3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

2009年10月

『カムイ外伝』

 優秀な忍であったカムイ(松山ケンイチ)は、忍の世界にも疑問を持ち、今はかつての仲間に追われる抜け忍の身。ひょんなことから漁師の半兵衛(小林薫)一家の元に身を寄せることになった。しかし半兵衛の妻は、かつてカムイと戦ったこともある抜け忍のスルガ(小雪)だった。原作は白戸三平の同名漫画。監督は崔洋一、脚本は宮藤官九郎。
 『今日からヒットマン』の感想で、「今年の邦画の娯楽大作は迷作・珍作のオンパレード」と書いたが、本作も間違いなくその系譜に連なる。アクションシーンが始まるなり、「いやーそれはないわ・・・」という脱力感がみなぎる。本作は派手なワイヤーアクションやCGを駆使していることが売りになっているようだが、演じるほうもアクション監督する方も不慣れなのか、動きが妙にもったりとしていて、「飛んでいる」ではなく「空中浮遊」に見える。緊迫した場面なのにいきなりふわーとした動きになるので、出鼻を挫かれたような気持ちになってがっかりだ。個々の俳優は結構頑張っているだけに惜しい。不慣れ感に満ちていて、ハリウッドや香港のアクション映画とのレベルの差を痛感することになってしまった。むしろ、ワイヤーも使わず、泥臭くても生身のアクションのアクションの方が見たかった。その方が原作のイメージにも近かったのではないか。「忍者」イメージにひっぱられすぎたような気がする。忍術を実写にすると結構マヌケというのも、アクションシーンが冴えない一因なのかもしれないが・・・。砂から飛び出すとか分身の術とか、実際にやられるとちょっとなぁ。これをやるならこってこてのCG駆使したアクションにしないと。
 また、ストーリーの構成も微妙。カムイの抜け忍としての運命に周囲が巻き込まれるのだが、そもそもカムイ外伝てそういう話だったっけ?虐げられた者としてのカムイの立ち位置はあいまいになっている。何より、カムイ1人を始末するにはコストがかかりすぎではないですか伊賀の皆さん・・・。そんなに人材が余っているのかと気になってしまった。突っ込み入れ始めるときりがない。クドカンにとってはあまりモチベーションの上がらない仕事だったのだろうか。
 俳優が頑張っているだけに、かなり残念。松山ケンイチの身体能力の高さが見て取れる(走る姿がきれい)のでもったいない感がつのる。伊藤英明とサシで勝負するところとかも、結構かっこいいのにー。






『シングル・マン』

 第22回東京国際映画祭で鑑賞。グッチの元デザイナー、トム・フォードの初監督作品。ゲイで大学教授の男(コリン・ファース)は交通事故でパートナーを亡くした。1人の生活に耐えられなくなった彼は、自殺を決意する。
 服にしろインテリアにしろ、全てにおいて上質そうでセンスがよくて大変腹立たしい(笑)。舞台は1960年代なので、今最先端のファッションというわけではもちろんないのだが、その時代の流行に沿いつつ、現在でも野暮ったく見えないあたりはさすがトム・フォードと言うべきか。
 核への恐怖、共産主義への恐怖が高まってくるという時代背景。主人公の同僚が自宅に核シェルターを作ったと話しているあたりにも時代の空気が見える。教授が講義の中で見えないものに対する恐怖、ひいてはマイノリティに対する恐怖(話の発端はユダヤ人に対する差別に関する話題。ユダヤ人てマイノリティ扱いだったのか?)に言及するが、確かに恐怖が背景にあった時代だったのだろう。そして、こういう時代の中でゲイとして生活することはかなりのプレッシャーだったはずだ。現代を舞台にしなかったのは、性的マイノリティに対するプレッシャーの度合いが全然違うからだろう。
 ただ、マイノリティとしての葛藤や時代の不穏さというのはあくまで味付け程度であって、本筋は最も近しい人を亡くした悲しみ、寂しさにある。孤独感が映画の底に常に流れている。これは主人公の元恋人(ジュリアン・ムーア)が最も体現していると思った。彼女は今でも主人公に未練があるが、彼にとって彼女は友人ではあってもパートナーにはなりえない。
 もっとも、かわいい男子学生(ニコラス・ホルト。『アバウト・ア・ボーイ』でヒュー・グラントと共演していた子ですってよ!びっくりした)が主人公に必死でアプローチしてきたりするので、結構都合のいい方向へ流れるなー、フォード先生はかわいい系の子がお好きなのかしらと苦笑いしてしまうのだが。






