3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

2008年08月

『デトロイト・メタル・シティ』

 若杉公徳の同名マンガがまさかの実写映画化。監督は李闘志男。オシャレなミュージシャンになるという夢を抱き状況した根岸崇一(松山ケンイチ)。しかし運命のいたずらにより、なぜか悪魔系デスメタルバンド「デトロイトメタルシティ」通称DMCのボーカル、ヨハネス・クラウザーⅡ世として人気が出てしまう。
 人気原作マンガの映像化は、実写であれアニメであれ実に難しい。思い切ってオリジナリティを出せば「こんなの●●じゃない!」と原作ファンにたたかれ、原作にあくまで忠実に作れば「こんなの映画化の意味ねぇ!」と映画ファンにたたかれる。もっとも本作の場合、原作にひたすら忠実にやったら後々のTV放送とかできなくなりそうだけど・・・。本作はどちらかというと前者寄りで、一見さんでも大丈夫。原作はそれほど知らない、読んでいるけどディープなファンではない層をターゲットにしているように思った。原作ファンはこんなのぬるすぎる!と思うかもしれないが、エンターテイメントとしてはこれでいいんじゃないかと思う。映画館に来ていたお客さんたちは結構ウケていたし、根岸がオシャレと思っているものがすべて微妙にダサい(オシャレ四天王のファッションとか微妙・・・)あたりはポイント押さえているなーという感じがした。ただ、原作とは面白さのポイントがずれているところもある(映画版だと原作ほどギャグ一辺倒ではなく、うっかり感動できそう)ので、そのへん許せないというファンもいそうではある。
 もっとも、面白いかというとちょっと微妙。エピソードがぶつ切りで、映画全編を通して観客をひっぱっていく力が弱いかなぁと思った。面白くないわけじゃないけどテンションがあがらない。これは脚本の難点だろう。組み立てが30分ドラマ4本みたいな感じで、散漫なのだ。また、根岸の恨み妬みパワーがクラウザーを成立させていることをわざわざ指摘したり、母親にクラウザーの存在意義を指摘させたりと、説明しすぎで無粋な作劇が気になった。そこは言わなくても自ずとわかってくることではないかと思うのだが・・・。
 それでもそこそこ楽しめたのは、主演の松山ケンイチの力によるところが大きい。というかこの映画で見るべきところはほぼ全て松山ケンイチ。そういう意味ではスター俳優なんだよなー。顔は地味なのに。マンガのキャラクターにここまではまりきれる役者はそうそういないだろう。デスノートのLにしても本作の根岸=クラウザーにしても顔が似ているというわけではない(まあそもそも相手は二次元だが)ので、「ここを押さえておけば似る」というポイントの掴み方がすごく的確なのだと思う。特に社長に部屋を大改造されて恨みつらみスイッチが入ってしまうシーンは見事だった。稀有な人材だと思う。この先もマンガの実写化にばかり借り出されそうでちょっと心配ですが。なお社長役の松雪泰子もパンチラをものともせずに頑張っていたが、ちょっと型にはまりすぎだったかなーと。見ていて若干むずがゆくなった。
 なお、デスメタルが本気で好きな人は、音楽面には期待しない方がいいだろう。少なくともデスメタルではないし、予想通り音と演奏の演技は全く合っていない(笑)。客層を考えるとしょうがないが、音楽はかなりポップス寄りになっている。個人的には石田ショーキチが参加していてちょっと嬉しかったが。あと、カジヒデキが根岸作の「ダサいポップス」として曲提供していて、なんて心が広いのかと思った。本人も出演しているのだが、観客の反応が皆無だったところにジェネレーションギャップを感じた。



