3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

2009年02月

『愛のむきだし』

 父親である神父のテツ(渡部篤郎)と2人で暮らしてきたユウ(西島隆弘)は、「マリア様みたいなお嫁さんを見つけてね」という亡き母親の言葉を忘れず、理想の女性を探していた。一方テツは、半ば強引に押しかけてきたサオリ(渡辺真起子)が離れていくと同時に様子が一変。ユウに無理やり懺悔を強いる。ユウは女性の下着を盗撮することで、懺悔するべき罪作りに励む。そんな中、罰ゲームとして女装したユウは、理想の女性ヨーコ(満島ひかり)に出会う。園子温監督・脚本作品。
 まさか、まさか4時間近い大作なのにまったく飽きなかったなんて・・・。予告編見た段階ではまったく期待しておらず、半ば義務感で見に行っただけにこれはうれしかった。タイトルが出るまで1時間近くかかるというおそろしい構成なのだが、テンポがよく流れがダレない。特に前半のテンションの高さとそれがずっと維持されているところはすごい。前半はアクションシーンが多いというのも一因か。主演の西島も満島もそこそこ体のキレがいい(特に西島はさすが現役アイドルというべきか、身体能力高いと思う)ので、B級アクション的な楽しさもあった。
 正直、パンチラ盗撮を前面に出す必要性はあまり感じなかったが、客寄せのギミックとしては強力だろう。後半は新興宗教団体「ゼロ教会」とユウとの対決が前面に出てくるので、聖なる愛に対する俗世の欲・・・と思ったが、よく考えると「ゼロ教会」は洗脳まがいの方法で無理やり信者を増やすエセ宗教だし、ユウは盗撮やパンチラそのものには興奮しない体質。どちらかというと、宗教産業に対する風俗産業か(笑)。
 「ゼロ教会」が唱える「愛」に対抗するのは、もちろんユウのヨーコに対する「愛」であり、ユウは入信したヨーコを誘拐して正気に戻そうとする。しかしこのあたりで映画の流れが急速にダレた。ユウがヨーコに対して説得力のある言説を持っていないので、肩透かしな感じになってしまったと思う。その後の展開も少々なし崩し的で、前半の密度が薄れてしまったのが残念。
 また、恋愛ストーリーとしてはきちんと成立しているのだが、もうひとつの大きな愛の問題である、ユウ、ヨーコ、コイケ(安藤サクラ)の親との確執とそこからの回復がうやむやになってしまった。父親を文字通り切り捨てたコイケはともかく、ユウと父親との関係はうやむやなままだし、ヨーコは家族を否定するものの、結局擬似家族的な教団に絡め取られてしまう。そこからどう脱却していくか、という部分の方が個人的には見てみたかった。オーソドックスなボーイミーツガールとしてまとめてしまったのは惜しい。その先が見たいのよ~。
 主演の2人はよくがんばったなぁという印象。特に西島は、お世辞にも演技が達者とはいえないのだが、(どいういう順番で撮影したのかわからないけど)どんどんいい演技をするようになっていく。1本の映画の中で出演者の成長が目に見て、ちょっと感動した。あと、ゆらゆら帝国の楽曲の使い方がばっちりでうれしかった。






