3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

2009年11月

『大洗にも星はふるなり』

 大洗海岸の海の家で働いていた5人の男が、なぜかクリスマスイブの夜に海の家に集まった。バイト仲間だった江里子(戸田恵利香)がそれぞれに「イブの夜に会いたい」という手紙を出していたのだ。江里子に憧れていた5人は自分こそ彼女の本命!と主張しあう。海の家を解体させる為に出向いてきた弁護士も参戦し、5人の男は江里子の真意を推し量る。監督・脚本は福田雄一。
 映画というよりは舞台劇っぽい作品だなという印象を受けた。舞台が海の家からほぼ動かない(妄想内で温泉やら水族館やら行ったりするが)し、画面内の人数のコントロールの仕方が、舞台演劇に似ていた。もしもともと舞台用の脚本だったとしたら映画に上手く落とし込めていないのではないかと思う。ただ、本作を舞台で上演したものが面白そうかというとそれも微妙だ。すくなくとも笑うべき映画なのだろうがギャグがほぼ不発。
 ストーリーの構造は『キサラギ』に似ているしおそらく意識していると思うのだが、「実は~だった」の部分が弱い。早い段階で想像がついてしまうので、話が二転三転するような面白みやスリルには欠ける。また、男の妄想はしょうもないという話でもあるのだが、その妄想の強度が弱い。妄想の基礎となるちょっとした事実の部分が弱いということなのかもしれないが、色々こじつけて無理矢理妄想している感じになってしまっている。
 最大の敗因は、出演者の演技力に差がありすぎることだろう。というより、安心してみていられるのが山田孝之しかいないというところだ。コメディのはずなのに笑えないのは、役者の力の問題も大きいのではないかと思う。正直ここまで辛いとは思っていなかったので、嫌な方向から不意打ちをくらった感じ。




『マイケル・ジャクソン THIS IS IT』

 2009年6月29日に急逝した、マイケル・ジャクソンのロンドン公演リハーサルの映像(公開用ではなくプライベートな記録だったそうだ)を、『ハイスクール・ミュージカル/ザ・ムービー』の監督・振り付けのケニー・オルテガが編集した本作。マイケルが亡くなってからかなり早い段階で公開が決まったので、何か死人に便乗した商売みたいでいやだなと思ったのだが、やたらと評判がいいので見てきた。見て納得。これは公開しないともったいない。ファンはもちろん、コンサートのスタッフはこれが公開されないと浮かばれないと思う。ものすごくお金のかかったセットなので、経済的に映画にして集客でもしないと目も当てられない大赤字というのもあるだろうが・・・。
 ロンドン公演が発表された時、ワールドツアーといっても新曲も長らく出てないし、消化試合的なものなんじゃないの?お金の関係でやらざるを得ないんじゃないの?と思ったのだが、本作を見るとマイケルが超やる気だったのがわかる。なんとなく、既に過去の人みたいなイメージになっていたのだが、リハーサルをする彼を見ると現役感が損なわれていない。体のキレは50代とは思えず(というか動きがクリアすぎて怖い)、声も衰えていない。リハだから全力投球ではないと思うのだが即ステージに出られそうなクオリティ。私が全盛期のマイケルを余り知らないからそう思うのかもしれないが、それにしてもすごすぎる。
 彼のバックバンドやバックダンサーたちが、「マイケルのステージに出られる!」と大感激しているのだが、それも頷ける。特にダンサーにとっては、本当にすごい存在だったんだということがやっと腑に落ちた。そりゃあ狂喜乱舞するよなーと。
ロンドン公演発表の時、マイケルは「ファンが見たいものをやる」と言っていたのだが、それが本気だったということもよくわかる。ヒット曲のオンパレード、更に楽曲の音・アレンジはレコーディングされたものに忠実で、「ファンが期待するマイケル」をそのまま再現しようとしていたようだ。ジャクソン5時代の曲もやる予定だったというのには驚いた。過去のヒット曲ばかりやることに抵抗を持つタイプのパフォーマーもいると思うのだが、そのへんの抵抗は全然ない(というより見せない)みたい。そういう意味ではそんなに表現欲は強くなくて、「ポップスターとしてのマイケル」に徹していたのだろうか。キング・オブ・ポップの名は伊達ではなかった。ちなみに曲目にはメッセージソングも含まれているのだが、楽曲自体もステージ演出もぱっとしない。やはり問答無用で楽しい・かっこいい曲の方がキレがよかった。スタッフと円陣を組んで、最後にとってつけたように「地球を癒そうね!」的コメントを言うのはなんだかほほえましかったが。
 ヒット曲満載だし、リハとはいえセットは豪華、フパフォーマンスも見ごたえたっぷりなので、ファンならずとも一見の価値はある。ただ、曲が小刻みになっていたり過剰に編集されていたりするのでファンであればあるほど、欲求不満は募るかもしれない。そもそももう見られないステージのリハーサルなので切ない。








