3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

2009年07月

『扉をたたく人』

 大学教授のウォルター(リチャード・ジェンキンス)は妻が死んで以来、執筆にも講義にも身が入らず、無気力な日々を送っていた。ある日、嫌々ながら出張でニューヨークを訪れたウォルターは、長らく立ち寄っていなかった自分のアパートで、見知らぬカップルと鉢合わせする。そのカップル、シリアから来たタレク(ハーズ・スレイマン)とセネガル出身のゼイナブ(ダナイ・グリラ)は知り合いに騙されてアパートに入居していたのだ。ウォルターは成り行きで彼らとしばらく同居することになる。監督はトム・マッカーシー。
 物語の中で、タレクが演奏するジャンベ(アフリカの太鼓)が大きなファクターとなる。もちろん音楽映画としても非常に良い。ウォルターは実は音楽好きでピアノも習っていたが、演奏の才能はいまいち。しかしタレクが演奏するジャンベに心惹かれ、彼からジャンベの演奏を教わるようになる。そのことでタレクとゼイナブにより関わっていくことになる。妻が死んで以来、あまり人と関わらなかったであろうウォルターが、どんどんアグレッシブになっていくのが面白い。これ、楽器がジャンベじゃなかったらこんなにアグレッシブにはならなかったんじゃないだろうか。公園で合奏に加わるウォルターの姿は本当に楽しそうだ。音楽そのものの楽しさに加え、誰かと一緒に何かする、という楽しさを知ったのではないかと思う。気難しそうだったウォルターが、どんどん心を開いていくのが印象的だった。見知らぬ人が訪問してきた(というか勝手にされたのだが)ことで人生が大きく動く、という意味では邦題はマッチしていると思う。
 人生諦めていた年配男が、もう一度生き直すというストーリーと平行して、9.11以降のアメリカの、移民を取り巻く状況が描かれる。恥ずかしながら、管理局がこんなに厳しい(取り締まりはともかく、施設に収監されると家族とは面接できないし移送先も教えてもらえなかったりする)とは知らなかった。タレクのように、長年住んでいても(彼は少年時代からアメリカ在住)送還されてしまうケースもあるのね。収監施設のロビーに「移民はアメリカの礎」みたいなポスターが貼られているのが、あまりに皮肉で笑ってしまう。もちろんアメリカは多民族国家であり移民に対してオープンだったからこそ成立した国家であり、それがアイデンティティーになっているのだろうが、それとは相反するような行為がその国の中で行われている。そしてウォルターが直面するように、この問題に対して個人は無力だ。
 ほろ苦く諦念を含んだラストは、前述した「人生諦めていた年配男が、もう一度生き直す」ストーリーとしてはカタルシスに欠けるものかもしれない。しかし監督は、もうひとつの軸である「9.11以降のアメリカの移民を取り巻く状況」の方により忠実であろうとしたのだろう。絵に描いたようなハッピーエンドにしてしまうと、自分が見てきた問題を裏切ることになるという思いがあったのではないだろうか。ただ、ハッピーエンドとは言い難いが、さわやかな終わり方ではあると思う。あくまで個人レベルではあるものの、ウォルターの中では一つの壁が破られた感じがするのだ。
 なお、ウォルターとタレクの母親(『シリアの花嫁』で好演していたヒアム・アッバス。知的で美しい)の関係の顛末には、やはりそこに落ち着かせないと、男としては「生き直した」気がしないのかしらねと苦笑してしまった。






『問題があります』

佐野洋子著
子供のころの話から、老人となってからの日々まで、絵本作家である著者によるエッセイ集。他のエッセイ集とネタがかぶっているものも結構あるんだが、まったく気にしていなさそうなところがおおらか(笑)でいい(しかも話術がこなれてグレードアップしているものも・・・)。著者の作品としては珍しく、映画評や書評も収録されているのだが、「いやいやえん」に寄せた文章がすごく的を得ている。あれはやっぱりすごい作品ですよね・・・。また、両親に触れたエッセイも相変わらず印象に残る。仲が良かったというわけでも、いわゆる愛情に満ちた両親というわけでもないのだが、(だからこそか)いくら書いても書ききったという感じがしないんじゃないかと思う。



