3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

2009年12月

『脳内ニューヨーク』

 ニューヨークに住む劇作家のケイデン・コダート(フィリップ・シーモア・ホフマン)の元から、妻が娘を連れて去ってしまった。落ち込む彼の元に、通称「天才賞」であるマッカーサー・フェロー賞を受賞したとの知らせが。多額の賞金を使って、ケイデンは“もう一つのニューヨーク”を作り、自分の人生を芝居として再現しようという前代未聞のプランに着手する。監督は『マルコビッチの穴』『エターナル・サンシャイン』等の脚本を手がけた鬼才チャーリー・カウフマン。
 常に火事が起きている燃え続ける家、ケイデンの娘の人生を順次音声再現していく日記、何より、リアル人形の家とでもいうべき巨大な擬似ニューヨークのセットなど、ファンタジックな要素はあるが、作品自体は決してファンタジックというわけではない。ファンタジックな小物を使って描かれているのは、現実の人生のままならなさだ。カウフマンの作品はいつも不思議だったり奇天烈だったりするのだが、後に残る味わいは苦く、いつもしんみりとした気持ちになってしまう(『エターナルサンシャイン』だけはそうでもないが)。そういえば、主人公が自分の人生を思うとおりにやりなおそう(別人になったり、記憶を消したり)するが思うようにはいかない、というパターンの話が多いように思う。よっぽど、「人生のやりなおし」に対して思うところ(そしてやり直しに挫折)があるのだろうか。別の自分になどなれない、という諦念が常に基調にあるように思う。
 本作では、現実の生活に失望したケイデンが、芝居の中でもう一つの人生を再現しようとする。しかし、現実で起きたことを芝居で再現し続けるときりがなく、彼の作品は完成することがない。自分も出演者も年をとっていき、セットは延々と大きくなり続けるという悪夢のような状態だ。何より、彼が考えた芝居は、どこまで行っても彼の生活、彼の頭の中から出てきたもの、彼の延長であり続ける。自分の中から出ることはできないのだ。自我が肥大すればするほど息苦しく、辛くなる。本作を見ていてどこか鬱々としてくるのは、この「どこまで行っても自分」という出口のなさが原因ではないかと思う。
 そう考えると、終盤の展開には納得できる。他者が芝居をリードするようになって初めて、ケイデンは芝居の外にでることができる。それは彼の作品の崩壊でもあるが、どこかほっとする光景でもある。ただ、ラストで起きた「事件」を見るに、天変地異でもないと自分の外には出られないということかもしれないが・・・。






『千年の祈り』

 ウェイン・ワン監督久々の快作。原作はイーユン・リーの同名小説(名作なのでお勧め)。原作者自ら脚本を手がけているので、原作のニュアンスがうまく再現されている。アメリカに住む娘・イーラン(フェイ・ユー)を、父・シー(ヘンリー・オー)が中国から訪ねてきた。離婚して一人暮らしを続けているイーランをシーは案ずるが。
 在米中国人女性とその父親の物語ということで、監督にとっては親密に感じる部分が大きかったのだろうか。低予算ではあるが良作。父と娘の心の陰影はもちろん、母国語とは違う言葉を常用語にすること、親とは違う文化圏で生活していることのニュアンスが面白い(私は母国語で生活し親とも同じ文化圏にいるので、齟齬のニュアンスをどれだけわかっているのか自信がないのだが)。
 父と娘は嫌いあっているわけではないが、すれ違っている。これが切ない。2人はそれぞれ、既に異なる世界(単に国が違うというだけではなく)で生きており、父親が思う幸せは、必ずしも娘にとって幸せなわけではないのだが、父親にはそのあたりがいまいち分かっていない。彼は娘の為に食事を作り、職場へ様子を見に行き、帰りの遅い娘を案じる。それらの心配りは、娘にとっては重荷になってしまう。
 また、彼らのすれ違いは、一種のタイムラグでもある。父親の心配・心配りは全て、おそらく娘がかつてしてほしかったことであり、今更やられても挽回・補填できるものではないのだ。この「既に遅し」な感じが非常に切ないし、同時に親子間ではよくあることだろうなとも思った。そもそも、父親は娘を心配するが、彼女と直面して話し合うことができない。率直な思いは、娘からも父親からも発せられず2人は平行線のままだ。しかし親子はそもそもそういうものなのかもしれない。黙って並んで座る父と娘の姿は、決して不幸そうではない。
 字幕の使い方への気配りが細やかな作品だった。字幕は主に、英語の部分と、父親と娘が中国語で話す部分に出る。日本人である私たちにとっては全部外国語だから、一律に表示してもいいことはいいのだが、そうはしていない。シーが公園で知り合ったイラン人女性と、お互いつたない英語で会話をする。双方、なんとか搾り出した英単語で意思の疎通をするから妙に真実味があり、後に判明する「オチ」の苦さも際立つ。また、アパート管理人との、お互い言っていることがよくわかっていないのに妙にかみ合ってみえる会話のおかしみも生じてくるのだ。ちなみに字幕表示に関しては、監督本人が決定したとか。