『春風沈酔の夜』

 第10回東京フィルメックスにて鑑賞。『天安門、恋人たち』のロウ・イエ監督の新作。カンヌのコンペティション部門で脚本賞を受賞している。監督は『天安門~』で、2006年に中国当局から5年間の製作禁止を言い渡されているので、本作はおそらくこっそり(笑)撮ったのだろう(本作も上映禁止になっている)。本作は主に手持ちのビデオカメラで撮影されているのだが、これも小回りが利くからだろう。しかし映像効果としても活きていて、まわったり揺れたりするカメラが登場人物たちの混乱をしにまま反映しているみたいだった。
 中心となるのは、ゲイの男性2人と女性1人との三角関係。ただ、この三角関係がひとつではなく、次の三角関係へと連鎖するところが面白い。本屋の夫と教師の妻、そして夫の恋人である旅行代理店勤務の男(演じる俳優に妙に色気がある。これはついふらっとくるだろうなという説得力があった)。妻は夫にアルバイト青年を尾行につけ、夫に男の恋人がいることを知り、関係は破綻する。しかし青年は夫の恋人に関心を持ち近づいていく。青年にはすでに恋人(女)がおり、彼女は彼女で職場のボスと微妙な関係にあるのだ。
 同じパターンの三角関係が反復されているが、絡んでくる2人の女性は対照的だ。女教師は夫がゲイであることを知り逆上し、荒れる。青年の恋人はショックを受けるが耐えて受け入れる。いずれにしろ三角関係は崩壊するのだが、女性2人の性質が、崩壊の方向を大きく変えているのだ。同性愛を扱った映画というところばかりが注目されそうだが、女性の存在感も見逃せない。特に青年の恋人は、ボスとの関係も煮え切らず、常に損をしそうな雰囲気(これがまたどんくさそうな女性なんですね)が印象に残った。 
 男も女も、恋愛に翻弄されていくものの、全員結構ずるい。人が弱っているところに付け込んだり、相手との関係に煮え切らなかったり、好意に甘えたりと、決してきれいに、フェアに相手と相対しているわけではないし、強い人間というわけではないのだ。後半の展開などちょっと少女漫画的でもあるのだが、ベースにこういったズルさ、わりきれなさがあるので、甘くなりすぎない。「それでも人生は続く」的なラストも、しぶとさを感じさせた。






『ペルシャ猫を誰も知らない』

 第10回東京フィルメックスにて鑑賞。監督はイランのバフマン・ゴバディ。本作はカンヌ映画祭「ある視点」部門特別賞を受賞している。ポップミュージックの演奏が禁じられているイランで、アンダーグラウンドで活動しヨーロッパ公演を目指す若者たちを描く。
 若々しい青春ドラマだが、結構カルチャーショックを受けた。イランで映画や音楽などに対する規制が厳しいのはしっていたが、演奏しただけで場合によっては実刑なのは初めて知った。ロックはもちろん、フリージャズ等もだめだし、伝統音楽に根差したものも、ものによってはだめらしい。特に女性が演奏することへの制限は強い(許可を受けるには女性コーラスは3人以上で、などという話が映画内で出ていた)ようだ。といっても、イランの若者がポップミュージックを聞いていないというわけではなく、「マドンナと50centsが好きなの」という会話もあったりするので、海外の音楽は普通に聞いているようだ。
 おそらくグレーな方法であればCDは購入できるだろうし、今はインターネットがあるからそんなに不自由はしないのかもしれない。ただ、おおっぴらでなければ他の国と同じようにポップミュージックを聞くことはできるのに、演奏はできないというのは、なまじ知識は得られるだけに音楽好きな若者にとっては酷だと思う。そこまで規制する必要がなんであるの(そもそもインターネット全盛の今、視聴に関する制限てまったく役に立たなくなりつつあるんじゃないかと)と思うが、日本でも昔はこんなもんだったかもしれないよなと。しかし、「音楽をやりたい」というだけでこんな目にあうのでは・・・とがっくりとした。
 映画に登場する若者たちは、密売屋の男以外、全員素人で、実際にアンダーグラウンドで音楽活動をしている人たちだ。一口にアンダーグラウンドといっても、音楽の方向性は様々。ポストロックみたいなバンドもいるし(主人公は「アイスランドへ行ってシガーロス見たい」と言っている)、ヘビメタやっている人もいるし、ラッパーもいるし、ガレージロックぽいバンドもいる。民族音楽をベースにしている人も。スタジオの確保には皆苦労しているみたいで、地下室をしめきって使ったり、屋上に手作りしたりしている。屋上で演奏している若者たちは、階下の住人が留守の時をねらって練習したり、隣の子供に通報されたりと、笑えるが苦労が多そう。個人的にはこの屋上にスタジオを構えているバンドが気に入った。イランのミュージックシーン(メジャーではないが)を垣間見るという点でも面白い。
 なお、監督は本作を撮ったせいでイランから出ざるを得ず、イランでの映画製作はもうできないかもしれないそうだ。今回のフィルメックスでは来日する予定だったが、ビザが下りず残念ながら来日はかなわなかった。新作撮れるといいんだけど。心配だ。

