3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

2008年06月

『ロスト・エコー』

ジョー・R・ランスデール著、北野寿美枝訳
 子供の頃の病気が原因で、暴力や恐っぱらい怖にまつわる記憶が、音を媒介に見えるようになったハリー。青年になった彼は奇妙な酔っ払いタッドの導きにより、能力をコントロールしようとする。ちょっと惰性で書いてるんじゃないのというご都合主義な部分はあるが、終盤で局地的に伏線回収するあたりにニマニマしてしまう。そんな無茶やってこそのランズデール先生ですよ!今回は自身が発案したという武道まで作品内に投入していて、わりとやりたい放題です。またランズデールぽいといえば、父親と息子の関係の描き方の上手さ。毎回泣かせられる。父親との関係がよかった人なんだろうなー。

『アメリカ 非道の大陸』

多和田葉子著
 アメリカへ渡った「あなた」とさまざまな人たちとの出会い。「あなた」は日本人であり、また、アメリカで出会った人たちもそのバックグラウンドにはさまざまな国・民族・文化がある。その人たちと「アメリカ」との隙間が見え隠れするのだ。その隙間を凝視する小説だったように思う。固有の文化を持ち続け「アメリカ」に同化しきっていない移民の子が賞賛され、アメリカに既になじみ、わかりやすい固有の文化を持たない子は賞賛されなかったというドイツ系女性のエピソードが印象に残った。ここでの「固有の文化」はパフォーマンスとしての「固有の文化」であって、その人の中に元々植わっているものとはちょっと違ってしまっているんじゃないかと。カジノの収益で生計を立てるネイチブ・アメリカンの部族のエピソードからも同様の印象を受けた。ただ、パフォーマンスとしてやっていることが逆に生来のもとして根付いていくということもあるのではとも思う。


『エスケイプ/アブセント』

絲山秋子著
 小品ではあるし軽く読めるのだがちょっと唸った。著者の作品は、以前は出来のムラが大きいと思っていたのだが、ある時期過ぎると急に安定してきたみたい。「エスケイプ」は、主人公が学生闘争にあけくれ気づくと40歳無職になっていたバイセクシュアルの男という、ある意味キャッチーすぎる設定。約20年間ニートってことですか!そんな主人公がとうとう年貢の納め時ということで、妹が経営する保育所を手伝う為に家を出、旅路の途中で京都に立ち寄る。主人公は40歳にして社会人経験なし、闘争にかこつけて実社会から逃避していたと自覚している。お先真っ暗な立場なのだが、語り口は妙にひょうひょうとしていてユーモラス。先がないとわかっていながら逃避行を続けてしまいそう、そして読んでいる側もそれを期待してしまいそうな危うさがある。対になる「アブセント」も同様。やぶれかぶれ加減にいたく共感してしまった。


『すべての美しい馬』

コーマック・マッカーシー著、黒原敏行訳
 16歳のジョン・グレイディ・コールは親友ロリンズと友に馬に乗ってアメリカからメキシコを目指す。途中で年少の少年・ブレヴィンズを仲間に加え旅を続けるが、思いもよらぬことに。1949年が舞台だということに驚いた。彼らの生活はもっと昔、それこそ西部開拓時代のような雰囲気なのだ。もっとも、ジョン・グレイディは自分が時代遅れであることに気づいておりおり、メキシコでなら望むような、馬とともにある生き方ができるのではと考えている。しかしメキシコもまた彼が夢見るような土地ではなかった。彼の、世の中からずれてしまった、漂泊続けざるを得ない生き方、またそれ故なのか、何かの力に突き動かされて転落していく様がなんともやるせない。文章自体は淡々としており、ジョン・グレイディもあくまで冷静なのでそれが更に際立つ。傍から見るとバカな真似なのだが(実際、ロリンズは何度もジョン・グレイディを諌める)根っこがない以上、流れに任せてみるしか自分のありようがないといった感じだ。彼を待ち受ける暴力と、描写される風景の荒々しさが呼応している。マッカーシーはやはり、暴力を描いていく作家なのか。ともあれすばらしいです。