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『エロマンガ島の三人 長嶋有異色作品集』

長嶋有著
大江賞受賞の後に出た作品集がよりによってコレ・・・。度胸あるなぁ。表題作はエロマンガ島でエロマンガを読むという(なんと実話を元にした)アホな話ではあるのだが、全く関係ない2人の人がそれぞれあることを踏みとどまる。非日常的なことを書いても日常に着地するところが著者の作品の面白さだと思うのだが、SF(といったらSFファンが怒りそうだが)や官能小説(のはずなのに全く官能がない)というフォーマットでも同じだった。どんなに奇天烈なことが起こっても、そこに人間がいる限りそれは日常に回収されるのかもしれない。表題作と対になる書き下ろし「青色LED」がとてもよかった。あの裏にそんな事情が!正に「日常」に戻ってきた男の話だが、希望がある。なお、ゲームタイトルはまんま桃鉄の名前で出てくるのに、会社名はH社なところに著者のこだわりが。







『MW ムウ』

 16年前、ある島で島民が大量に殺される事件が起きた。その事件から生き残った2人の少年のうち、賀来(山田孝之)は神父となり、自分と同じく親を亡くした子供たちを世話するようになった。一方、もう一人の生き残りである結城(玉木宏)は、自分たちに地獄を見せた人々への復讐を開始する。監督は岩本仁志。原作は手塚治虫の同名マンガ。
 私は原作つきの映画やドラマは原作に忠実であるべきとは考えていない。映画(ドラマ)として面白くなるなら改変でも何でもすればいいと思う。もちろん、やるなら上手くやってねとは思うが。
 本作の原作は、結城と賀来が同性愛関係にあるという、当時としてはタブーに挑んだ意欲的な作品だったそうだが(すいません原作未読で)、映画版ではタブーの部分をざっくり割愛している。原作が書かれた時代よりも保守に回ってどうするんだよ!と突っ込みたくなるが、どうも出資者側の意向らしい(出演者には了解もらっていたみたい)。
 原作どおりでないと映画が面白くなくなるというわけではもちろんない。しかし、本作の場合は結城と賀来のがんじがらめの絆が非常に大きなファクターとなっている(はず)なので、そこを抜いて代替物も入れないままだと、2人、特に賀来の行動が間抜けに見えてしまう。賀来は子供の頃結城に助けられたという設定で、それは結城に対する恩義にはなるのだが、そのために神父である賀来が信仰を曲げても犯罪の片棒をかつぐ、更に結城との縁をだらだら切れずにいるというのは不自然だろう。そのへんはもうちょっと工夫のやりようがあったんじゃないかなと思った。せっかく手堅い若手である山田を起用しているのに、賀来の葛藤が見えずに勿体無い。
 ただ、同性愛設定を生かしておけばこの映画が面白くなったかというと、そうでもないだろう(多少話の筋が通る程度だと思う)。本作、そもそも当初目指したと思われるサスペンスとして成り立っていない。結城の計画は「なぜそこでわざわざそんなリスクを?!」というもので、賢い男には見えない。また、見せ場であろうアクションにも魅力がない。冒頭のカーチェイスは製作サイドはやりたかったんだろうが、カーチェイスしたから結城を逃がしちゃったんじゃないの?(即刻人員召集して各駅で張らせた方が確実にキャッチできる)と突っ込みたくなる。爆発するまでのやたらと時間がかかる手榴弾や、狙撃されても落下が確認できない軍用機には吹いた。木端微塵にもほどがある。
 キャスティングには特に不満はないが(期待していないとも言う)、玉木に映画主演はまだ荷が重いのではないかと思う。見た後、「玉木ちょう細い!」くらいしか印象が残らなかった。彼はTVドラマでは結構いい味出しているだけに、なんだか惜しい。






