3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

2008年09月

『ウォンテッド』

 毎日上司にいびられ、彼女には浮気され、冴えない日々を送るウェスリー(ジェイムス・マカヴォイ)の前に、謎の美女フォックス(アンジェリーナ・ジョリー)が現れる。彼女が所属する暗殺組織へスカウトしに来た、彼の父親も優秀な暗殺者だったと言うのだ。組織に入り修行を積んだジェフリーは、父親を殺した犯人でもある組織の裏切り者・クロスの暗殺指令を受けるが。監督は『ナイトウォッチ』のティムール・ベクマンベトフ。
 「あなたは特別な存在ですごい才能があるの!」と突然告げられるという、冴えない少年少女の夢(というか妄想)をまんま具現化したしたような話なのだが、ここまで思う存分やられるとむしろ何かがふっきれていて楽しい。CGを駆使したアクションの数々は、とにかく見た目に気持ちのいいアクションシーンを作りたいんだよ!という気合がみなぎっているもの。こういうアクションも、ツボさえ押さえていればちゃんと肉体性を感じさせるんですよね。そのあたりは監督(もしくはCG作製スタジオ)のセンスがいいんでしょうね。ただ、いわゆる洗練されたスマートなアクションエンターテイメントというわけではなく、色々とトゥーマッチでエグみがある。むしろ悪趣味だと言ってもいい。粘土こねくりまわして指紋べたべただけど造形的にはオッケー、むしろ味がある!という、キャスティングは堂々たるハリウッド映画なのにどこかハリウッドぽくない臭いがする。そもそもあの「爆弾」起用した時点でハリウッド的じゃないわな(笑)。
 最近のヒーロー映画とかアクション映画とかは、比較的リアル路線というか、現実との摺り合わせに苦慮している傾向があると思うが、本作はそのへん屈託がない。設定にしろストーリーにしろビジュアルにしろ、「こうなるんだからこれでいいの!」で押し切る。照れが全くないのだ。「血筋がいいから修行したらすぐ強くなる」「修行で大怪我しても回復風呂(つかると回復する。昔のRPGにありそうだ・・・)」「気合で弾が曲がる」など実も蓋もない設定を堂々とやっちゃうところが好ましかった。屈託がないといえば、倫理面に関しても屈託がないというか、動物愛護関係のところとか、赤の他人を平気で巻き込んでいることに、全くフォローがないところが興味深かった。
 さて、ちらほらと本作の感想を目にすると、前半は爽快だが後半がもたつくという意見が多いみたいだが、私は後半の方が面白かったなぁ。もちろんアクションに関して最大の見せ場が後半にあるのだが、アクションがというよりも、ウェスリーにとっての世界が反転してしまうところが。スカウトされて反転し、ある事実が判明してまた反転する、ねじくれた構造になっているのだ。なんで暗殺集団にスカウトされたのか、というミスリードにはちょっとウキウキしました。第二弾を作れそうな余韻のある終わり方だが、アンジェリーナ・ジョリー再登場は望めなさそうだから、集客的に難しいか。
 余談だが、テレンス・スタンプが出ていておどろいた!何か得した気分になった。