『シティ・オブ・メン』


 『シティ・オブ・ゴッド』のパウロ・モレッリ監督の新作。リオデジャネイロの貧民外「ファヴェーラ」に住む少年、アセロラとラランジーニャは親友同士だ。アセロラには幼い息子がいて、妻は出稼ぎに行こうとしている。ラランジーニャは出生証明に父親の名前を記載したい一心で、行方不明の父親を探す。アセロラの協力を得て父親と再会するが、逆にアセロラとは疎遠になっていく。一方でアセロラは、地元のギャンググループに近づく羽目になっていた。
 前作『シティ・オブ・ゴッド』があまりに鮮烈だったのでつい期待しすぎてしまったかも。構成に凝っていた前作と比べると本作はシンプルで、少々ユルいと言ってもいいくらい。テンポは速いが、きっちり作りこんだという感じではなかった。逆に、エモーショナルさは本作の方が強い。前作は年代記的だったが、本作では中心に常に2人の少年がおり、その友情と裏切りが作品の縦糸になっているのだ。
 で、横糸が何かというと、やはり少年ギャンググループの抗争である。実に派手にドンパチやっているのだが、「一般人は殺さないようにしろよ!」という妙にまともな部分があってちょっと笑った。警戒態勢とか組織化とか、かなり本格的なのね。ともあれ地元民にとっては迷惑この上ない気がするのだが・・・。そしてこのギャンググループの中にも、友情と裏切りがある。そして過去にも、ある友情と裏切りがあったことが示唆される。
 3つの友情と裏切りがリンクしていく終盤になると、それまで少々ユルい感じだった物語が勢いを増し、引き込まれた。エンジンかかるのが遅めの映画なのだ(笑)。まさに「男たちの町」な物語で、女っ気は薄い。一応妻や恋人は登場するものの、いなくてもいいくらいの存在だ。あくまで男たちの友情、そして確執を克服できるかどうかというところが見所。ほのかに希望が見えるラストも印象的だ。
 見所といえば、舞台となる町自体が魅力的だった。実際には衛生状態とか臭いとかすごいことになっていそうなのだが(笑)、坂や路地が入り組んだごちゃっとした町並みには映画栄えする。この中で人を動かしたら面白いだろうなぁ!という映画心をくすぐられるのだ。



『練習曲』

 聴覚障害を抱える大学生ミンシァン(東明相(イーストン・ドン))は、高雄から自転車で、台湾島の湾岸一周の旅に出る。監督は陳懐恩(チェン・ホァイエン)。侯孝賢(ホウ・シャオシェン)監督『非情城市』の撮影を担当した人だそうだ。
 若者が旅の途中で色々な人たちと出会うという、オーソドックスなロードムービー。台湾の海沿いの風景が美しく、観光地紹介映画としても見られる。日本の湘南あたりと似た雰囲気の場所や、沖縄と似た雰囲気(実際、植物系は似ているらしい)があり、海外なのに懐かしい空気感がある。日本の南エリアに似た感じだろうか。また、過去に日本軍が駐屯していた痕跡がぽろぽろと出てきた。日本の唱歌を日本語で歌える老人達や、軍の施設の名残など。なんだか複雑な気持ちになった。昔のことのような気がしていたけど、昔というほど昔じゃないんだよなー。
 これは実際に現地に住んでいる人が本人役で出演しているのかな?という人たちがちらほら。ミンシァンと同じく自転車で台湾一週している男性とか、流木で独自の彫刻を作っているおじいさんとか。あと、自分達を解雇した工場への抗議運動をしているおばあさんたち。バスで抗議運動先へ移動するのだが、ちゃんと観光もする。横断幕を敷物にしてお弁当食べたりして、解雇されて困っているはずなのになんだか楽しそうだった。
 ロードムービーというと、主人公の家族が出てくるイメージがあまりないのだが、本作ではミンシァンの祖父母と、祖父母と一緒にくらす兄が出てくる。この祖父母が、ああおじいちゃんとおばあちゃんの家に行くとこんな感じだったな!という懐かしい気持ちにさせる。
 旅の1日目を最後に持ってくるという構成は、正直あまり意味があったとは思えないし、ドラマ作りもぎこちない。特に、映画のクルーとのエピソードや外国人女性、ストリートアーティストとのエピソードは少々こっ恥ずかしい。生活感のある人たちとのエピソードの方が、実感こもった手ごたえがあった。しかしそれでも、風景の美しさでなんとなくいい雰囲気の作品になっている。自転車で島一周という設定の勝利か。



