3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

2009年06月

『チャンドニー・チョーク・トゥ・チャイナ』

 デリーの下町にある食堂で、下働きをしているシドゥ(アクシャイン・クマール)は、あやしい占い師ハシ導師から、お前は中国の伝説の英雄の生まれ変わりで、中国人たちがお前を英雄の故郷に招きたがっていると告げられる。大喜びでハシを伴い中国へ出向いたシドゥだが、英雄の故郷は北条なるギャングにのっとられていた。実は村人たちは英雄の生まれ変わりであるシドゥに、北条を倒して欲しいと頼んでいたということを、ハシはシドゥに伝えていたなかったのだ。
 歌あり踊りありのボリウッド映画。しかしワーナー配給だからか、普通のハリウッド映画に近い雰囲気だ。そしてシドゥが中国にわたってからは香港のカンフー映画になってしまう。インド映画とカンフー映画のちゃんぽん、映画内でもシドゥが言うようにカレーラーメン的な不思議な作品だった。上映時間がかなり長く、しばしば中だるみするのだが、歌と踊りが始まると急に映画がきゅっとしまるのには、さすが年季が違うわと思った。
 シドゥはぱっとしない男で、何をやるにも神頼み。映画中盤までは全く冴えない、むしろうざいキャラだ。そんな男が、神頼みでもなく、英雄の生まれ変わりとしてでもなく、下町で育った1人の男として強くなっていくというところは、案外まっとうなヒーローものっぽい。彼が「自分が得意なこと」を思い出して反撃するシーンには燃える。食堂の親方(やたらと顔にインパクトがある。しかも強い。カンフーの師匠以上に貫禄あり)との絆も、少年漫画的でよかった。シドゥを演じるアクシャイン・クマールは、なんとなく「インドのアダム・サンドラー」とでも言いたくなるような風貌。日本人の目からするとクドクドしい(笑)ルックスなのだが、スーツ姿になると時々うっかりかっこよく見える。スーツのポテンシャルなのか本人のポテンシャルなのか微妙だが。
 ただ、いまひとつ見ていて気分の乗らない映画でもあった。というのは、笑いの部分の趣味が自分と合わず、全く笑えなかったのだ。小学生が喜びそうな、非常にベタなギャグ(蹴られて空飛ぶとか)なのだが、ここでわざわざやるか?というところでもきちんとやってしまう。見ていてしらけたのだが、インドではこれがウケるの?やらないと客が怒るの?不思議だ。歌と踊り(これはさすがに見ごたえあって大満足)が必ずないのとダメなのと同じ感覚なのだろうか。
 インド映画というよりもカンフー映画としてみたほうがいいのかもしれない。クライマックスの荒唐無稽なアクションは、中国でアクションといえば「気」(まあ念でもオーラでも小宇宙でもなんでもいいですが)を使うだろ!という認識が万国共通だと示すもので、なんとなくほっとする。






『現実入門 ほんとにみんなこんなことを?』

穂村弘著
現実スキルが圧倒的に足りないというほむら氏が、モデルルーム見学や結婚式(お客さんとして)、合コン、はとバスツアー、一日お父さんなど、普通の人なら体験しているはずのさまざまな「現実」にトライする。私も現実が苦手なほうなので、ほむらさんのあたふたぶりが他人事は思えない。と同時に、まあこれよりはマシか・・・と妙に慰められたりもする。ほむらさんありがとう。現実入門というより、現実に別の方向から入っていことで妙なおかしさが出ている。もっとも、「普通の人なら体験しているはず」といっても、案外やったことのない人の方が多そうな項目もあるんだけど。そこを「普通の人なら体験しているはず」と思わせるのは著者の話術(?)なのか。






