3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

2009年03月

『はなればなれに』

 「紀伊国屋書店レーベルを讃える」特集上映で鑑賞。1964年製作のジャン=リュック・ゴダール監督・脚本作品。冬のパリ、フランツ(サミー・フレイ)とアルチュール(クロード・ブラッスール)は、英語学校の生徒でフランツの同級生オディール(アンナ・カリーナ)から、オディールが同居している叔母の屋敷に、大金が隠してあると聞き出す。2人はオディールを巻き込んで泥棒の計画を立てるが、フランツはオディールに片思い、当のオディールはアルチュールに惹かれていた。
 名シーン満載の有名作品。カフェで踊るシーンや、ルーブル美術館を疾走するシーンなど、見ているとふわーと幸福感が沸いてくるのはなぜなんだろう。主演の3人、特にアンナ・カリーナのキュートさが破格ということもある。女の子としての振る舞いは無邪気にひどいが・・・。フランツのタバコは「吸わないわ」と受け取らないのにアルチュールが勧めるとあっさり受け取るのとか、お前露骨すぎだろ!と。何ですかそのあからさまな選別は。それともそういうのが女子度が高いということなんですかどうなんですか。
 で、幸せな気持ちになるシーンはあるのだが、それと同時にゴダール先生は、今となってはイラっとしかしないネタも投入してくださる。自分の名前「ジャン=リュック・“シネマ”・ゴダール」と表記するのはやめてください!若気の至りとはいえ恥ずかしくて死にそうになります!あと「ヌーベルバーグ」という名前の店の看板わざわざ出したり、これみよがしすぎる。無邪気といえば無邪気なのかもしれないが、当時はともかく今これやったら単なるイタい人だと思う。このネタににっこりできる人だけにボールを投げていると思えばいいのか。
 英語学校で、「古典は現代に通じる」とばかりに「ロミオとジュリエット」の英訳をさせる(フランス語訳された英語作品を再英語訳するというややこしさ)のがおかしい。少なくとも日常生活の役にはたたなさそうな授業だ・・・。ヌーベルバーグと呼ばれたゴダールがいわゆる古典映画をおちょくっているのだろうが、今とはなってはゴダールが古典になっちゃったなぁ。





『ロックンローラ』

 ロンドンを舞台に、町を牛耳るギャングのボス・レニー(トム・ウィルキンソン)、レニーから金を借りたもののハメられ、にっちもさっちもいかなくなったチンピラ、ワンツー(ゲラルド・バトラー)とマンフルズ(イドリス・エルバ)、レニーに取引を持ちかけあわよくば乗っ取りをたくらむロシアンマフィア、マフィアの資金を掠め取る敏腕会計士ステラ(タンディ・ニュートン)らが繰り広げる群像劇。監督はガイ・リッチー。ストーリーの背景には近年のロンドンの地価高騰と地上げ(まんま日本のバブル期みたいだな・・・)があるのだが、サブプライムショック後はどうなったのかな?やっぱり下がったのかしら。だとしたら微妙に時期を外した公開となったわけだが・・・。
 騙し騙されの犯罪劇だが、コンゲーム的な要素は薄い。むしろ「風がふけば桶屋がもうかる」的な玉突き状態ストーリーだ。また、キャラクターそれぞれの行動が結構いきあたりばったりでコミカル。爆笑するようなコメディではないが、小さなニマニマ笑いを絶やさず見ることができた。ワンツーと友人との車の中での重大発表とその顛末とか、「幸運の絵」をめぐるすれ違いとか、なかなか死なないロシアンマフィアとの追いかけっことか、いちいちニマニマしちゃいました。見終わった後はたいして残るものはないんだけど、あー楽しかった!とスッキリできた。
 全体的に男子の悪ノリ的なテンションで、やっとガイ・リッチーが本調子になってきたなとほっとした。何しろ前作『リボルバー』が惨憺たる出来だったから・・・。前作の冴えなさがウソみたいに、テンポが良くて体感時間が短い作品になっている。余計な御託はならべず、「楽しいことやりたい!」と割り切って作った感じで、そこがよかった。キャストもなんか楽しそうだもんねー。
 題名が題名だけに、音楽選曲にも気合が入っていたのか、いいチョイスだった。ヤク中のロックスター・ジョニー(トビー・ケベル)のモデルはBABYSHAMBLESのピート・ドハーティっていうのも頷ける。しかもメインテーマはSUBWAYSの「Rock'n Roll Queen」!サントラは強くお勧めします。
 あと、個人的にはジェラルド・バトラーを筆頭に追いも若きも男子がいい感じの顔つきで、大変楽しかった。特にレニーの右腕アーチー(マーク・ストロング)の鼻筋が過剰に通った顔が。

