なぜかブーム再燃した小林多喜二の小説を、SABU監督が映画化。カムチャッカ沖に出た蟹工船・博光丸の中では、出稼ぎ労働者たちが過酷な労働を強いられていた。安い賃金に劣悪な環境の中、労働者たちは不満を募らせるが、監督・浅川(西島秀俊)の暴力の前に、気力をなくしていた。労働者の1人・新庄(松田龍平)は全員で自殺して来世で金持ちになろうと呼びかけるが、死ぬことすら失敗する。心情は船を逃げ出しロシアの漁船に助けられるが。
原作小説のブームはともかく、原作ブームがひと段落した後の映画ときては、なぜ今?という感じが否めない。タイミングがちょっとずれちゃったなぁ。また原作を読んだときも思ったのだが、確かに現在、ワーキングプア状態にある労働者が置かれた状況と重なる部分はあるが、如何せん時代背景が全然違うので、多分見ていてピンとこないのではないかと思う。元々共感を度外視したタイプの作品ならいいのだが、これそうじゃないんだろうなぁ・・・。そのあたりの齟齬は、監督もわかっているのだとは思う。だからコメディタッチにしてみたりもしたのだろう、全然笑えなかったが。シリアスにも徹せずパロディにも徹せずで中途半端。脚本のまずさが目立って気になった。いっそ近未来の管理社会を舞台にしてみる等でもよかったと思う。
SABU監督は、今、蟹工船をやるということの意味がいまひとつ理解できていないんじゃないかと思った。特に違和感を感じたのが、「自分の考え方を変えれば世界を変えられる」という主張がされる部分だ。そういう素朴な考え方は既に敗北してしまったし、現代はむしろ、気持ちの持ちようだけでは自分を守るのは無理、むしろ「やりがい」を餌に食い物にされかねないと皆が気付いてしまった。新庄が仲間を煽る声はあまりにむなしく響く。今、これをやるとギャグにしかならないと思うのだが、どうも大真面目にやっているみたいなので困ってしまった。
なにより、原作を読んだ時もしみじみと思ったのだが、今は労働者同士が団結するということが上手くイメージできない、リアリティを持てないのではないかと思う。過酷な状況にあっても連帯できる蟹工船の労働者たちが、なんだか楽しそうに見えてしまうのだ。それがまたむなしい。
松田VS西島だけが楽しみだったのだが、残念ながら不発。特に西島はミスキャストだった。この人、粗野な役はできるかもしれないがどう頑張っても無教養な雰囲気にはならなさそう。基本インテリぽいし、むしろ左翼学生崩れぽい。他の出演者では高良健吾が目をひいた(単に私が好きなタイプの顔だというだけなんですが・・・)。そういえば彼は「ハゲタカ」でもこんな役だったような・・・。
原作小説のブームはともかく、原作ブームがひと段落した後の映画ときては、なぜ今?という感じが否めない。タイミングがちょっとずれちゃったなぁ。また原作を読んだときも思ったのだが、確かに現在、ワーキングプア状態にある労働者が置かれた状況と重なる部分はあるが、如何せん時代背景が全然違うので、多分見ていてピンとこないのではないかと思う。元々共感を度外視したタイプの作品ならいいのだが、これそうじゃないんだろうなぁ・・・。そのあたりの齟齬は、監督もわかっているのだとは思う。だからコメディタッチにしてみたりもしたのだろう、全然笑えなかったが。シリアスにも徹せずパロディにも徹せずで中途半端。脚本のまずさが目立って気になった。いっそ近未来の管理社会を舞台にしてみる等でもよかったと思う。
SABU監督は、今、蟹工船をやるということの意味がいまひとつ理解できていないんじゃないかと思った。特に違和感を感じたのが、「自分の考え方を変えれば世界を変えられる」という主張がされる部分だ。そういう素朴な考え方は既に敗北してしまったし、現代はむしろ、気持ちの持ちようだけでは自分を守るのは無理、むしろ「やりがい」を餌に食い物にされかねないと皆が気付いてしまった。新庄が仲間を煽る声はあまりにむなしく響く。今、これをやるとギャグにしかならないと思うのだが、どうも大真面目にやっているみたいなので困ってしまった。
なにより、原作を読んだ時もしみじみと思ったのだが、今は労働者同士が団結するということが上手くイメージできない、リアリティを持てないのではないかと思う。過酷な状況にあっても連帯できる蟹工船の労働者たちが、なんだか楽しそうに見えてしまうのだ。それがまたむなしい。
松田VS西島だけが楽しみだったのだが、残念ながら不発。特に西島はミスキャストだった。この人、粗野な役はできるかもしれないがどう頑張っても無教養な雰囲気にはならなさそう。基本インテリぽいし、むしろ左翼学生崩れぽい。他の出演者では高良健吾が目をひいた(単に私が好きなタイプの顔だというだけなんですが・・・)。そういえば彼は「ハゲタカ」でもこんな役だったような・・・。