3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

2009年02月

『レボリューショナリー・ロード/燃え尽きるまで』

 1955年のアメリカ。若い夫婦、フランク(レオナルド・ディカプリオ)とエイプリル(ケイト・ウィンスレット)は、NYのベッドタウンであるコネチカットの新興住宅地・レボリューショナリーロードに、幼い娘・息子と暮らしていた。しかし理想的に見えた夫婦だが、心の中は満たされずにいた。監督は『アメリカン・ビューティー』のサム・メンデス。
 タイトルも予告編もキャストも宣伝は全てトラップ!ロマンチシズムのかけらもない恐ろしい話!ぜひ既婚者の感想をお聞きしたい。冒頭から顕著なのだが、夫婦双方が、言わなくていいことに限って口にし、言わないとならないことは口にしない。夫の「1つ、~、2つ~」、「じゃあ質問だ」という言い回しは妻にとって癇に障るし、妻の「やっぱりいいわ」という言い方は夫にとってはイラつくものだろう。どこの家庭でもこんなやりとりがありそうだ。
 本当は大して際立ったところがないのに「平凡な幸せ」になじみきれない、平凡な自分を認められない夫婦。特に妻・エイプリルの方に顕著だ(フランクは職場という「家の外」がありそこで評価を得ることが可能だが、エイプリルにはそういうものが一切ないというのも大きいのだろう)。彼女は家族に対する愛がないわけではないが、「こんなはずじゃなかった」という思いを捨てきれない。その思いをフランクが的確にフォローできていれば悲劇は免れたのかもしれないが、彼は彼でまた「こんなはずじゃなかった」と思っているのだ。
 しかし、彼らが理想の生活を追い、仮にパリへ行けていたとしても、彼らの関係が好転し、彼らが満たされるとは思えない。どこへ行っても彼らは彼らでありそれ以上にも以下にもなりようがないのだから。一般的に、大人になったらある時点で「こんなもんだよな」と割り切ることができる(というか割り切らざるを得ない)のだろうが、それができない人にとっては、「平凡な幸せ」は確かに苦しいのだろうとは思う。でもなぜ「平凡な幸せ」では満足できないのだろう。始末が悪いことに、フランクもエイプリルも、自分がなぜ満足できないのかわかっていないから、満足のしようもない。彼ら自身も「パリに行けば全て変わる」とは本気では思っていないのだ。でもどうすればいいのかわからない。どこまでいっても出口が見えないのだ。
 さらに、現状に満足しているように見える隣人たちも実は満足しておらず、だからこそフランクとエイプリルが「パリへ行く」と言い出すと心おだやかではないし、2人を自分たちの側へ引き戻そうとする。その典型である隣人夫妻の造形には監督の意地悪さを感じるのだが、フランク夫妻よりはむしろ隣人夫妻の方が共感を呼びそうだ。
 主人公カップルを、大ヒットロマンス(と受け取られていた)大作『タイタニック』で共演した2人が演じるというところに、監督の意地悪さが窺える。ヒーローとヒロインのカップルも、もし結婚して子供ができていたらこんなものだったんじゃないの?と揶揄されているように見えるのだ。