 




『PLASTIC CITY プラスティック・シティ』

 日系ブラジル人のキリン(オダギリジョー)は両親を亡くし、ユダ(アンソニー・ウォン)に育てられた。ユダはコピー商品の販売で財を成した中国系ギャングだが、新興勢力が彼を失脚させようと罠をしかけてくる。監督はジャ・ジャンクー作品の撮影監督だったユー・リクウァイ。
 主演と監督が日本人と中国人で舞台はブラジル、作品内では中国語とポルトガル語が飛び交う、カオスな作品。しかしカオスすぎるだろうこれは!監督が結局何をやりたかったのか、だんだんわからなくなってくる。このシーンとこのシーンが撮りたかったんだなーというのは分かるのだが、ストーリーの流れと乖離しているように思った。
 前半は、これは日本で言うところのVシネ路線か?!ヤクザものか?!と若干わくわくもしたのだが、だんだんと妙な方向へスライドされていく。きちんとスライドされているのならいいのだが、ヤクザ抗争ものとしての設定をひきずったままずれこんでいくので、中途半端だ。ひとつひとつのエピソードの処理がとっちらかっている印象を受けた。
 組織間の抗争が描かれるので、敵対組織やら警察やら味方やらが出てくるのだが、出方も消え方も唐突で、キリンらとの関係がよくわからないし、結局彼らが何をしている人なのかというのもよくわからない。一方で、父と息子の関係性はどんどん増幅されていく。
 しかし父と息子の物語としては、この手の話の定番である、息子が父親を乗り越えるないしは切り離す、というものにはなっていない。父が自らの力添えで息子に自分を切り離させるという妙なことになっている。父親が、肉体的には弱化していくのに存在としてはどんどん神話的なものに強化されていく(しかも息子だけでなく彼が治めた町全体に対して)。この経緯がすっとばされているので、なんでそんなにエラくなっちゃったの?と唖然としてしまう。息子にとっては絶望に等しい関係とも言えるし、そんな関係の中では女性たちが徐々にフェイドアウトしていくというのも頷ける。
 キリンの夢の中(なのか?)の抗争シーンが、これはオダギリにチャンバラやらせたかっただけなんだろうなーとありありとわかるもので笑える。しかも殺陣が下手!俳優が下手というよりも演出の仕方がなってなくてがっくりきた。