『エレジー』

 (ややネタバレ)
 文学を専門とする大学教授のデヴィッド(ベン・キングスレー)は教え子のコンスエラ(ペネロペ・クルス)に惹かれ、やがて恋人同士となる。しかし彼は若いコンスエラが自分から離れていくのではと恐れていた。監督はイサベル・コイシェ。
ちょいワルおやじのモテ話かよ!渡辺ジュンイチかよ!・・・と当初見る気がぜんぜんしなかった本作だが、コイシェ監督の『あなたになら言える秘密のこと』をたまたまTVで見て、俄然興味がわいてきた。この監督は甘っちょろいロマンスは撮らないだろうと。で、実際見てみたらこれが渋い渋い。切ないロマンスなんてもんじゃない(いやある意味切ないんだけど)です。
 デヴィッドはコンスエラと深い仲になり、大学院を卒業する彼女に「実家でパーティーやるから家族に会って」と頼まれる。デヴィッドは正直乗り気ではないが、愛するコンスエラの為なのでしぶしぶ了解。そして当日、デヴィッドはコンスエラの家の近くまで行くものの、「いやー交通事故で間に合わなさそうなんだよね~」と電話して招待を断ってしまう。えー。久しぶりに映画を見ていて唖然とした。なぜバレバレな嘘をつくのかと(コンスエラは電話中に気づく)。30歳近く年下の恋人の両親というと、おそらく自分と同年代。気まずいのはわかる。でも彼女とこの先も一緒にいたいなら通らねばならぬ道だろう。そこを回避してしまう根性のなさと無責任さは、いい歳した大人とは思えない。
 コンスエラはこの後、彼への連絡を絶ち姿を消す。そして驚いたことに、後々まで彼は、彼女がなぜ怒り、彼から離れたのか理解していないのだ(友人に「パーティーを断ったら別れた、何を考えているのかわからない女だった」という意味のことを後に言う)。彼女は彼に、自分の人生に関わって欲しかったのだ。だから家族にも会って欲しかったし、それに応じるかどうか彼を試したのだ。しかし彼はそれを拒絶した。他人の人生に関わることの責任をもてない人とは、一緒に人生を歩めるわけはない。このようにデヴィッドは、年齢は重ねているが成熟しているとは言い難い。
 数年後、コンスエラは再びデヴィッドの前に現れる。彼女にはある頼みごとがあった。これは、彼女がデヴィッドを愛していたということでもあるだろうが、その頼みごとは皮肉でもある。デヴィッドに愛されていると彼女が確信できたのは、「そこ」だけだということでもあると思うからだ。彼女は(自覚の有無に関わらず)2度彼を試したことになる。彼は1回目は気付かず、2回目はようやく気付いた。しかし残された時間がどれくらいあるのか。デヴィッドの友人は彼に「彼女は君が大人にしたようなもの」と言うが、実際は彼女の方がずっと大人だった。彼女がデヴィッドをようやく大人にしたのだ。
 一歩間違うと安いメロドラマになりそうなところだが、そうはならないところがコイシェ監督のいいところ。男女どちらにも過剰に肩入れすることなく、時によっては冷徹といってもいいくらい突き放した視線がある。しかし、デヴィッドを一見スマート・ダンディな年配男性として造形しつつ(見る人によっては最後までそう思っているかも)、彼のヘタレさをじわじわ見せていくあたりには、結構な意地の悪さを感じた。





『英国王給仕人に乾杯!』

 題名には「英国王」とついているが、チェコの映画。1960年代、共産主義体制下のプラハ。出獄した初老の男・ヤン(イヴァンン・バルネフ)は、国境付近のズデーテン地方に送られる。廃屋を改築して暮らし始めた彼は、人生を振り返る。彼は田舎町の食堂の給仕人からスタートし、プラハの名門ホテル、ホテル・パリの給仕人となる。しかし1938年、チェコスロヴァキアはドイツに占領され、ホテルにもドイツの将校たちが出入りするようになった。そしてヤンは、ドイツ人女性リーザに恋してしまう。監督はイジー・メンツェル。
 「数奇な人生」ものでもあるが、チェコの近代史でもある。チェコの現代史をまったく知らないと厳しいものがあるかもしれない(私もよく知らないのだが。予習していけばよかった)。しかし面白くほろ苦いコメディで、十分楽しめた。
 主人公であるヤンは、ちょっとした機転の利く人物だが、賢者というわけではなく、善意はあるが善人ではない。どちらかというとこすっからい小物だが憎めない。この親しみの持てるキャラクター付けがよかった。あくまで一市民、偉くもないしそう辛苦をなめているわけでもない、一般庶民の目線を持った人物として造形されたのではないだろうか。
 これは「一般人」としてのリアリティあるなぁと思ったのが、ヤンの長いものには巻かれろ的なところだ。彼が信じるのは金。思想的にはあまりポリシーはなく、ドイツ人が台頭してきたらドイツ人の側に立ちナチスにも協力する。愛国心がないわけではないが、給仕長のように筋の通ったものではない。その場その場で都合のいい側につく。彼と対照的なのが、昔かたぎの給仕長。しかし生き残るのはヤンだ。良くも悪くも多少いい加減な方がたくましく生きていけるのかもしれない。
 ただ、ヤンが自分の無節操さに対して無自覚なのではなく、給仕長に対しても、ナチス親衛隊である妻に対しても、複雑な心情であるのは見て取れる。更にドイツが侵攻してくるちょっと前、チェコ内で愛国主義的な運動が強まった際、チェコ内のドイツ人(結構いたそうだ)は迫害されていた。ヤンも若いドイツ人女性が暴行を受けそうになっているところに居合わせる。そしてヤンは、同胞にボコられる危険を冒しても彼女を助けてしまうのだ。権力に立ち向かうほどの気骨はないしポリシーがあるわけでもないし極力保身を図りたいが、見ず知らずの人を助ける善意を時に発揮するというところが、「凡人」としての救いになっていると思う。監督にとってはチェコの国民性に言及しての表現なのかもしれないが、普遍的にも言えることだろう。
 メンチェル監督は結構なお年(70歳だとか)なのだが、年を取ると表現に対してより自由になってくるのかなと思った。リアルとファンタジーを自在に行き来していて、ファンタジックな表現にまったく躊躇がない。あと、エロに対しても大変おおらか。女性のフルヌード率高いし乳首率高いし、わーやりたいことやってるなーとほほえましい気持ちになった。とはいっても、女性のヌードや性的な表現が多様されていても、どこか長閑でユーモラスであり、下品ではない。このへんのセンスがいいなと思った。







