3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

2009年11月

『ぼくら、20世紀の子供たち』

 このタイトルも最早時代を感じる・・・。ヴィターリー・カネフスキー監督によるドキュメンタリー。題名の通り、ロシアの少年少女たちを追った作品だ。カネフスキー作品『動くな、死ね、甦れ!』『ひとりで生きる』に主演したパーヴェル・ナザーロフとディナーラ・ドルカーロワも出演している。
 カメラはまず、街中の少年少女を映す。そして鑑別所で刑に服する少年少女へと視線は動いていく。この鑑別所にパーヴェル・ナザーロフも入っているのだ。どこでどう間違っちゃったのかなー。彼を訪問してきたドルカーロワと一緒に歌を口ずさむ姿は切ない。ドルカーロワは、もう一度俳優になる勉強をしてみたらと勧めるが、出所しても元の生活に戻ってしまうんではないかなと思えるのだ。
 本作は1993年の作品なのだが、路上で小銭を稼いだり、家族の元に戻らず友人の家で寝泊りしたり廃屋に仲間同士で生活している子供たちがやたらと多い。もちろん、監督がそういう子供たちにスポットを当てているからなのだろうが、親の保護を受けていないらしい子供が予想以上に多くてちょっと驚いた。そして、彼らは饒舌だ。話を聞いてくれる人がいないからなのか、虚勢を張っているのか、良くしゃべる。敬謙なキリスト教徒家庭の子供たちもわずかな時間ながら登場するが、皆はにかみやというか、言葉が少ない。
 ドキュメンタリーとして面白いのかというと、少々散漫すぎてどこに焦点を当てていきたいのか分からず、微妙。しかし当時のロシアの子供たちの、ある一面を垣間見る面白さはあった。小学校低学年くらいの子でも堂々と飲酒喫煙しているのは野放しすぎないか(もちろん、親の目が向いていない子供たちだからそういう行為ができるのだろうが)。経済成長が進んだ今ではもっと落ち着いた感じになっているのか?








『ひとりで生きる』

 ヴィターリー・カネフスキー監督作品『動くな、死ね、甦れ!』の続編。主演の少年少女は前作と同じ俳優が演じている。前作はモノクロだったが本作はカラー。いきなりこれは映画、フィクションであるということを強く意識させる(前作でもそうだった)のが面白い。
ワレルカ(パーヴェル・ナザーロフ)は職業訓練校に通うようになっていた。幼馴染の少女ガリーヤの妹・ワーリャ(ディナーラ・ドルカーロワ)はワレルカに思いを寄せていた。ワレルカは村を離れ、叔母の家を目指す。
 前作よりはカオティックではないが、やはり騒々しく猥雑。特に職業学校内は無法地帯で、一種の祝祭ムード(といえるようなきれいなものではないが)でもある。ワレルカたちが成長してきたので、性的な側面も今回は色濃い。ワレルカ本人だけでなく、学校内で女子が男子たちの「お相手」をしていたり、更に校長のお相手もしたりと風紀は乱れ放題だ。ワーリャはワレルカの2代目恋人であり守護天使であるのだろう。しかしそれ以外にもワレルカは妙にモテる。叔母の家の隣の母娘、娘の友達ともいい感じに(しかしよりによってそこにいくか!と思ったが)。「ひとりで生きる」というタイトルだが、結構女性にもたれっぱなしなのだ。その結果、ワーリャを怒らせてしまうのだが。彼はまたしても守護天使に見放される。やはり女の子の方がどんどん先に行ってしまうのだ。
 しかし、やっぱり守護天使は少女なのかと思うとちょっとなぁ・・・。少女幻想が鼻につくところがあった。なおワーリャは典型的な幼馴染系ツンデレ。この時代のロシアに既にツンデレが確立していたとは!この手の女子は国境を越えて男子に好まれるのだろうか。
 動物の死が良く出てくる映画だった。豚のと殺とネズミ退治(ネズミとりに火を放つ。燃えるネズミがちょろちょろ走り回るんすよ・・・)は本物使ってるぽいんだけど、この当時は本物使っても問題なかったのか(ちなみに製作国はフランス。タイトルロールやエンドロールはフランス語だった。カネフスキーがソ連から亡命したからか?)?