『赤と黒 デジタルリマスター版』

 1954年のクロード・オータン=ララ監督作品。この度デジタルリマスター版が上映されたので見てきた。原作はもちろんスタンダール『赤と黒』。
 1820年代、貧しい職人の息子ジュリヤン・ソレル(ジェラール・フィリップ)は、持ち前の頭の良さと美貌を活かし、レナル町長の家へ住み込みの家庭教師として勤めることになった。やがて若く美しいレナル夫人と恋に落ちるが、スキャンダルは出世に不利と見たソレルは、出世の近道である神学校へ。そして司教の紹介でラモール公爵の秘書となる。しかしここでも、公爵の娘マチルド(アントネラ・ルアルディ)と恋愛関係に。
 はしょってあるものの、ストーリーの流れは概ね原作と同じだ。タイトルロールが本の表紙をめくるような作りになっていたり、本編も章立てされていて「序文」的な引用があったりと、文芸小説の映画化であるという面をかなり意識していると思う。
 正直、こんなに長いとは思わなかった。まさか途中で休憩があるとは・・・。正直、映画として面白いのかどうかというと、判断に苦しむ。いかにも「昔の文芸大作」ぽいので、今の感覚で見てしまうと冗長に感じる。また、原作をお読みの方はおわかりだろうが、ソレルは心の中で葛藤するシーンがかなり多い。これをいちいちモノローグとして再現するので、くどいしうっかりすると笑ってしまう。そもそも、原作自体が今読むと「うっかりすると笑ってしまう」要素が結構多いのだが。
 本作一番の魅力は、やはり主演のジェラール・フィリップだろう。ソレルのやっていることは見ようによっては結構下衆だが、ジェラール・フィリップが演じると下品にならない。下卑た美形ではないところが、彼の最大の魅力だと思う。華やかな衣装もいいが、家庭教師のお仕着せであるシンプルな黒の揃いがとても映える。36歳で死んでしまったなんて勿体無さすぎる。ソレルの運命の人であるレナル夫人役はダニエル・ダリュー。間延びしたような顔で正直好きではないのだが、この顔が終盤の薄暗い刑務所の中では、とても美しく見える。役柄には合っていた。 また、妄想系ツンデレであるマチルド嬢を演じるアントネラ・ルアルディがちょうかわいい!彼女の方がダリューよりも現代的な顔立ちだ。





『ばかもの』

絲山秋子著
大学生ヒデは、年上の額子と付き合っている。しかし額子は突然「結婚する」といって姿を消した。著者の作品は、いつもボディーブローのようにじわじわとダメージ(笑)を与えてくる。自分の見たくない部分を見せられるといいますか・・・。人間の情けない部分、ダメな部分、社会の底辺付近にいる人間を描くと抜群に上手いな。ヒデは決して悪人ではないが、弱い。ひとつ躓くとどんどん悪い方向へ転がり、アルコール中毒にまでなってしまう。ただ、その弱さは特別な(個性的な)ものではない。こんな人結構いるだろうな、という弱さだ。何者にもなれない、ありふれた人間のダメさが読んでいると身にしみる。キツいなぁ。弱いなりになんとか次の一歩を踏み出す人たちの姿はほのかな希望を感じさせるが、その「なんとか」すら難しいこともあると思う。





