3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

2009年05月

『免疫の意味論』

多田富雄著
10数年前の著作となるが、あまり古びたという印象は受けない。この分野には大変疎いので古びていてもわからないというのが正直なところなので、免疫系の研究の基本はこの時点で出来上がっているのかなと思った。HIVに関する情報はだいぶ古いなという印象だったが、アレルギーに関しては情報が今とあまり変わっていないような・・・。医療研究のジャンルとしては本当に新しいんだなと実感した。専門用語など、門外漢にとってはついていくのがかなり厳しいところもあるのだが、面白かった。脳が認識する自己と免疫系が認識する自己は必ずしも一致しない(最近は脳科学がはやっているけれど、免疫系が見ているものと脳が見ているものは違うのね)ということなど、そもそも何を持って自己とすればいいのかと考えさせられる。異物がシンプルに異物として認識されるのではなく、いったん自己に取り入れてからでないと異物と認識できないというあたり、哲学的ですらある。





『重力ピエロ』

 大学院で遺伝子の研究をしている泉水(加瀬亮)と、絵の才能がありハンサムでモテる春(岡田将生)は仲のいい兄弟。母(鈴木京香)は既に亡くなっており、養蜂を始めた父(小日向文世)との3人家族だ。彼らが住む町では連続放火事件が起きていた。春は、自分がアルバイトで清掃していたグラフィティアートと放火現場とに奇妙な共通点があると泉水に訴える。原作は伊坂幸太郎、監督は『Laundry』の森淳一。伊坂作品は次々と映画化されているが、今のところ映画の完成度としては本作がベストではないかと思う。
 原作小説は伊坂作品の中でも好きな方なのだが、倫理的にどうなの?とひっかかる部分もある。ある人物の行動をそこまで全面的に肯定してしまっていいのだろうかと、素直にこの物語を飲み込めなくなったのだ(伊坂作品を読んでいると常に気になるのだが、善とされているものへの肯定が強すぎるように思う)。ある人物の行動への肯定に対する裏づけはずばり愛なのだろうが、愛は主観的で頼りない。
 で、このひっかかりの部分に観客がひっかかってしまうと、この作品の印象はかなり微妙なものになるだろう。さわやかな面持ちで実は陰惨ともなりかねない。本作はそのひっかかりを観客に感じさせないよう、上手くスルーさせていると思う。脚本や演出の力も大きいが、キャスティングの時点で勝ちという感じがした。
 なにしろ泉水と春の兄弟が目に優しい(笑)。加瀬は主張が強すぎず相変わらず安定感がある。春役の岡田は、演技の上手い下手はともかく、非常にハマっていた。春のキャスティングで作品の雰囲気が大きく左右される(演じ方によっては単なる危ない人だよ・・・)と予想していたので少々心配だったのだが、杞憂だった。あと、父親役の小日向が、まあいつもの小日向ではあるのだが、この父親にはこの演技がベストだと納得させる存在感があり、予想以上によかった。泉水と春の父親は、ある大きな決断をするのだが、この父親ならこういう決断をするだろうと納得させるものがある。あと、吉高由里子が出番は少ないものの怪演を見せている。挙動不審な動作がこれだけはまる美人はそうそういないのではないか。加えて、泉水と春の子供時代を演じた2人の子供が正に!という感じで、よく見つけてきたなと感心した。
 音楽は渡辺善太郎。これがまた涙腺を刺激するらしく、観客(主に若い女性)が次々に鼻をすすっていた。ただ、音楽をフェイドアウトさせるタイミングがどれも悪く、ぶつ切り感があるのが気になった。もうちょっと上手く編集できなかったのか。