『ロルナの祈り』

 『ロゼッタ』と『ある子供』でパルムドール受賞、『息子のまなざし』で主演男優賞受賞という、今やカンヌ国際映画祭の賞レース常連となったダルデンヌ兄弟の新作。本作は2008年度カンヌ国際映画祭で脚本賞を受賞しており、何と4作品連続で受賞していることになる。アルバニアからベルギーに来たロルナ(アルタ・ドブロシ)は、ベルギー国籍を得る為に偽装結婚をする。結婚相手は薬物中毒の青年クローディ。お金の為に結婚したクローディだが、ロルナに懐き、麻薬から足を洗おうとする。しかし偽装結婚の仲介業者は、彼は中毒でそのうち死ぬ、死なないなら過剰摂取させて殺せばいいと言い出す。ロルナはクローディを助けようとするが。
 ダルデンヌ兄弟の作品は、引き算で成立している。設定や背景に対する説明が極端に少ない。情報は少しずつ、注意深くタイミングを見計らって提示される。最初のうちは登場人物間の関係や、彼らが何をやっているのか、何のためなのかはっきりしない。徐々に全体像が見えてくるという面白さがある。本作も思い切った割愛をしていた。ロルナがクローディの乗った自転車を走って追いかけるという実に美しいシーンがあるのだが、その後の展開がすごい。というよりも展開を見せないところがすごい。そこを切るか?!普通に作ったら一番盛り上がって泣けるところだし、最近の大作日本映画だったらここぞとばかりに丹念に描くところだろう。そこを丸ごと割愛できるというのは、監督は自分たちの作法に確固とした自信を持っているのだろう。むしろ、そうやすやすと泣かせてたまるかくらいの意気込みを感じる。
 公開前の宣伝では「愛の物語」と称されているが、いわゆる恋愛ドラマという意味でのラブストーリーとは少々違うと思う。ここで描かれるのは対象の在/不在にかかわらず存在する愛、人が最後のよりどころとするものとしての愛だ。ロルナの行動は、客観的には彼女をより追い込むもの、彼女を不幸にするものとしか思えないのだが、彼女の中ではそういう行動を取ることが愛に従うことであり希望となる。
 それは強い愛であり美しいものと言えるのかもしれないが、それしか選択肢がないということでもある。彼女が移民ではなくベルギー国籍であれば、また経済的に豊かであれば、こういう選択肢自体が存在しなかったかもしれないのだ。これしか拠り所がないものとしての愛は、美しいというには切実すぎる。ダルデンヌ兄弟の作品はしばしば、こういった「愛の美しさ」みたいな安易な物言いを封殺する。配給会社はさぞや宣伝に頭を悩ませることだろう。 







『ナショナル・ストーリー・プロジェクト(Ⅰ・Ⅱ)』

ポール・オースター編、柴田元幸他訳
作家であるオースターが、一般のリスナーから募集し、ラジオで朗読した実話の数々をおさめたもの。一歩間違うと「3分間で泣けるイイ話」的なお安いものになりかねないが、そうはなっていないのはオースターの選択と編集のセンスがいいからだろう。いい話だけでなく、結構イヤな話、痛切な話、笑える話、オチのない奇妙な話等、全体のバランスがとれている。しかし不思議な偶然や神秘的な体験の話が予想以上に多くてびっくりした。「虫の知らせ」等は本当にあるのだろうか。なお「実話」というのはあくまで投稿者の自己申告。フィクションという可能性もある。しかしそれでも本書の良さはゆらがないだろう。話の数だけ人生があり、世の中には不思議なことがしばしば起こると感じられれば、本著は成功しているのだと思う。






『仏果を得ず』

三浦しをん著
文楽に青春(といっても主人公30歳くらいですが)をかける若手大夫の奮闘を描く。主人公が芸の上で努力したり悩んだり、恋のことでじたばたしたりするのは、「文楽」のところに「サッカー」とか「ピアノ」とかを入れても成立しそうな普遍性がある。青春小説のフォーマットにしっかりはまっているのだ。だから、文楽を知らなくても楽しく読めるし文楽のこともちょっとわかるし、一石二鳥的。もっとも、文楽のことまでわかってきた気になるのは、著者の説明の仕方がうまいからだろう。登場人物の一人が「古典の登場人物に現代の人間が感情移入するのは無理」ということを言うが、確かにそういう面はある。主人公はなんとか感情移入のとっかかりを探して作品に取り組もうとするのだが、そんなに登場人物になりきらなくても演じる方法はあるんじゃないかなーという気がしてしまうのは素人ゆえか・・・。なお本作、面白いのだが女性キャラクターが全員似たタイプなのはいただけない。単に私が苦手な感情が激しいタイプの女ってことなんですが・・・。




