3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

2009年07月

『蟹工船』

 なぜかブーム再燃した小林多喜二の小説を、SABU監督が映画化。カムチャッカ沖に出た蟹工船・博光丸の中では、出稼ぎ労働者たちが過酷な労働を強いられていた。安い賃金に劣悪な環境の中、労働者たちは不満を募らせるが、監督・浅川(西島秀俊)の暴力の前に、気力をなくしていた。労働者の1人・新庄(松田龍平)は全員で自殺して来世で金持ちになろうと呼びかけるが、死ぬことすら失敗する。心情は船を逃げ出しロシアの漁船に助けられるが。
 原作小説のブームはともかく、原作ブームがひと段落した後の映画ときては、なぜ今?という感じが否めない。タイミングがちょっとずれちゃったなぁ。また原作を読んだときも思ったのだが、確かに現在、ワーキングプア状態にある労働者が置かれた状況と重なる部分はあるが、如何せん時代背景が全然違うので、多分見ていてピンとこないのではないかと思う。元々共感を度外視したタイプの作品ならいいのだが、これそうじゃないんだろうなぁ・・・。そのあたりの齟齬は、監督もわかっているのだとは思う。だからコメディタッチにしてみたりもしたのだろう、全然笑えなかったが。シリアスにも徹せずパロディにも徹せずで中途半端。脚本のまずさが目立って気になった。いっそ近未来の管理社会を舞台にしてみる等でもよかったと思う。
 SABU監督は、今、蟹工船をやるということの意味がいまひとつ理解できていないんじゃないかと思った。特に違和感を感じたのが、「自分の考え方を変えれば世界を変えられる」という主張がされる部分だ。そういう素朴な考え方は既に敗北してしまったし、現代はむしろ、気持ちの持ちようだけでは自分を守るのは無理、むしろ「やりがい」を餌に食い物にされかねないと皆が気付いてしまった。新庄が仲間を煽る声はあまりにむなしく響く。今、これをやるとギャグにしかならないと思うのだが、どうも大真面目にやっているみたいなので困ってしまった。
 なにより、原作を読んだ時もしみじみと思ったのだが、今は労働者同士が団結するということが上手くイメージできない、リアリティを持てないのではないかと思う。過酷な状況にあっても連帯できる蟹工船の労働者たちが、なんだか楽しそうに見えてしまうのだ。それがまたむなしい。
 松田VS西島だけが楽しみだったのだが、残念ながら不発。特に西島はミスキャストだった。この人、粗野な役はできるかもしれないがどう頑張っても無教養な雰囲気にはならなさそう。基本インテリぽいし、むしろ左翼学生崩れぽい。他の出演者では高良健吾が目をひいた(単に私が好きなタイプの顔だというだけなんですが・・・)。そういえば彼は「ハゲタカ」でもこんな役だったような・・・。






『私は猫ストーカー』

  イラストレーター浅生ハルミンの同タイトルのエッセイを映画化した作品。監督はNHKの「さわやか3組」「中学生日記」などの脚本を手がけ、俳優としても出演作が多い鈴木卓爾。イラストレーターのハル(星野真里)は、イラストだけでは生活できず古本屋でアルバイトをしている。彼女の趣味は野良猫観察、自称「猫ストーカー」をすること。バイト先の古本屋にも看板猫チビトムがいる。ある日、チビトムが姿を消し、古本屋の奥さんも家を出て行ってしまう。
 町と猫がすごくよく撮れている。猫は全員(チビトム以外)、実際にロケ地に住んでいる猫たち。全員実にいい面構えで、よくまあこれだけいい表情を大量に撮ったものだと感心した。猫の存在感、リアリティがしっかりとある。猫好きは必見だろう(ちなみに私は猫は好きだがものすごく好きというわけではない)。
 一方、人間たちの描かれ方は、どこかファンタジックだ。猫を追って住宅地をさまようハルの姿や、ちょっと下世話なアルバイト仲間の女性、無口な古本屋店主とおしゃべりな奥さんなどはどことなく浮世離れしているし、猫仙人や猫マニアの坊主はマンガのキャラクターのようだ。リアリティはあくまで猫と町にある。
 人間模様の生臭い部分もあるにはある。ハルと実家に帰った元彼との関係や、夫の過去の恋人に嫉妬する古本屋の奥さんの姿など。元彼との関係は終わったとわかっているのだが、どこで区切りをつけていいかわからないもやもや感。
 ただ、その生臭さについても、ぱっと断ち切られてしまって後を引かない。あっさりとしている。このあっさりさを端的に表しているのが、ハルの、自分に好意を寄せている男の子への態度だ。これは王道少女マンガ的な展開になるか!?と思ったら相手の気持ちをあっさりスルー。王道を拒む女子の矜持と見えなくもないが、人間たちのパートは熱量を上げず、薄味ですませたかったのかなとも思う。「人間ドラマ」になることを回避したがっているように思えるのだ。ドラマも猫のものなのか・・・。
 浅生ハルミンの絵を使った、エンドロールのアニメーションがすごくかわいい。テーマ曲も、妙に耳に残る。