『悲しみのミルク』

 第10回東京フィルメックスにて鑑賞。監督はペルーのクラウディア・リョサ。第59回ベルリン映画祭で金熊賞を受賞している。主人公は若い女性。彼女の母親が亡くなり、葬儀を出さなくてはならないのだがお金がない。彼女はメイドとして働き始めるが、1人で仕事から帰ることができず、常に何かに脅えていた。
 背景には80年代~90年代にかけてのペルー内戦がある。ヒロインの母親は、その当時にゲリラによるレイプ被害に遭っていたのだ。ヒロイン自身はおそらくそういった被害にはあっていないものの、母親(をはじめとするその時代を生きた女性たち)の恐怖が受け継がれているのだ。彼女の伯父は、母親の恐怖が母乳を通して子供であるヒロインに伝染し、奇病になった、村では以前からそういう奇病があるのだと医者に説明する。もちろんそんな病気は存在しないのだが、恐怖が世代を超えて受け継がれている、ヒロインにはその恐怖が極端な形であらわれているのだと解釈できる(医者はそんなこととりあわないのだが)。彼女の恐怖は、レイプされるかもしれないというものに他ならない。そのために奇抜な防衛法をとり、逆に体を壊してしまったりする。もちろん男性は苦手で、まともに相対することができるのは初老の庭師だけだ。その庭師でさえも、直接手が触れるとすくんでしまう。
 その一方では、結婚式を控えてうかれているヒロインの従姉妹がいる。同じ歴史的な背景を持ちながら、一方はあっさりと背景をすてさり、一方はいつまでもとらわれている。どちらがいい・悪いというのではないが、歴史を共有するというのはどういうことなのかとちょっと考えてしまった。ヒロインの悲しみは個人というよりも彼女の上の世代がしょってきたもので、1人で背負うには大きすぎる。だからといって忘れていいものでもない。そのへんの兼ね合いをどうしていけばいいのだろうと。
 ヒロインのつらさは周囲の理解を得ることはない。しかし、彼女をそっと見守ってくれる人もわずかながらおり、それが彼女が回復する糸口にもなっている。また、母親の死というマイナスの要素が、彼女を動かざるを得ない状況に追いやり、逆に彼女をプラスの方向へ押し出す。回避できない悲劇が事態を(かなり強制的に)好転させるというところが、皮肉でもあり面白い。
 映像が美しい。構図がきちっとしているというのもあるが、特に色彩のバランスが絶妙だった。決して撮影が高レベルという感じではないのだが、赤みと青みの使い方がいい。色彩感覚に優れた監督なのではないかと思う。また、ヒロインが口ずさむ歌がよかった。人魚と音楽家の話はどこかで聞いたことがあるけど、ペルーの民話なのか?