『グーグーだって猫である』

 マンガ家の麻子(小泉今日子)は愛猫サバを亡くし落ち込んでいた。アシスタントのナオミ(上野樹里)はマンガを描けなくなった麻子のことが心配でたまらない。そんなある日、麻子は一匹の子猫とめぐり合い、グーグーと名づけて買い始め、徐々に元気を取り戻していった。しかし今度は麻子の身に重大な事件が起きる。
 監督は犬童一心。男性の中には、心の中に乙女が住んでおられる方が往々にしていらっしゃるが、監督もその一人ではなかろうか。スクリーンの中がきらきらしすぎて疲れた・・・。そして監督の中の乙女は大島弓子作品が大好きなのだ。そして大島弓子本人のことも好きすぎるに違いない。その愛が、本作を微妙なものにしていたように思う。
 本作の原作マンガは事実を下敷きにしたエッセイ風の作品であり、デフォルメされてはいても、主人公は実在する大島弓子ご本人、そして大島の飼い猫たちだ。対して本作の主人公であるマンガ家の麻子は、もちろん架空の人物であり大島弓子ではない。しかし原作を読んだ人は多かれ少なかれ麻子=大島として見るだろう。更に、麻子という架空の漫画家が執筆する架空の漫画原稿が出てくるが、これは大島弓子が執筆した実際に出版されている漫画を使用している。ここでもまた麻子=大島なのだ。主人公の名前を変えて完全にフィクションとしている以上、大島の他作品をそのまま投入してしまう、しかも具体的な内容に触れてアニメーションまで作ってしまうというのはどうなんだろうと思った。
 そのへんの、キャラクターとモデルとの線引きが中途半端で、見ていてひっかかる。監督が麻子の背後に自分が愛する(おそらく多分に美化された)大島を見ている分にはいいのだが、それを観客にも強要する必要はないだろう。いや強要するつもりはないのだろうが、愛がいきすぎていて、結果的に強要しているというか・・・。監督にとっての大島弓子(とその作品世界)は、こんなに美しくリリカルでセンシティブなものなのねというのはとってもよくわかったが。
 また、見ていて苦痛になるほどではないのだが、コメディぽいシーンが若干滑り気味なのが気になった。もうワンテンポ早く/遅くカット切ればもうちょっとなんとか笑えたかも、という微妙なシーンが多すぎたと思う。全体的にもたついていた。切るべきところを勿体無くて切れなかったのか。犬童監督は手堅い作品を送り出しているだけに、愛で目が曇ったか?とつい勘ぐってしまった。
 主演の小泉今日子は「ちょっとかわいい中年女性」というポジションにいよいよはまってきた。彼女が好演する一方で、上野樹里はいまひとつ冴えない。役柄的に割を食った感じ。やれば出来る子なのにねぇ・・・。勿体無い使い方だ。また森三中の起用は賛否両論だったが、私は映画のはし休め的な存在になってくれたんじゃないかと思う。コメディ寄りのシーン(空き地での殺陣とか)をやると、流石に上野がやるよりも面白いし笑いのテンポがわかってるなという印象。
 一つ、意外なほど実感を持って迫ってきたのは、ガンの告知を受けた麻子の心境だ。彼女が落ち込むシーンはもちろん、遺言書を作り医者にグーグーのことを頼むシーンには、家族(夫子供)のいない女性が死と向き合うってこういう感じだよな、自分の後始末を自分でつけなくちゃならないんだよなと、妙にしみじみとした。もっとも、演出が上手いというより、私が自分の死を意識する年齢になったということだと思うが。
 



