らししており、趣味は読書と小説創作教室。母からはしょっちゅう携帯に電話が入る(父親はいない)、友人に男性を紹介されたものの、男性の友人らと馴染めずいたたまれなくなったりと、ああこんな人いる、というか10数年後の自分を見るようで嫌な汗が出た。終盤、心情を吐露する姿には共感しすぎでつい泣きそうになった。エマ・トンプソンは正直それほど好きな女優ではないのだが、共感できる、しかもあまり共感したくない部分で共感してしまう役をよくやるんだよなぁ(笑)。嫌な汗が出たわ。
 一方、ダスティン・ホフマン演じるハーヴェイは、どことなく所在無さげで要領がよくないという部分はケイトと似ているが、ケイトほどキャラクターが立ち上がっておらず、ホフマンが演じるキャラクターとしては割と平凡な範疇。本作の現代は『Last Chance Harvey』なので主人公はハーヴェイのはずなのだが。トンプソンに食われちゃったかなぁ。私が女性だからケイトのエピソードの方に強く共感しただけかもしれないが。ともあれ、ベテラン2人の共演なので非常に安定感はある。実は小柄なホフマンと大柄なトンプソンの対比を強調しているのもよかった。
 思い切れない小心者たちに対するささやかなエールのようでほっとする。終盤のケイトの真情の吐露は、本当に身につまされた・・・。映画としては小品だが、身につまされ度で感触が底上げされてしまった。ケイトの母親もある一歩を踏み出すラストにほっとした。なお、ロンドン観光映画としてもいいです。






『ドキュメント高校中退 いま、貧困がうまれる場所』

青砥恭著
日本では毎年約10万人の高校生が中退しているが、その実態はあまり知られていない。今までは学習意欲がない、怠けているといった見方をされることが多かった高校中退を、貧困という側面からレポートした1冊。正直、子供の貧困の進み方が自分の予想の斜め上を行っていて焦った。焦る程度ならともかく、目の前真っ暗になるレベルですねこれは・・・。読んでいるうちに欝になる事例がてんこもり。やる気がないならともかく、衣食住が足りなくて勉強に力を配分できる水準の生活ができていないという事例が殆ど。また、保護者が退学を迫るケースもあり、精神的・知識的にもサポートがない。で、そうやって育った子がまた同じような子の親になり、貧困と低学力が再生産されると。日本社会の中間層が薄くなっていく様が垣間見える。当人の努力が足りないとかいう問題では最早ないところが深刻だ。人間が努力するには、まず努力できる程度に健康かつ安定した生活をおくっていること、精神的なサポートがあること、努力したことで結果が伴うという実感が必要だ(私は、人は見返りがないとまず努力しないと思う)。これらはどういう家庭に生まれたかでほぼ決定してしまう、運に左右される要因だ。対策があるとしたら、高校生になってからではなく、幼児期からの親子ひっくるめた教育・ケアだろう。しかし先の見えなさに気が遠くなりそう。で、行政が対策とったらとったで、「俺らの税金をなぜDQNに!」とか言い出す人がいるんだろうなぁ。






『ユキとニナ』

 パリに住む9歳の女の子ユキ(ノエ・サンピ)とニナ(アリエル・ムーテル)は友達。フランス人であるユキの父親と、日本人である母親が離婚することになり、ユキは母親と一緒に日本へ行こうと言われる。ユキは、両親に離婚して欲しくないし日本にも行きたくない。ニナはユキに、家出をしたらと提案する。
 『不完全なふたり』ではフランス人俳優を起用しフランスでロケを行った諏訪敦彦監督と、俳優でもある(本作ではユキの父親役)イポリット・ジェラルド監督の共同監督脚本作品。諏訪監督は俳優に対する即興演出が特徴だが、本作でも脚本はあるものの、セリフ等は俳優にゆだねられており、ユキ役のノエ・サンピの意思で脚本を変えた部分もあるそうだ。俳優のポテンシャルに対して強い信頼感を持っていないと出来ない方法だと思うが、子供相手だとえらい大変だと思う。本作を見た際、諏訪監督のトークを聞く機会があったのだが、特にサンピが何を考えて演技しているのか(というか演技する意欲があるのか)わからなくて大分苦労したそうだ。撮影から時間がたち、最近になってやっと、彼女なりに演技はしている、が、演技経験がない為にそれが見て分かるようには表出しないのだということが分かってきたそうだ。その表出しないという部分が、映画の中では却って生々しく見える。実際の人間は、見たらすぐに意図がわかるようなわかりやすい動作は、あまりしておらず、もっと曖昧だ。
 少女2人が主人公、しかもパリが舞台ということで、ガーリー!オシャレ!かわいい!的なイメージを持たれそうだし、プロモーションは実際そういう方向で行っていたように思うが、映画そのもからは、さほど「女の子カワイイ!」という視線は感じなかった。むしろ、前述した通り監督サイドの「こいつ何考えてるのかわかんねぇ・・・」という戸惑いが滲んでいるように思った。対象との距離は近いが、一線が引かれている。子供たちをかわいいとは思っているけど、すごくかわいいとは思っていないというか(笑)。親が離婚しちゃって子供かわいそう!という視線もあまりない。子供に沿ってはいるが同情的ではない。子供は基本、大人の都合に従わざるを得ないが結構しぶとく適応していくし、大人はまず自分の人生を考えた方がいいというスタンスか。離婚については「まあ、しょうがないよね」くらいの感じ。
 子供の演技を(前述の通りとまどいつつも)よく引き出しているなと思ったのだが、同時に、これは自分にとって外国語(フランス語)だから普通に見ているられるのであって、日本語で同じことやられたらうざくて耐えられなかったかもとも思った。これは多分、私があんまり子供好きじゃないからでしょうが・・・。実際、途中で日本の子供も出てくるのだが、なまじ言葉が分かると演技の度合いも分かっちゃって、却ってきつかった。
 後半、森を抜けると一気にファンタジックな展開となって唖然とした。最初から決まっていたプランだそうだが、必要あったのかなー。ただ、森を抜けた後のロングショットは非常に美しくてはっとする。あと、基本順撮りだったそうだが、森に入ってからユキの洋服がたまにちぐはぐ(前のシークエンスと合っていない)な時があって、少々気になった。




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