『風が強く吹いている』

三浦しをん著
滅多に青春小説は読まない私だが、これはよかった。さわやかな小説読んだのっていつ以来だろう・・・。というよりも、ようやく青春小説を平気で読めるようになった自分が感慨深い(今までは青春小説読むとトラウマがよみがえって・・・)。長距離走者としてのすぐれた才能がありながら、走る場を奪われていた大学生・走が、先輩学生・灰二を始めとする仲間たちと箱根駅伝を目指す。何がすごいって、私スポーツをやるのは大嫌いなんですが、これ読んでいて「走るのっていいかも・・・」とうっかり思ってしまった。実際に走っている人から見ると、これはちょっと違うわーというところはおそらく多々あると思うのだが、走る空気感とか高揚感が伝わる(ような気がする、ということだが)。「速い」ではなく「強い」走りという表現が度々出てくるのだが、走が自分の思っていることを言葉で説明できるようになることを強さの一環とみなすところが、文系にもわかるスポーツ小説、という感じ。個々のキャラクターをもっと立てようと思えば立てられたのだろうが、そうはせず切れるところはばっさり割愛しているのもよかった。でも基本的に男子書くの好きなんだろうなーというのはよく伝わってくる(笑)。






『ディア・ドクター』

 小さな村の医者・伊野(笑福亭鶴瓶)が失踪した。無医村だったこの村に駐在し、村人や研修医の相馬(瑛太)、看護師の朱美(余貴美子)からも深い信頼を寄せられていた彼は、なぜ姿を消したのか。実は本作、予告編でほぼネタバレしている。しかしそれによって実際に映画を見た際の面白さが減るかといえば、全くそんなことはない。『ゆれる』の西川美和監督の新作となる。
 『ゆれる』を見たときも思ったのだが、見る側に強い緊張を強いてくる。前作では兄弟の間の抜き差しならない関係が中心にあったから自然とそうなったのかと思っていたが、元々の作風なのかもしれない。人間関係や個人の心の臨界点きわきわの部分を捉えるのがすごく上手いのだと思う。誰もがちょっとずつ嘘をつき、何かを演じている、それが露呈しそうになる瞬間の危うさが、本作では延々と続くので息が詰まりそうになる。また、絵的に隙が少なく、構成もともすると説明的であるくらいきっちり目(時間軸が頻繁に入れ替わるのにかっちりした印象)なのも、密度の高さにつながっていると思う。
 ある嘘を抱える伊野、娘に秘密を持つかづ子(八千草薫)など主要な登場人物はもちろんなのだが、脇役の人の心の動きのちょっとした部分、しかも人に見せないようにしている部分をえぐってくる(しかもわずかな時間で)。ご臨終かと思われたおじいさん復活のエピソードで、その家の息子たち、特に介護していると思しきお嫁さんの心情描写(手の動きだけで心情がわかる)は率直すぎて唸った。真相が明らかになった時の手のひらの返しようもまた、あまりに正直というか実も蓋もない。また、かづ子の三女(井川遥)の、仕事では成功していると言っていいのに、実家に帰ってくるとかもし出される煮詰まった感じ(美人でキャリアもあるけど独身、というのはこういう田舎だと却って肩身狭いと思う。姉2人は結婚して子供もいるだけに)とか、いちいち生々しい。対して、外部からの「目」である相馬や刑事たちの描き方は通り一遍なものなので、引き算できる部分は極端に引き算できる監督なのだと思う。
 過疎地の医療問題に触れる作品ではあるが、そこは本題ではないだろうし、また決して「過疎の村で医者も足りないけど人々は素朴で~」という話に落とさないのが監督の誠実さなのだと思う。焦点があてられるのは、あくまで人の心の底知れなさだ。コミュニティが小さければ小さいほど、なまじお互いをよく見知っているだけに、人の得体の知れなさが際立ってくるのかもしれない。ただ、人の心など何も分からない、とするわけではないところにほのかな温かみがあったと思う。
 鶴瓶はある種の得体の知れなさがある人だと思うので、本作に起用したのは正解だろう。演技が上手いというのとはちょっと違うような気もしたが、魅力がある。キャスティングはとてもよかった。なお、ちょい役で中村勘三郎が出ているが、ちょろっと出てその場の空気全部を持っていくあたりは流石というか最早卑怯。