『この自由な世界で』

 外国人労働者の斡旋会社に勤めるアンジー(キルストン・ウェアリング)は、同僚のセクハラに激怒したのがきっかけで突然会社をクビになった。会社で覚えたノウハウを駆使し、友人と移民労働者相手の職業紹介所を立ち上げ、地道な営業を続け事業を軌道に乗せるが。
 ケン・ローチ監督の新作は、歴史問題を扱った前作『麦の穂をゆらす風』とはうってかわって、まさに現代の問題を取り上げている。といっても説教臭くなく、いつも以上にストーリー構成がタイトでぐいぐい引き込まれる。省略の仕方が思い切っているなと思った。それでも十分に見ている側に「分からせる」ところは流石。
 ローチはこれまで、社会の中の弱者、経済活動における搾取される側の立場から描いてきたが、今回はちょっと違う。アンジーは最初会社から搾取される立場であり理不尽な扱いを受けるが、起業して末端の労働者から搾取できる立場になると、がんがんむしり取る。そして当初は合法的なやり方をしていたが、徐々に法的にも倫理的にも危うい領域に入っていく。
 ただ、ローチの上手いところは、アンジーをヒールとはしていないところだ。彼女はローンを抱えたシングルマザーで金策に追われている。移民労働者に対しては強者だが社会的にはそうでもなく、「30回転職した(彼女30代なのに!)」という言葉から察せられるように、商才があるにも関わらず、安定した身分とは縁遠い生活をしてきた人物である。難民一家に同情し自宅に呼ぶなど、決して冷血というわけでもない。むしろ末端の労働者の苦しみはよくわかっている立場にいたわけだ。にもかかわらず、いざ搾取出来る立場になると臆面もなく搾取していく。辛酸なめさせられた反動にようにも見えるし、子供と自分の生活の為に必死というのもある。
 ローチは彼女の行動の是非をジャッジするのではなく、「搾取できる立場になったら人間は搾取する」という達観・諦めを持って映しているように思える。便利な生活、安価な商品は、本作の移民労働者のような最末端層なくては成り立たないということを皆知っているが、かといって最末端層に適正賃金を払うために商品価格を上げますよと言っても、納得しない消費者はいるだろう。自由な経済活動が行われている以上、生じることであり、その「自由」を自制できるほど人間の善意や倫理は強くない。タイトル、そして映画ラストの皮肉さが際立つ。



『木と市長と文化会館』

 パリ南西部の村、サン=ジュイールの市長ジュリアン(パスカル・グレゴリー)は、図書館、野外劇場、プールを備えた文化会館を建設する計画を立てた。ジュリアンの恋人で生粋のパリッ子な小説家ベレニスは彼を「領主みたい」と揶揄する。一方、村の小学校教師マルク(ファブリス・ルキーニ)はエコロジストぶりを発揮し建設には猛反対。パリ在住の記者ブランディーヌ(クレマンティーヌ・アムルー)はジュリアンに興味を持ち、村の住民へのインタビューを試みる。
 エリック・ロメール監督作品。ロメール映画といえば男と女がくっついたりくっつかなかったり・・・というイメージがあったのだが、本作は地方行政映画(笑)とでも言うべき変り種だ。フランスの行政、特に地方行政に関する話題がたくさん盛り込まれており、当時(1992年)の世相が垣間見られて興味深い。フランスでもやっぱり箱物行政が行われていたのかとか、道路族が幅を利かせていたのかとか。意外なところで日本との共通点が見られた。確かに日本と同じく官僚の力が強い国と言われているが、そんなところ似とかなくても・・・。
 映画は7つの章にわかれ、各章の前に「もし~が~でなかったら・・・」という字幕が出る。この文面の内容が起こっていたら、一連の事態は全く別の展開を見せていたかもしれない。それこそ市長と恋人の仲の良し悪しとか、留守電のスイッチを入れたか入れなかったかとかの些細なことで。政治に限らず、物事が決まる時ってそんなもんですよ、と監督にうやむやにされたような不思議なヘラヘラ感がある。もっとも、本作が真面目に地方行政やエコロジーについて問題を提示するつもりがあったのかというと、そうでもない気がする。ものすごくベタなところに話が落ち着くのと、いきなり始まる合唱を見てしまうと・・・。



