3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

2008年12月

『ザ・ローリング・ストーンズ シャイン・ア・ライト』

 ローリングストーンズのライブフィルムを、マーティン・スコセッシ監督が撮影。この撮影のためにN.Y.のビーコンシアターで開催されたライブだそうだ。すごい顔合わせだが、スコセッシ監督である必要はあるのか?とちょっと疑問だった。だってストーンズだったら誰がとってもそれなりにかっこよさそうだしねー。しかし、実際に見てみると、やはり巨匠と言うべきか、ショットの切り替えが的確で気持ちいいし(音楽ドキュメントやライブフィルムだと、時々「なんでここで切るのか?!」と思う作品がある。音感のある監督じゃないとやっぱりうまくいかないのか)、メンバー間の人間関係が垣間見えるちょっとしたショットをしっかり押さえている。見ていてすごく気分が上がった。
 冒頭はライブ当日までのドキュメント風。スコセッシ本人も出演し、「まだセットリストこないの?!」等とカリカリしているのがおかしい。一方、ストーンズの方は入念にリハや選曲していてちょっと意外だった。きっちり仕事しているなーと。そのきっちり仕事している感が、ライブ本編でも遺憾なく発揮されている。プロのショーというのはこういうものか!とうなった。ストーンズは、デビュー当時はともかく今では特に演奏が神業というわけではないし楽曲が突出してユニークというわけでもないと思うだが、ひとたびステージに上がるとこうもかっこいいのかと。特に、ミック・ジャガーのスタイルの変わらなさと動きのしなやかさは驚異的。その年でその動きですか!その年で腹チラセクシーですか!どれだけ努力しているのかと。しかしこのプロ意識が、ストーンズを現在まで転がし続けてきたのだろうと思う。
 一方、もう一人のフロントマンであるキース・リチャーズは、おなかも若干出てきたし顔もゆるんできたかなというかんじ。しかしそれも魅力だ。妙に人懐っこさがあるのがかわいいのだ。そのかわいさをしっかり撮っているのはスコセッシの手腕だろう。キースがとちった時にミックがこいつトチりやがった!という険しい顔をしているシーンもばっちり抑えてあった。そのあと、フォローするかのように一緒にハモっていたのには妙になごんだ。
 ちなみに、観客としてクリントン元大統領夫妻が来場しており、開演の挨拶もクリントンがしていた。クリントンがらみのゲストが多数いたらしく、スタッフがストーンズに「あと30組あいさつする予定でーす。次のあいさつは6時の予定でーす」等と言っているのがおかしかった。それはクリントンに対するイヤミか・・・。またライブ中、観客が普通に携帯やデジカメで撮影しまくっていた。著作権の国の人じゃないのかよ!と思わず突っ込みたくなりました。





『悪夢探偵2』

 塚本晋也監督によるシリーズ2作目。他人の悪夢に入り、それを取り除く「悪夢探偵」こと影宮京一(松田龍平)。彼の元に女子高生・雪絵(三浦由衣)が訪れる。同級生の菊川が毎回夢に現れる、そして同じく菊川の夢を見た友人が突然死んだというのだ。極端に怖がりだったという菊川に母親と同じものを感じた京一は依頼を引き受ける。
 前作はわりとスタンダードなサスペンスでありヒーロー(にしてはやる気ないのだが)ものだった。しかし今回はだいぶ雰囲気が違う。他人の夢をめぐる物語ではなく、京一自身の物語になっている。京一は幼いころ、母親に殺されかけ、そのせいで悪夢に悩まされ続けている。そんな彼が、母親の記憶をたどり、彼女のことを理解しようとするのだ。彼が今回救うのは、子供のころの自分だと言ってもいい。実際に京一は子供時代にさかのぼり、自分が母親に嫌われていたわけではないこと、母親にとっても幸せだった時間は存在したことに気づく。そこに悪夢から抜け出す糸口があるのだ。
 また、恐怖の在り方も前作とは異なっている。前作の恐怖は外部から脅かしに来るものだったが、本作の恐怖は、自分の中からやってくるのだ。はっきりとした対象があるのではなく、京一の母がとにかく怖がっていたように、何かのスイッチが入ったとたんに何もかもが恐ろしいというような、コントロールも目視も難しいものだ。また、自分の中からやってくる、自分にしかわからない恐怖は他人と共有することができず、自分の恐怖の感情を理解してもらうこともできない。実はそれが最大の恐怖なのかもしれない。
 登場人物それぞれが抱える恐怖により近づく為か、カメラは対象に極端に近付き、また対象である人物の心の動きに合わせるように盛んに動く。動きすぎ、近すぎな上に画面が暗く、何が映されているのか、何が起こっているのかわからないところもある。しかしその「何が起こっているのか分からない」という部分が恐怖の感情とリンクしていたように思う。登場人物の主観に近い撮影を意図したのではないだろうか。
 