『フェイクシティ ある男のルール』

 ロス市警のラドロー(キアヌ・リーブス)は捜査方法を選ばず、汚れ仕事も引き受ける刑事だ。上司のワンダー警部(フォレスト・ウィテカー)は彼の能力をかい、問題はもみ消してきた。しかし警察の内部調査室がラドローに目をつける。そんな折、かつての相棒ワシントン刑事が違法捜査を密告したらしいと知ったラドローは、彼と話をつけようとする。しかし彼を追って入店したコンビニで強盗と鉢合わせし、ワシントンを誤射したうえ、目の前で強盗に彼を射殺されていまう。
 監督はデヴィッド・エアー。脚本に小説家のジェームズ・エルロイが参加している。ザッツエルロイワールイド!という雰囲気ではないのでファンには肩透かしかもしれないが、冒頭の人種差別ネタや、警官同士の「あいつに惚れてるんだろ」という会話の流れ、主人公がほぼアルコール中毒でワーカホリック(と言われてはいないが仕事にのめりこみすぎという描写はある)であるという設定には、エルロイっぽさがあると思う。
 事件の黒幕は誰なのか?というサスペンスドラマだが、正直言って割と早い段階で多くの観客が「ラスボスこいつだろ」と気づいてしまうだろう。ていうかなぜ気づかないんだラドロー!最初から最後までラドローがニブくてむしろ不自然である。しかしキアヌ・リーブスが演じていると、まあキアヌだから気づかないかもね・・・と根拠なく納得しそうになる。キアヌがダーティーな刑事役というのはミスマッチだと思ったが、よもやこんな効果が得られるとは。ニブくてもOK!なキアヌのキャラクターのおかげで、ストーリーを1時間49分引っ張れたとも言える。
 このように、ストーリーテリングに若干問題がある作品だし、地味なのだが、まったく面白くないかというとそうでもない。細かいところで、ふっと「あ、面白いな」と思うところがあった。特にアクションシーンが妙に足がついたというか、リアルに痛そうだし重力かかるしもどかしそうだと思った。お約束ではあるけれど、塀を越えて路地裏を逃げる男を、車と徒歩(というか走って)で追うところとか、アパート内での銃撃戦で冷蔵庫で敵を固定したり、車内で手錠の斬新な使い方を披露したりするところとか、印象に残った。
 深夜放送やTV東京の1:30~2:30くらいの無理無理に1時間50分に編集された映画っぽいなぁという印象。地上波TVで見たら得した気分になると思う。私はこういうの結構好きです。ラストはなんともいえない割り切れなさがあるが、これも警察組織に完全にはなじめず、しかし警察官としてしか生きられない男たちを描いてきたエルロイらしい。





『大阪ハムレット』

 父親(間寛平)が急死し、母・房子(松坂慶子)が一人で家計を支えている久保家。父の葬式の時に転がり込んできた自称・父の弟「おっちゃん」(岸部一徳)はいつのまにか居ついてしまった。一方、中学3年の長男・正司(森田直幸)は年齢を偽り、一目ぼれした大学生と付き合っている。中1で次男の行雄(久野雅弘)は教師の言葉がきっかけで「ハムレット」を読み始めるが、意味がさっぱりわからない。小学生の宏基(大塚智哉)は将来の夢を聞かれて「女の子になりたい」と発表する。
 原作は森下裕美の同名マンガ。原作の複数のエピソードをまとめて1つの家族の物語としているので、少々詰め込みすぎ(宏基の同級生やいじめっこグループなど唐突に出てきたなという印象がある)だが、破綻はしていない。原作の持ち味がいきている。下手に感動をあおろう(これはエンドロール後にちょっとやらかしちゃっていて、もったいない)とか大作っぽくしようとかしなかったところが勝因か。
 久保家は経済的には決して豊かではなく、房子はヘルパーとホステスをかけもちして子供たちを養っている。しかしこの手の設定にありがちな「貧乏の苦労」の影がなく、タフで明るい。あくまでからっとしていて貧乏くさくないのだ。これは母・房子が陽気なキャラクターであること、それを演じる松坂に華がありつつどっしりとしているからだろう。いかにもな「女優」キャラの松坂慶子が大阪のオカンてミスマッチじゃないの?と思っていたのだが、予想外によかった。いわゆる上手い演技というのではないが、彼女がいることで作品に安定感が出ていると思う。そして「おっちゃん」役の岸部一徳が、まあいつもの岸部一徳なんですが(笑)またいい。ふらーっとした男を演じるとやはりはまる。頼りないけど愛嬌がある。
 主人公各である、3人の男の子たちもよかった。女の子になりたい末っ子役の宏基は、いわゆるかわいい顔ではなく、むしろ微妙な顔なところにリアリティがある。また、意外に常識人で頭は悪いのに悩みがつきない次男役の久野は、このノリ現代っ子には難しいんじゃ・・・(昔のヤンキー然とした役柄なのでね)と思ったが健闘している。長男役の森田は悪くはないが、もうちょっと年寄りくさく見える人の方が不自然でなかったかもしれない。体格が細っこいので若干無理があったように思う。
 見終わったあとなんだかほっこりとした気持ちになるが、それは本作が肯定感に満ちているからだと思う。母親がいつのまにか妊娠していようが、好きな女が突き抜けたファザコンだろうが、息子が「女の子になりたい」と言い出そうが、それらは否定されることはない。そのくらいたいしたことないわ!と笑って踏ん張れる強さを感じる。この笑い飛ばせる感は、舞台が大阪で「大阪のオカン」が出てくるから成立したのではないだろうか。東京だと、こういう方向で落しにくいんじゃないかと。