『ハルフウェイ』

 北海道に暮らす高校生のヒロ(北乃きい)は、片思い相手のシュウ(岡田将生)に告白され、有頂天になる。楽しくてしょうがないヒロだが、シュウは東京の大学に進学したいということを彼女に言い出せずにいた。
脚本家・北川悦吏子 の初監督映画。プロデューサーは岩井俊二。北川が得意とするラブストーリーだが、岩井俊二の手癖の方が前面に出てしまった。小林武史による音楽と相まって、ほぼ岩井映画といってもいい。前知識なしに見たら、あれー岩井俊二ちょっと下手になった?くらいの印象になるかもしれない。主演2人が魅力的に撮れているのはいいなと思ったが、物語内の時間の経過がわかりにくい(ずっと秋な雰囲気なんだけど、会話の流れからすると数ヶ月経ってそう)ところが気になった。
 岩井映画テイストを感じさせる要因は、手持ちカメラによるキラキラ感満載の映像(舞台が田舎というところも)なのだろうが、それ以上に、ヒロインの造形、撮り方にあるように思った。女性監督の作品で非常に少女マンガ的なストーリーはあるのだが、ヒロのキャラクターが、少女マンガに出てくる女の子、もしくは北川が手がけた恋愛ドラマに出てくるような女の子というよりも、少年マンガ(特にマガジン系)に出てくるヒロイン、男性が想像する「女の子ってこんな感じ」なヒロインに近いように思ったからだ。もしくは、少女マンガ好きの男性が好みそうなヒロインじゃないかなと。ヒロのはしゃぎ方とか怒り方とかの、ちょっとエキセントリックなテンションの高さは、これを「等身大の女の子です!」と言われたら、ちょっと困っちゃうなぁというもの。むしろ、ヒロの友人(仲理依沙)の妙にドスがきいた雰囲気の方がリアル女子高生ぽいかなと思った。
 対してシュウの造形は、典型的な少女マンガの王子様に優柔不断さを加えたもの。特に、早稲田大学を志望するからにはそれなりに成績がいいはずなのに、あまり頭がよさそうな言動ではないところはよかった(いや悪かったのか?)。ヒロのことが好きではあるのだろうが、時々本気で「女子わかんねー」「女子うぜぇー」という表情をするところが面白い。いや実際、ヒロの言動はかなりうざいんですが・・・。
予告編等からは、ヒロ目線に近いストーリーなのかなと思っていたのだが、映像自体はむしろシュウ目線で見たヒロだったのかなという印象を受けた。ラストシーンなどはモロにそうだった。シュウが画面に入ってきていないのはそのせいだろう。
なお私、北川悦吏子のドラマは何本か見ている(はず)だしそこそこ面白いと思ったのだが、どの作品でも共感できる部分が皆無だった。そんな人間がなぜ本作を見てしまったのかというと、己の耐久力を試すため・・・ではなく、予告編の北乃きいの可愛さが異常だったからです。アイドル映画としては申し分ないのでは。





『チェンジリング』

 1928年、ロサンゼルス。シングルマザーのクリスティン(アンジェリーナ・ジョリー)は、ある日息子・ウォルターに留守番をさせて仕事に出る。しかし帰宅するとウォルターは姿を消していた。捜索届けを警察に出した5ヵ月後、ウォルターが発見されたという知らせがクリスティンの元に入る。しかし彼女の前に現れたのは、似てはいるが別の少年だった。
 監督はクリント・イーストウッド。実話が元になっているそうだが、何がすごいって警察の腐敗具合が。もう冗談レベル。これが史実というのだから恐ろしい。未だに小説や映画の中で「ロス市警は腐敗している」設定がデフォになっているのも頷ける。替え玉の少年で母親と世間を騙せるという発想自体、突っ込み甲斐がありすぎる。それくらい警察が世間をなめきっていたということなのだろうが。おかしいところをおかしいと指摘する人がいなくなったら、組織としてもう駄目だろう。
 クリスティンは息子を取り戻したい一心で、警察に訴え、口封じの工作を受けてしまう(世間が自分を信じないように操作されてしまう恐怖たるや!)。しかしそれでも彼女は戦い続ける。彼女の気力は母の愛と執念の力とも言えるが、個人が組織に対抗し得る、不正を正すことができるという思想に対する手ごたえを、多分アメリカ人は日本人よりもはるかに強く感じている(信じている)のではないだろうか。クリスティンだけでなく、彼女を支援する神父も、再捜査の口火を切ることになった刑事も、最初は個人レベルで「それはおかしい」と思って行動に移すわけだ。私がアメリカの文学や映画の好きな一因なのかもしれないと改めて思った。しかし同時に、ここまで戦わないと駄目なのかと暗鬱とした気持ちにもなる。最後にクリスティンは「これで希望が持てる」と言うが、彼女には何も実益がない戦いで、成果があったとすれば同じ境遇の母親にとってのものだ。これだけやって手にしたものが希望という、実態のない頼りないものだとは。そしてその希望は、彼女がこの先も戦い続け、平穏な日は訪れないということでもある。それでも戦うのかと。
 本作では度々、「責任」という言葉が使われる。クリスティンは自分と息子を捨てた夫を、「責任から逃げ出した弱い人」と見なし、警察にも「責任を果たせ」と迫り、何より自分が母親としての責任を果たすべく戦い続けるのだ。子を思う母親としての情の部分はもちろんクローズアップされるのだが、イーストウッドが焦点を当てているのはむしろこの「責任」というものではないかと感じた。責任を果たすことと希望を獲得することとが、イコールではないが近いものとして扱われていたように思う。