『きみの友だち』

 フリースクールに勤める恵美(石橋杏奈)は、交通事故の後遺症で10歳の頃から杖を使っている。小学生の頃、恵美は体の弱い由香(北浦愛)と仲良くなった。2人とも、体育の行事に参加できなかったのがきっかけだった。恵美は由香と過ごした時間を思い出す。監督は廣木隆一。出演者は演技経験のあまりない人たちらしくぎこちないのだが、監督のとつとつとした作風にはそれが合っていたと思う。
 由香が同級生のハナに「いつも恵美ちゃんと2人だけで寂しくないの?」と問われるシーンがある。また、恵美がハナに、入院している由香に対して冷たいとなじられるシーンがある。これに対する2人の反応がいい。友だちって、いつも一緒にいるとか、一緒に何かするとかってこととはちょっと違うだろう。あんまり「友だち」という言葉を安売りしない方がいいんじゃないかなぁと思うけど。だからこそ、入院した由香が恵美に投げかける「嫌かもしれないけど」という言葉の重みが際立つ。
 ただ、女の子達2人の友情は美しすぎて、却ってひっかかってこない。むしろ情けない、友情も自意識も空回り気味の男子2人が印象深い。特にサッカー部ベンチの少年。ほんとにいいとこなしなんですよこいつ!切ない(笑)!でもほほえましくもある。
 大人となった恵美が過去を振り返っていく構成だが、親しくなっていくライターの青年の存在はあまり必要なかったように思った。また、彼を連れて由香の両親に挨拶に行くというのには首をかしげてしまった。それだけ由香の両親とも親しいということなのだろうが、彼の方は紹介されても困るんじゃないかな・・・。また、一歩間違うとお涙頂戴ものになりかねないだけに、情に流されないように配慮された作品だったと思うが、その配慮が最後で台無しに。一気に陳腐さが増した。また、情感過多なエンドロール曲もいらなかったと思う。こういうのは、情感とぼしいくらいで丁度いいんじゃないかな。



『赤い風船』

  パリの下町に住むパスカル少年は、赤い風船を見つける。学校に風船を連れて行くが、先生には締め出されてしまった。パスカルに懐いてくっついて回る風船だが、街のいじめっ子達に目を付けられ、追い回されてしまう。
 アルベール・ラモリス監督・脚本作品。1956年のカンヌ国際映画祭でパルム・ドール(短編)を受賞、その他にも数々の賞を受賞した名作。『白い馬』はモノクロだったが、本作はカラー。グレー基調のパリの町並みに風船の鮮やかな赤が映える。色彩感覚が抜群だと思う。また、CGがない時代にこれをやったのかと唸りたくなる風船の動きの妙。多分ヒモを付けて引っ張っているのだろうが、時々えっどうなってるの?と思うようなところがあった。絶賛されるのがわかる。技術ももちろんすばらしいのだろうが、映画ファンの心をくすぐる、映画好きでよかったなぁ!と思える何かがある作品だと思う。『白い馬』と同じく、ストーリーはごくシンプル、セリフも殆どない映画だが、シンプルに徹した故の豊かさがある。
 1950年代のパリの風景が楽しい。パリの中でも特に下町っぽい、路地が入り組んだ地域が舞台だ。アップダウンも激しいので、少年が歩くだけで画面に結構変化がある。ロケ地は厳選したのではないだろうか・・・って『白い馬』の感想の時も書いたな・・・。ともかく、風景にはこだわる監督なんだろうなと。ファッションにも当時の雰囲気が感じられて楽しいのだが、パスカルが着ている寝巻きみたいな服はアリなんだろうか・・・。他の子はちゃんとズボンとセーターみたいな格好をしているのだが。本当に寝巻きとか部屋着なのかと思っていたら、教会にも下はこの格好のまま、上着だけジャケットに替えて行っていたので、子供服としては一般的だったのかしら。
 さて、この映画は終盤が本当に美しいのだが、しかしどことなくさびしさ、悲しさを感じた。パターンとしては『白い馬』と同じく、「この世では幸せになれない」ということだよなぁとしんみりしてしまうのだ。本作の場合、相棒が無生物だから心中かどうかはともかく、パスカルが同年代の子供社会の中では生き難いタイプの子だというのは想像に難くない。両親や兄弟の姿も見えないし(同居しているのはおばあさんなんだろうか、家政婦さんなんだろうか)、人間の友達も現れない。そういう子が、この世界にはもういたくないと思って見た夢なんじゃないかとも思えるのだ。