『天使の眼、野獣の街』

 凶悪犯罪容疑者の監視・追跡を任務とし、警察組織内にもメンバーの素性は伏せられている、香港警察刑事情報課・警視班。新人女性警官ホー(ケイト・ツィ)は班のリーダー・ウォン(サイモン・ヤム)の指導のもと、宝石強盗団のリーダーらしきチャン(レオン・カーファイ)を追跡するが。
 ジョニー・トー監督作品で脚本を手がけてきたヤウ・ナイホイの初監督作品。プロデュースはトーが手がけている。ジョニー・トー組とでも言うべき、トー作品でおなじみの俳優たちが脇を固めている。
 冒頭、ホー、ウォン、チャンが同じバスに乗り合わせるホーは誰かを尾行しているらしい。この3人は何者なのか?ホーは誰を追っているのか?何も説明なくカメラは彼らを追っていき、ようやくホーとウォンが警官であることがわかる。冒頭10数分のフックが強く、何が起こっているの?!とわくわくする。しかしその後はいまひとつ盛り上がらなかった。盛り上がるような展開は随所にあるのだが、ありすぎて一つ一つの盛り上がりにヒキがないといえばいいのか。本編90分というかなりコンパクトな作品ではあるのだが、体感時間はもっと長かった。展開はスピーディーなのに緩慢に感じられるという不思議なことになっている。
 犯人グループのバーベキューをやりながらの乱闘や、刺されて血だまりにうずくまる男、やたらと暗く人物にだけスポットライトがあたったような室内、クライマックスの雨など、ジョニー・トーに影響を受けたと思われるショットがあるが、あのエレガントさ、ねっとりとした味わいには程遠い。やはり映画の地力が違う。ドラマティイクな演出になんだか照れがあるみたいでこなれきってなく、見ている方も気恥ずかしくなってしまった。何かもったいない。ともあれもう何作か見てみたい監督ではある。
 もっとも、この監督の持ち味は、本来はジョニー・トーとは違うのではないだろうか。映像の好みがもっとドライでざらついているように思った。同じ刑事ドラマでも、派手なガンアクションなどはあまりせず、リアル寄りのものの方が向いているんじゃないかと思う(銃撃戦の撮り方のトーとの違いが印象的だった)。様式美の人ではなく写実の人なのではないだろうか。