『ざくろの色』

 1人の詩人の一生を描いた、ヤルゲイ・パラジャーノフ監督、1969年の作品。パラジャーノフは旧ソ連グルジアに生まれた。危険思想の持ち主と見なされて何度も当局に投獄されつつ、47歳で没するまでに4本の長編映画を残した。ちなみに本作は、散逸した1作目「サヤト・ノヴァ」を、セルゲイ・ユトケーヴィチ監督が再編成したもの。
 18世紀の詩人、サヤト・ノヴァへのオマージュとはされているが、詩人の一生をドラマ化したというものではなく、イメージの連鎖によってそれを想像させるような作品だ。パラジャーノフは映画を撮れない間に、大量のスケッチやコラージュを製作していたというが、映画自体もコラージュを作るときのような感覚で作っていたのではないかと思う。物の配置が二次元的で、画面の奥行きとか、フレームの外への移動をあまり考慮していないように見えるのだ。いわゆる映画の文法をまるっと無視しているので、普通の映画を見慣れている目にはなんだか不思議な感じ。フレームが固定されていて、カメラが殆ど動かない(ショットの切り替えでクロースになったりロングになったりはする)し、人の正面からの撮影ばかりだし、映画というより舞台で行われている前衛パフォーマンスの中継のようだ。それでいて、パーツそれぞれはグルジアの伝統的な文化の色合いが濃い(だからソ連からにらまれたのだろうが・・・)。
 また、詩人へのオマージュでありながら、言語での表現の占める比重は低い。セリフはごくわずか、各章の前に簡単にモノローグが入る程度だ。映像の力によって、詩を読んだ時と同じようなイメージの広がりを生み出そうと試み(もしくは天然なのか。文脈を重視しない人だったのかなー)なのか。しかし映像の力を信じているという点では、非常に映画的な映画といえるかもしれない。
 タイトルから連想される通り、赤の色が印象的。ざくろは豊穣・多産の象徴とされているが、何かなまめかしい色だった。また、人物を真正面からとらえた舞台を見ているような構図が多いなか、書庫の本を並べて干しているところを上から撮ったシーンが印象に残った。映画というよりも映像でつづられた詩とでも言った方がふさわしい、不思議な作品だった。
  



『有栖川有栖と綾辻行人のミステリジョッキーⅠ』

 有栖川有栖、綾辻行人著
本格ミステリ界のベテラン2人によるミステリアンソロジー&対談集。普通、ミステリ批評というと「ネタバレ」せずにはできない為に、あの作品を読んでいないからこの評論は読めない、この評論を読むにはあの作品を読まなくちゃ、というジレンマがあったが、本作はネタバレする作品を収録した上でその作品について対談しているので、ストレスフリーに読むことができる。しかもこの対談がめっぽう面白い。2人のミステリ愛好家としての基盤や嗜好の差異だけでなく、推理小説って何なんだろう?何をもって本格ミステリとみなすんだろう?本格ミステリとパズルってどこが違うの?ということへのアンサーにもなっている。「実はパズルが崩れているのに、くずれていないように見える不思議な領域がある。推理小説というものは、そこに立っているのだろうと思います」という有栖川の言葉に深くうなづいた。「肝心なのは小説であること」なんですね。ミステリファンに至福のひと時を与えてくれる一冊。第二弾を首をながーくして待っています!



『妃は船を沈める』

有栖川有栖著
 W.W.ジェイコブズの「猿の手」をモチーフとした中編に、さらにもう一編加えて長編にしてあるという、一風変わった成り立ちの本作。ちなみに猿の手は、3つ願いをかなえてくれるというアレです。最近の火村シリーズはミステリとしての謎の設定が妙にマニアックというか、一見スタンダードなんだけど着目点が妙というか、不思議な味わい。派手なことは全くしていないのだが、どんどん抜け道探すようなロジックの立て方になってきている・・・。「ABCD」を「あいうえお」とか「DCBA」というふうにはしないで「ABcD」とするというかね(わかりにくい例えですいません)。さて本作は2編ともに、「なぜ~できなかったのか」という点がポイントとなる。特に「猿の手」の「なぜ~できなかったのか」は、著者の作品の中ではトップクラスに後味悪いですね(笑)。そりゃ夢も見るわ!あと、火村による「猿の手」解釈には納得です。