 

『息もできない』

 第10回東京フィルメックスにて鑑賞。監督・脚本・主演はヤン・イクチェン。長編映画としては初監督作品だそうだ。初監督作品でここまでできるのか!と驚くと同時に、初監督だから出来た作品とも言えるかなと思った。勢いと、臆面もない生々しさがある。またキャストの健闘にも目をひきつけられた。
 ヤクザまがいの商売をしている男と女子高生との交流が主軸となる。フィルメックス公式サイトでは男と少女の「純愛」と解説されているが、恋愛ドラマではない。2人は家庭に恵まれず、家族から暴力を振るわれてきた過去がある。2人が傷の部分により共感していくと考えた方がいいかもしれない。
 男の方は、成長してからは自分が暴力を振るうようになる。登場人物たちの因果関係は典型的なメロドラマとして描かれてもおかしくない。どこかで見たような設定ではある。しかしそこにこめられている感情の実感がただごとではないように思った。監督自身が家族と必ずしも上手くいっていたわけではないそうなのだが、だからか、家族に対する憎しみの実感が生々しい。男の実の父親に対するやりばのない怒りや、少女の父・弟に対する憎悪やいらだちが、2人のコミカルなやりとりとは対照的で、やるせない気持ちにさせられる。
 ただ、この家族に対する憎しみは、家族に対する愛と同じところに根ざしている。監督はおそらくそこを描きたかったのだろう。愛がないのではなく、「憎い」「嫌いだ」という形、あるいは暴力で現れている。主人公の男や少女の弟、そして彼らの父親にとっては、相手への感情の向け方が、暴力の形をとっている。愛があるから苦しい、愛を正しく表せないから苦しい、それこそ「息もできない」苦しさなのだ。
 ストーリーとしてはある種の「お約束」に沿っているので、だんだん悲劇的な色が濃厚になっていくのだが、悲劇的な状況があっても人生は往々にして続くし、人間はそこから回復しうる、という視点がちゃんとはいっているところにほっとする。ただ、これは監督が若いからこういう形で入れることができたのかなとも思う。
 ところで、近年の韓国映画(いわゆる「韓流シネマ」以外のもの)を見ていて強く思うのだが、暴力の演出・演技の説得力が、普段見ている日本映画よりも圧倒的に強い(欧米の映画よりも強いかもしれない。これは暴力表現のコード上の問題なのかもしれないが)。痛さが生々しく伝わってくる。この違いは何なんだろうなと見るたびに思う。






『フローズン・リバー』

 第10回東京フィルメックスにて鑑賞。アメリカ、カナダとの国境付近の町。凍った川を車でわたってカナダからアメリカへの移民の違法入国にかかわるようになった、2人の母親。監督はコートニー・ハント。サンダンス映画祭審査員特別賞を受賞、アカデミー賞脚本賞と主演女優賞にノミネートされた。
 2人の母親が登場するが、アメリカ人白人のレイ(メリッサ・レオ)と、居留地に住む(州の自治とは別の自治になっているらしい)アメリカ先住民モホーク族の女性ライラ(ミスティ・アップハム)という違いがあり、年齢も異なる(レイは中年、ライラは若い)。共通しているのは、2人とも子供がいること、夫がいなくなったこと、そして何よりお金に困っていることだ。レイはギャンブル中毒の夫にトレーラーハウスを買う資金を持ち逃げされている。ライラの夫は川に落ちて死に、幼い息子は祖母にとられてしまった。2人とも生活のため、子供のためにお金が必要なのだ。このお金のなさの描写が妙にリアリティがある。こういう部分の造形がうまいということは、ちゃんと観察力のある監督ということなのだろうが、ちゃんとしているだけに身につまされる。お金のなさが精神的な余裕のなさにつながり、全体的に貧しい雰囲気になっていくという・・・。
 2人は最初、自分の為だけ、エゴむきだしていやいやながら協力体制をとる。もちろんお互いに好意はもっていないので険悪なまま一緒に作業をするのだ。しかし、あるラインを超えたところで自分のエゴではないものが行動の動機になるのだ。この反転が感動的でもあるのだが、そこにいたるまでの下敷きがちょっと性急だったように思う。もちろん、納得できる流れではあるのだが、もう少しじっくりと描いてもよかったと思う。また、母性に対する信頼がありすぎる気がした。そこをどこまで拠り所にできるかというと、少し疑問。なりふりかなわないという部分に関しては、母性の特性として理解できるのだが。
 レイの家族との関係や、彼女の息子2人のキャラクター造形はしっかりしていた。特にレイの長男の、ティーンエイジャーらしくぶっきらぼうではあるが弟には優しい部分、ある種のもろさを、「あの子は怖がりだから」と言うところは上手い。逃げた夫と本当はやりなおしたくもない風なところの見せ方も、あからさまではないところがよかった。ライラの家族関係についても、もうちょっと詳しく見てみたかった気がする。
 舞台となる風景は一面雪景色、しかも美しい雪景色ではなく、寒々とした殺風景な風景。コーエン兄弟の『ファーゴ』を思い出した。しかしその殺風景さがいい。2人の女性の心象風景でもある。最後が早春なのもいい。