『赤と黒 (上、下)』

スタンダール著、野崎歓訳
光文社古典新訳文庫版にて。美貌の青年ジュリヤン・ソレルは、貧しさから抜け出す為に僧職に就き、貴族であるレナール家へ家庭教師として入る。更にレナール夫人を誘惑する。いやー面白い!ジュリヤンの経験値はないくせにお前はどこの夜王ですか的なマニュアル恋愛作戦→ミイラ取りがミイラといううっかりさん、被害妄想わんわんな自意識過剰さ、そして自分の本心に気づかない天然っぷり!主人公のキャラ立ちすぎである。非常に振れ幅が大きく、当時としては破天荒なキャラクターだったのだろうが、今読むとむしろ現代的な気がする(主人公に妙な全能感と自信のなさがいりまじっているあたりとか)。舞台はナポレオン失脚後のフランスな為、当時の情勢が色濃く反映されているのでニュアンスがわかりにくいところもあるのだが(特に宗教の派閥争いはわかりにくかった)、その辺も込みで面白い。平民が貴族社会へ切り込むピカレスクロマン、とも読めるのかもしれないが、ピカレスクにしてはジュリヤンの心理が不安定で頼りなく、かっこわるい。ラストがものすごくあっさりしているところも面白かった。ジュリヤンをとりまく女性2人もキャラ立っていてよかった。特に恋に恋するお嬢様であるラ・モール嬢、ハードルの高い恋愛している私ステキ!な感じには笑いをこらえれらなかった。どんどんたくましくなっていっちゃうところも妙にリアル。対してレナール夫人は永遠の乙女という感じで、男性にとっての理想的な存在ぽい。






『腕利き泥棒の為のアムステルダムガイド』

クリス・イワーノン著、佐藤耕士訳
ぱっとしないミステリ小説家(日本ではそこそこ売れているらしい。日本にはミステリファンが多いという認識なのか)のチャーリーは、実は泥棒。そのことをかぎつけた男に、「見ざる、聞かざる、言わざる」三体の猿の彫刻を盗んで欲しいと依頼される。しかし依頼人の男が殺され、チャーリーに容疑がかけられた。真犯人を見つけようとチャーリーはやっきになるが。ミステリ小説家兼泥棒という設定が楽しいのだが、ミステリとしては・・・。チャーリーが書く小説は、「その伏線回収されてないんですけど」と編集者からしょっちゅう突っ込みを受けるものらしいのだが、本作自体がチャーリーが書いた小説みたいな按配。そもそも「三猿」出してくる必要ないと思う。泥棒としての視点とミステリ作家としての視点の両方を持つキャラクターが主人公なのに、その設定をあまり生かせていなかった気がする。もったいない。