『インビジブル・ターゲット』

  爆破強盗事件のせいで婚約者を亡くした刑事・チャン(ニコラス・ツェー)は、単独で犯人を追っていた。その犯人と接触したエリート警部補・フォン(ショーン・ユー)は逮捕を試みるもまんまと返り討ちに遭い、プライドはズタズタに。そして、犯人グループの1人が行方不明となった自分の兄かもしれないと知らされた巡査・ワイ(ジェイシー・チェン)。3人はなりゆきで、共に犯人を追うことになる。監督はベニー・チャン。
 疾走し、墜落し、どつきあい、爆破するという、正しい香港アクション映画。・・・といえるほど香港映画に詳しいわけではないが、「あーアクション映画見た!」という満足感がある。もちろん多少のCGは使われているが、見所はやはり生身のアクションだろう(エンドロールでNG集あり。普通に痛そうです)。屋根伝いにぴょんぴょん飛び回るチェイスは飛距離が半端ないし、どつきあいでは景気良くすっとぶ。墜落もするし火だるまにもなる。敵のボスがこれまたえらく強くて、ワクワクしっぱなしだった。ストーリーが練りこまれているとは言えない部分も多く、取って付けた様な展開も気になる(敵サイドの事情がいまいち見えないし、黒幕が何をどうやっていたのかよくわからない)のだが、アクションの楽しさで帳消しにできる。日本での上映館が妙に少ないのだが、もったいない!アクションを見るもよし、イケメンを見る(笑)もよし、幅広く楽しめる作品だと思う。
 また、主役3人のキャラクターがしっかり立っているのも魅力だ。根は「悪ガキ」タイプだが婚約者を亡くして復讐心に駆られるチャン、優秀だが自分が笑いものにされることに我慢ならない偏狭な面も持つフォン、生真面目で模範的警官なワイ。チャン役のニコラス・ツェーとフォン役のショーン・ユーは流石にスター俳優らしい華がある。ツェーは日本の女の子にも人気がありそうな美形だし、ユーはいかにも香港スターですよ!という貫禄がある。意外だったのは、予告編を見た段階では明らかに地味顔で、他の2人の前に影が薄かったジェイシー・チェンだ。実は彼はジャッキー・チェンの息子。しかし父親みたいな愛嬌には乏しく、これは「ジャッキーの息子」としか認識されないんじゃないかと思っていたら、予想外の見せ場があった。役柄にも恵まれたと思うが、父親には出せない持ち味があると思う。終盤の、文字通り血ヘド吐きながらの奮闘には胸が熱くなった。
 ところで、香港の建物ってあんなにガラスを多用しているのだろうか(笑)。香港アクション映画では必ずガラスを粉砕しなくてはいけないの?
 



『画家と庭師とカンパーニュ』

 カンパーニュの実家に戻ってきた画家(ダニエル・オートゥイユ)は幼馴染の庭師(ジャン=ピエール・ダルッサン)と再会する。監督は『クリクリがいた夏』のジャン・ベッケル。『クリクリ~』と同じく、フランスの田舎が魅力的に映されている。もっとも、邦題に「カンパーニュ」と付けたのは蛇足だろう。あからさまに中高年女性層に客層を絞り込んでいるような気がするが、いわゆる「オシャレでロハスな田舎暮らし」では全然ありません。むしろ中高年男性に見て欲しい、男の友情映画。
 もっとも、画家と庭師の関係はこれみよがしに「親友」的なものではない。2人は育った環境も大人になってからの生活振りも全く違う。1人は薬剤師の父を持ち、パリの売れっ子画家としてそれなりの地位と財産を作ったが、妻とは離婚まで秒読み。もう1人は労働階級の家に生まれ、地元にとどまり国鉄職員として勤め上げ(庭師は趣味)、今でも女性は妻一筋。そして、画家は庭仕事のことはよくわからないし、庭師は芸術のことはわからない。むしろ対照的な2人なのだ。そういう2人だが、どこかで通じ合っている。お互いの生活や家庭にさほど立ち入ったりはしないが、根っこの所で相手に対する理解があるのだ。親友というのは本来そういうことなのかもしれない。
 会話が魅力的な作品だった。ストーリー自体は小さなエピソードの積み重ねで、華やかなものではないが、2人のやりとりの妙で映画が立ち上がっている。もっとも、大人の男性のウィットにとんだやり取りというより、小学生男子のじゃれあいの延長線上のようにも見える。時にベタなコントのようなところもあったが、朴訥とした面持ちがあって、ほっとする映画だった。何より、庭の風景がいい!野菜がおいしそう!私は園芸には全く興味がないのだが、庭いじりも楽しそうだなぁと思わせる映画だった。
 ところで、ベッケル監督は労働者層に対する思い入れがあるのだろうか。『クリクリ~』を見た時にも思ったのだが、社会の底辺寄りにいる人間に対する目線が優しい。また、彼らが仕事に対して持っている誇りをちゃんと描いているところにも好感が持てる。庭師は、子供の頃から庭師になりたかったのだが、やむを得ず入社した国鉄の仕事には誇りを持っているしすごく愛着を示すのだ。そういう人たちがいなくなっていく物語でもあるので、ちょっと切ないのだが。