『ポルノスター』

 デートクラブの管理を組長(麿赤児)から任されているチンピラの上條(鬼丸)は、妙な青年・荒野(千原浩史)に出会う。荒野は「いらん」と言ってヤクザを躊躇なくナイフで刺すような男だったが、対抗組織のヤクザ松永(杉本哲太)を疎ましく思う上條は、使えると踏んで荒野の面倒を見る。しかし荒野はまたふらりと姿を消してしまった。
 豊田利晃監督、1998年の作品。うーん、今見るとかなり恥ずかしい・・・。全編いきがった10代男子的なメンタリティで出来上がっている(当時は中二病という言葉はなかったよな)ので、いい大人になってから見るとうへー、てなるところが結構あった。多分、当時本作にはまった10代男子は多かったんじゃないだろうか(そして大人になってから遠い目をして本作のことを思い出すのではないだろうか)。この男子的メンタリティが豊田作品の良さでもあるので、一概に否定できないのだが。出し方がさすがに上手くなったってことか。ともあれ、よくこの地点から『空中庭園』の地点まで持ってこれたなと思うと非常に感慨深い。また、主演の千原浩史(千原ジュニア)の現在の活躍を思うと、更に感慨深い。本作が撮影された当時の状況では、ジュニアがバラエティ番組の司会やるなんて想像できなかったかもしれない(大阪ではそうでもなかったのか?)。
 ただ、時代を超えた何かを本作がつかめたかというと微妙だ。本作は渋谷が舞台だが、実際に渋谷でロケをしており(全部なじみのある風景なのでちょっとうれしい)、渋谷にたむろっていそうな若者を出演させた。時代の空気感を出そうという意欲はわかるのだが、時代に即しすぎた作品は後々になってからの鑑賞には堪えられないのか。それとも、1998年が微妙に昔だからで、もっと時間がたてば独立した作品として見られるようになるのか。風俗の移り変わりがリアルに感じられる程度の「昔」は、ちょっと扱いが面倒だと思う。
 今となっては特に新鮮味もないし意外性もない(本作の主人公のようなことをリアルにやっちゃう事件が頻発するというのがおかしいのだが)、当時としてもわりと出尽くした感のあるストーリーではある。ただ、豊田の映画のクセや好みが既に確立されているという点では面白かった。






『バグダッド・カフェ ニュー・ディレクターズ・カット版』

 ドイツの田舎町・ローゼンハイムからアメリカ観光に来たミュンヒグシュテットナー夫妻は、ラスヴェガスへの道中にケンカし、夫は妻ジャスミン(マリアンネ・ゼーゲブレヒト)を置いて車で走り去る。ジャスミンがやっとこさ辿り着いたのは、砂漠の中にある寂れたモーテル「バグダッド・カフェ」。女主人のブレンダ(CCH・パウンダー)は役立たずな夫を追い出し大変不機嫌だった。ジャスミンを怪しむブレンダは、勝手に部屋を掃除したり子供たちと仲良くしたりする彼女を怪しむが、距離を縮めようとするジャスミンに、徐々に心を開いていく。
 1987年、パーシー・アドロン監督による作品。主題歌の「Calling you」はあまりにも有名だ。今回、ニュー・ディレクターズ・カット版が上映されると聞いたので、見てきた(実は映画館で見るのは初めて)。本作を見たのは10年ほど前だと思うのだが、自分の記憶の中にあるよりも、大分変な映画だった。当時かっこよかっただろう演出が、今見ると野暮ったい、単に下手な風に見えてしまうのだろう。登場人物がイラついているシーンではカメラが斜めになるとか、妙にカット割が細かくなるとか、効果の程がよくわからない(笑)。また、ブレンダがあまりにも不機嫌すぎやしないかとは今回も思ったのだが、彼女の人生のどん詰まり感は今見るとよく理解できる(苦笑)。そりゃあイラつきもするさ。
 ハーディがジャスミンにひかれていくというロマンス的な要素はあるものの、基本的には「女だけの都」。映画の核にあるのは女性同士の絆だ。ジャスミンはあまり英語をしゃべれず、2人はそれほど深い会話を交わすわけではない。2人は夫との間に問題を抱えているという共通点があるが、それについて話し合うことはない。しかしそれでも何かが通じていく。こういう絆はある種の夢だと思う。ハーディもブレンダの夫も、実は本作の中であまり必要のない存在なのだろう。
 ジャスミンの手品でカフェがにぎわっていくにつれ、ユートピア的な雰囲気が強まるのだが、そこから「仲が良すぎるのよ」と刺青師のデビーが出て行くところが面白かった。ぬるま湯的すぎてキモいと思う人へのエクスキューズかとも思ってしまった。
 ともあれ、ジャスミンのお掃除能力は本当にうらやましい。うちにも来て!