『動くな、死ね、甦れ!』

 1990年のカンヌでパルムドールを取った、ヴィタリー・カネフスキー監督作品。第二次大戦直後、ソ連の収容所近くの村スーチャン。12歳の少年ワレルカ(パーヴェル・ナザーロフ)は母親と2人暮らしで生活は厳しい。それでも幼馴染の少女ガリーヤ(ディナーラ・ドルカーロワ)と遊んだり悪さをしたりしながら成長していく。
 あらすじ書いたらなんだかほのぼの映画のようになってしまった・・・。全然ほのぼのではないです、念のため。主人公が子供だし、そのほかにも子供たちがたくさん出てくる映画だが、子供が本当に子供的(変な言い方だがほかに言いようがない)で驚いた。乱暴でつじつまが合わない、むき出しの子供っぽさ。これはどういう演技指導をしたのかと非常に気になった。子供たちは基本乱暴かつ行動的なのだが、全体的に騒がしい映画だ。人の声が映像よりも前に出るような音のバランスで、表出される感情も激しい。やたらとうるさいのだ。エネルギーが凝縮されているみたいでやや疲れる。
 また、大人ももちろん登場するのだが、大人が大人としての機能をほとんど果たしていない。子供を保護する存在としての大人が出てこないところが面白いし、なぜそうなるのか不思議でもある。学校の校長にしろ母親にしろ自分本位だし、悪さをしたワレルカと母親が校長室に呼び出されたくだりはもはやギャグ。女教師の「物差しは1本しかないんですよ!」という言葉には、そっちかよ!と突っ込みたくなった。
 本作における子供は、保護されるべき存在ではない。なんだかわからないエネルギーの塊であり、そこからだんだん大人になっていく。特に女の子は、男の子よりも一足先に成長していくことがワレルカとガリーヤの会話から垣間見えてちょっと切ない。そして、先に成長する存在であるが、彼女にワレルカのイノセンスみたいなものが担わせれており、彼を救う「守護天使」のような存在であるところが興味深くもあり、ややうんざりもした。男性から見た「少女」はどの国でもこんな感じになっちゃうのか・・・。少年の守護天使の役割を、同年の少女に担わせてしまうというのはちょっと酷ではないか。そのひずみが最後の思わぬ展開を生んだとも言えるが。
 収容所のある村が舞台なので、時代的に日本人捕虜も登場するところが興味深い。いきなり日本の浪曲とか童謡とかが流れてきてびっくりする。ぱっと見、映されている絵との脈絡がないもんね。





『パイレーツ・ロック』

 1966年のイギリス。当時のBBCではラジオでポップミュージックを放送できるのは45分と決まっていたのだ。しかし24時間ロックやポップスを聴きたい!という国民は多く、文字通り海の上に局を構えた海賊放送が人気を博していた。このラジオ曲に1人の青年がやってきた。彼・カールは高校を中退となり、名付け親のクエンティン(ビル・ナイ)がいるこのラジオ局に預けられることになったのだ。一方、政府は海賊放送をつぶそうと画策していた。監督は『ラブ・アクチュアリー』のリチャード・カーティス。海賊放送はイギリスに実在しており、一応事実に基づいている。当時の音楽も満載なのでこの時代の音楽が好きな人は必見だろう。曲のリリース年が微妙に食い違っているみたいなのだが、まあ気にしない気にしない(笑)。
 作品全体に流れているのは一種の祝祭ムード。祝祭というより高校の文化祭か。「海賊船」はメンバーはレズビアンの料理人を除くと男性のみ。“伯爵”カウント(フィリップ・シーモア・ホフマン)とアメリカ帰りのカリスマDJ(リス・エヴァンス)との決闘や、自分の秘密を公表しなくてはならないゲーム、ファンの女の子たちとの乱痴気騒ぎ、そして何より昼夜流れる音楽といった要素は、男の子の楽園のような雰囲気をかもし出している。
 出てくる人たちはカール以外いい大人なのだが、全員「男子」ぽくて一種の学園ドラマ、部活ドラマみたいだ。といっても体育会系部活とは全く無縁の、うだつのあがらない文科系部活動。人気DJは女の子にモテモテなのに全体的に非モテオーラが漂っているというこの不思議さよ・・・。主人公が結構かわいい顔をしているのに、そしてかわいい女の子とそこそこいい感じになるのに、なっかなか童貞喪失しない(笑)ところも正しくボンクラ男子ぽい。振られたカールを非モテ2人組がミルクとクッキーで慰めるところは、本作中屈指の名場面だった。
 カールにとってこの船は、ユニークな先輩たちに囲まれたもう一つの「学校」だ。それはおそらく、DJたちにとってもそうだ。しかし学校はいつか卒業しなくてはならず、楽園からはいつか追放される。海賊放送はなくなるし、ロックは商売のタネとなり、ラジオ自体が廃れていくと映画を見ている側にはわかっている。それは切ない。しかし、ラジオは形を変えつつもなくなってはいないし、ロックは死んだといわれるが未だに流れている。ファンタジックで楽観的な本作には、そういった「でも大丈夫!」という監督の気持ちがこめられているように思った。その「大丈夫!」を裏打ちするようなエンドロールは泣ける。
 政府の方針に反抗するもののそうとんがっているわけではないので(一応黙認されているし)、ロックミュージックというよりも、広義のポップミュージックを扱った音楽映画と思ったほうがいいかもしれない。そして、それ以上にラジオの映画である。枕の下にラジオを隠して聞いている幼いリスナーの姿にはぐっときた。ラジオはどこかの見知らぬ誰かとつながっていると感じさせてくれるという側面が強い思うし、そのラジオから流れてくるのがポップミュージックだというところが大事。当時の若者にとって「自分の為の音楽がある!」「自分と同じことを考えている人がいる!」と感じられたのが海賊放送でありポップミュージックだったのでは。それは世界を変えることはできないけれど、誰かの慰めになることはできる。監督がここまでポジティブな作品にしたのは(監督の資質もあるけど)その部分を救い上げたかったからではないかと思う。