『マルタのやさしい刺繍』

 スイスの小さな村に住む80歳のマルタ(ステファニー・グラーザ)は、夫に先立たれて生きる意欲を失っていた。そんなとき、かつて諦めた、自分で刺繍をしたランジェリーを売る店を開くという夢を思い出し、3人の友人の力を借りて夢の実現にのりだす。しかし、牧師であるマルタの息子を筆頭に、保守的な村の人たちは大反発する。監督は新鋭のベティナ・オベルリ。本国スイスでは「ダヴィンチ・コード」「パイレーツ・オブ・カリビアン」を抜くヒット作品となったそうだ。
 大ヒットしたのも頷ける、見るとほんのりと元気が出てくる作品。一見おとなしいが意外と根性据わったマルタの奮闘だけでなく、マルタの情熱に感化されるように、彼女の友人らも変化していくのがいい。最初からマルタの計画に乗り気だった自称アメリカ帰りの女性はともかく、元社長夫人でツンツンしていた女性が持ち前の商魂を発揮する一方で新しい彼氏をゲットしたり、固物で夫にも息子にも従順だった専業主婦が猛然と反発するようになったり(しかし夫との絆は確固としてあることにほっとする)と、新しい人生に踏み出していく姿は瑞々しい。いくつになっても人は変わっていくことができるのかもしれないという希望を持てる。高齢化社会にはうってつけの作品ではないだろうか。
 しかしニコニコできる一方で、腹立たしい部分は実に腹立たしかった。映画として腹立たしいのではなく、登場する人たちに対して腹立たしいのだが。マルタたちが住む村は昔ながらのムラ社会で、とっても保守的。マルタに対しても「老いては子に従え」とばかりに息子夫婦からのプレッシャーがかかる。加えて、女性はおしとやかに控えめに!という世界なので、ランジェリーショップなどもってのほかというわけなのだ。特に牧師であるマルタの息子は、自分が不倫中なのは棚にあげて「はしたない!」と大騒ぎする。また村のリーダー気どりの党員(マルタの友人の息子)も、頭は固いわ視野は狭いわで大変いらだたしい。さらに2人ともヘタレである。男性にはちょっとかわいそうな設定かもしれないけど、たくましくしたたかなおばあちゃんたちと対照的で、ラストの大団円が際立つ。
 楽しい映画ではあるが、途中でシャレにならない悲しい出来事は起きるし、上記のとおりムラ社会に対して腹は立つしで、気分の良さと相殺された感じだった。予告編ほどほのぼのした雰囲気ではない。ムラ社会なまなましくて怖いわー。





『アラトリステ』

 無敵艦隊を英国軍に撃破され、勢いを失いつつあった17世紀のスペイン。マドリード一の傭兵と評判だったディエゴ・アラトリステ(ヴィゴ・モーテンセン)の戦いを描く。監督は『ウェルカム!ヘヴン』のアグスティン・ディアス・ヤネス。もともと学生時代に17世紀の歴史を学んでいた人だそうで、セットや衣装、小道具などへのこだわりが感じられる。美術は見ごたえがあった。
 いくつかのエピソードを順番に見せていく構成で、どうもとりとめがないなーと思っていたのだが、原作はスペインの人気冒険小説シリーズで、5巻までの主要なエピソードを映画化したものらしい。大長編のダイジェスト版のようになってしまっているのはそのせいか。ひとつひとつのエピソードはそれなりに面白いのだが、映画全体で特に盛り上がるところがないのが残念。また、史実をかなり織り交ぜているので、多少スペインの歴史を知っていないとついていけないかもしれない。
 事前の宣伝や予告編では、アラトリステは英雄、孤高の人とされていたが、映画本編を見ると、むしろ雇われ人の悲哀みたいなものを感じた。彼はあくまで傭兵であり、貴族たちからはそれほどいい扱いはされない。彼のパトロンである貴族がなかなか金を払わず困るというエピソードがあるくらいだ。一方で彼は雇い主である国に忠実な義理固い人物であり、それ故、国の金をネコババしようとした傭兵仲間を手にかけなければならなかったりもする。また、義理の息子は女官にたぶらかされて言うこと聞かないわ、付き合っていた女は国王にとられるわ、ヒーローのはずなのにあまりいい目を見ていない。
 それでも愚痴は言わずに課せられた仕事は黙々とこなし、傭兵なりのプライドを維持しているところが、原作人気の一因なのかなと思った。現代サラリーマンの共感を呼びそうでもある。彼はスペインに対して愛想を尽かし、他国へ逃げる、もしくは雇い主を変えることも可能だったはずだが、そうはせず、あくまでスペインの為に尽くす。それが国王はボンクラ、王を傀儡として操る伯爵は強欲な国だったとしてもだ。その筋の通し方は、合理的ではないかもしれないが、潔い。
 監督も出演者もスペイン人のれっきとしたスペイン映画なのだが、主演のヴィゴはアメリカ人という不思議な作品でもある。もちろん全編スペイン語でヴィゴもスペイン語を話しているのだが、(たぶん)流暢で不自然さはない。見た目もスペインの剣士にはまっている。この前はロシアマフィアだったし、この人だんだん国籍不明になっていくな・・・。