『白い馬』

 アルベール・ラモリス監督の1953年の作品。同年のカンヌ国際映画祭でパルムドール(短編)を受賞している(本編は40分)。人間に追われる野性の白馬と、少年との絆を描く。
 海沿いで、干潟と沼地と荒れ野があってという不思議な地形なのでどこなのかと思っていたら、南フランスのカマルグ湿地帯だそうだ。沼地の間を水路が走っているのどかな風景がある一方で、海岸近くの地面は干上がりひび割れている。風景にメリハリがあって魅力的だった。モノクロ映画なのだが、モノクロ画面が活きる風景を厳選したという感じ。セリフがごく少ない作品なので、風景、そして馬が美しいというビジュアル要素が大きい。
 馬と少年の友情という物語ではあるが、カウボーイ(フランスでもカウボーイはカウボーイスタイルなのね)が馬を追う様や、馬同士のケンカを延々と映すなど、むしろ馬映画なんじゃ・・・。監督、馬好きだったのかしら。白い馬がとにかく美しいので、馬好き必見だ。また、人間側の主人公である少年がすごい美少年でちょっと驚いた。馬にまたがる姿が大変絵になる。しかもこれみよがしに、胸をはだけたりシャツの袖とかズボンとかがやぶけたりで、肩やら足やらチラ見えしているので、ちょ、監督自重!と思った。何かを狙っているとしか思えません。ようするに馬と美少年を撮りたかったんだよ!と言われればうっかり納得してしまいそう。
 それはさておき、馬と少年の姿を見ているだけでも楽しい作品なのだが、ラストはなんだか物悲しい。これは一種の心中ではないだろうか。前向きなナレーションは入るが、この世界では一緒には生きられないってことだもんなぁ。



『片腕マシンガール』

 女子高生アミ(八代みなせ)は弟のユウと2人暮らし。両親は殺人犯の疑いを掛けられたことを苦にして自殺した。しかしいじめによってユウまで死に追いやられ、アミは復讐鬼と化す。同じくいじめによって息子を亡くしたミキ(亜沙美)と共に、いじめの首謀者であったヤクザの息子とその一家に迫るが。
 監督は井口昇。監督としてだけでなく、役者としても多数の作品に関わっているそうだ。この人の監督作て見たことないよなーと思っていたが、短編「アトピー刑事」を見ていることに気づいた。何かクリーチャー的なものに拘りのある人なのかなという印象だったが、堂々の新作は人体損傷祭り映画だった。血も肉も飛びまくり。
 ジャンルとしてはスプラッター映画なのだろう。私はこのジャンルには疎いので想像なのだが、スプラッター映画が好きな人は、血肉がピューピュー飛ぶのを見て爽快感を感じるのだろう。本作でも確かに血が飛びまくる。スプラッターに興味があまりない私にとっては、ちょっと飽きちゃったなーくらいの勢いで飛ぶ。しかし、いまひとつ爽快さが突き抜けない。思うに、弟を殺されたヒロインの悲しみと復讐心が、彼女が殺した少年たちの親の復讐心によって相対化されてしまうからではないだろうか。この手の話でスカっとさせるためには主人公の残虐行為に対する大義名分が必要なんだろうが、それが相殺されてしまっているので、どっちもどっちだよなぁ・・・という微妙な気持ちになってしまう。
 で、その復讐し合いと同時に渾身のギャグも展開されているのだが、これがやりすぎの時があって、どのへんに重点置いて見ればいいのか、だんだんわからなくなってきた。どこかを立ててどこかを引っ込めるというバランス感覚があまりないんじゃないだろうか。なぜそこで天ぷら?!と思い切り突っ込みたくなった。あとギャグじゃないんだろうけど、鍋のサイズがいきなり変わっているとか。せっかく監督自ら出演している「鑑賞の手引き」まで上映してくれるのに、本編では笑いどころのツボをいちいちはずされてしまった。笑いのツボは人によって違うから、私だけかもわからないですが。
 おもしろくないわけじゃないのだが、無理して見なくてもよかったかな・・・。そもそも、なかなか「マシンガール」にならないんだよ・・・。待ちくたびれた。ただ、自動車整備工のミキ夫婦のキャラクター造形はばっちりだった。日本人のDNAには、やっぱりヤンキーへのあこがれが組み込まれていると思う。ミキ役の亜沙美はヒロインをくっていた。
  