『冬の贈りもの』

 2009ドイツ映画祭で鑑賞。裕福な一家の長男アレクザンダーが突然自殺した。息子の死を受け入れられない母親は、画家にアレクサンダーとその姉であるリリーの肖像画を依頼する。しかしリリーは母親にも画家にも反発し、画家は母親から資料として渡された亡き息子の画像に違和感を感じる。監督は『名もなきアフリカの地で』でアカデミー外国語映画賞を受賞しているカロリーネ・リンク。
 母親と息子の関係が親密すぎる、特に母親の息子に対する思いが非常に強いということが、冒頭、雪の中で2人が遊ぶ姿を見ると一目瞭然だ。また、そんな2人に対してリリーがわだかまりを持っているということも、2人を眺める彼女の表情から見て取れる。冒頭でこの家族の間の関係、家族が抱えている問題が端的に提示されており、見せ方としてはシンプルだ。
 しかし、その後の展開は、この手の話にありがちな「息子の死をきっかけに壊れかけの家族が再生」という流れにはならない。残された家族の悲しみは、家族それぞれで別個のものであり、それを分かち合うことはないし、長男という楔を失ってむしろどんどん解体してしまう。また、両親はそれぞれ自分の悲しみにのみ向き合っており、娘であるリリーの悲しみを省みることはない。それぞれが、まず自分の中のアレクサンダー像と向き合っているのだ。ただ、あくまで自分の中のアレクサンダーなので、実際の彼とは異なる。リリーはアレクサンダーが無理をして「周囲が望む彼」を演じ、それ故自殺に至ったのではとうすうす気付いていた。しかし両親にとってアレクザンダーはいつまでも「理想の息子」のままだ。息子が本当は何を思い何を考え、なぜ死を選んだのかということは、なかったことにされている。
 両親がこんな状態なので、アレクザンダーの真意を確かめるのは姉であるリリー、そして第三者である画家の役割となってくる。リリーの孤独を受け止めるのが、また同じく孤独を抱える、全くの部外者である画家というところが苦い。両親はもうちょっと、リリーを気遣ってやれば、またアレクザンダーを理解しようとすれば、また違った結末が待っていたのかもしれないのに。家族のあり方に対して否定的ではないが、「こういう両親だと子供は理解されることをあきらめざるを得ないよね」という諦念がにじんでいると思う。





『パンドラの匣』

 敗戦直後の日本。結核に倒れた利(染谷将太)は、結核療養所である健康道場に入院した。入院患者を「塾生」、看護師を「助手」と呼び、一風変わった健康法を実践するその施設では、お互いをあだ名で呼ぶのが慣わしだった。利助は「ひばり」と名付けられ、看護師マア坊(仲里依沙)と仲良くなり、先に「卒業」した詩人のつくし(窪塚洋平)へ手紙を書く。そして新任看護師長として、竹さん(川上未映子)が赴任してきた。
 監督は『パビリオン山椒魚』の冨永昌敬。『パビリオン~』は見ていないのだが、本作はポップでこぢんまりとした作品だった。原作は太宰治の同名小説。結核療養所が舞台ではあるのだが、学園もののような、妙なにぎやかさと楽しさがある。社会から浮遊したモラトリアム期間というところでは、学園ものと共通しているのか。
 ひばり、マア坊、竹さんの3人が中心となるのだが、この3人の関係が取り立てて鋭く描けているとは思わなかったし、人間関係を描こうという気はそもそもあまりないのかもしれない。登場人物間にある感情も関係性もあいまいなまま、何かのフラグが立ちそうで立たない、何か立っても立ち消えてしまうようなはかなさがある。マア坊の「いじわる」、竹さんの「いやらし」という口癖も、立ち現れようになる何かをはぐらかしてしまう。
 人の心は曖昧模糊としているが、役者の存在感は強い。特にヒロイン2人は際立っていた。マア坊は、ともすると下品だったりウザかったりしそうなキャラクターだが、それをキュートな範疇に治めている仲の個性は貴重だ。特に美人というわけではないのだが、妙な力強さがあって魅力的。また、川上が予想以上にチャーミングで参った。よく見ると若干面白い顔をしているのだが、何かの拍子にすごくきれいに見える瞬間がある(もちろんベースは美人ですが)。これで本業作家なんだから神様って不公平・・・。主演の染谷もちょっと不思議な顔立ち。どこかひっかかりのある顔立ちの人ばかり集めて作ったような映画だ。出てくる人たちが皆キュートなので楽しく見られたという、私にとっては珍しい作品となった。
 なお本作のセリフは全てアフレコ。これも珍しい。より浮世離れした雰囲気になったと思う。太宰作品の映画化としては、かなりファンタジー寄りの作品だろう。菊地成孔による音楽も、ノスタルジックでありつつ時々空間をゆがめるようないびつさがあってよかった。