『笑う警官』

佐々木譲著
札幌市内のアパートで、女性巡査が殺害された。容疑者にされた津久井巡査と仕事で組んだことがある佐伯警部補は、彼が犯人とは思えず、津久井の潔白を証明しようと独自の捜査を開始する。もともとの題名は「うたう警官」だったがなぜか改題された。内容的には旧題の方が合っているのだが(「笑う~」だと北欧の名作警察小説と同名になってしまい紛らわしいし)。「うたう」とは密告することを意味する。北海道警察の腐敗告発が背景にあるのだ。この部分に関しては実際に起きた事件がモデルになっているそうで、横山秀夫作品とならんで警察という組織のいや~な部分を堪能できる。組織の閉塞感がはんぱない。そんな中で、佐伯とその仲間の孤立奮闘が、ミッションインポッシブルのようなワクワク感もあり、娯楽小説として成り立たせている。






『向日葵の咲かない夏』

道尾秀介著
終業式の日に、欠席したSの家を訪ねたミチオは、Sが首を吊って死んでいるのを発見する。しかし、教師や警察が来た時にはSの死体は消えていた。そしてSは思いもよらない姿でミチオの前に姿を現す。ミチオはSと協力して彼の死体と犯人を探そうとするが。本格ミステリ+ホラーのような雰囲気はそう珍しくもないが、何より子供の視点の世界を描くということがミステリ上も大きなファクターとなっているところが面白い。この部分はあの手なのね、と思わせておいて(その思いは裏切らずに)さらにそうくるか!巧い。ただ、このオチだと本格ミステリとしての根底は揺らいでしまうように思うが。そしてそのオチは同時に痛ましくもある。彼は延々と「物語」を続けなければならないのか。






『美代子、阿佐ヶ谷気分』

 70年代に雑誌『ガロ』への連載で有名になった漫画家・安部慎一の私小説的作品群を原作とした映画。福岡から上京してきた安部慎一(水橋研二)は、恋人・美代子(町田マリー)と阿佐ヶ谷アパートで同棲していた。安部は美代子をモデルに漫画を書き続け、雑誌にも掲載される。しかし安部は徐々に精神のバランスを崩していく。監督は坪田義史。
 冒頭、美代子のモノローグが続くアパート内の映像に、なんだか学生の自主制作映画みたいでモノローグが気恥ずかしいわと思ったのだが、これは慎一が書いた漫画の中のシーンだった。だからモノローグが続いたわけね・・・。安部は美代子をモデルにして写真を撮り、それを絵に起こすという制作方法をとっていたそうだ。なので、冒頭の美代子は慎一の漫画の中の美代子。しかし漫画の中の美代子もモデルとなった美代子も同じ女優が演じている(慎一にしても、彼の友人にしてもそうだが)ので、どこが漫画内でどこが現実という設定なのか、徐々にあいまいになってくる。意図的にあいまいにしているところはあまりないのだが、考えようによっては全部漫画内てことでもいいよな、と思えるのだ。そもそも、安部の「実体験しか書かない」という手法は、現実はそうそうドラマティックではない以上、行き詰まりやすいことが目に見えている。安部もそこで葛藤し、(創作上の葛藤だけではなかっただろうが)徐々に美代子と友人を無理やりセックスさせる等の妙な方向へ進んでいく。が、それに耐えられるほどタフではなく、精神を病み故郷へ戻る。
 戻ってからの生活は、美代子がどんどん「生活」に順応していき、安部がおいてけぼりにされていたように見えた。福岡に戻ってから一気に緊張感がなくなるのだが、これは安部と美代子の距離感のせいかもしれないとも思った。
全体的に、昔の学生の自主映画のような雰囲気があるが、これは半分は、70年代という時代背景を踏まえた意図的なものだと思う。もう半分は実際の不慣れさだと思うが・・・。映画としてはともかく、ロケをがんばったのは良く分かる。今の阿佐ヶ谷で70年代の雰囲気を再現するのは結構大変だったと思う(阿佐ヶ谷以外の場所でロケしたのかもしれないですが)。たまにこれはどう見ても70年代じゃないよな・・・という建物が映り込んでいたりするのだが。
 最後に、現在の安部慎一ご本人の映像が流れる。これはないほうがよかったんじゃないかと思う。わざわざフィクションと念押しするのなら、原作者ご本人を出す必要はないのではないか。ストーリー自体も含め、フィクションとしての枠があいまいだったように思う(それが悪いというのではなく、無意識にそうなちゃっている気がした)。
 なお、本作の主題歌歌っているSPARTA LOCALSの安部兄弟は、安部慎一の実子だったと知ってびっくりしました。