『インスタント沼』

 出版社に勤める沈丁花ハナメ(麻生久美子)は、新創刊される女性誌の担当となるが、雑誌は全く売れずとうとう休刊してしまう。思い余って会社をやめ、人生やり直そうと身辺整理をしていたハナメは、母親が出しそこなった手紙から、自分の実父がかつて家を出て行った父親ではなく、沈丁花ノブロウなる男らしいと知る。事実を確かめようとした矢先、母親(松坂慶子)が昏睡状態となり病院に担ぎ込まれた。どうもアヤメに見せる為に河童を捕まえようとして池に落ちたらしい。手紙のあて先住所へ向かうとそこは「電球商店」なる怪しげな骨董品店、その店の店主が沈丁花ノブロウ(風間杜夫)だった。
 三木聡監督の新作となる。主演の麻生久美子はTVドラマ『時効警察』シリーズで、三木作品との相性の良さが証明されたと思う。個人的にはさほど好きな女優というわけではなかったのだが(顔の好みの問題もあるんですが、上手いのか下手なのか判断しにくい・・・。ファンの皆さんごめんなさいね)、コメディエンヌとしてはかなりいい。セリフの棒読み感というか、ある種の空々しさと三木の作風の相性がいいんじゃないかと思う。
 三木聡の作品では(特に女性が主人公の場合)往々にして、「ぱっとしない人生の楽しさ」をうたっているように思う。しかも、全くてらいなく。本作最後にハナメが叫ぶところなど、これ脚本の時点で恥ずかしくならないかなと不思議でもある。しかし、確実に鼻につきそうなところが、三木作品になるとあまり(あくまで「あまり」。すごく嫌だという人もいると思う)鼻につかない。小ネタの嵐で情緒的なものが吹っ飛ぶからだろうか。
 本作は脚本も三木聡が手がけているのだが、展開は唐突でいきあたりばったり。ストーリーを組み立てていく、ストーリーによって盛り上げることにはそれほどこだわりがないのではないだろうか。重視されているのは全体の雰囲気と、その雰囲気を形成している小ネタの数々、そして美術だ。小ネタは精度の高いのも低いのも関係なしに詰め込まれていて、もうちょっと選別した方がいいんじゃないかと思った。楽しいことは楽しいがダレる。対して美術は、これはよくやっているなーと感心した。どの作品でも、ロケーションと小道具集めにすごく力を入れているという印象がある。今回は東京都心部から京急線沿線の神奈川県エリアが舞台になっているらしく、見覚えのある風景がちらちらと。これはなんとなくうれしかった。
 あとすごくいいなと思ったのが、ハナメの部屋の間取り。古いビルの角部屋なのだがちょっと変則的な間取りで、よく見つけたなと感心した。電球商店店内も結構すごいのだが、三木監督は基本的に空間を埋め尽くしたいタイプの美術センスなんじゃないかなと思う。細かいものをちまちまそろえるの好きっぽいなぁ。