『おと・な・り』

 カメラマンの聡(岡田准一)と花屋店員の七緒(麻生久美子)は、同じアパートの隣同士だが、お互いに面識はない。コーヒー豆をひく音、キーチェーンのじゃらじゃらした音、フランス語練習の声、ベランダの鼻歌など、もれ聞こえる生活の音がなんとなく気になり、ほっとする存在ではあるのだが。監督は『虹の女神』の熊澤尚人。
 一見ガーリーで、こりゃまた文系女子が喜びそうだなと思っていた。しかし、確かに雰囲気はガーリーではあるのだが、途中でわりとと実もふたもない内容が入ってきて、意外な方向に進んだ。オチは予想通りではあるのだが、中盤の身もふたもなさと乖離していて、妙な味わいになっている。2つの
 特に七緒サイドの物語は、彼女の生活は角度を変えるとそういうふうにも見える、ということを提示しており、(七緒と同性同年代としては)イラっと嫌な気持ちになる。しかも当事者からは反論しにくい(実際、七緒は対した反論ができない)。さらに、友人の恋人が転がり込んできた聡の部屋の賑やかさと七緒の部屋の対比(他人の出入り以前に、七緒の部屋の方が生活感があるので、作る側がちゃんと気をつけているのがわかる)を既に観客は見てしまっているので、七緒も提示されたことに対して若干自覚はあるということがわかってしまう。ここまでステレオタイプに意地の悪い指摘をする必要があるのかなとは思った。ここで提示されていることは、この映画の前提となっているファンタジーを否定するものだ。それをさらに否定してファンタジーを成立させようということなのかもしれないが、こなれきっていなくてちぐはぐな印象を受けた。
 一方、聡サイドの物語は、彼が専属カメラマンになっているモデルの友人との共依存的な関係と思っていたら実は、という普通にイタい話。もっとも、七緒のように他人から勝手にジャッジされるのではなく、自分のことに自分で気づくわけなので、イタくはあるがイヤな気持ちにはならなかった。ただ、聡の部屋に転がり込んだ友人の恋人(谷村美月が珍しく陽性で賑やかなキャラクターを演じている。押しが強くキャラクターとしては正直不愉快だった)の行動を、全て恋人の為と肯定したままなのには違和感があった。ここは聡の「嫌われるのが怖いんだろ」という指摘の方が正しい気がするが。
聡と七緒、双方のエピソードの収束のさせ方は、賛否両論だと思う。個人的にはかすかにつながる程度でもいいんじゃないかと思ったが、この終わり方も悪くない。ただ、エンドロールはさすがにくどいと思った。無粋なので普通に音を流すだけで(それこそ「風をあつめて」のオリジナルとか)よかったのでは。あと非常に気になった点なのだが、音がポイントの映画なのだが、肝心の音の入れ方があまり上手くなかったように思う。隣室から聞こえる音なのに壁をはさんだような音には聞こえなかった。隣室の音がつつぬけ、と作品内で言及されているものの、聞こえすぎだろう。音の距離感がおかしいといえばいいのか・・・。また、耳に入ってくるのがこれみよがしな音ばかりで、隣室の音以外の音の扱いが案外ぞんざいだったのが残念。






『夏時間の庭で』

 田舎の瀟洒な邸宅に暮らすエレーヌ(エディット・スコブ)の75歳の誕生日に、子供たち、孫たちが集まった。エレーヌは密かに長男フレデリック(シャルル・ベルリング)に、自分が死んだら家にある美術品はオルセー美術館に寄贈し、家は売れと告げる。しばらく後、エレーヌは他界した。家を守りたいと思うフレデリックだが、長女アドリエンヌ(ジュリエット・ビノシュ)も次男ジェレミー(ジェレミー・レニエ)も海外で働いている為、家を手放さざるを得なくなる。
 オルセー美術館の開館20周年記念として、美術館が全面的に協力している作品(なので、本作中に登場する美術品は、ルドンの複製画以外全て実際にオルセーに所蔵されている)ということばかりが宣伝されているが、美術品をこれみよがしに見せる作品ではない。美術品は背景としてさりげなく見せられており、主軸となるのは3世代にわたる一家の姿だ。
 兄弟によって、母であるエレーヌと彼女と暮らした家に対する見方も微妙に異なる。アドリエンヌやジェレミーに比べると、フレデリックが抱く母親像は理想的なもので、家への思い入れも強い。しかしアドリエンヌは母親と画家であった叔父とのロマンスを確信しているし、ジェレミーも同様、さらにジェレミーには叔父とすごした記憶は全くない。親子、兄弟間は仲が悪いわけではない、むしろ仲は良さそうだ。しかし皆で同じものを見ているわけではない。それは当然のことなのだが、家族でいるとつい忘れてしまう。そのすれちがい感みたいなものがうまくつかまれているなと思った。これはフレデリックとその子供たちとの関係も同様で、自分が知らない子供の姿がいきなり出現する。なお、ジョージ・ジェンセンのものと思しき茶器をめぐって、エレーヌが工業デザイナーであるアドリエンヌに「でもあなたはもっとモダンなものが好きよね」と言うところなど、2人の差異が出ていて(といってもアドリエンヌはジョージ・ジェンセンを好きではある。好きであることと自分の資質にあっていることとはちょっと違う)面白かった。
 エレーヌの方も、子供たちの負担になることを察し、自分の死後に美術品も家も処分しろと言うのだ(そもそも美術品に関しては、相続税が莫大になるからなのだが)。この家はもう役割を終えた、ときっぱり判断してしまうところが潔い。家族はいずれは離れていくが、同時に、特定の場所がなくなってもつながりがとぎれるわけではないから、それでいいのだ。肝心なのは、ステージが変わっても人生はそれぞれ続くということだろう。センチメンタルになりそうなところを、過剰に盛り上げもせず、かといってクールすぎもしないバランス感が好ましい。
 なお、アドリエンヌのパートナーであるアメリカ人ウェブデザイナーを演じているのは、イーストウッドの息子であるミュージシャンのカイル・イーストウッドだそうです。好男子です。