『愛を読む人』

 大ベストセラー小説『朗読者』(ベルンハルト・シュリンク)を『めぐりあう時間たち』のスティーヴン・ダルトリーが映画化した作品。1958年のドイツ。15歳のマイケルは気分が悪くなったところを、電車の車掌ハンナ(ケイト・ウィンスレット)に助けられる。後日、ハンナの自宅へ礼を言いにいったことがきっかけで、マイケルはハンナとの情事にのめりこんでいく。しかし彼女は突然姿を消した。そして1966年。法学部の学生となったマイケルは、傍聴した裁判の被告がハンナであると気付く。
 原作小説も本作もラブストーリーとして宣伝されていたが、重点が置かれているのは裁判以降だろう。マイケルはハンナを救える立場にあったが、それを言い出せず(ハンナの意思を尊重しようとしたとも考えられるが、どちらかというと勇気がなかったからだろう)、彼女の運命は決定される。原作を読んだ時は、なぜハンナがそこまで自分の秘密を守ろうとするのかピンとこなかったのだが、それは今回も同様だった(特に日本人にはわかりにくい動機かもしれない)。妙に愚直でプライドが高く、自分をどんどん追い込んでしまうハンナがもどかしくもあった。ただ今回映画として本作を見直して、ハンナの頑なさ以上にマイケルの弱さが印象に残った。
 マイケルはハンナに贖罪するように、朗読テープを送り続ける。そのテープは確かにハンナの力となり、彼女に学ぶ意欲を与えた。しかしマイケルは、いざハンナが彼にコンタクトしてくると、及び腰になってしまう。そして彼は再びハンナと相対するのだが、今回も逃げる。そしてまたハンナが辿る運命を決定付けてしまう。贖罪してきたつもりが最後の最後で台無しになるのだ。マイケルの臆病さ・煮え切らなさは情けないのだが、自分に過大なものが課せられそうになると尻尾巻いて逃げたくなるというのはすごくよくわかる。嫌な共感の仕方になってしまった。
 さて贖罪というと、本作の中で一番贖罪を要求されているのは実はハンナだ。しかし彼女が償うという意識を持ったのかと言うと、そうでもない気がする。彼女は自分の行為を認めるが、それは自分の秘密を守る為のもので、「しかたなかった」「そういう決まりだった」と言うばかりだ。もちろん、教会のシーン等でわかるように、彼女は後悔していないわけではない。しかし少なくともマイケルが期待するような「贖罪」には至らなかっただろう。彼女が関わったことは個人にとっては大きすぎることで、彼女はそれを捉えること、ストーリー化することができなかった(これは彼女がもつ秘密とも深く関わることでもあるが)のではないだろうか。
 彼女は自分に欠けた物語を補完する為に、マイケルに小説の朗読を要求していたようにも思える。そして、ハンナとマイケルが何かを共有していたのは、朗読の時間の間だけだったのではないかとも。1度目はマイケルの気持ちばかりがハンナに向いており、2度目はハンナの言葉がマイケルの重荷になっていた。本作をラブストーリーと言うのに抵抗があるのは、2人の気持ちが向き合っていない、むしろコミュニケーションの食い違い、限界の方が目につくからかもしれない。






『劔岳 点の記』

 明治40年、陸軍の地区地測量部は日本地図の完成を目指し、測量困難で空白地点となっていた劔岳の登頂を計画。この計画成功を命じられた測量手の柴崎芳太郎(浅野忠信)は、地元の山の案内人・宇治長次郎(香川照之)らと共に登頂口を探る。一方、民間団体である日本山岳会も劔岳初登頂を狙っていた。
 原作は新田次郎の同名小説。監督は『八甲田山』『火宅の人』などの撮影を手がけたベテランカメラマンの木村大作。名カメラマンが渾身の力をこめた作品なだけあって、撮影がとにかく素晴らしい。山好きならずとも息を呑む美しさ。物語内の季節は夏~初冬だと思うのだが、各季節の中で最も美しい山の姿を捉えているのではないかと思う。紅葉の山肌も雪に覆われた山頂も美しいし、海の向こうに山並みが見えるなどといった詩情あふれる映像満載で、ビジュアル面の満足度は非常に高い(私が山好きだからというのもあるが)。四季を追うとはいえ、1年でここまで好条件に恵まれた撮影が出来る可能性は限りなく低く、当然数年がかりでの撮影。執念あってこその映像美だ。
 また執念というと、雨や雪などの自然現象も全て実際のもの。吹雪のシーンでは当然吹雪待ちしている。寒い中で待機し当然寒い中で撮影しているので、俳優の寒い!辛い!という演技(というか演技じゃない)が真に迫っており、異様な雰囲気になっている。ああ香川が!香川が死ぬ!とストーリーにハラハラするのとは別の方向でハラハラする。そりゃあエンドロールでキャスト・スタッフ一まとめにして「仲間たち」と表記しちゃうような連帯感も沸くわなと思う。
 ドラマの作り方はぎこちなく、あまり上手くないように思う。なんでここで切るの?/切らないの?という部分が多かった。また、なぜここでスローモーション?なぜここでオーバーラップ?というような、演出に疑問を感じた部分も。歯切れが悪いというか、少々くどい。もっとすぱすぱつないじゃっていいのに・・・。ドラマ部分のつたなさを俳優がフォローするような感じだった。香川の安定感は鉄板だが、予想外によかったのが浅野。本作、かなり濃い目のキャスティングなので、常にフラットな演技の浅野が中心にいることでほっとできる。浅野の演技は棒だの下手だのと言われがちだが、この人上手いよなと思った。あえてフラットに徹することが出来るところが面白い。キャストは概ねいいのだが、宮崎あおいはミスマッチだったと思う。浅野の妻役だが、妻というより娘みたい。また、浅野のライバルである日本山岳会のリーダーを仲村トオルが演じているが、この人は演技はともかく、明治、大正あたりの服装が妙にサマになっている。