『新宿インシデント』

 幼馴染の恋人シュシュを探す為、中国の農村から日本へ密入国した鉄頭(ジャッキー・チェン)。何とか新宿・歌舞伎町へたどり着き、昔なじみの阿傑(ダニエル・ウー)とその仲間の元へ身を寄せた。しかし日雇い仕事をしながらシュシュを探すが、彼女の行方は分からなかった。そんな中、ナイトクラブでの仕事中、鉄頭はやくざの幹部・江口(加藤雅也)を見かける。江口がつれている妻はなんとシュシュだった。監督はイー・トンシン。
 それほど期待していたわけではないのだが、これは面白い!力作です。90年代初頭の東京の雰囲気もそれほど的外れでなくつかんでいるし、よくリサーチしているなという印象(地理的に不自然さが感じられない)。主演のジャッキー・チェンがアクションもコメディも封印して挑んでいるのは意外だったが、中年男の悲哀が滲んでいて予想を上回る好演。楽しく見ることができた。
 といっても、物語自体はどちらかというと悲劇だ。鉄頭は本来朴訥とした真面目な男で、頭は悪くないがそうキレ者というわけでもない。そんな男が、生きていく為にちょっとした不法行為に手を染め、仲間を守る為にやくざに加担し、本来の自分にはそぐわない人生をおくる破目になるというところに悲しみがある。それは彼の仲間たちについても同様で、全員全くの善人というわけではないにしろ悪人ではなく、どちらかというと小者だ。最初から、彼らがのし上がっていくことにはほころびが見えており、悲劇を予感させる。
この悲劇を最も体現しているのが、阿傑だ。彼は何度も「気が小さい」といわれるのだが、気が小さいゆえにどんどん悪い方向へ進んでしまう。最終的にビジュアル系バンドマンのような格好になっていたのにはちょっと笑ってしまったのだが、彼が本来もっていた良い部分が失われていく過程は切ない。これはやくざの江口も同様で、野心により変貌していく。登場人物全員が、もうちょっといい目を見たいと願った為に足をすくわれていくという、なんともやりきれない展開だ。フィルムノワールや任侠好きにはぜひお勧めしたい。
 キャスティングがちょっとしたところまでよかった。ジャッキーはともかく、ラム・シュの姿が歌舞伎町に・・・と思うと大変感慨深いものがあるが、びっくりするほど違和感がない。香港映画臭がぷんぷんする顔ぶれなのだが、歌舞伎町にとけこんでいる。また、日本人キャストは竹中直人以外Vシネ臭ぷんぷんの顔ぶれだが(いまどきこれだけVシネっぽい顔を集められた映画もそうそうないと思う)、当然歌舞伎町との相性は抜群だ。場違いなのではと思った竹中直人も、ふだんよりも自然体な演技で、さほど浮いていない。彼が演じる刑事と鉄頭との友情とも恩義ともつかない繋がりにはホロリとさせられた。あと、出番はわずかだが、政界の大物3人が悪い顔すぎて吹いた。いや~悪そうだ(笑)。








『チェイサー』

 元刑事でポン引きのジュンホ(キム・ユンソク)は、客先へ向かったまま行方不明になった2人の女を探していた。電話番号を手がかりに一人の男を見つけ、デリヘル嬢のミジンに探りを入れさせるが、彼女も失踪する。ミジンを探しに出たジュンホは疑惑の男ヨンミン(ハ・ジョンウ)を捕まえるが、彼は「女たちを殺したのは自分だ。最後の女はまだ生きている」と警察で告白する。監督はナ・ホンジン。
 『殺人の追憶』を彷彿とさせるような作品ではあるが、本作の場合、ヨンミンが犯人であることは観客に対して明示されている。ジュンホと警察がどうやってヨンミンに追いつくか、ヨンミンがどう逃げ切るかというサスペンスが主軸となっている。接近しては引き離され、という繰り返しで、引きが強い。それを延々2時間続けられるというのもすごいのだが、ちょっとくどすぎるかなとも思った。あと20分くらい短くてもよかった。
 ヨンミンはモンスター的な人物であり、かなり怖い。非常に頭が切れたり力が強いから怖いというのではなく(殺人はむしろずさんと言ってもいい)、普通の人が普通なこととして殺しを続けるといった自然体な様子が怖い。殺人鬼であるという部分を除いてしまえば、むしろヘタレた青年なのだ。殺し方が、ノミと金槌で頭をかち割るというこれまた痛そうなもので、この手の映画が苦手というわけではない私でも、ビクビクしながら見た。ヨンミンに限らず、暴力の出方がナチュラルなのだが、韓国映画ではわりとこういう光景を目にするように思う。
 対するジュンホは正義漢というわけではなく、道徳的な人物というわけでもない。風邪を引いたミジンを無理やり仕事に行かせ、女たちには陰で「ゴミ」呼ばわりされるような人間だ。ヨンミンを追うのも、当初は彼が自分の使っている女たちを勝手に売ったと思い込んでいたからだ。また、正義の味方である警察の面々も事なかれ主義だったり、逆に功名心にかられたりで、どうも冴えない。初動捜査のずさんさにはつい突っ込みたくなった。そ、そこでもうちょっと念入りにやっていれば事件解決するんじゃないの(『殺人の追憶』でも初動捜査ずさんだった記憶が。さすがに実際の韓国警察はそんなことないと思いますが)!この警察の必要以上のマヌケさが作品のテンポを悪くしていて残念。
 殺人犯を追う物語ではあるが、正義対悪というわけではなく、泥沼の浅いほうにいるか深いほうにいるかという差なのではと思わせるような、それこそ泥沼状態の追いかけっこが展開される。キリスト教を示唆するモチーフが頻出するものの、神の救いはどこにも現れず、むしろ全員がどんどん地獄へ突き進んでいく。ジュンホとミジンの娘とのやりとりが唯一息抜きできるシーンだったが、ラストで更に追い討ちをかけるような展開。やっぱりくどい。