『ギャング』

 第10回東京フィルメックス、ジャン=ピエール・メルヴィル特集にて鑑賞。脱獄したギャング・ギュ(リノ・ヴァンチュラ)は「妹」マヌーシュ(字幕では妹なのだが作品解説では情婦。どっちだ?)の手引きでマルセイユに身を潜めていた。しかしマルセイユの顔役ポールから、プラチナ輸送車の襲撃をもちかけられる。プラチナ強奪には成功したものの警官2人を射殺してしまったギュは、パリから追ってきた刑事の計略にはめられ、逮捕される。しかも彼が仲間を密告したという噂まで広まっていた。ギュは裏切り者の汚名をそそぐ為に再度脱走を図る。監督はジャン=ピエール・メルヴィル。1966年の作品で、これがメルヴィルにとって最後のモノクロ作品となった。
 冒頭に、「ギュの仁義は映画製作者の道徳とは異なる」云々の但し書きがご丁寧に出てくるのだが、これは本気のものなのか何かに対するエクスキューズなのか。ただこの但し書きによって、ギュに対して映画を見る側も一定の距離間が出来、安易なヒロイズムにおぼれない、冷静な視点が生まれていると思う。いわゆる任侠映画みたいなものなのだが、ウェットさが最低限に抑えられている。登場人物の感情を過剰に表現することはなく、本来の意味でのハードボイルドな語り口だ。音楽すらほとんど使われていない(いわゆるサウンドトラックはない。バーの中で音楽が演奏されている、という形での使い方のみ)。
 ギュの仁義は、映画内でも言及されているように、当時からしても少々古臭いものであり、若いギャングたちには小バカにされている雰囲気すらある。逆に過去を知るギャングたちからは尊敬を得ているし、敵である刑事からも一種の敬意を持たれている(ラストの刑事の振る舞いがいい!)。ギュのかっこよさは、同時にこっけいさでもあり哀しさでもある。ギュがもう若くないというところがさりげなく描かれている(冒頭の列車に飛び乗ろうとするところなどモロにそうだ)のも、それを強調していたと思う。若いやつにはわからないかっこよさ、と言ってしまうとなんとなくかっこいいが、普遍性を持たないかっこよさは自己満足とそう変わらないだろう。
 映像的にもストーリー的にもシンプルな作品だと思うが、シンプル故に強い。主演のヴァンチュラの顔力が強烈というのも、映画が際立っている一因だと思う。いわゆる二枚目ではないが妙に引力がある顔だ。この顔だからギュというキャラクターが嫌みなく成立している。
 ・・・となんだかとっても感銘を受けたかのように書いているが(いや本当にいい作品だと思っているんですけど!)、何度も睡魔に襲われたことをここに告白しておきます。モノクロ字幕の映画を久しぶりに見たら脳みそが適応するのに時間かかるみたいで・・・。