『ストロベリーナイト』

誉田哲也著
ビニールシートで包まれた男の死体が発見された。警視庁捜査一課の警部補・姫川玲子は、過去に発見された変死体との関係に気付く。はたして連続殺人なのか?文庫版解説を書店員の方が書いているように、書店員さん大絶賛の作品らしいが、うーん。このくらいでいいのか・・・。小説の面白さとは何なのか考え込んでしまった。本作は確かにぐいぐい読ませるストーリー展開だし、姫川をはじめ各キャラクターも(ある種のテンプレではあるにせよ。そもそもテンプレで問題ないのだが)そこそこ立っている。しかし、続きが気になるからとりあえず読み飛ばすという読み方になってしまった。作品全体にはそれほど魅力を感じていないということなのだろう。文章が荒くてひっかかるところが多かった(形容詞が一つ多いなとか)し、警察組織や捜査手順などは具体的で面白いのに、肝心の事件の様相がふわっふわしている。その乖離が気になった。また、下品なキャラクターが出てくるのはいいのだが、小説そのものがその下品さに引っ張られてしまっているように思った。下品なキャラクターが出てきても作品自体は上品な小説もあるし、その逆もある。小説の品てどこで決まるんだろう。






『QED 出雲神伝説』

高田崇史著
やめどきを見失ったまま、新刊が出るとつい手にとってしまうこのシリーズ。奈良のマンションで1人暮らしの女性が殺された。密室だった現場に残されていた奇妙な文様は、実在したと伝えられる「出雲神流」という集団のものだという。桑原崇が古代出雲の謎に迫る!やってることは毎回だいたい同じだからそのつもりで!マンネリはマンネリ(それでいいのだ。フォーマットを変える必要が全然ない)なのだが、ご当地もの的面白さがあるので結構読めてしまう。歴史新解釈ものとしては、つじつま合わせようと思えばある程度どうでもなるようなところがあるので、それはちょっと苦しくないか(文様の使い方とか)?と思わなくもないのだが、力技で読ませちゃうところがえらい。どうもシリーズまとめにかかっているような雰囲気。後日談で、本筋とは別にちょっとした「QED」がされるのだが、ここが一番ミステリぽかったかも。また、キャラクターの人生の歩みに感慨深くもなった。