『チーム・バチスタの栄光(上、下)』

海堂尊著
第4回「このミステリーがすごい!」大賞を受賞した大ヒット医療ミステリ。天才外科医が率いるバチスタ手術専門チームに、立て続けに術中死がおきる。万年窓際医師の田口は病院長に依頼され、連続死の原因を探ることに。更に厚生労働省の役人・白鳥も捜査に加わる。映画化、ドラマ化もされた。受賞は妥当だったんじゃないでしょうか。文章にちょっと難があるが面白かった。ドラマや映画(『チーム~』は見ておらず『ジェネラル・ルージュの凱旋』なのだが)を先に見ていたのだが、原作の田口は映画やTVドラマの田口よりも全然使える子だった。頭悪くないじゃん・・・ごめんよ田口。しかも(白鳥によれば)ルックスもそこそこらしい。イメージ変わりました。ストーリー前半は白鳥によるチーム・バチスタの観察、後半はそのデータを元にした白鳥による調査というかまぜっかえしで、白鳥が出てくると俄然テンポがよくなる。田口は行動派ではないので、白鳥のように現場を揺り動かすキャラが必要になる。2人のキャラの組み合わせは上手いと思った。チーム・バチスタのメンバーもキャラが立っていて、人気があるのには納得。ただ、謎解き・犯人当ての面白さは薄いように思う。医療現場のことを知っていればもっと腑に落ちるのかもしれないが。







『ウォー・ロード/男たちの誓い』

 上映前に延々と流れるアルフィーの曲が、耳について離れない。しかしくどいところも含め、ちゃんと映画の雰囲気に合っているような・・・。監督は『ラヴソング』のピーター・チャン。こんな男臭い映画も撮る人だったのかと意外だった。
 アヘン戦争後、清朝末期の中国は太平天国の乱が起き、激しい内戦状態だった。清将軍のパン(ジェット・リー)は戦いの中で部下全員を失い、失意の中一人逃げ延び、リィエンという女に助けられ一夜を共する。立ち寄った町で盗賊団の青年ウーヤン(金城武)と出会うが、パンを気に入ったウーヤンは兄であり盗賊団長のアルフ(アンディ・ラウ)に引き合わせる。しかしアルフはリィエンの夫だった。
 中国の歴史戦争ものといえば今年はレッドクリフ(これを歴史ものといっていいのかどうか微妙だが)があったが、個人的には本作の方が面白かった。当時(現在もかもしれないけど)の戦争は極端に消耗戦で、前線の兵は確実に捨て駒なんだなーと実感した。兵士は泥まみれで飢えて、周囲には死体がゴロゴロというかなり悲惨な状況。勇猛果敢な戦闘シーンを期待すると、肩透かしをくらうかもしれない。むしろ厭戦モードに突入してしまう。
 パン、アルフ、ウーヤンは義兄弟の契りを交わし、決して裏切らないことを約束する。ただ、3人は全く同じ方向を向いているわけではなく、徐々にほころびが生じてくる。パンは「誰もが不当に殴られることのない世の中にしたい」という夢を持ち、それを実現できる力を得るために戦う。ウーヤンはパンを信じ、アルフも共感する。しかしアルフは徐々に、パンのやっていることは、不当に殴られない人を生み出す一方で、また新たに不当に殴られる人を生み出すことではないかと気づいてしまう。パンは優れた将軍であり、そのやり方は軍隊を統率する上では正しい。しかし「みんなのアニキ」的なアルフにとっては、パンのやり方は非情で耐え難いものである。2人はどちらも正しいのだが、正しさの目線が食い違っている。その食い違いがどんどん広がり、悲劇へと突入していくのだ。パンがリィエンに惚れている時点で悲劇フラグがたっているので、あああそっちにいかないで~とワナワナしながら見た。予想以上に救いがない。誰かが明確な悪者だったりするならともかく、全員がどこかしら純粋な部分を保っていて、自分の「正義」に忠実であったというところが切なさアップさせている。
 主演俳優3人は全員好演している。主人公扱いなのはジェット・リーだが、色気があるのはアンディ・ラウ。そして金城武の弟キャラがハマりすぎていて吹いた。セットもおおがかりなので見ごたえはある。