『赤い月、廃駅の上に』

有栖川有栖著
乗りテツである著者の本領発揮?な、鉄道をモチーフとした幻想・ホラー小説集。鉄道にはなぜかホラーがよく似合う。決まった経路から外れない、(環状線以外は)必ず終点があるという特徴を外れたときに、怖さが生まれるのか。どこかへ「連れて行かれる」イメージが強いからか。廃線はもちろんうっすら怖くて魅力的だしなぁ。本作はそれほど濃いホラーではないので、ホラー初心者の私でもOKでした。小説の組み立てがどちらかというと幻想・怪奇ものではなくミステリもの寄りだからかもしれない。なお装丁も禍々しくていいです。





『マイマイ新子と千年の魔法』

 今年の日本アニメ界におけるダークホース。今見るべきアニメーション映画はエヴァでもサマーウォーズでもなくこれでしょう!熱狂するような作品ではないが、大事にしたい作品だし、後々まで残る地力があると思う。にも関わらず打ち切り目前(地方によっては既に上映終了)の憂き目を見ているので(公開前のプロモーションがもうちょっとなんとかならなかったのかという感はある)、興味のある方は早急にご覧ください。監督は『アリーテ姫』の片渕須直、アニメーション製作はマッドハウス。原作は高樹のぶ子の自伝的小説だ。昭和30年台、麦畑が広がる小さな町を舞台に、活発な少女・新子(福田麻由子)、物静かな転校生・貴伊子(水沢奈子)の日常を描く。
 本作を見て最初にふわっと心を掴まれたのは、新子の想像による世界の広がりの描写だ。新子にしか見えない人物が川の上を走りぬけ(描写としては人物そのものは見せず水面の動きのみ見せるのがいい)。麦畑は海、畑に囲まれた家は海に浮かぶ船だ。既にある世界の上にもう一つの世界が広がる開放感を感じると共に、自分が子供の頃に同じような遊びをしていたことを思い出して懐かしくなった。更に、新子の想像の世界は、博識な祖父の話だ。「この土地には1000年前から人が住んでいた」という祖父の話は、新子に1000年前の人々の生活、そして都からこの土地に移ってきた女の子の姿を想像させる。
 昭和30年代と平安時代とを、カメラは自在に行き来する。平安時代は、最初は新子の想像の中のものとして描かれている(新子が“平安時代の”牛を避けて通るが、貴伊子には当然見えていないので、「避けて!」と振られてとまどうところがいい)が、徐々に貴伊子も新子の想像の世界を共有するようになり、さらに映画を見ている側には、1000年前の女の子の物語も新子や貴伊子の物語と同じく「あったこと」として捉えられるようになってくる。本作の素晴らしさは、子供たちが現実の世界と想像の世界とを軽々を行き来し、時にその2つの世界がぴったりと寄り添っていくところにある(映画自体が「想像の世界」だからなんだかややこしいことになってるけど・・・)。2つの世界のレイヤーはごくごく薄いのだ。
 さて、昭和30年代と平安時代、現実の世界と想像の世界というレイヤーがあるのだが、もうひとつ、子供の世界と大人の世界というレイヤーが重ねられている。同じ出来事に対する理解が、大人と子供では異なる。マドンナ的な保健の先生も、警官であるタツヨシの父親も、バーの店員や女性も、子供たちが見ている姿の向こうから、ふいに別の姿、大人の視線で見た姿が垣間見えてはっとする。子供たちにとっては知りたくなかったことであったりもするが、どちらも偽りというわけではないのだ。単なる美しい子供たちの世界にも、昭和のノスタルジーにも留まっていないのは、これらのレイヤーが重層的に重なることで世界に厚さ、広がりが感じられる、風通しのいいものだからだと思う。
 平安時代の少女たちの身分の差にひっかかったり(諾子が遊んだり千古見舞ったりできるのは結局富裕層だからだよなという)、 「明日の約束」という言葉や新子のつむじ等、キャッチーさをめざしたらしき部分が大体浮いている等、惜しい点もいろいろとあるのだが、良作。ネット上の評ではあまり触れられていないが、福田と水沢のアフレコも品があってよかった。キャラクターデザインは地味目だが、動きの演出と美術、音楽が非常に丁寧。小さい子供よりは、むしろ大人の方が楽しめるだろう(小さい子は飽きそう)。難点は宣伝がしにくい、ぱっと見キャッチーではないというところだろうか。どのへんをターゲットに宣伝活動をすればいいか、非常に迷うタイプの作品だと思う。