『ヴィヨンの妻 桜桃とタンポポ』

 太宰治の小説『ヴィヨンの妻』『思ひ出』『姥捨』『きりぎりす』『桜桃』『二十世紀旗手』を下敷きに、田中陽造が脚本を書き下ろした作品。監督は『サイドカーに犬』の根岸吉太郎。第33回モントリオール国際映画祭で監督賞を受賞した。
 戦後間もない東京。気鋭の作家だが放蕩三昧で借金まみれの大谷(浅野忠信)を、妻・佐知(松たか子)は健気に支えていた。大谷のつけを払うために椿屋という小さな飲み屋で働き始めるが、たちまち店の看板娘となり、彼女目当ての客で店はにぎわった。それを見た大谷は、寝取られ夫になるのではとおびえる。
 佐知を「健気」と前述したものの、いわゆる貞淑で夫に尽くす妻、美しい夫婦愛、というのとは、若干趣きが異なる。確かに健気は健気だし、夫の為に尽力しているのだが、貞淑というのとはちょっと違うんじゃないかと思った。佐知は椿屋で働くうち、自分に「女」として商品価値があることに気付き、(不倫はしないまでも)それを活かして生計を立てることを躊躇しない。佐知をいわゆる「貞淑な妻」と評するとしっくりこないのは、この躊躇のなさがあるからかもしれない。夫への愛はあるのだろうが、一人でどんどん遠くへ行ってしまいそうな気配もある。
 佐知に対して、夫の大谷は一見冷たい。懇意にしている愛人(広末涼子)がおり、心中騒ぎまでおこす。しかし、実際は大谷の方が妻の浮気におびえ、自分がいつか捨てられるのではという不安をぬぐえないように見える。妻が自分に隷属していないということに、本人よりも先に大谷が気付いているのだ。大谷の放蕩も、自分を心配しろ、自分を見ろというアピールなのか甘えなのか、色男というよりも弱い人間であるという部分の方が目につく。夫が妻にもたれかかっている度合が強いというか、むしろ割れ鍋にとじ蓋夫婦なのでは。
 主演の松と浅野が非常に健闘している。松たか子が予想以上に好演。彼女の力で下卑た感じにならずにすんでいる。文語調のセリフを違和感なくこなせるところも彼女の強みだろう。やや不自然(小説的すぎる)な言葉遣いもキュートに見せられるところがいい。浅野もいい役者になったなぁ・・・今、油が乗り切っている感じだ。また、脇の共演者もなかなかいい。特に大谷の愛人役の広末には、立派な女優になっちゃったなぁという感慨深さを覚えた。今回、かなり脱ぎっぷりがいいのでファンはチェック。個人的に決して好きではない女優なのだが、嫌な粘着質が出ていて役柄にはまっていた。また、堤真一は性根がいやらしい風の演技が妙に上手く、出番は少ないが印象に残った(嫌な残り方だが)。

 