『蟹工船・党生活者』

小林多喜二著
ブームに1周(どころではなく)遅れて読んでみた。ご存知の通り、蟹工船での過酷な労働にあえぐ若者たちを描いた小説であり、その姿が現代の製造現場における派遣社員の姿と重なるということで、再度ブームが来た。確かに、労働時間がやたらと長かったり、給料から家賃だなんだとどんどん天引きされていく様は現代の労働者の姿とダブる。しかし、条件としてはより悪辣な当時の方が、まだ仲間同士で連帯することに対する希望があったという印象を受けた。今は、連帯して何かに対抗できる、何かを変えられるということを信じるのがなかなか難しいと思う。過去も現代も末端の人間の無力感はあるのだが、そこから生じる熱量が全然違うんじゃないかと。それはさておき、プロレタリア文学というくくりがなくても一種の群像劇として面白いし、予想以上にぐいぐい読める。筆力高い。船内の匂い、汚さについての描写が妙に具体的でうっとなった。また、「党生活者」は主人公本人は大真面目なのだろうが、客観的に見るととんだヘタレであるところが滑稽。著者本人にそのつもりがあったのかどうかはわからないが、自己弁護に走っていく様が生々しすぎる。






『ベルサイユの子』

 ベルサイユ宮殿近くの森に暮らすホームレス・ダミアン(ギョーム・ドパルデュー)は、若い母親ニーナと幼い息子エンゾに出会う。ニーナとエンゾもまたホームレスだった。ダミアンの元で一夜を過ごしたニーナは、エンゾを残して姿を消してしまう。ダミアンはやむなくエンゾと暮らすことになるが。監督は本作が長編映画デビューとなるピエール・ショレール。なお主演のギョームは2008年に急逝している。
 予告編だけ見ると、泣かせる子供映画、もしくはダメ男再起映画のように見える。確かに半分はその通りだ。しかし残り半分に監督のリアリズムを見た感がある。ホームレス人口が多いフランスらしい作品かもしれない。日本映画だったらここで絶対客を泣かせる方向にもっていくだろうなというところで、感情を抑制する、また他の方向へすっともっていく。
 本作が単純な感動ものにはなっていないのは、人間は変われるということと同時に、人間は変われないということも示しているからだろう。そして、そのどちらも否定はされない。そういうふうにしか出来ない人間もいるし、それは彼らの選択なのだ。本作ではホームレスを「恵まれない人」「かわいそうな人」と一括りにはしていない。デミアンのホームレス仲間も出てくるが、「家」があり「生活」がある。「自分で選んだんだから自分のせいだろ」という安易な自己責任論にもしていない。ニーナのように、なし崩しにホームレス状態にならざるをえなかった人もいるし、デミアンのように、世捨て人的に生活することを選んだ人もいて、それぞれが別々の生活者として捉えられている。彼らは政府の福祉に全く頼りたくないわけではないだろう。ただ、ニーナのように年齢不十分(フランスでは25歳以下だと生活保護を受けられないらしい。映画内の情報によれば子供がいる場合はOK)だし、政府の福祉プランを受けることもできるが、無理やりプランに合わせられて、彼/彼女が個人として扱われないという認識らしい。彼らがどういう状態を「生きている」と見なしているか垣間見えるところがあった。
 予告編からはわからないのだが、ニーナに割かれている部分が結構大きい。彼女はもう一人の主人公と言える。息子への愛はあるが自分の生活をなんとかしないとどうしようもないという部分がちゃんと描かれているので、単に「未熟でダメな母親」という造形にはなっていない。「こういう人もいるがこういう人もいる」という視線があり、その視線がそれぞれに突き放すでもなく、近すぎるのでもなく、一定の距離をおいている。登場人物に対してフェアだし冷静だ。何かを振りかざして主張、という作品ではない。
 エンゾはニーナとダミアン、そしてダミアンの実父と義母という複数の親的な存在を持つことになるのだが、彼がこの先どんなふうに成長していくのかということが、すごく気になった。彼は、エンゾの為に定職につき「まっとうな」生活をすることを決意したダミアンに対して、「森には戻らないの?」とたずねる。森での生活はエンゾにとってなにものにも換えがたい記憶なのだろう。で、その記憶と、その後のデミアンの行動との兼ね合いを、彼の中ではどのようにつけられているのかというところが気になる。デミアンの行動は客観的に見ると無責任といわれそうなものなのだが、エンゾにとっては愛着のある人のままなのではないか。だから、デミアンの父・義母との間にいまひとつ距離感があるのではと思う。しかし第三者からすると、親として責任を果たせそうなのはデミアンの父・義母なのだ。周りから見た理想的な親と、子供本人が愛する親とは一致しないとこともあるなと思った。そのことをエンゾが受け入れられる時はくるのだろうか。