『アンヴィル 夢を諦めきれない男たち』

 アメリカのヘヴィメタルバンド“アンヴィル”を追ったドキュメンタリー。アンヴィルは80年代初頭に脚光を浴びたものの、その後30年間泣かず飛ばず。ヴォーカルでリーダーのリップスはケータリングの仕事で生活費を稼ぎ稼いでいるし、リップスの幼馴染で親友であるドラムのロブは無職だ。なんとかヨーロッパツアーを慣行するものの客は殆ど集まらない。
 もうやめよう、もうやめようと思いつつも、過去に味わった栄光と、何より音楽への愛が忘れられず今に至ってしまった中年男たちの姿は、おかしくも哀しい。映画は明らかに笑えるように編集してあるのだが、彼らの生活やニュージシャンとしてのプライドのことを思うと泣きたくなってしまう。夢を諦めない、というと聞こえはいいが、映画のサブタイトルは「諦められない」だ。この微妙なニュアンスが更におかしかなしい。
 冒頭、スラッシュを始め有名なヘヴィメタル界のミュージシャンたちがアンヴィルの音楽を評価するコメント映像が流れる。しかしその後、「でも売れなかった」というオチ。売れないのは時代のせいだ、マネージメントのせいだ等々言われるのだが、彼らのツアーの様子を見ていると確かにあまり売れないだろうなと思ってしまう。この状態で良く続けてきたなと感心すると同時にあきれてしまう。
 見ていて悲しい気持ちになってしまいそうなところを救うのは、リップスとロブの年季の入った友情だ。情熱的(感情的ともいうが)子供のようなところのあるリップスと、無口で物静かなロブの対比はボケとツッコミ、割れ鍋に綴じ蓋のようなマッチングだ。リップスの過剰な感情をロブが受け流す、ということが殆どなのだが、レコーディング中にロブが怒ってしまい大喧嘩、しかし結局仲直り(リップスの、お前意外に誰が俺を理解するんだ!というような言葉が泣かせる)という展開があるのだが、多分30年の間に何度もこういうことを繰り返してきたんだろう。彼らがもしそれぞれ1人で音楽活動していたら、とっくにやめてしまっているのではないか。2人だから続けてこられたんだと思う。
 情けなくも自分の道を進むアンヴィルのメンバーたちは、見ていて応援したくなるのだが、彼らを取り巻く女性たちも印象に残った。妻たちは、夫にまともに稼げる職業に就いて欲しいと思いつつ、彼らの夢がかなうといいとも思っている。また、彼らの姉たち(2人とも兄姉がいる)は、2人を支援するが大成はしないだろうと半ば諦めモードだ。他人だと単純に応援できるけど、身内だと複雑だよな・・・。リップスの幼い息子は、「父親がロッカーって悪くない」とコメントしているけど、成長してから同じコメントをもらえるかと言うと微妙だろう。息子がちょうかわいいだけに今後を思うと切ない。
 そんな切なさを補って余りあるのが、しょぼいツアーの果てにある日本公演(去年?のラウドパーク出演)だ。彼らの苦闘を見てからこれを見ると泣かずにはいられないだろう。ただ、こういう体験をしてしまうと、またバンドやめられなくなるんだろうけど・・・。一瞬の栄光の為にどれだけ辛酸をなめるのか。ある種の麻薬みたいなものなんだろうなぁ。せめてこの映画の効果で彼らのCDが売れることを祈ります。










 

『ブラック会社に勤めてるんだが、俺はもう限界かもしれない』

 引きこもりの末に高校中退し、長らくニート生活をしていたマ男(小池徹平)は、母の死をきっかけに一念発起。プログラマの資格を取得し小さなIT企業に就職する。しかしそこはブラック企業、しかも上司や先輩は変人ぞろいだった。過酷な業務についに限界を感じるマ男だが。監督は佐藤祐市。
 原作は2chのスレッドだそうで、映画内にもマ男が2chに書き込む姿や、2ch上の反応が描かれる。しかし、これが話の腰を折っていたように思う。『電車男』みたいに書き込みそのものが話の流れを左右するという内容だったら、2ch上の反応が描かれてもおかしくはない、というか必要なのだが、本作の場合はマ男が既に体験したことを2chに書き込んでいるので、スレ住人の反応はなくてもかまわない。そもそも、マ男が2chに書き込むという描写自体がそれほど必要ではないと思う。原作の縛りでしょうがなかったのかもしれないが、2ch上の反応が入るのが、話の腰を折っているような気がした。
 同じく原作縛りなのかもしれないがもったいないと思ったのが、後半、妙に「いい話」系に流れていくこと。原作がそうなんですといわれればそれまでなんですが・・・。これは今の日本のエンターテイメント全般に見られる難点なのではないかと思うのだが、そんなに涙を誘う要素が必要なんだろうか。皆そんなに泣きたいか。本作の面白さは、前半のブラック会社の内情をブラックユーモア交じりに描いた部分にある(だからこそ主演がどう見てもかわいい小池徹平なのでは。下手に地味な人だと笑えなくなりそう)のであって、その中で頑張る人たちの姿にはないのではないかと思う。むしろ、「みんなでがんばってのりきろう!」というノリだと労働環境は良くならないんじゃ・・・。本作を見て仕事がんばろう!というのはちょっと違うのではないかと思った。もっとも、本作の中ではブラック会社はブラック会社のままで、ブラック会社をどうこうしようという話ではないのだが。
 ただ、劣悪な条件の会社をなぜマ男が辞めないのか、というのは共感できるところがあった。辞めた後のことを考えると怖くて、今の方がまだマシかもと思ってしまうのはわかる。また、仕事を続けられるか否かに、職場の人間関係が大きなウェイトを占めているというのも大変よくわかる(笑)。あんな直属の上司いたらいやだ!