『ウルトラミラクルラブストーリー』

 青森で農業をやっている陽人(松山ケンイチ)は、天真爛漫で落ち着きがなく、祖母もかかりつけの医者(原田芳雄)も手を焼いていた。ある日陽人は、東京から引っ越してきた保育士の町子(麻生久美子)に一目ぼれする。猛烈なアタックを開始する陽人だが、町子は戸惑うばかり。陽人は町子と結婚したい一心で奇天烈な行動に出る。
 監督は『ジャーマン+雨』で際立った個性を見せた横浜聡子。今回は松山ケンイチと麻生久美子という非常にキャッチーなキャストに恵まれた、メジャー1作目となる。しかし作風に何ら変化がないところがすごい。キャストとタイトルから想像される内容とは全くかけ離れているので、うっかり見ちゃって戸惑う人も多いだろう。良くも悪くも突き抜けている。生者と死者との境界があっさり越境され、同じ地平にいる。題名にそぐわぬ不穏さで、有る意味ホラーなのだがあっけらかんとしている。
 前作『ジャーマン~』を見たときも思ったのだが、横浜は登場人物の内面の鬱屈やら葛藤やらにほとんど重きを置かない。本作の中でカミサマがいうように、自分が何を考えているのかも他人が何を考えているのかも結局はわからない、わからないことには言及しないという姿勢なのかもしれない。おそらく心情的な共感や感情移入はしにくい類の作品(感情移入できそうな登場人物が一人もいない)作風だろう。前作はもろにトラウマなんぼのもんじゃーい!という話だったし、今回もそうだ。鬱屈や葛藤がないのではなく、それらは全て身体に還元される、そして個人の鬱屈も葛藤もさほど重要ではない(それによって世界がどうこうなることはない)という世界観が根底にあって、ブレていないように思う。映画にしろ小説にしろ、若い作家の作品だと時々「傷ついたもの勝ち」みたいなところが見えて、嫌だなと思うことがあったのだが、横浜の映画にはそういったトラウマ自慢的なものが希薄だ。自意識が希薄というわけでもないと思うのだが、珍しいタイプではないだろうか。今回は特に、松山ケンイチという強いフィジカル面が強靭な俳優を得たことで、それが強調されていると思う。
 松山ケンイチは、どの出演作でも身体コントロールが上手いと見るたび感心するのだが、今回は特に、役柄がちょっと突き抜けた人ということもあって、のびのびとしている。方言のセリフもキュートだった。対する麻生久美子は、見るたびこの人何なんだろうなー上手いのか下手なのか微妙だし美人なのかそうでもないのか微妙だなーと思うのだが、今回も同様。ただ、無自覚に他人の人生を狂わせる女という立ち居地は、妙にはまっている。なまじ正統派美人ではないのがいいのだろうか。それとも微妙に薄幸そうなところがいいのだろうか。