『あの日、欲望の大地で』

 海沿いのレストランでマネージャーをしているシルヴィア(シャリーズ・セロン)は同僚のシェフと不倫しつつ、行きずりの男性との関係も重ねていた。ある日彼女の前に、少女を連れたメキシコ人男性が現れる。監督・脚本は『21g』『バベル』の脚本家、ギジェルモ・アリアガ。これまでの作品と同様、複数の時間、複数の場所がランダムに描かれる。鍵になるのは3人の女性だ。
 『21g』にしろ『バベル』にしろ、人の心の地獄に踏み込んでいくような作品だが、本作にはまさに、1人の女性の心のなかの地獄が中心にある。時系列がシャッフルされており、徐々にパズルのピースが埋まるという構造になっているので、その地獄がなぜ生まれたのかに迫っていくミステリ的な側面もある。彼女のあのときの行動の理由、言葉の裏側にあった意図など、ぱっと見とは違うということがだんだん見えてくるのだ。彼女が何をやったのか、ということはなんとなく最初から見当がつくのだが、隙間の部分をじわじわと埋めていく、結構ねちこい描き方がスリリングで、最後まで引き込まれた。構成に無駄がなくて、『21g』や『バベル』よりタイト。脚本家としての意図を、脚本家であるアリアガ自身が監督することで、存分に活かせたのではないかと思う。また、過去のメキシコの風景と、現在のポートランドの風景が対象的で印象に残った。特にポートランドの寒々とした風景は、シルヴィアの内面と呼応している。
 シルヴィアの母親ジーナ(キム・ベイシンガー)は、妻子を持つ男性と不倫しており、相手と2人でいる時に命を落とした。シルヴィアは母親のやったことを許せず、しかし自分も母親と同じようなことをしつつ、同時に自分自身を許せずにいる。2人とも決して模範的な母・妻とは言えない。しかしそこで彼女らを「ダメ」とするのではなく、彼女らをそういった行動に駆り立てる苦しみをきちんと描いている。特にジーナは、娘や夫、不倫相手の家族からしたら許せない存在だろうし、シルヴィアの怒りもわかる。しかし、ジーナにとっては自分を保つ手段はそれしかなかったんだろうなと思える。これはキム・ベイシンガーの演技のうまさもあるのだろうが、夫とのちょっとしたやりとりなどから、そこに至るまでの経緯がうかがえるのだ。
 彼女らの選択に正解を出さず、ラストもどちらに転ぶかわからないもの。シルヴィアはどちらにしろ自分を責め続けるだろうし、彼女の「罪」が償われるわけでもないだろう。しかしほのかに希望が見えて、後味は悪くない。








 

『今日からヒットマン』

 それなりに有能な営業マン稲葉十吉(武田真治)は、新婚で妻・美紗子(星野真理)はかわいく、34年ローンで家も買った。順調なように見えたサラリーマン生活だったが、ある夜人身事故を起こしてしまう。現場に現れた重傷を負った男は、殺し屋「二丁」と名乗り、十吉を勝手に後任に任命、監禁されている自分のパートナー・ちなつ(森下悠里)を助けろと言い残して事切れた。二丁の頼みを聞かないと自分と妻が狙われる。十吉の運命は?!監督は横井健司、原作はむとうひろしの同名漫画。
 今年の邦画の娯楽大作は迷作・珍作のオンパレードだが、そんな中、低予算でも身の丈にあった堅実なつくりをしている、本作のような娯楽映画を見るとほっとする。いわゆるVシネ的な作品ではあるが、撮影にしろ脚本にしろ、映画の基本をふまえていて秀作とはいかないまでも安定感があった(それすら出来ていない映画が多すぎるということなのだろうが・・・)。もしかして、今年公開の漫画原作映画の中では一番安心感があるんじゃないか?下手にCGやVFXを使わないのもよかった。なお、十吉の自宅が千葉県の新興住宅地内の建売というところに妙にリアリティを感じた。
 これは原作の面白さでもあるのだが、十吉はフィジカル面では全くの一般人。彼の強みは接待で鍛えた口の上手さと交渉術だ。ガチ勝負に持ち込まれるとまず勝ち目がないので、口先三寸でなんとか自分に有利な状況に持っていこうとする。殺し屋なのに営業マンとしての戦い方になっている。口が上手い、要領がいい、というのは強みではあるにしろ、一般的にあまりプラスイメージがないと思うのだが、それが主人公の武器になっているというのが面白かった(ただ、この特色の活かし方は原作におよばず残念)。
 演じる武田にはあまり「普通のサラリーマン」というイメージがないのだが、本作にはよくハマっている。2枚目半が出来てそこそこ動けるという強みが活かされていたと思う。また、裏社会の何でも屋「コンビニ」社員役の津田寛治はもはや鉄板。他のキャストも違和感ない。なお、エンドロール曲は武田の作・編曲&演奏。サックス奏者としても定評があるだけにかっこいい。