『まほろ市駅前多田便利軒』

三浦しおん著
便利屋を営む多田の元に、高校の同級生・行天が転がり込んできた。2人でやりくりすることになった便利屋に、さまざまな依頼が持ち込まれる。町の描写の随所で分かる人には即分かるが、まほろ市のモデル(というかそのものだ)は町田市。東京都内なのになぜか神奈川県内というイメージをもたれがちな不憫な市である(町田市民の皆様、ごめんなさい・・・)。本作のもう1人の主役はこのまほろ市だと思うのだが、その割には町の姿が立ち上がってこないのが残念。断片的には「そうそう!」ってなるのだが・・・。軽く読める作品で、直木賞をこれで受賞したというのは正直意外なのだが、物語の底辺に深い寂しさみたいなものが流れていること、新しい家族の形を模索し続けているところがあることが時代の空気をつかんでいるのかなと思った。 





『ヤッターマン』

 タツノコプロ制作の名作TVアニメを、三池崇史監督がまさかの実写映画化。ガンちゃん=ヤッターマン1号に櫻井翔(嵐)、愛ちゃん=ヤッターマン2号に福田沙紀、ドロンジョに深田恭子、トンズラーにケンドーコバヤシ、ボヤッキーに生瀬勝久を起用。キャストの見た目は、結構原作(アニメ)イメージに合っている(ドロンジョがかわいらしすぎるが)のではないだろうか。
 アニメの実写映画化というと、近年では『キャシャーン』『デビルマン』という珍事があった為に、本作はどうなっているんだろうと心配だったし、予告編で見たヤッターマンのきめポーズがあまりに寒かったので、もう駄目かも・・・と半ば諦めの気持ちで見に行った。しかし結構いいですよこれ。アニメの世界観にかなり忠実で、特に小物や背景などの美術面は徹底している。話題になったドロンジョのボンテージ衣装はもちろん、ヤッターマンの衣装もすごくよくできている。美術面で予算とい気力の大半を使ってしまったんじゃないかと思うくらいだ。しかし、そこを徹底させたせいで「ウソを成立させるためのリアル」とでも言えばいいのか、映画内世界に手ごたえがある。俳優は生身の人間だから、どうがんばってもアニメのキャラクターにはなりきれないし、なりきったら実写映画化の意味はないだろう。その不足分を補い作品世界を成立させているのが、細部への異常ともいえるこだわりだ。この密度の高い世界の中であれば、俳優やストーリーをどう動かしても「ヤッターマン」として成立するという勝算があったのだと思う。ストーリーのユルさと美術の密度とのギャップが面白かった。
 しかしそもそも、ヤッターマンはストーリーはかなりゆるい作品だった。そういう意味では、タイムボカンシリーズの雰囲気はちゃんと踏まえているんだろうなと思う。少なくとも、タツノコプロ愛にはあふれていると思う。冒頭の渋谷駅前大破のシーンからしてネタ満載(ハッチ公前て)。ただ、これを愛と見るか悪ふざけと見るかは人によるだろうが。
 キャストは、ドロンジョ役の深田恭子の一人勝ち。何しろあの声、あのしゃべりなので、原作(アニメ)のドロンジョよりは少女っぽいのだが、それも味があっていい。彼女は浮世離れした役柄、この世になじんでない(なじめない)役柄を演じるとハマる(たまに普通の女の子を演じるとびっくりするくらいぱっとしない)と思うのだが、三池監督はそこのところをすごくよくわかっているのだろう。ドロンジョが普通の結婚を夢見てしまうシーンなども、深田が演じると「いやいやあなたには無理だから!」という突っ込みが即時成立し、よりイタかわいく切なくもあるのだろう。
 あと、ボヤッキーを演じる生瀬が輝いていた。あっこの人本っ当に上手かったんだ!とものすごく納得した。ボヤッキーのドロンジョに対する片思いの、純情とドロッドロな情念がまぜこぜになった感じが素晴らしい。
 対して、ヤッターマン側はあまりぱっとしていなくてかわいそう。櫻井、アイドルなのに・・・。ただ、なまじヒーローっぽくない、「普通の(ちょっとヌケた)男の子」という雰囲気は、結構一号のイメージに合っていた。福田に至っては嫌がらせとしか思えない扱い。損しちゃってるなーという感じ。