『消されたヘッドライン』

 敏腕新聞記者のカル(ラッセル・クロウ)は、黒人少年とピザ配達人が路上で狙撃された事件をスクープする。同じ頃、国会議員コリンズ(ベン・アフレック)が抱える女性スタッフ・ソニアが地下鉄のホームから転落死した。警察は自殺と見ていたが、コリンズはソニアが自殺するとは思えないと、旧友であるカルに相談を持ちかけてきた。独自に調査を進めるうち、黒人少年の死とソニアの死とに関連性があるのではと考えるようになったカルだが、コリンズとソニアとが不倫関係にあったことが発覚。編集局長リン(ヘレナ・ミレン)はスクープ目当てにコリンズとの接触をカルに命じるが。監督は『ラストキング・オブ・スコットランド』のケヴィン・マクドナルド。
 「ペンは剣より強し」と、新聞記者が社会の暗部を暴く・・・とは必ずしもいえない。カルは昔気質の新聞記者で、真実を追究し取材には妥協しない。しかしその行動は、社会的な正義にのっとったものかもしれないが、取材対象やその周囲の人間にとっては自分たちを傷つけるものになりかねない。カルは最初そのことに無自覚なように見える。しかし相手に指摘されて、それは悪かったなと反省するかというとそうでもない。というか、反省してもやめられないといったほうがいいのかもしれない。その結果、真実と友情とを天秤にかけるような破目に陥るのだが、彼はあくまでスクープを追う。その行動は悪辣といってもいいくらいだし、フェアとは言いがたい。単純に正義の味方とは言えず、むしろ記者という職業にとり付かれているとも見えるところが面白い。
 カルがそこまでしてたどり着いた真実は、果たして彼の犠牲に見合うものだったのだろうか。皮肉な結果ともいえるし、ネタが一気に矮小化されたともいえる。しかし彼はやはり、新聞記者としての正義を全うするのだ。それがカルの筋の通し方であり、記者としての矜持なのだろう。その矜持により失ったものも大きいのだが。記者であることを選択すると同時に記者であることから逃げられない、カルの苦さと諦念が垣間見えた。
 ラッセル・クロウは相変わらず無頼キャラ。あまり好きな俳優ではないのだが、安定感はある。この人が出てる映画ならそんなにハズレじゃないだろうな、という気になる俳優ではある。そして俳優としてのベン・アフレックを目にするのはなんだか久しぶりなのだが、ようやくいい出演作にめぐり合えたかなという印象。また、局長役のヘレン・ミレンが辛らつなキャラでかっこいい。彼女が会社の正義=売り上げアップを(不本意とは言え)代表しているのもバランスがとれている。





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