『K-20 怪人二十面相・伝』

 第二次大戦が起きなかった、1945年のもう一つの日本。その日本の「帝都」で、怪人二十面相と呼ばれる強盗が富裕層を狙っていた。それに対する名探偵・明智小五郎(中村トオル)。一方、サーカスの曲芸師・平吉(金城武)は、謎の男の計略により、怪人二十面相に間違えられ逮捕されてしまう。監督・脚本は「エコエコアザラク」シリーズの佐藤嗣麻子。
 昭和20代をモデルにしたレトロな世界(CG、セットを多様しているようだが、上海でのロケもしているようで、町並みはちょっと魅力がある)に、ちょっとうさんくさい科学の組み合わせ。監督はこれがやりたかったんだろうなーというのがしみじみとよくわかる。レトロな「マンガ映画」っぽい雰囲気に徹している。正直、CGがややのっぺりしていて画面から浮いているように感じられるところもあるのだが、それも「マンガ」と思えばそんなに気にならない。むしろ、意図的に実写とは異質の質感にして、「これはマンガなんですよー」という目くばせをしているようにも思える。金城の若干拙いセリフ回しも、中村の妙にケレンのある演技も、マンガだと思えばむしろプラスに働いている。
 良くも悪くも大味な映画なのだが、そのマンガっぽさに救われていたと思う。CGやワイヤーアクションに頼り切らず、金城がアクションをそれなりにこなしているのもよかった。生身の動きがある程度入ると、やっぱり映画に躍動感が出ると思う。屋根づたいにひょいひょい移動していくアクションにはウキウキした。
 しかしそれでも、脚本の粗さは気になった。ストーリーが荒唐無稽であるとか、矛盾があるとかはさほど気にならない(そういうことがマイナス要因になるタイプの映画ではない)のだが、キャラクター設定にブレがあるのはいただけない。最初に提示された設定がその後まったく機能していなかったり、こういう言動をした人が、その後になんで矛盾する言動を?と気になる部分が多々あった。平吉が泥棒を極端にいやがる理由が提示されないところは特にひっかかった。一応、泥棒一味に頭を下げて~という場面はあるものの、行動が唐突すぎて、単に失礼なやつに見えてしまう。「気のいい正直な青年」という設定なのだろうから、それはまずいだろう。また、松たか子演じるヒロインも、自立心のあるお嬢様のはずなのに外の世界を全く知らなかったり、合気道の心得があるという設定が全く役に立っていなかったりと、もったいない部分が大きかった。
 それでも、制作側が楽しんで作った雰囲気はあるので、そんなに嫌な気分にはならずに見られた。マンガ映画としては、出演者の年齢層が若干高めかなとも思ったが、かつての少年少女が活躍するマンガの世界と思えば納得。また、出演者の年齢層がやや高めというもっと大きな要因としては、レトロなスーツやドレスが似合う人を選んだのかなと思った。特に男性陣。今の20代俳優で三つ揃いのスーツが似合いそうな人ってあまりいないような・・・。その点、中村トオルはおそろしくこの手の服が似合う。フロックコートが似合う日本人男性は結構レアだと思うのだが。 