『ヱヴァンゲリヲン新劇場版・破』

 しまった・・・ゲンドウがマダオにしか見えない・・・!銀魂め・・・!
 普遍性のない前フリはさておき(しかしあながち的外れではない気がする)、ようやく2作目公開となったヱヴァンゲリヲン新劇場版。TVシリーズをリテイクした1作目とは異なり、今回は全て書き下ろし(というのだろうかアニメでも)。全くの新作アニメーションとなっている。おそろしく密度が高く、眩暈がしそう。
 そして物語も、TVシリーズの流れからはどんどん逸脱していく。今回、カオルの言葉から本作の世界がTVシリーズと時系列的に続いている(何周目になるんだろうか・・・)ということがわかるが、ストーリー自体は「繰り返し」が根底にあるものの、キャラクターの性格は少しずつ変化している。内面がアクションに反映されやすくなり(そういう意味では余計な内面を見せない新キャラクター・マリは象徴的ではある)、シンジ君といえばうじうじ、というイメージとはちょっと違ってきた(映画の尺的にキャラクターがさっさと動いてくれないと話が進まないというのもあると思うが)。より王道の少年漫画主人公的になってきているので、おお庵野がみずから否定していたものを今度は肯定!と非常に感慨深いものがあった。ようやく他者に手を伸ばせるようになったのか・・・。
 私はTVシリーズ放送時に面白いとは思ったがそれほど好きな作品というわけではない。個人の内面一方向へ沈んでいくと、そのキャラクターの心性にぴたりと共感できる視聴者は強く揺さぶられるのだろうが、それ以外の視聴者にとっては「そんなこと言われましても」としか言いようがない。TVシリーズの恐ろしさは、TV版シンジの心性に共感した視聴者があれだけいて、一大ムーブメントになった、時代の空気をピンポイントでつかんでいたというところにあると思う。
 そして今作が時代の空気をつかんでいるかと言うと、正直よくわからない。ただ、TVシリーズよりももうちょっと普遍的な作品になっているのではないかと思う。10年たって監督もスタッフも声優、そしてファンが変化してきたというのもあるが、なにより、ファン以外の観客が圧倒的に増えたというのが大きいのではないだろうか。TVシリーズの頃はもろにアニメオタク(とは言わないまでも、アニメや特撮、SFに対する素養がある人)へ向けた作品という側面が強かったと思うのだが、大ブームを経て裾野が圧倒的に広がった。普通に邦画やアクション映画を見るような感覚でとらえられる作品になったのだと思う。新しくエヴァを作ろうとするのなら、そういったライト層を意識しないわけにはいかないだろう。逆にコアなファンにとっては、「私のエヴァ」ではなくなってしまうという思いが生じるかもしれない。
 あと今回本当に変わったなぁと思ったのは、シンジをはじめとするチルドレンに対する監督の距離感だ。以前よりも、自分の抱えているものの投影度が低くなったんじゃないかと思う(だから共感度が低い人でも見やすいんじゃないかと)。キャラクターに対する目線が「子供」に対する目線になってきた、「それでも子供たちは明日を迎えないと」という気持ちが出てきたような気がした。ミサトや加冶がTVシリーズよりも積極的に「保護者」をやろうとしているのも、そのへんの表れではないだろうか。






『さがしもの』

角田光代著
文庫化の時に本の題名変えるのはやめてくれないか・・・。ハードカバー時の題名は『この本が、世界に存在することに』。旧題名の方が内容を率直に示している。本にまつわる短編小説集。登場する本は、題名こそ伏せられているが実在の本も多いみたい。知識が乏しくてちょっとしかわからないのが残念。本は所詮本と言ってしまえばそれまでなのだが、読む人によっては人生の支えになりうる。読書好きなら共感するところが多いのではないかと思う。「ミツザワ書店」みたいな書店と巡り合えるのって幸せだよな・・・。著者の作品としては正直ちょっと粗いと思うのだが、本や本屋が出てくると点が甘くなってしまう。





『1Q84(BOOK1<4月-6月>、BOOK2<7月-9月>)』

村上春樹著
これから面白くなりそう!と思っているうちに終わっちゃった・・・あれー?私は決して村上作品の良い読者ではないと思うが、『海辺のカフカ』以降、なんだかよくできた書き割りみたいな印象を受けており、個人的には魅力に乏しい。さて今作、今までよりもセックスと暴力が占める割合が大きくなっていると思う。2つが対立するのではなく、セックスの延長線上の暴力、暴力の補完としてのセックスというか、切り離せないセットとして位置づけられているように思った。暴力がもうひとつの世界とアクセスする為のトリガーになっているようで不穏だ。また、見ようによってはオウム真理教を思わせる宗教団体が出てくるが、具体的な新興宗教の批判というより、抽象的な一方向へ向く「力」に対する批判なのだろう。この団体のある人物が「人々が必要としているのは、自分の存在を少しでも意味深く感じさせてくれるような、美しく心地よいお話なんだ。だからこそ宗教が成立する。」と言うのだが、だとするとこの宗教団体が発する力に対抗するものとして、ある小説が位置づけられるというのは自然だ。しかし同時に、宗教と小説の類似ということでもあり、立ち位置逆転しうる危うさも感じた。もちろん著者は意図的にそうしているのだろうが。






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