『悲夢』

 印鑑職人のジン(オダギリジョー)は、別れた恋人を車で追って交通事故を起こす夢を見た。夢の生々しさが気になったジンは、夢に出てきた交通事故の現場に行ってみるが、実際に交通事故が起こっており、事故を起こした車を運転していたラン(イ・ナヨン)が警察に連れて行かれた。ランは夢遊病状態で運転していたらしく、事故のことはまったく覚えていない。ジンは自分が夢を見たせいで彼女が事故を起こしたと考える。
 最近のキム・ギドク監督の作品は、(『弓』あたりが契機だったと思うのだが)ずいぶん色彩に重きを置くようになったと思う。本作でも青を基調とした映像が美しい(さし色で赤を使っているのが印象に残った)。ロケ地も浮世離れしていてよかった。昔の家並みが残っている、おそらく美観地区的な扱いをされている場所だと思うのだが、美しい。ちょっと昔のトレンディドラマ的な出来過ぎ感はあるのだが、監督はおそらく、いわゆるリアルなセット作りにはあまり関心がないのだろう。このへんに関しては、作り物で結構、むしろ作り物OK!と思っているのでは。
 さらに、ギドク作品はここ2、3作でどんどん抽象化してきているように思う。セットに生っぽさを求めない(美的な効果としてのセットとして捕らえる)のもそうなのだが、登場人物の造形や配置に対して、それを強く感じた。ジンやランがどういうパーソナリティの人で、何をして生活しているのかということはわりとどうでもいいのではないかと思う。関心があるのはジンとランの立ち居地であり、相互にどういう力が働くかということではないか。「~という人」ではなく「~というポジションにいる人」なのだ。ジンとランが他の人物であっても、「片方が見た夢をもう片方が実行する」という関係性があれば置き換え可能とも言える。だからなのか、見ているうちに、誰が誰の夢を見ているのかわからなくなってくる。ジンの夢の中に自分の元恋人とランの元恋人が出てくるのではなく、ジンの元恋人かランの元恋人が、ジンとランの夢を見ているのではとも思えるのだ。
 ドラマというより、ある種の数式、図表を見ているような印象だった。登場人物の配置が対称的(いや反対称的か?)だ。ジンとランは衣装も黒に対する白、眠りを間においた対称的な存在(対称的というより対応し合う存在といったほうがいいのかもしれないが)だが、ジン対ランだけでなく、ジンとランという男女に対して、ジンの元恋人とランの元恋人という男女が呼応している。ジンの夢の中に出てくる元恋人は、ランの元恋人と付き合っているのだ。ジンの夢の中で、ジンの元恋人とランの元恋人が争う側にジンとランが佇むシーンは象徴的だ。2者間で呼応する関係が、組み合わせを変えて現れるのだ。ジンはランと対でもあり、ランの元恋人と対でもある。ジンが最後に選ぶ道は、そう考えると当然である。