『ATOM』

 ロボットが人間の生活を支える、空中都市メトロシティ。少年トビーは父親である科学者テンマと何不自由なく暮らしていた。しかし、テンマの実験に巻き込まれて命を落としてしまう。息子の死を悲しむテンマは、トビーそっくりのロボットを作り、トビーの記憶を移し変える。しかし生身の人間ではないことを痛感し、テンマはトビーを見放してしまう。家を出たトビーは地上に降り、スラム化した町に暮らすロボットや子供たちと出会う。
 手塚治虫の『鉄腕アトム』を、とうとうハリウッドがアニメーション化。アトムやテンマ、お茶の水博士のキャラクターデザインはわりと原作寄りで、手塚プロが相当粘ったんだろうと思う。ただ、オリジナルのキャラクター、特に地上の子供たちのデザインとのすり合わせが上手くいっていないように思った。アトムと女の子キャラが抱き合うシーンがあるのだが、頭の大きさとか手足の太さのバランスが全然違うので変な感じ。
 私は原作の熱烈なファンというわけではないので、ファンの方が見たらまた違う感想になるのだろうが、アニメーション映画としては手堅い。美術面の色彩、フォルムのやわらかさもきれいで目に優しく、ビジュアル面は楽しめた(冒頭のレトロ風味アニメーションもかわいい)。難点は脚本だろう。多分、原作を活かさないとという意図があったのだと思うが、色々詰め合わせすぎで慌ただしい。特に、自分は「トビー」なのか「アトム」なのかという葛藤を終盤まで引っ張れなかったように思う。本作の世界では、人間はロボットを使役するものというのが大前提としてあるので、人間とロボットは共存できるのかという方向にはもっていきにくい。アトム個人の自分は何者かという問題として葛藤を残したのだろうが、「居場所探し」みたいな方向にすり替わってしまって中途半端。それだと父親からの承認ということだけでokになってしまいそうだが、それだとアトム本来の持ち味とはちょっと違うような気がする。
 悪役があまりにもわかりやすく悪役だったり、裏『ウォーリー』みたいな地上世界の設定だったりと、ちょっと冷めてしまうところはあったが、子供映画としてはこのくらい分かりやすくてもいいか。なお、スケジュールの都合上、日本語吹き替え版で見たのだが、悪くなかった。特にアトム役の上戸彩が良い。『ピアノの森』でも少年の声をあてていたが、少年役をやると妙な色気がある(正直、生身の上戸よりも色っぽいと思う)。この点が最も原作に忠実だったかもしれない(笑)。テンマ役の役所広司はいまひとつ。演技がどうこうではなく、アフレコに向かない声質(ちょっと声がこもってるので)なんだと思う。