『ビバ!監督人生』

  台湾シネマコレクションで鑑賞。監督・主演はニウ・チェンザー。ドラマの主演や監督としてキャリアを積んできた人だそうで、デビューはなんと子役時代だとか。上映終了後にティーチインがあったのだが、ホウ・シャオシェン監督の作品に10代の頃出演したことがあるとか。これだけキャリアが長ければ、そりゃあ辛酸舐めた時期もあったろうなー。そんな体験が反映されたという作品だ。ドラマの演出家として成功したドウズ(ニウ・チェンザー)はモキュメンタリー映画(ドキュメンタリーを模したフィクション映画)の撮影に取り掛かる。しかし出演者は逃げるわ資金繰りは苦しいわ、プライベートでは同棲中の彼女に浮気がバレるわで問題山積みに。
 主人公であるドウズは、それなりに才能はあるらしいが、人間的には欠点の多い、あまりお付き合いしたくないタイプの人だ。女癖が悪く、酒癖も悪く、物事が上手くいかないとすぐに自己憐憫にひたり彼女に甘える。資金繰りの厳しさは彼の責任ではないが、人間(主に女性)関係のトラブルはどう考えても自分のせいだもんなぁ(笑)。彼女に土下座して謝ったが破局は免れず、カウンセラーに「言うとおりにしたのに上手くいかなかったよ!」と当り散らす姿は、笑えるが相当見苦しい。こういう、自分がモデルと受け止められるであろうキャラクターを「ダメ男」として造形し、熱演したチェンザーは、結構度胸があるし、この映画に賭けているという気持ちも強かったのではないだろうか。序盤、いかにもモキュメンタリー風な映像が続くのには少々辟易した(申し訳ないがちょっと寝ちゃった)のだが、ドウズのダメ男ぶりが際立ってくるにつれてどんどん面白くなる。彼の熱演あってか、台湾内だけでなく海外の映画祭でもいくつかの賞を受賞したそうだ。確かに、映画関係者ならおそらく苦笑いしたくなる(もしくは生々しすぎて笑えない)好作。
 ちなみに監督は話好きでサービス精神旺盛な方らしく、ティーチインでも1の質問に対して10くらいの回答をしていた。新作の予定もいくつかあり、ドウズと違って順風満帆のようです。監督から観客に対して「私のドラマを見た人ってどのくらいいますか?」という質問があったのだが、結構挙手する人がいて、日本のファンは研究熱心だなーと感心。監督もびっくりしていた。多分TV放送はされていないから、DVDとかなんだろうなぁ。そういえば、来場していたお客さんの中には、明らかに字幕ではなくセリフ(北京語だと思う)に反応して笑っている人が少なからずいた。バイリンガルの方やネイティブの方なのかもしれないけど、ドラマや映画がきっかけで勉強したという人もいるのだろうか。



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