『博物館の裏庭で』

ケイト・アトキンソン著、小野寺健訳
アリス、ネル、バンティ、ルビーというヨークシャーに生きた4代にわたる女たちの人生。2つの大戦を経たイギリス現代史でもある。描かれる時代が章ごとに前後するので、登場人物同士の関係を頻繁に見失いそうになった。冒頭に家系図あって助かったわー(ある意味ネタバレになってしまっているのだが)。4人の女性の人生は決して華々しいものではなく、劇的な事件はあってもどちらかというと苦笑いしたくなるようなものだ。しかし、見方によっては結構不幸だったりドロドロしそうなことも、ユーモラスに描いている。しめっぽさとセンチメンタリズムがないところがいい。また、ある一族、家族の物語ではあるが、決して強い絆があるわけでもなく、むしろ腐れ縁といったほうがいいような関係として描かれているのが面白かった(実母よりも、ひと夏を一緒に過ごした父の愛人との方がよっぽど相性のいいルビー姉妹がなんとも・・・)。普通、家族の物語と言うと不仲であっても最後には和解するのがお約束だが、ルビーは最後まで母親を愛した・愛されたとは思えずにいる。それもまた家族の形なのだろう。でもそこを全然嘆く感じではない。それもまた人生、という達観というか、ずぶとさみたいなものがある。





『淀川長治とおすぎの名作映画コレクション』

淀川長治、杉浦孝昭共著
わたし、おすぎの本名はじめて知りました・・・。おすぎにとって淀川氏は「淀川の母」なのだそうだ。なるほど納得。題名のとおり、淀川とおすぎによる映画対談集だが、歯に衣着せない2人のやりとりが、対象となった映画を自分が好きか嫌いかとは関係なく楽しい。自分にとって見たことがない映画ばかりだったので勉強になった。なにより、2人とも心底映画好きだということがよくわかる。淀川はどんな映画でも褒めるだけの人ではけっしてなかったし、おすぎは配給会社のオーダー通りに映画を褒めるだけの人ではけっしてない。2人とも、方向はちょっと違うけれど、すごく苛烈な部分があることが垣間見える。また、2人の映画の好みの差異が面白かった。淀川の方が唯美的なものへの親和性が高く、おすぎの方が、案外ロジカルな見方をしているような気がする。ただし、おすぎはブラッド・ピット好きすぎ!さわぎすぎ!どこの女子ですか!






『ハルヒマヒネマ』

やまだないと著
漫画家である著者が「ヤマラハルヒ」として綴った映画(おもにDVDで)鑑賞記録。ブログをまとめたものらしいが、鑑賞タイトル数と幅の広さがはんぱない。これを見る人があれも見ますか!と唸ったが、てんでばらばらに見えるラインナップなのになんとなく著者の映画選択の指針みたいなものが見えるのが不思議。一つの映画に対する深い批評よりも、雑多な映画に対する大量のコメントの方が、その人の人となりが垣間見えることもあると思う。著者の映画評は私にとって、ぞっとするくらいに鋭いと感じられるものと、それは違うんじゃないかなーというものの振れ幅が極端で、そういうところも面白かった。あと、著者は洋画の邦題が気に入らなくて自分で考案したりするのだが、考えた題名が元の邦題とどっこいどっこいのセンスで、意外にかわいい人だなーと思った。