『犬と猫と人間と』

 監督は『あしがらさん』の飯田基晴。飯田の元に、1人の老婦人が「動物を大切に思える映画を作って欲しい」という申し出をしてきた。前々から捨て猫の面倒を見てきた彼女は、動物が簡単に捨てられる世の中に心を痛めていた。動物愛護には特に興味のなかった飯田は、戸惑いながらも日本のペットの状況について取材を始める。
 監督が、自分がよく知らなかった分野について取材しつつ学んでいくのだが、監督の姿勢が素直で変に説教臭くもなく、好感が持てる。ドキュメンタリーとしては愚直と言ってもいいくらいだが、誠実な作りの作品だと思う。本作が撮られた動機が、人からの依頼ということで、却っててらいのない形になったのではないだろうか。もし監督本人が前々から興味があったり知識が豊富な分野であったら、こういう形にはならなかったと思う。
 映画の中で紹介されるのは、民間の愛護団体の保護施設、そして行政施設など。愛護団体の人はもちろんだが、犬猫を処分する立場の保健所の職員であっても、「動物が好き」と言うのが印象に残った。業務として処分しているが、そりゃ好んで処分はしないよな・・・。捨てられる犬猫の数が圧倒的に多すぎるのだ。
 現場の人たちを動かしているのは強固なリアリズムだ(ちょっと困った猫おばさんになりかけの方もいるが)。40年間NPO等で動物の保護活動に取り組んできた女性が、処分される犬猫がいなくなることはないと言ったうえで、「多くの愛護団体が口にするのは夢想、理想とは実現できることの最高峰にあること」だという言葉に重みがあった。目の前のことから片付けていくしかないのだろう。また、彼らは生き物を生かす/殺すのジレンマと向き合い続けている。人間と一緒に暮らす動物である以上、人間が生殖面を含めコントロールするべきだと思うが、どこまでコントロールが許されるのかと思うと割り切れないものが残るし、コントロールする責任を持たない飼い主が多すぎないか。
 映画内では国内で年間に処分される犬猫の数等のデータも紹介されるのだが、私が漠然と考えていた数を遥かに上回っていて正直ショックだった(2007年の殺傷処分数は31万457頭)。私は動物愛護精神が旺盛とはお世辞にもいえないし、猫は嫌いではないが犬ははっきりと苦手だ。それでも、捨てるのはちょっとなぁとは思う。ただ、ここ数年で離婚や生活苦等によるペットの保護施設への引渡しが増加しているそうで、不況の余波を見た感があった。衣食住足りないと動物のことまでケアできないよなー。






『のんちゃんのり弁』

 甲斐性なしな夫の元を、娘ののんちゃんを連れて飛び出した小巻(小西真奈美)。実家に転がり込むが、31歳元専業主婦の彼女には職を探すだけで一苦労。ある日、小料理屋「ととや」のさばの味噌煮に衝撃を受けた小巻は、店主(岸部一徳)に弟子入りしたいと頼みこむ。監督は『いつか読書する日』の緒方明。
 30過ぎるまでぼんやり生きてきて、急に自活しなくてはならなくなった小巻は、今までのツケが回ってきた、と呟く。その言葉が己の身に突き刺さりすぎてかなり凹んだ。うん、わかってる・・・わかってるんすよ・・・。でもそういう風にしか生きられない奴もいるのよ・・・。というのもただの甘えか。
 小巻は決してけなげな女性というわけではない。それこそ「自立」している人から見たら、フワフワしている甘ちゃんだろう。でもこのフワフワ感が、今の30代のリアリティなんじゃないかと思った(いや別に自分がそうだからという言い訳ではなくてですね・・・)。働いているにしても、すべての人が、積極的に将来設計してキャリア積んでいるわけではなく、なんとなく働き続けている人も結構多いだろう。
 小巻は現実が見えていなかったり、勇み足になってしまったりする。そんな彼女を、ととやの主人はじめ、もっと大人な人たちが諫め、彼女が育っていくというところが現代的だと思う。今の30代って、ちょっと前の30代から見ると子供に見えるんだろうなぁ。
 大人らしくないというところで言えば、小巻の夫(岡田義徳)もそうだ。裕福な家の息子で作家を目指しており、生活は親がかり。小巻は義父母との同居や一向に働く様子が見えない夫に愛想を尽かして家出するのだ。夫としては頼りないが、娘ののんちゃんに対する愛情は本物で、良い父親ではある。ただ、自分が子供だから子供と一緒に楽しめるのであって、娘が成長したらこのタイプは軽蔑されるんじゃないかと思わせる。このキャラクター造形はうまい。演じる岡田もはまっていた。この人いい役者だったんだなー。冒頭、自転車で爆走するところも情けなさ混じりですごくよかった。







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