『ヴィサージュ』

 第10回東京フィルメックスにて鑑賞。ツァイ・ミンリャン監督監督の新作。フランスで映画を撮ろうとしている中国人監督カン(リー・カンション)と主演男優アントワーヌ(ジャン=ピエール・レオ)を取り巻く世界を幻想的に描く。
 本作はルーブル美術館からのオファーで撮影されたそうで、ロケ地の7割ほどがルーブルの中とその周辺だそうだ。にもかかわらず、ルーブルだと一目でわかるのは1シーンのみ。そのシーンが選ばれた理由も「穴がそこにあったから」だそうだ。使われている場所は地下道や作業場、下水などのレア(?)な場所ばかりでルーブルを存分に利用しているには違いないのだが、ツァイ・ミンリャンはどこで何を撮ってもツァイ・ミンリャンだと妙に納得した。
 ストーリーや映像が意味するものを追うと煙に巻かれるだろう。監督の作品のなかでも特にイメージ寄りで文脈がわかりにくい。しかしそのわかりにくさはマイナスのものではない。わかりにくさが、かえって映画を引っ張っているというか、見ている側のイメージを増幅させるところがあるし、それゆえに意図的にわかりにくくしているのだろう。登場人物の立ち位置や相互関係もほとんど説明されないし、カンが撮ろうとしている映画が「サロメ」をモチーフにしていたことも終盤でやっとわかってきた。説明は極端に少ない。
 2時間20分近い長さなのだが、意外と映画の流れがダレなかった。何か特別なことが起こっているわけでもないのに異様な緊迫感があるシーン(1人が冷蔵庫の中のものを捨てようとすると、もう1人が猛然と出したものを戻すところが妙に迫力あった)、美しく楽しいシーンが挿入され、要所要所で映画をひきしめている。監督の作品ではお約束であるなんちゃってミュージカル風ステージ(今回は特にゴージャス!)もある。また、妙にユーモラスでもある。冒頭の華々しい水道故障や、カンとアントワーヌのかみ合ってない(そもそもお互いに使っている言語が違う)のになんとくなくかみ合った感じになっちゃってる会話、そして前述のルーブル内の「穴」。
 主演のリー・カンションはツァイ・ミンリャン作品には毎回出演している。そして頻繁に脱がされているような気がする(笑)。欲望の主体というよりも客体である側面の方が今回強い感じがする。また、セクシャルな要素が一般的にタブー、スタンダードではないとみなされる部分(近親相姦、同性愛)に寄っているのが興味深かった。特に肉親の関係がものすごく深いように思う。死んだ母親が生きているかのように登場するのだ。なかなか別れがたいのだろうか。






『スペル』

 銀行の融資窓口担当のクリスティン(アリソン・ローマン)は昇進を目指していた。ある日、1人の老女が不動産ローンの延長を頼みに来たが、クリスティンは上司に「厳しい決断もしないと」と言われたことを気にして延長を断る。老女は「私に恥をかかせた」とクリスティンを駐車場で待ち伏せして襲い掛かり、彼女に呪いの言葉を残す。監督はサム・ライミ。
 『スパイダーマン』の大ヒットで、これでライミ先生もハリウッドのドル箱ですか巨匠の仲間入りですか・・・と思っていたら新作これかー!どう見ても立派な低予算B級映画である。精神のバランスをとっているかのような振れ幅。ただしB級はB級でも、B級内の超A級というか、作品としてすごくしっかりとしていてブレがないという印象を受けた。私はホラー映画をあまり見ない(実はライミ監督のホラー系作品見るの多分初めて・・・。ライミファンのみなさんほんとすいません)のだが、ホラーが好きな人でもそう関心のない人でも、どうしても苦手!という人以外は楽しめる手堅い作品だと思う。
 伏線となる部分では「これは大事ですよー」とちゃんと目配せするし、これから見せ場が来るぞ!というところではちゃん「くるぞくるぞくるぞキター!」とわくわくさせる。客への説明が結構丁寧でわかりやすい。このわかりやすさは、「恐怖」の見た目がとりあえずインパクトあって面白いというというのもある。老婆が文字通りかぶりつきむしゃぶりつく。しかも超強い。どんなホラーだそれは!ホラー化する前から嫌悪感を与えるような造形にしてある(銀行窓口で入れ歯を外したり痰吐いたりサービス用のキャンディをごっそりガメたり)あたりにライミの意地悪さが窺える。
 ジャンルとしてはホラーなのだが、妙に笑える。恐怖と笑いは紙一重という側面もあるだろうが、これは絶対笑わせようと思ってやってるよなーという展開が多々ある。序盤の見せ場であるクリスティンと老婆の車内でのどつきあいからして結構笑えるのだが、その後もまさかの鼻血噴射(何も鼻から出さなくても・・・)や「ケチャップがついちゃったの」やクライマックスの文字通りの泥仕合までゾっとする&笑えるところ満載だ。個人的に一番ウケたのは、ディナーの席でいきなり和解するクリスティンと恋人の母。キーワードはそこかよ!
 ただ、本作がスッキリ楽しめる作品かというと、ちょっと微妙。ホラーだからというのではない。クリスティンは善人でも悪人でもない普通の人、どちらかといえば善良な女性であり、ほんのちょっとの迷いでとんでもないものに襲われる、しかもそのちょっとの迷いは、誰でも持ちえるちょっとした欲から出ている。悪い人ではないのになぜこんなことに・・・。ライミは人の努力とか善性とかにあまり信用を置いていないのではないかと思う。







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