『ヘブンズ・ドア』

 ドイツ映画『ノッキン・オン・ヘブンズドア』(1997)のリメイク映画。オリジナルは、余命わずかと判明した男2人がギャングに追われつつ海を見に行くロードムービーだったが、ドイツで大ヒットしたというのも頷ける快作だった(残念ながら日本で公開した時はあまりヒットしなかったようだが)。リメイク版では、主人公の男2人を、青年と少女に置き換えている。
 脳腫瘍が見つかり、突然余命3日と宣告された28歳の勝人(長瀬智也)は、入院先の病院で、幼い頃から入院生活を送り、余命わずかだという14歳の春海(福田麻由子)と出会う。春海が一度も海を見たことがないと知った勝人は、酒に酔った勢いで、一緒に海を見に行こうと車を盗んで春海を連れ出す。しかし勝人が盗んだ車は、ある組織が大金を乗せていたものだった。
 オリジナル版のファンとしては非常に不安だったのだが、監督が『鉄コン筋クリート』のマイケル・アリアスだというので、アニメーションではなく実写作品だとどういう雰囲気になるのか気になったので、そして主演が長瀬智也なので一応見た次第。面白いことに、実写ではあるが「鉄コン~」を思わせる映像がところどころに見られた。人物よりもオブジェクトへの愛着が感じられるところ、街の猥雑な部分の切り取り方、色の加工加減などはちょっと面白いなと思った。
 思っていたほどひどくはないが、リメイクとしては決して成功作ではないだろう。2人を海へと突き動かすモチベーションが、ストーリーの途中で見失われていて、ロードムービーとしての前に進む力が知りきれトンボになっているように思った。また、勝人と春海、怪しい組織、警察という3本の軸が上手くからんでいなかったのは残念。最大の難点は、オリジナル版からのキャラクターの移し変えが上手くいっていないところ。特に長塚圭史演じる組織のボスの造形の薄っぺらさには辟易した。お前はどこの中二・・・と思わず遠い目をしたくなるくらいひどい。よりによって、優れた劇作家でもある長塚にこんなセリフ言わせるなんて・・・。彼は本作出演者の中で一番割りを食ったのではないだろうか。
 オリジナル版はロードムービーであると同時にバディムービーでもある。本作(リメイク版)を見て、男女ペアだとバディームービーにはなりえないのだろうかとがっくりとした。いくら年齢差があっても、2人の関係がバディではなく恋愛感情的なもの、もしくは女性が母性で男性を包むというような関係になってしまう。14歳だと、(特に女の子は)さほど子供って感じではなくなるのも要因だろうが。
 ところで本作、そもそもなぜ「青年と少女」という組み合わせにしたのか謎だ。オリジナルをまんまリメイクするのも何だから・・・ということだったのかもしれないが、戦略的に失敗していると思う。オリジナル版がどうこうではなく、集客力として。長瀬をキャスティングした時点でもう1人ジャニーズから引っ張ってきていれば、集客力倍増じゃないですか。少なくとも福田よりは客が呼べそう(客層は絞られるけど)じゃないですか。なお、本作最大の敗因はアンジェラ・アキによるKnockin' on heaven's doorの日本語カバーだろう。どこをどうすればそうなるのか。






『ロシュフォールの恋人たち』

 ジャック・ドゥミ脚本・監督、ミシェル・ルグラン作曲、カトリーヌ・ドヌーブ主演という『シェルブールの雨傘』と同じ組み合わせによる、1966年制作のミュージカル。
 お祭りの準備に浮き立つ、海辺の町ロシュフォール。美人双子のソランジュ(フランソワーズ・ドルレアク)とデルフィーヌ(カトリーヌ・ドヌーブ)、双子の母親であるカフェのマダム・イボンヌ(ダニエル・ダリュー)、絵描きを志す水兵のマクザンス、旅の曲芸士エチアンヌとビル、楽器店主のダーヌらが織り成す恋愛模様。
 ミュージカルというよりも音楽劇という感じだった『シェルブール~』に対し、本作は歌って踊る、いわゆるハリウッド的なミュージカル。華やかで楽しい。音楽は軽快なものが多く、個人的には『シェルブール~』より好みだった。踊れる曲はやっぱり楽しくていいです。対して、ドラマの方は散漫でさほど面白みはない。とにかく全てのカップルを成立させるぜ!という、ある意味筋の通ったストーリーなので、この人とこの人を処理したら次はこの人とこの人を~というように、大変くどくどしい。そんなにエピソードひっぱらなくても・・・と思ったところも。特にデルフィーヌとマクザンスに立ったフラグが処理されるまでが長い長い!そこまでやるかー!また、カフェの常連となった年配紳士の正体など、妙なエピソードも挿入されていて、あまりまとまりのいい作品ではない。パステルカラー基調で画面は華やかだし音楽は楽しいのだが、密度の濃い楽しさではなく、ユルく楽しい映画だった。作っている方も、ビジュアル以外にはあんまりこだわらずに楽しんで作ったんじゃないかなーという気がする(ぜんぜんそんなことないかもしれませんが!)
 歌って踊るミュージカルではあるのだが、正直、歌も踊りもすごく整っているという感じではなかった。ハリウッド(特に近年の)エンターテイメント魂を見ちゃうと、物足りないと言えば物足りない。ジーン・ケリーが踊りだすとそれが際立つ皮肉。双方にとってあまり幸せな共演じゃなかったんじゃないかなと思う(ジーン・ケリー自身はすごくチャーミングだと思うが)。
 特にドヌーブって、決して歌や踊りが上手い人ってわけじゃないんだよなぁ・・・。そして本作のドヌーブは主演扱いではあるのだが、彼女が最も美しく撮れている作品かというと、そうでもないだろう。むしろ、髪型のせいで頭でっかちに見えるし、メイクもメリハリがありすぎてちょっと怖い(笑)。少なくとも男性ウケはしないと思う。
 ところで『シェルブール~』にしろ本作にしろ、父親の存在が非常に希薄(というかない)なのが不思議だった。大人の男の存在感があんまりないのよ。ラブストーリーを円滑にすすめるためなのか、監督の手癖なのかちょっと気になる。あと、どちらも戦争(国内ではないにしろ)が背景にあるのも気になりました。映画は美しく華やかなだけに。