『僕の彼女はサイボーグ』

 さえない青年ジロー(小出恵介)は20歳の誕生日に、不思議な女の子(綾瀬はるか)と出会う。楽しい1日を過ごした後、彼女は姿を消してしまった。翌年の誕生日、彼はその女の子に再会する。しかし彼女は科学者となった未来の自分が作ったサイボーグで、自分を守る為に未来からやってきたというのだ。
 人間とサイボーグの恋という、マンガやアニメでは手垢がついたネタなだけに、何で今このネタを実写映画で?と思っていた。しかも韓国の映画監督であるクァク・ジョエンが日本人俳優を使った、日本映画なのか韓国映画なのかよくわからない作品。しかも公開するなり「トンデモ映画」として映画ファンを騒然とさせている。これはともかく見てみなくてはなるまいと思って見てきた。
 クァク監督は『猟奇的な彼女』『僕の彼女を紹介します』をがヒットした、ラブコメに特化した映画監督と言えるだろう。本作も、少なくとも前半はまだ普通のラブコメに近い。彼女がサイボーグだから、実質上は彼女がひたすら彼に尽くしてくれる(ただしとんちんかんなやり方で)という男子妄想度の高い話ではあるが、かわいい女の子が怪力だったり桁外れの大食だったり(どうもフライドチキンがお好みらしい)するのはビジュアル的にもコミカルでかわいい。
 ただ、日本人俳優が演じていてもコメディのセンスは韓国のものなので、どこか変。笑いのツボってやっぱり国によって違うんだなーという文化のギャップを再認識する羽目になった。日本ではほとんど廃れてしまったコメディの文法があちらでは健在なのだろうか。また、ジローと彼女が今はなくなってしまったジローの故郷の村へ旅するエピソードがあるのだが、この村の情景がどう見てもジローの年齢に即さない。2008年に21歳てことは、7,8歳当時は1994年(平成6年)頃。しかし映画の中の村の情景はどう見ても昭和前半。これを日本人以外の人が見るなら「へー、日本の田舎ってこんな感じだったんだー」ですむのだが、当の日本人が見ているので、いやそれはちょっと・・・と違和感を感じてしまう。日本映画として撮るのか韓国映画として撮るのか、どちらかに統一しておけばよかったのになぁと思った。
 そして問題の映画後半。予告編である程度予想はしていたが、大事件が起きる。しかしこの大事件、ストーリー上あまり起こる必要がない。サイボーグが危機に陥るにはこれくらいの規模がないと無理ってこともないだろうに、何故これなのか。愛を確かめ合うのに天変地異が必要という発想はいつごろから始まったんだろうね・・・と遠い目をせざるを得ない。しかもCGがショボいので一気にさめる。このシーンをやりたかったんだろうなぁとは思うが、それにしてはやっつけ仕事っぽい。また、クライマックス後にまた一ひねりある。これは、タイムパラドックス的にはどうなんだろう・・・。メビウスの輪にはまっているような気がしなくもないのだが。SFをやりたかったのかもしれないが、ひねりすぎてスベっちゃった感がある。余計なことをついしてしまうのが監督の作風なのだろうか。あと、未来の東京の情景にあまりにSFセンスが感じられなくて吹いた。
 ともあれ、主演の綾瀬はるかの可愛さは異常。最初に登場してからいったん小出と別れるまでのエピソードでの綾瀬が、めちゃめちゃキュートですよ!歩道をスキップするのとかさー。あまりの可愛さに万引きも食い逃げも器物破損も全部許せる!綾瀬はるかのアイドル映画としては限りなく100点。