『不灯港』

 寂れた漁港に住む猟師の万造(小出伸也)は未だ独身。お見合いパーティーに参加しても、女性に全く話しかけられず浮いてしまう。そんな彼の家に、男に逃げられた若い女・美津子(宮本裕子)と美津子が付き合っていた男の子供が転がり込んでくる。美津子に惚れてしまった万造は一緒に暮らせる幸せを噛み締めるが。監督は内藤隆嗣 。本作は第18回PFFスカラシップ作品となる。PFFはレベル高いわー。予想以上に作り慣れた感のある作品だった。客席からは結構笑いがおこっていました。
 万造の言動はハードボイルド小説そのものだ。しかし舞台は田舎の漁港で猟師の作業着という格好なので、全く様にならない。万造がこれだ!と思ってとる言動が、一般的に女性がかっこいいと思いそうなものとは相当ズレている。彼の女性への相対し方は中学生男子並み。ハードボイルドな態度も、かっこつけているというよりも、対処の仕方がわからないからハードボイルドな言動で防護しているという雰囲気だ。この不器用さというか慣れなささというかが、本当にイタおかしくて、これは中年男の恋愛映画というよりも精神的童貞映画といった方がいいかもしれないと思った。彼がようやく美津子に率直に自分の気持ちを告げるとき、ハードボイルド的な言葉では全くなく、あまりに素朴な表現をする。ようやく何かの型を使わずに、自分の意思を人に伝えられるようになるのだ。それが伝わる・受け入れられるかどうかはまた別の問題だが。
 万造が惚れる美津子も、ハードボイルド小説に出てくるファム・ファタール的な言動をする。しかしファム・ファタール的な美女かというと正直微妙だ。その微妙なルックスがリアルといえばリアルだった。「おなかすいている人をほっとけない」という発言といい、ああこの人男見る目ないだろうな、でも男にいろいろと誤解されるだろうな・・・というオーラがすごく出ていた。おにぎりつくって漁港の人たちに配るのとか、本人善意でやってるんだろうけど、男性からしてみたら何か期待しちゃうだろうし、万造は当然嫉妬するしな。
 ただ、美津子ひどい!万造かわいそすぎ!という気持ちになったかというとそうでもない。というのは、万造の気持ちは一方的で相手の了解を得ていないからだ。いくらいい人でもそれはちょっとひくわ・・・という行動をどんどんやっていく。むしろ美津子に同情しそうになった。
 イタおかしい作品だが、美津子が連れていた少年の存在がほっとできるポイントになっていた(子役が結構いい)。女性との関係よりも子供との関係の方が、万造の成長(おっさんに成長てのもなんですが)を感じられると思う。