『シェルブールの雨傘』

 監督ジャック・ドゥミ、作曲ミシェル・ルグランによる1964年製作の名作ミュージカルがリマスター版で公開された。初めて見たのだが、確かに名作。要所要所でぐずぐず泣いている女性客もいたのだが、そりゃあ泣くわと思った。すばらしいです。
 1957年、シェルブールの傘屋の娘ジュヌビエーブ(カトリーヌ・ド・ヌーブ)と自動車修理工場で働くギイ(ニーノ・カステルヌオーボ)は恋人同士だった。しかしギイは2年間の兵役に発つ。2ヵ月後、ジュヌビエーブは妊娠していることに気づく。ギイを待ち続けるジュヌビエーブだが、裕福な宝石商のカサールもジュヌビエーブに惹かれ、彼女の母親・エムリー夫人にジュヌビエーブと結婚したいと申し込む。
 タイトルロールからしてデザインの妙を堪能できる、色の取り合わせが実に美しい作品だった(リマスターになったことで、さらに発色よくなったかも)。建物の壁の色や室内のインテリア、衣装の色味など、全てに細心の注意を払って配色しましたよというような感じ。特に女性たちの衣装は、おしゃれなのかと問われるとちょっと困るが(笑)色がきれいだった。もっとも、ド・ヌーブが着ていた水色ギンガムチェックのワンピースなどは実際に着てみたくなるような(似合うかどうかは別としてな)かわいらしいもの。
 配色の鬼とでも言うべきドゥミの技を堪能した。しかしこの映画、決してビジュアルと音楽最優先というわけではない。予想外にドラマとして面白かった。正直、前半のモナムールジュテーム言い(いや歌い)続けているあたりではハイハイもういいですよーと眠くなってきてしまったのだが、ジュヌビエーブの腹が膨れてきてから俄然面白い。出産を控えギイを待つジュヌビエーブはある決断をし、やがて帰郷したギイもある決断をする。
 ここから終盤のクライマックスに向けての流れが、映像は美しくファンタジックですらあるのに話の展開はかなりシビア、地に足が着きすぎているのがすごい。このあたりが、アメリカ映画とは決定的に違うんだろうなと思った。男女のあり方の成熟度が、フランスの方が格段に高いんでしょうね(笑)。恋のうつろいやすさ、人の心の変わりやすさに対する諦念のようなものを感じる。ジュヌビエーブが「彼(ギイ)と会わずにいるのになんで平気なのかしら」とつぶやく姿には凄味すら感じる。しかし、諦念はあるがニヒリズムには陥らない。人は変るが人生は続くということに、すごく肯定的だと思った。ラストシーンにそれが集約されている。
 それにしても本作、一見唯美的でありつつ、人間観察が実に鋭い。ジュヌビエーブとギイのやりとりで、ジュヌビエーブがギイに「ガソリン臭い」というがギイは「これが僕の香水さ」と返す。この時点ですでに、この2人はもしかしてうまくいかないんじゃないの?と匂わせるのだ。また、ジュヌビエーブとその母親の関係も、親密さと微妙な力関係の見せ方が的確すぎて怖い(笑)。カサールに対する態度も、ジュヌビエーブの夫候補として気に入っているというより、自分が異性として好意を持っている風なのが生々しかった。





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