『シューテム・アップ』

 銃を持った男に追われる女を助けたスミス(クライブ・オーウェン)。しかし男の仲間が襲ってきて、女は殺され、スミスは生まれたばかりの赤ん坊を連れて逃げる羽目になる。赤ん坊を預けるために馴染みの娼婦ドンナ(モニカ・ベルッチ)の元へ逃げ込んだスミスだが、追跡者達のボス(ポール・ジアマッティ)は部下を引き連れしつこく追ってきた。殺された女と赤ん坊は一体何者なのか?
 ガンマン版子連れ狼か。無表情のクライブ・オーウェンがくしゃ顔の赤ん坊を背負って(後半は背負ってないけど)銃をばんばん撃ち、当然死屍累々。それだけの映画と言ってもいい。正直、感想ひねりだすのも一苦労なんですが・・・。しかしそのあとに残らなさがいい!ガンアクション以外の醍醐味はあまりないしそれ以外の醍醐味を作る気もあまりなさそうだが、結構遊び心があって楽しい。冒頭の「ファックユー」「ユートゥー」とか、やりすぎといえばやりすぎなんだけどこういうセンス好きです(笑)。おそろしく強度の高い人参とか、指紋認証式の銃とそのオチとかな。
 オーウェンはあまり好きな役者ではないのだが(すまん・・・)、長身で腕が長いからかガンアクションが映える。第二のガン・カタ使いになれそう(笑)。娼婦役のベルッチはちょととうがたってきた感じが逆に魅力的。高嶺の花的美女よりも、やや下世話な感じの役の方が似合うようになってきたのはいいのか悪いのか。
 よくよく考えるとわざわざ赤ん坊を出してくる必要はあまりなく(妊婦と赤ん坊が絡んでくる理由がちょっと苦しいので)、普通にマフィアとガンアクションしていればいいじゃないですか・・・とは思うが、赤ん坊をしょったりショッピングバッグに入れたりしているオーウェンが撮りたかったんだろうなぁ。その気持ちはわかる。だって絵的に妙だもの。ともあれ、頭をからっぽにして楽しむ為の映画としては丁度いい按配。結構痛そうなシーンがある(R指定ついてる)のだが、そういうのが平気な人にはお勧め。


『幻影師アイゼンハイム』

 19世紀、ハプスブルク帝国末期のウィーン。高度な奇術で人気を博していたアイゼンハイム(エドワード・ノートン)は幼馴染の伯爵令嬢ソフィー(ジェシカ・ビール)と再会する。2人はひそかに思いあっていたが、大人たちに会うことを禁じられたのだ。いまやソフィーは皇太子(ルーファス・シーウェル)の婚約者。しかし皇太子には、交際していた女性を殺したという噂があった。皇太子の腹心である警察官(ポール・ジアマッティ)はアイゼンハイムの監視を始めるが。スティーブン・ミルハウザーの小説をニール。バーガー監督が映画化した。
 セピア色がかかった落ち着いた色彩で、映像には品がある。フィルターを一枚通したような幻想的な雰囲気が「お話」感を高めていると思う。チェコで行ったらしいロケには力が入っていて、コスチュームプレイとしても楽しい。俳優も、ノートンを筆頭に男性陣の雰囲気がはまっていた。特にシーウェルのやや神経質な感じはいい。対して主演女優のビールは、ちょっとミスマッチだったように思う。きりりとした雰囲気は悪くはないが、19世紀末の美女という感じじゃないんだよなー。彼女の顔立ちには、現代劇の方が合っていると思う。
 映像的にはなかなか楽しめる作品なのだが、ストーリーの組み立てはやや平坦。流れが直線的すぎたように思う。アイゼンハイム逮捕から始まり、時間をさかのぼって彼の少年時代のエピソードとなるのだが、以降は時間軸どおりなので、冒頭のシーンにあまり必要性がなくなる。インパクトでひきつけるといえばひきつけるのかもしれないが。また、最後に大どんでん返しがあるのだが、説明が性急すぎて取って付けたように見える。伏線の見せ方がさりげなさすぎる(笑)のだ。それに、冷静に考えると突っ込みどころがありすぎのトリックだ。アイゼンハイムの奇術の精度が高すぎて却ってうさんくささが薄れてしまっているので、オチでの拍子抜けが強まったように思う。無理やり合理的なオチを付けなくても、あいまいなままにしてしまってもよかったのではないだろうか。オチの付け方と映画の雰囲気とが乖離しているように思う。
 ジアマッティ演じる警察官は第二の主人公と言ってもよく(事件の経緯は彼視点で描かれる)、魅力のあるキャラクターだった。奇術に惹かれアイゼンハイムには好意を持っているが、自分の保身を考えると皇太子の命令を聞かざるをえないというジレンマに悩む。ジアマッティがまたいい味出している。主演のノートンよりも見せ場があっておいしい役柄だったかもしれない。