『アラビアのロレンス 完全版』

 T.E.ロレンスの自伝『知恵の七柱』をロバート・ボルトが脚色し、デイヴィッド・リーンが監督した、いわずと知れた大スペクタクル映画。1962年の作品だが、完全版をスクリーンで上映するしていたので行って来た。
 1916年のカイロ。英国陸軍カイロ司令部のロレンス少尉(ピーター・オトゥール)は、トルコに対して反乱を起こしつつあるアラブ民族の情勢を調査するため、反乱軍のリーダーであるフェイサル王子(アレック・ギネス)の陣営を訪れる。しかし反乱軍は近代化されたトルコ軍の前に形勢不利。ロレンスはボラエタット族と手を結んだゲリラ戦を提案する。
 スクリーンで見ると風景にしろ騎馬戦にしろ鉄道爆破にしろ、迫力満点でそれだけで大満足。ロケ大変だったろうなー。当時としては破格の規模だったらしいが、今見てもすごく見ごたえがある。見るならスクリーンで見るべきだろう。砂漠の美しさが強烈だった。
 ロレンスはストーリーの前半で華々しい業績を残し、後半で転落していく。しかし今回改めて見ると、前半からすでにロレンスの危うさが見え隠れする。理想主義者で、よくも悪くも軍人らしからぬ人なのだ。彼の行動は勇敢だが、現実に即さない勇敢さとでもいえばいいのか、「~でなければ」という自分の指針に基づいたものだ。それは立派なことではあるのだが、彼の場合、その「~でなければ」を自分だけでなく他の人にも要求する。また、カリスマ性はあるが実務能力が伴わない。ちょっと浮世離れしていて、リーダーとしては色々と問題がある人に見える。
 浮世離れした雰囲気を強調しているのが、演じるオトゥールのしゃべり方だ。こんなにふわふわした、かつ滑らかなしゃべり方だったとは・・・。もう全然軍人のしゃべりじゃないのだ。オトゥールを主演に抜擢したのも、この映画の成功の大きな要素だったのだろう。まさにはまり役だった。
 また、今回特に印象に残ったのは、ロレンスが多分にマゾヒスティックな人として造形されていたのではないかというところだ。タバコを指でもみ消す癖や、傷の痛みに対する過剰な耐性など。物語後半での転落も、半分は防ぐ意思がなかったためのものではないかとも思える。
 





『ハッピーエンドにさよならを』

歌野晶午著
 タイトル通り、すべて後味のよろしくないミステリ短編集。といってもあまりミステリっぽさは前面には出てきていないが。コミカルな嫌さから幻想小説寄りの嫌さまで、バラエティに富んだ嫌さが味わえます。劇薬クラスのものはないが、ちょっとづつ違った嫌さのある、嫌さの幕の内弁当・・・ってほんと嫌だなそれは。なお今さらだが、著者は実は文章がうまいことに気づいた。(いやうまくなったのか?)。読みやすい。一見かわいらしいがよく見ると不穏な装丁も雰囲気盛り上げている。





『コップとコッペパンとペン』

福永信著
小説内で一行目に「Aは~した」とあり、二行目に「そしてAは~」とあれば、一行目のAと二行目のAは同一人物とみなすのが一般的だろう。しかし実際のところ、一行目のAと二行目のAが同一人物であるという保障はない。また記載されていないだけで、二行の間に経過した時間は1分かもしれないし1年かもしれない。読者は記載されていなくても行間を読んでいる。小説を読む時は、実は様々な「お約束」をふまえているのだ。そのお約束からあえて外れることによって、小説に課せられているルールを強く意識させる、流し読みすることを拒絶しているような作品。





『アララテのアプルビイ』

マイクル・イネス著、今本歩訳
 第二次大戦中、乗っていた船が転覆し、とある島に流れ着いたスコットランドヤードの警官アプルビイたち。なんとか島での生活をはじめたものの、乗船者の一人である黒人人類学者が死んでいるのが発見される。ミステリ小説の体裁をとってはいるが、まじめな謎解きものと思うと肩透かしどころかバカを見そうだ。コメディ小説、冒険小説のパロディ小説としての側面の方が目立つ。本作は実際に第二次大戦中に発表されたそうだが、そう思うとシニカルでもある。全く平和な状態で書かれた、どこか遠い国で戦争しているみたいな雰囲気なのだ。妙に長閑。なお、さまざまな文学作品からの引用やパロディが満載だそうで、文学の素養のない身にはちとつらいところも。





『荒野のホームズ』

スティーヴ・ホッケンスミス著、日暮雅通訳
 1892年アメリカ西部の荒野。牧場を渡り歩く雇われカウボーイのオールド・レッドとビッグ・レッドの兄弟は、ぺしゃんこになった死体を発見する。オールド・レッドは尊敬するシャーロック・ホームズを真似て犯人を探そうとするが。西部劇+本格ミステリという異色の組み合わせ。しかもホームズが実在する世界(本人は登場しないが)という設定。登場するキャラクターが立っていて楽しい作風(訳文がこなれていていい)なので、ホームズにそう関心がない人でも楽しめる。なんといってもレッド兄弟がいい。兄は頭が切れるが文字が読めない、弟は読み書きができるがいまいち鈍いという役割分担が、兄弟探偵というキャラクターを成立させている。どちらかだけでは探偵として成立しないので、ホームズ&ワトソンとはちょっと色合いが異なるのだ。そして弟の兄に対する愛が泣けます。シリーズ化しているそうなので、邦訳されるのが楽しみ。当時のカウボーイの生活、彼らが置かれていた立場が垣間見えるのも面白い。すごーく臭いそうで気になってしまった部分多々あり。





ギャラリー
最新コメント
アーカイブ
記事検索
  • ライブドアブログ