『夜想曲集 音楽と夕暮れをめぐる五つの物語』

カズオ・イシグロ著、土屋政雄訳
「でもね、人生って、誰か一人を愛することよりずっと大きいんだと思う。」―著者初の短編集。コミカルでドタバタ喜劇のような作品もあって、ちょっと意外だった。題名の通り、音楽が多少なりとも関わっている、ミニアルバム的な編成。どの短編も何かの終わり、破れた(もしくは破れることを予感させる)夢など、はかなさや苦味を感じさせる。著者は若い頃にミュージシャンを目指していたそうで、その時の体験が反映されているのかもしれない。「モールバンヒルズ」の、自分は才能があると思っている若者の描写、旅回りのミュージシャン夫婦の描写がさりげなく辛らつなのは近親憎悪まじりなのか(そんなことないと思いますが)。自分の認識と他人の認識の相違、というのは著者の作品でしばしば見られる要素だが、これが才能の有無に関する認識の相違となるとかくも残酷に・・・(笑)。いつになくユーモラスで楽しい、そして少しさびしい表題作と、表題作と対になっているとも言える「老歌手」がしみじみと人生のほろにがさを感じさせてよかった。中年、老年を描いたものの方が魅力があると思う。







『川は静かに流れ』

ジョン・ハート著 東野さやか訳
殺人の濡れ衣を着せられ故郷を捨てたアダム。苦境に陥った友人の為、数年ぶりに故郷へ帰るが、新たな事件がおきる。アメリカ探偵作家クラブ賞最優秀長篇賞受賞作品。前作『キングの死』に引き続き面白い。ぐいぐい読める。主人公がバカではないがかっとなりやすくやるべきことをやるべき時にやりそびれるところも。父親の力が強い(今回は、まあ、いい父親ですが)ところも、元恋人が献身的なところも前作同様。主人公の行動をあえて迂闊にすることで話を転がしていくという手法なので、主人公のキャラクターのバリエーションが限られてしまうのかもしれないが。気になったのが、アダムの元恋人に対する態度だ。アダムは殺人の濡れ衣を着せられた当時、元恋人に一緒に町を出てくれと頼む。彼女は悩んだ末、それを断る。アダムはその後も断られたことをうらみに思っているのだが、それは心が狭すぎないか。彼女の職業は警官なのだが、彼女にとって警官であるというのがどういうことなのかアダムは全く考慮していないように思った。自分の為にこれまでの努力を棒に振ってくれ、と言っているようなものだと思うのだが・・・。『キングの死』の時も思ったのだが、主人公が女性に対して過大なものを要求している(そして女性がそれに応じてしまう)のがひっかかる。この作者、女性キャラクターに対する共感とか思いやりとかがあまり感じられないんだよな・・・