『その男、ヴァン・ダム』

 90年代にもてはやされたアクションスター、ジャン=クロード・ヴァン・ダム。しかしいまや時代遅れで離婚訴訟の費用にさえことかく日々。ある日立ち寄った地元ベルギーの郵便局で、強盗と鉢合わせし、あろうことか警察官に自分が犯人だと誤認されてしまう。ヴァン・ダムの運命やいかに?! ヴァン・ダムがヴァン・ダムを演じるヴァン・ダムの為の映画。監督はマブルク・エル・メクリ。本作の制作会社はゴーモンなのだが、本編前の制作会社ロゴ映像までヴァン・ダム仕様になっている念の入れ方だ。みんなヴァン・ダムが大好きなのか。
 そのわりには、お話の中のヴァン・ダムは散々な目にあっている。スターなのにお金に困り、強盗にとっつかまってボコられ、脱出を試みるもあえなく失敗、犯人と勘違いされたまま説得の為に両親まで引っ張り出されてくる始末だ。「ちょっと前まではスターだったけど今はおちぶれている」という、あまりに生々しい設定の「ヴァン・ダム」なので、見ていてとっても切ない。娘に「学校でからかわれるからパパと一緒に住むのは嫌」といわれてしまうのもせつなさ満点だ。
 この情けなくリアルすぎる「ヴァン・ダム」を堂々と演じたヴァン・ダムは、これまでの出演作からはイメージしにくいが、相当冷静で自分を客観視できる人なのだろう。そしてたぶん、結構洒落のわかる人なのではないかと思う。でないとこんな作品のオファーは受けないだろう。この作品は、「昔はもてはやされたけど今はおちぶれている」というヴァン・ダムのイメージが世間一般で確立されているという前提がないと成立しない。本作のオファーを受けるということは、自分は落ちぶれましたと認めることになる。変なプライドを持った俳優なら怒りそうだ。もっとも、こういうオファーも受けざるをえないくらい仕事がなかったのかもしれないけど・・・。しかし本作、俳優ヴァン・ダムにとっては確実にプラスになっている。ヴァン・ダムといえば派手なアクションというイメージしかなかったのだが、この人案外普通の演技がいい。年をとって顔つきにも演技にも味が出てきたというべきか。この人こんなこともできたんだ!という軽い驚きがあった。ラストシーン、受話器を頭にコツコツと当てる姿はとってもキュートだ。
 終盤、ヴァン・ダムが独白するシーンがある。こういう「映画を見ている観客に対する語り(しかも長い)」は、本来だったらあまり感心しないのだが(映画の作法としてどうこうというのではなく、個人的な好みとして)、本作の独白にはちょっとぐっときた。感心しないと切り捨ててしまうには切実すぎる。もう一度もてはやされたいとか大作に出たいとかではなく、「俺の人生こんなはずじゃなかった、でも生きていたい」という多くの人に共通するものだからだ。
 決して良作というわけではないが、愛すべき作品ではあると思う。特にヴァン・ダムと同世代の人は身にしみるところが多いのではないだろうか。「ジョン・ウーは裏切り者」「セザールに役を取られた」「ブルガリアでアクション映画を大量生産」など、映画ファンならにやりとする小ネタも多いのが楽しかった。みんなセザールのポニーテルを「あれはないわ」と思っていたことがわかり、安心しました。でも「フェイスオフ」は傑作か・・・?








『そして、私たちは愛に帰る』

 大学教授のネジャットの父親アリはブレーメンに住んでいるが、同郷であるトルコ出身の娼婦イェテルと突然同居を始め、ネジャットは戸惑う。そのイェテルがトルコに残してきた娘アイテンは反政府組織のメンバーとして警察に追われ、偽造パスポートでドイツへ出国。ドイツ人学生ロッテと知り合い、彼女の家に転がり込む。しかしロッテの母親はいい顔をしない。3組の親子、2つの死が、ドイツとトルコという2つの国を股に掛け交錯する。
 監督は『愛より強く』で2004年ベルリン国際映画祭金熊賞を受賞したファティ・アキン。『愛より~』は展開がスピーディーで有無をいわせぬテンションの高さがあった。普通の描き方だとセンチメンタルになりすぎたり、あまりに超展開じゃないか?と思ってしまいそうなところを、熱量で押し切るのだ。本作もストーリーは非常にさくさくと進むが、前作よりも構成が技巧的になっていると思う。登場人物たちが会いたいのに会えない人とそれとは知らずにすれ違っていたり、棺おけの行き来が2つの国を結ぶなど、直線状態だった前作に比べると構造が立体的。
 ドイツとトルコという文化の軋轢、またトルコ内の政治的問題も見え隠れする(ロッテの母親とアイテンとの言い合いが平行線なのが象徴的だった。世代間の軋轢もあるが、ロッテの母親がトルコが抱える問題はEUに加盟すれば解決するとしか言えないあたり)が、最もクローズアップされているのは、親子の間の軋轢だろう。3組の親子が登場するが、2組は愛情はあるがお互いを理解しきれず、1組は長らく顔を合わせてすらいない。赤の他人ならともかく、最も身近な存在である親のこと、子供のことがわからないという感じがすごくよく出ていた。特にロッテの母親が娘の変貌を不安がりついていけずにいる様子は、世界共通のものを感じさせる。そしてこれがあるからこそ、終盤での展開が感動的なのだ。
 愛する者の過ち、また愛する者が愛したものまでもひっくるめて引き受けていくという強さは、前作『愛より~』で主人公男性が見せた、まるごと受け入れる愛と通じるものがある。監督が考える愛とは、許す・受け入れるという面が占めるウェイトが高いのではないかと思う。愛が強く深い。その強靭さに感動してしまった。
 ちなみに、ネジャットがイスタンブールで買い取るドイツ語書籍専門書店の雰囲気がとてもいい。私はドイツ語は全然わからないので、当然本の題名等は読めないのだが、本の配置など、これ絶対いい本屋でしょー!という確信が持てる。用事が長引きそうなお客にチャイを振舞ってくれるところも素敵。





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