『赤んぼ少女』

 孤児院から実の父母である南条夫妻(野口五郎、浅野温子)の元へひきとられることになった葉子(水沢奈子)。しかし村の人間は南条の屋敷には怖がって近づかない。どうやら南条家には「タマミ」という娘がいたらしいのだが。
 楳図かずおの原作を、『地獄甲子園』『魁!!クロマティ高校』の山口雄大が映画化。そういえば山口はマンガ原作映画ばっかり撮ってるなー。そして着実に上手くなっている。本作は今までで一番普通・・・というか手堅いと思う。山口が手馴れてきたということもあるだろうが、オーソドックスなホラー、しかも昭和(時代設定は原作どおり)のホラーに徹したからか。また、マンガの面白さの構造をよくわかっている人なんじゃないかと思う。バカ映画要素はないので、山口雄大の映画、と思って見に行くと肩透かしを食らうかもしれない。
 私は原作を読んだことがなく、知識としてこんな話だよという程度にしか知らないのだが、「昔のホラー映画」と思って見るとそこそこ面白い。キャスティングも見事に昭和顔の役者を揃えていて、山口の拘りを感じた。特に南条夫妻のキャスティングは豪華といえば豪華なのだが、なんとなく笑いを誘われる絶妙なラインだと思う。主演の水沢奈子は、演技は決して上手くないのだが、やはり「昭和の美少女」という雰囲気があった。
 タマミの造形は、ぎりぎりでマンガっぽいラインに留めていると思う。もっとグロテスクにすることも可能だったろうが、基本的に「タマミもかわいそう」という設定がベースにあるので、あまり嫌悪感をあおるような造形ではまずいと考えたのだろうか。ただ、あまり「かわいそう」とは感じなかったし同情心も煽られなかったが。山口はもしかして、ねっとりとした感情、特に女性の感情の演出は苦手なのだろうか。原作読んでないので想像だが、本当はもっとタマミの恨みや妬みがじっとり描かれていたんじゃないかしら。なおタマミ本体はパペットとCGで作っていると思うのだが、それほど安っぽさは感じなかった。サルのように跳ね回る空中戦(笑)も楽しい。製作予算増えたんだなーと感慨深いものがあった(笑)。
 典型的な「何かが追いかけてくるよホラー」で全くお約束展開なのだが、結構ドキドキした。ただ、若干長く感じた。実際の上映時間はむしろ短い方なので、展開がもたついているということだろうか。



『ニート』

絲山秋子著
 ニートの「君」を経済的に支えることにした「私」。愛情とも友情とも打算ともつかない奇妙な関係が続く。男女の「なんだかわからないが何かの繋がりはある」という関係の書き方よりも、具体的な理由はないがどうしても働けないというニートの精神構造が手に取るようにわかって嫌な汗かいた。自分もメンタル的にはニート寄りだから他人事とは思えない・・・。金が介在したときの人間関係の微妙な上下関係とか、地味にいやなところを突いてくるよなー。しかもそのいやさに凄味がある。



『村田エフェンディ滞土録』

梨木香歩著
 日本で言うところの明治時代。青年・村田はトルコに留学し考古学をマンでいる。イギリス人の家主、ドイツ人とギリシア人の同居人、そしてトルコ人の使用人らtの、文化の違いに戸惑い、時には一触即発しそうになるが、お互いに対する敬意を失わない態度が好ましい。こういった敬意・寛容はむしろ現代にこそ必要と著者は主張したいのだろうが、押し付けがましくはない。声高に主張すれば、(正しくはあっても)それもまた一面的な見方になってしまうという用心深さ、節度みたいなものが感じられた。しかし彼らにも時代の波が押し寄せ、それに飲み込まれていくのが痛ましかった。個人レベルで相互理解を得ても、大きな流れの前にはあっという間につぶされてしまう。それでも何かは残ると信じたいが、現代の世界を思い返すと・・・。そういった無力感も著者は重々承知で、でもなお踏みとどまろうとしているのだろうが。



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