デリーの下町にある食堂で、下働きをしているシドゥ(アクシャイン・クマール)は、あやしい占い師ハシ導師から、お前は中国の伝説の英雄の生まれ変わりで、中国人たちがお前を英雄の故郷に招きたがっていると告げられる。大喜びでハシを伴い中国へ出向いたシドゥだが、英雄の故郷は北条なるギャングにのっとられていた。実は村人たちは英雄の生まれ変わりであるシドゥに、北条を倒して欲しいと頼んでいたということを、ハシはシドゥに伝えていたなかったのだ。
歌あり踊りありのボリウッド映画。しかしワーナー配給だからか、普通のハリウッド映画に近い雰囲気だ。そしてシドゥが中国にわたってからは香港のカンフー映画になってしまう。インド映画とカンフー映画のちゃんぽん、映画内でもシドゥが言うようにカレーラーメン的な不思議な作品だった。上映時間がかなり長く、しばしば中だるみするのだが、歌と踊りが始まると急に映画がきゅっとしまるのには、さすが年季が違うわと思った。
シドゥはぱっとしない男で、何をやるにも神頼み。映画中盤までは全く冴えない、むしろうざいキャラだ。そんな男が、神頼みでもなく、英雄の生まれ変わりとしてでもなく、下町で育った1人の男として強くなっていくというところは、案外まっとうなヒーローものっぽい。彼が「自分が得意なこと」を思い出して反撃するシーンには燃える。食堂の親方(やたらと顔にインパクトがある。しかも強い。カンフーの師匠以上に貫禄あり)との絆も、少年漫画的でよかった。シドゥを演じるアクシャイン・クマールは、なんとなく「インドのアダム・サンドラー」とでも言いたくなるような風貌。日本人の目からするとクドクドしい(笑)ルックスなのだが、スーツ姿になると時々うっかりかっこよく見える。スーツのポテンシャルなのか本人のポテンシャルなのか微妙だが。
ただ、いまひとつ見ていて気分の乗らない映画でもあった。というのは、笑いの部分の趣味が自分と合わず、全く笑えなかったのだ。小学生が喜びそうな、非常にベタなギャグ(蹴られて空飛ぶとか)なのだが、ここでわざわざやるか?というところでもきちんとやってしまう。見ていてしらけたのだが、インドではこれがウケるの?やらないと客が怒るの?不思議だ。歌と踊り(これはさすがに見ごたえあって大満足)が必ずないのとダメなのと同じ感覚なのだろうか。
インド映画というよりもカンフー映画としてみたほうがいいのかもしれない。クライマックスの荒唐無稽なアクションは、中国でアクションといえば「気」(まあ念でもオーラでも小宇宙でもなんでもいいですが)を使うだろ!という認識が万国共通だと示すもので、なんとなくほっとする。
歌あり踊りありのボリウッド映画。しかしワーナー配給だからか、普通のハリウッド映画に近い雰囲気だ。そしてシドゥが中国にわたってからは香港のカンフー映画になってしまう。インド映画とカンフー映画のちゃんぽん、映画内でもシドゥが言うようにカレーラーメン的な不思議な作品だった。上映時間がかなり長く、しばしば中だるみするのだが、歌と踊りが始まると急に映画がきゅっとしまるのには、さすが年季が違うわと思った。
シドゥはぱっとしない男で、何をやるにも神頼み。映画中盤までは全く冴えない、むしろうざいキャラだ。そんな男が、神頼みでもなく、英雄の生まれ変わりとしてでもなく、下町で育った1人の男として強くなっていくというところは、案外まっとうなヒーローものっぽい。彼が「自分が得意なこと」を思い出して反撃するシーンには燃える。食堂の親方(やたらと顔にインパクトがある。しかも強い。カンフーの師匠以上に貫禄あり)との絆も、少年漫画的でよかった。シドゥを演じるアクシャイン・クマールは、なんとなく「インドのアダム・サンドラー」とでも言いたくなるような風貌。日本人の目からするとクドクドしい(笑)ルックスなのだが、スーツ姿になると時々うっかりかっこよく見える。スーツのポテンシャルなのか本人のポテンシャルなのか微妙だが。
ただ、いまひとつ見ていて気分の乗らない映画でもあった。というのは、笑いの部分の趣味が自分と合わず、全く笑えなかったのだ。小学生が喜びそうな、非常にベタなギャグ(蹴られて空飛ぶとか)なのだが、ここでわざわざやるか?というところでもきちんとやってしまう。見ていてしらけたのだが、インドではこれがウケるの?やらないと客が怒るの?不思議だ。歌と踊り(これはさすがに見ごたえあって大満足)が必ずないのとダメなのと同じ感覚なのだろうか。
インド映画というよりもカンフー映画としてみたほうがいいのかもしれない。クライマックスの荒唐無稽なアクションは、中国でアクションといえば「気」(まあ念でもオーラでも小宇宙でもなんでもいいですが)を使うだろ!という認識が万国共通だと示すもので、なんとなくほっとする。