『母なる証明』

 漢方薬店で働く母(キム・ヘジャ)は一人息子のトジュン(ウォンビン)と暮らしている。ある日、女子高生が殺される事件が起き、トジュンは容疑者として警察に拘束されてしまう。警察も世間もトジュンが犯人だと決め付ける中、母は息子の無実を証明する為奔走する。監督は『殺人の追憶』『グエムル』のポン・ジュノ。どんどん恐ろしい領域に突入していくのでどこまで行くのか心配だ。
 母は「母さん」「おばさん」と呼ばれるのみで個人名が出ることはない。あくまで「母」として存在している女性だ。彼女の行動は終始一貫「母」としてのもの。原題はずばり「MOTHER」なのだが、内容そのものを象徴している。母の愛情は、息子が過剰に無邪気で頼りないというところを差し引いてても過剰に見えるが、この過剰さこそが母性なのかとも思う。自分の周囲の「母」を見ていても、母親の息子に対する愛情は大抵濃い。
 母の愛というと美しく聞こえるが、その濃さの前には法も倫理も吹き飛ぶ、エゴイズムに満ちている。「息子を守らなくてはいけない」という強烈な母の意思に圧倒された。迷いなく倫理を飛び越える勢いが、ちょっと人外の域にはみ出しているような気がするのだ。冒頭の母が草原で踊りだすシーンからして異様だし、最後の母の選択も思い切りが良すぎる。記憶がひとつの鍵となっている作品であるが、こういう形で最後に持ってくるとは。
 真相は闇の中であった『殺人の追憶』と同じく、事実の断片が少しづつ積み重なっていく。異なるのは、真相は闇の中だった『殺人~』に対し、本作はスタンダードなミステリ仕立てだというところだ。しかし殺人事件の真相よりも、そこに至るまでで思い出されたトジュンの記憶や、母の決断の方がショッキングであり、人(というか母)の業の深さをより感じさせる。根っからの悪人は一人も出てこないのだが、悪は存在するというところが怖い。
 殺人事件にしろ肉親の愛にしろ生臭いのだが、時々人の生臭さを超越する瞬間がたち現れる。冒頭の母のダンスもそうだ。また、トジュンの兄貴分であるジンテが事件の謎を解けと母に示唆するところ。あのシーンと、夜の遊園地のジンテは、ジンテの姿を借りた何か別のものであり、人間ではないような異様さがあった。母が神の啓示を受けてしまったようにも思える。ただ、神といっても善悪とは全く関係なく行動する存在ではあるが。

 




『トンコ』

雀野日名子著
表題作は第15回日本ホラー小説大賞短編賞受賞作。こ、これはギャグ・・・?ホラーというよりもブラックユーモア。怖さと笑いが紙一重ってことはよくあるが、これ別に怖くはないしむしろ笑えるんだけどな・・・。著者もおそらく、ホラー小説ということをそれほど意識していはいないと思う。食用に売られていく豚視点の小説という思い切った構造だが、これに哀れさとか切なさを読み取るのは、人間が自分の感情を勝手に投影しているのであって、豚本人(人じゃないが)はニュートラルな気がする。もっとも、著者もそういうところは織り込み済みなのだろうが。一緒に収録されている中編『そんび団地』と『黙契』はもう少しスタンダードなホラー寄り。しかし『ぞんび団地』も妙にユーモラスなんだけど、これは著者の個性なのか?ただ、どちらにしろあまりホラー色は強くないと思う。






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