『レスラー』

 人気レスラーだったランディ(ミッキー・ローク)は、今はドサ廻りの興行とスーパーマーケットでのバイトを繰り返す日々を送っている。ある日、心臓発作を起こして医者から引退勧告され、なじみのストリッパー・キャシディ(マリサ・トメイ)や絶縁状態だった娘・ステファニー(エヴァン・レイチェル・ウッド)との関係を見つめなおすが。ミッキー・ロークは本作でゴールデン・グローブ賞主演男優賞を受賞した。監督はダーレン・アロノフスキー。本作のようなオーソドックスな作品を作るとは意外だった。思ったよりも器用なタイプ?
 「ダメ男の再起」みたいな話と思われそうな予告編だったが、そうではなかった。むしろ自ら人生に引導わたしているよな・・・。ランディは体は無理なファイトやステロイド等の投与でボロボロ、経済的にもジリ貧でトレーラーハウス暮らし。また、彼は悪人ではないがちょっとだらしなく、肝心なところで約束を破ってしまい、娘とも関係を修復することはできない。キャシディとの関係も発展はしない。しかしどれもこれも彼がレスラーであることを選んだ結果、また単に彼がだらしなかった結果もたらされたもので、同情の余地はない。
 ただ、自分の父親がこんな人だったらいやだろうなと思うのだが、ランディを非難する気にはなれない。彼の、自分にはプロレスしかないという思いの強さにやられちゃうからかもしれない。帰るべきと信じている場所が、ある意味夢の世界(レスラーにとっても、彼らに何かを託す観客にとっても)であろうプロレスの世界というのがなんとも切ないのだ。彼にとってのリアルは家族でも恋人でもなくプロレスという虚構にあるのだが、家族や恋人には理解されないだろう。彼は「ランディ」としてではなく、「ザ・ラム」として生きることを選んだし、他に選びようがなかった。その「どうやってもそうなっちゃった」感、結局死に場所選びみたいになってしまう展開が痛切だった。共感はしないけど見ていると胃が痛くなりそう。
 当初はニコラス・ケイジが主演に推されていたそうだが、監督の熱意でミッキー・ロークが起用されたそうだ。かつては人気をはくしたが今では落ち目のレスラーをミッキー・ロークが演じるという生々しさは、確かにケイジ主演だったら出なかったかもと思う。ローク本人の来歴を知っている人はそれを重ねがちだろうし、有る意味卑怯だが正解だろう。筋肉はついているのにヨタヨタした感じが見ていていたたまれなくなるくらい。役者の肉体というと、マリサ・トメイの疲れが見え始めたボディのリアリティにもやられた。マリサ・トメイ、最近何に出ていても魅力あるんだよなー。中年になってからの方が光ってきた気がする。
 痛切な作品ではあるが、案外ユーモア、しかもベタなユーモアがあるのが意外だった。スーパーマーケットの店長が顔を出したり引っ込めたりする反復ギャグとか、ランディが惣菜売り場に出る時、リングに上がる時の入場テーマが流れる(多分彼の脳内で。自分を無理やり奮い立たせている、もしくは自虐ネタみたいで痛々しくもあるが)とか、妙におかしかった。あとポテトサラダの量に納得しないおばあちゃんとか、コントみたいだった。






 

『サンシャイン・クリーニング』

 30代のシングルマザー・ローズ(エイミー・アダムス)はハウスクリーニングで生計を立て、幼い息子オスカーと2人暮らし。不動産業の資格取得をしたいが身が入らず、不倫相手の刑事マックとの関係も煮詰まっている。ローズの妹・ノラ(エイミー・ブラント)は何をやっても長続きせず、実家で父親と同居しながらバイト生活。ある日ローズは事件現場の清掃業は儲かるという話をマックから聞き、ノラを誘って新しい仕事に乗り出す。監督は『シルヴィア』のクリスティン・ジェフズ。
 舞台は郊外のスモールタウンなのだが、田舎町のネットワーク怖い(笑)!高校卒業後のあれこれが、同級生皆に知れ渡ってしまうという恐ろしい村社会。こんな土地に生まれなくてよかった・・・。特にローズは、高校時代は学園の花形チアリーダーだった。当時の同級生に自分が落ちぶれたようには絶対見られたくないだろう。なんとか自分がんばってます!やりがい感じてます!アピールをしようとする彼女の姿は見ていていたたまれない。また、母親の死がトラウマとなりそこから前へ進めずにいるノラの不器用さも痛い。見ていて、「そ、そんなやり方じゃダメ・・・!」とイタさにもだえそうになる。
 ローズにしろノラにしろ、人生かなり煮詰まっており、勝ち負けで言ったら負け組だろう。そんな人たちが再起をかける。が、いわゆるサクセスストーリーではない。ローズもノラも、それぞれ方向性は違うが、やはりどちらかというと軽率だし立ち回りも下手だ。そんな状況になったのは自分のせいでしょ、なるべくしてなったんでしょと言われたら多分反論できないだろう。ただ、本作では、大成功しなくても、ダメはダメなりにギリギリのラインで踏ん張れればいいじゃないかという所に着地されている。やっぱり、全ての人がしっかりやっていけるわけではないし、努力が常に報われるわけでもないだろう。意外に現実的な着地点だが、今のアメリカではこのくらいの「夢」が一番リアルに手ごたえがあるんだと思う。アメリカンドリームも変わっちゃったな・・・。肝心なのは「成功」ではなく「落っこちない」というところか。物語としてのカタルシスは弱いかもしれないが、確実に勇気付けられる。
 姉妹の煮詰まり加減や結局ちょっとだらしないところは、同じくジリ貧負け組人生爆走中の身としては、実に実に身に染みた。いやわかってる、わかってるんです・・・と打ちひしがれました。そんな中、それでも生きてりゃなんとかなるさ!とでも言うべき父親・アラン・アーキンの佇まいと家族への愛が救いとなった。学校には不向きだけど妙なところで要領のいいローズの息子もよかった。






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