『ファミリーポートレイト』

桜庭一樹著
直木賞受賞後はじめて出版された小説そうだが、上手くなってる!読みやすい!昔の後半ぐだぐだ加減がウソのよう・・・。母親を追い続ける娘の物語だが、あえてよくあるパターンの物語をもってきたのではないだろうか。ベタなネタでどこまでやれるか、という挑戦だったのかなと。『私の男』でもそうだったのだが、現実からちょっと浮かすというか、普遍的、神話的な方向へもっていこうとしているように思う。著者が今まで度々書いてきた「親に愛されたい子供」ものの集大成である。これから、ようやく大人の人間の話を書けるのではないだろうか。しかし本作の主人公は最後の最後まで「母の娘」であり、母親を諦められない。その姿には少々寒気もする。なお、今まで読んだ著者の作品では、どの作品でも年長男性(父親ないしは父親的な)の造形がほぼ同じなところに、何かの業を見た感あり。







『砂糖菓子の弾丸は撃ち抜けない』

桜庭一樹著
著者のメジャー出世作になるのだろうか。少女小説としてずいぶんともてはやされたようなイメージがあったが、少女というより子供の物語だなぁと思った。メインキャラクターが男性であっても成立するのではないだろうか。何より、「少女」と付けると(これは読み手の問題なのだが)何か甘美なものが付随し、本作の悲壮さをロマンティックなものと混同してしまいそうな気がして、それはいやだなぁと思う。少女だけが大変なわけでもないもんねー。10代で読んだらどうだったかわからないが、この年齢になって読むと、少女2人よりも、かつて子供であった担任教師や主人公の兄に目がいく。生還してほしいわけですやっぱり。







『アレクサンダー大王』

 「紀伊国屋書店レーベルを讃える」特集にて鑑賞。1980年制作のテオ・アンゲロプロス監督作品。アレクサンダー大王伝説から発想を得た作品だ。「アレクサンダー大王」(オメロ・アントヌッティ)とあだ名を付けられた盗賊が、1899年12月31日の深夜、仲間を引き連れて脱獄した。アテネに滞在中のイギリス貴族たちを誘拐したアレクサンダー大王は、生地の村へ向かう。しかし村は先生(グリゴリス・エヴァンゲラスト)と呼ばれるリーダー格の男が共産主義の下治めており、自分のものを持てないと盗賊たちの不満はつのる。同時に、イギリス貴族たちを奪還する為、村に政府軍が迫っていた。
 史実とフィクションが織り交ぜてあり、背景にはギリシア近代史があるが、特にギリシア史に詳しくなくても大丈夫だった。神話的な側面が強いからかもしれない。途中、強い影響力を持っていたイギリスとの軋轢、イタリア人アナーキストたちの影響など、生臭い部分もあるのだが、最後の展開でより神話的な域に引き込まれた感じがした。ギリシア悲劇にも近いかもしれない。そういえば、盗賊たちや村人たちの動きは、ギリシア演劇におけるコロス(合唱団)も思わせる。
 アンゲロプロスは、外部からにしろ内部からにしろ、さまざまな政治体制、支配者に翻弄されるギリシアを描いてきたが、本作ではそれが、村という小さなコミュニティの中で展開されているようにも思った。村人たちが専制政治を否定して、共産主義のコミューンを作り上げたものの、アレクサンダー大王の侵入によって危うくなる。村人たちはアレクサンダー大王の部下たちの横柄なふるまいに嫌気がさし、「みんなのもの」としていた武器をそれぞれ手に取るのだが、アレクサンダー大王が出現すると、また手にした武器を放棄してしまう。抗うかのように見えたのに、また強いリーダーに従ってしまうという皮肉。しかしそのアレクサンダー大王もついに引き倒される。民衆の心の移ろいやすさが印象的だった。
 政治的な立ち居地として複数のグループが登場するが、それぞれの陣営を音楽で表現しているところが面白かった。共産村のリーダーたちは労働者を讃える唱歌のようなものを歌うし、アレクサンダー大王たちは、ギリシアの伝統音楽を奏でる。使い方が強烈だったのは、人質となったイギリス貴族たちの末路を示したところ。映像では具体的には出てこないのに、何が起きたのかありありとわかる。





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