『キングの死』

ジョン・ハート著、東野さやか訳
失踪中の凄腕弁護士が他殺死体で発見された。被害者の息子で同じく弁護士のワークは、父と不仲だった妹が犯人ではないかと思い、捜査協力を拒む。しかし今度は自分が容疑者として疑われてしまう。ワークが何をやるにも出遅れ、決断を先延ばしにして事態を悪化させるので大変イライラする。もちろん彼には後手に回らざるをえない理由があるのだが、あまりにも一貫して出遅れるので、これは何か新手の叙述トリックでは?!と疑ったくらいだ。ともあれ、やるべき時にやるべきことを出来ない星の元に生まれている、かつチキンの主人公は、ミステリ小説では珍しいのでは。強権的な父親からの抑圧という要因はあったにせよ、非常に読んでいてイライラする。女のところにしけこんでいる場合じゃないだろう!と何度どつきたくなったことか。ただ、こういった主人公の性格付けがストーリーを面白く(そして長く)しているのも確か。伏線の回収を忘れたのかと思うところが何箇所かあるものの、ミステリとしては引きが強く、翻訳がいいのかリーダビリティも高い。なお、ワークと同じくらい私をイライラさせてくれたのが、彼の昔の恋人だ。何なの?バカなの?その状況で待ち続けていられるというのが信じられない。ワークが彼女は自分を待っていてくれるはずと信じているのも信じられない。







『鈍獣』

 文学賞候補となった作家の凸川(浅野忠信)が失踪した。担当編集者の静(真木よう子)は手がかりを探して彼の故郷にやってきた。凸川の同級生だった警察の岡本(ユースケ・サンタマリア)とホストの江田(北川一輝)、江田の愛人・純子(南野陽子)と江田の店のホステス・ノラ(佐津川愛美)から話を聞くが、凸川は江田の店に来ていたことがあっさり判明。しかし、江田と岡本は凸川を殺そうとしたという。凸川の小説は、江田と岡本の過去をネタにしたものだったのだ。
 監督は細野ひで晃、脚本は宮藤官九郎。予告編ではコメディ&友情ものっぽい見せ方だったが、実際は(脚本自体は)、おかしさと同時に気持ち悪さを目指した作品だったのではないだろうか。凸川に浅野忠信をキャスティングしたのも、そういう意図があったからではないかと思う。
 凸川は殺しても殺しても死なず、相変わらず江田と岡本に会いにくる。凸川は鈍感な男で、江田や岡本が自分をうとましく思っていることに気づかない(か、気づかない気をしている)。自分が小説を書いていることは認めず、延々としらばっくれる(ミステリ的な見方をするとこれは実は・・・というミスリードにもなりうる)。彼が江田と岡本に対して見せるのはあくまで好意だ。無邪気(に見える)な凸川と、イライラを募らせる江田、岡本とのすれちがい、というか凸川のひとりよがりな好意と友情、そして天然なのか狙っているのかわからないまま人の心をちくりと刺す発言が気持ち悪い。一方的に向けられる感情というのはホラーになりうるなと思った。
 さらに、凸川は元いじめられっこで江田・岡本はいじめていた側だ。しかし大人になった時、凸川は作家として成功し、江田と岡本は地元でくすぶっている。しかも凸川は2人が思い出したくない過去を小説にし、記憶を呼び起こす。凸川が過去そのもののようなのだ。いじめられっこの逆襲という話ともとれる。ただ、凸川が復讐しに来ただけなのかというと、なんともいえない。最後、江田と岡本はあることを思い出す。とすると、凸川はもう彼らのもとにはこないのではないかとも思えるのだ。
 子供時代の回想シーンはアニメーション(STUDIO4℃製作)なのだが、アニメーション自体の出来はいい(キャストも妙に豪華)のに実写部分とあまりマッチしていない気がした。不思議なのだが、実写部分の方がアニメーション的に感じてしまった。美術がやたらと過剰、俳優もオーバーアクト気味だからか?なお、エンドロールで流れる、ゆずグレンの曲のさわやかさがすさまじい違和感を感じさせる。これはネタか?何かのネタか?と問いただしたくなった。






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