『ソウルケイジ』

誉田哲也著
乗り捨てられたワンボックスカーから、左手が発見された事件を追う、捜査一課の姫川玲子。調査を進めるうちに過去のある事件とのかかわりが浮かんでくる。前作よりは文章が整ってきているが、いまいち魅力を感じないんだよなぁ・・・。ストーリーは面白いし読みやすいことは読みやすいのだが、どこか薄っぺらいというか・・・。書き方でどうとでもなる気がするのでもったいない。下手にキャラ立てしようとしていることが仇になっている気がする。今回は姫川が嫌っているライバル・日下の人となりがわかるエピソードが多い。姫川が持っている日下のイメージと実際の日下とのギャップがわかってくる。警官として、上司としては日下の方が信頼できそうだな(笑)。





『風が強く吹いている』

 三浦しをんの原作小説を、監督・脚本は大森寿美男で映画化。大森監督はこれまで脚本を何本も手がけているが、長編映画の監督は初めて。寛政大学1年生のカケル(林遣都)は、4年生のハイジ(小出恵介)に竹青荘という弱小陸上部の寮を紹介される。陸上部に入部すれば家賃は格安、食事つきだという。高校時代に天才長距離ランナーとして知られていたカケルの才能をハイジは見込んだのだ。ハイジは竹青荘のメンバーで箱根駅伝に出場することを目指していた。
 時間的な制限から原作をものすごくはしょっているので、原作未読の人はこことここの間にどんな展開が?と思うかもしれないし、原作既読の人はもったいない!と思うだろう。NHKあたりで連続ドラマとして放送するほうが向いていそうな原作なのだが、映画としてはがんばって纏めたなという印象。特にクライマックスの箱根駅伝は、実際に駅伝ルートでロケをし、実際にランナーを走らせてという力の入ったもの。この部分が映画として見て面白いかどうかはともかく、本当に走っているところを撮ろう!というやる気はすばらしい。これでスポンサーに対する過剰な目配せやハイジのゴール前の過剰なひっぱりがなければもっとよかったんだが。
 また、カケルとハイジ以外のキャラクターの背景に殆ど触れていないのがもったいない。原作ファンであればあるほどフラストレーションを感じるに違いない。神童に関しては駅伝中にわりといい扱いをしてもらっているが、ムサもニコちゃん先輩もユキも双子も、ちょっとかわいそう。それぞれもうちょっと出してあげたかった。カケルとハイジの背景も説明不足なので、冒頭、なぜカケルが食事をおごられているのか、父と不仲なのか、ハイジが箱根を目指すのはなぜか等、示し方がやや唐突に思える。
 本作はキャストの力、というよりキャストの身体能力に支えられているところが大きい。1人ではなく、ほどほどに知名度がある人を駅伝が出きる人数集められたというところがミソだろう(特に双子の斉藤兄弟に関しては、年齢的にギリ。数年後だったらこの企画成立してなかったろう)。カケル役の林は、身体能力の高さゆえか、デビュー以降ずっとスポーツ映画に出演し続けているが、それも頷ける動きの美しさ。走りのフォームが素人目にも明らかに整っていて速そう。マラソン経験がなかった人の走りとは思えなかった。彼の走りがあるから本作は成立しているというところもあるだろう。
 しかし実質的な主人公はハイジだろう。演じる小出がいつになく男っぽくて魅力があった。思わず「先輩!」「お兄ちゃん!」と呼びかけたくなる頼もしさ。ハイジは年齢不相応に人徳のあるキャラクターなのだが、小出が演じるとなんとなく説得力がある。ウザさ、うそ臭さをぎりぎりで回避しているのは、それこそ小出の人徳だろう。本作、原作にしろ映画にしろ、ランナーの振る舞い・心情だけではなく、指導者の一つの形も描いているので、これだったら選手から信頼されるだろうという、好感持てるキャラクター造形になっていてよかった。






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