『パリ、恋人たちの2日間』

 写真家のマリオン(ジュリー・デルピー)とインテリアデザイナーのジャック(アダム・ゴールドウィン)は付き合って2年のカップル。イタリア旅行の帰りに、マリオンの実家に預けていた猫を回収する為にパリへ寄る。久しぶりの故郷にはしゃぐマリオンだが、アメリカ人のジャックにとっては言葉の通じぬ見知らぬ国。しかもマリオンの元カレらしき男性たちに次々と遭遇。元カレとも楽しげに話すマリオンにジャックは焦りを隠せない。
 ジュリー・デルピーにとっては初監督作品となる。監督としても結構センスがよくてびっくりした。カットの取捨選択の思い切りがよく、テンポの作り方が上手い。また、ある程度付き合いの長いカップル間のぐだぐだ感をよく掴んでるなーと思った。いろいろ生生しいしどぎついジョークも飛び出すのだが、ユーモアがあって、からっとしている。特に会話のつなげかたが巧み。なので、最後をマリオンのモノローグで処理してしまったのは残念だった。あの修羅場の会話こそ聞きたいところじゃないですか!
 さて、本作はラブコメはラブコメなのだが、男女ともに30代半ばで付き合って2年という設定なので、それなりにそれぞれの過去があり、さらに四六時中ラブラブというわけではない人たちの話だ。つまりコメディではあるが結構苦いしイタい。2人の間に持ち上がっている問題をそれとなくうやむやにしておく流れとか、相手にも当然元カレ(カノ)がいると頭ではわかっていてもいざ目の前にするとやきもきしちゃってぜんぜんクールに振舞えなかったり、相手の携帯をこっそりチェックしちゃったり、下手な言い訳を重ねて墓穴を掘ったり・・・と、世のカップルが一度は経験するであろう、あまりかっこよくはないあれこれがてんこ盛り。楽しい映画ではあるが、デートムービーとしてはあまりお勧めできないのだ。自分たちのみっともなさを突きつけられているみたいなんだもん・・・。
 それでも笑って見られるのは、マリオンとジャックを筆頭に、マリオンの両親も友人も、面白いけど身近にいたらちょっと困る類のクセの強い人たちだからかも。あんまりシンパシーもてない人たちばかりなので「わーたいへんねー」程度のノリで見てしまった。マリオンとジャックの間の揉め事も、半分くらいは「それ自業自得だから」と思えるのだ。ともあれマリオンは男の趣味が悪いよな・・・。あとジョークの趣味も悪いよな・・・(「風船の写真」はあんまりだと思う。普通家族に見せるか?それともフランス的にはイケてるジョークなの?)。
 男女間のギャップはもちろんだが、その背後にはフランスとアメリカという文化のギャップもある。監督のデルピーはフランス人だが、フランス人のイヤミな部分をネタにし、更に自分で演じている。「フランス人て傍から見たらこんな感じでしょ」というよりも「いやわかってるんですよ面倒くさいやつだって!」という客観性と開き直り(笑)がおかしい。それでも自虐ネタっぽくならないところがスマート。たぶん、すごく冷静な人なんでしょうね。
 


『愛おしき隣人』

北欧のある町の暮らす人々のどうということない・・・というにはちょっと風変わりな日々を描く。監督はスウェーデンのロイ・アンダーソン。7年ぶりの新作となるそうだ。
 登場する人たちはツンデレ・ビッグサイズ(体が)な女性や、変な夢を見た中年男、ロックスターとの結婚を夢見る少女や喧嘩仲の若い夫婦、誰にも愛されない男など。同じ町に住んでいるという以上の共通項はありそうにない人たちだし、実際、それぞれのエピソードがつながるということもない。具体的なストーリーはなく、日々のスケッチやピンナップ写真をつなげていったアルバムのような映画だ。こじんまりとした作品ではあるが、撮影時間なんと10万時間以上、使ったフィルム6万メートル以上だそうだ。その中からえりすぐりのシークエンスを選び取ってつなげているわけなので、アルバムという印象もあながち外れではないのかも。
 スケッチやスナップ写真ぽいという印象は、カメラがほとんどの場合固定されているというのも一因かもしれない。カメラが動くシーンが2ヵ所しかなかった。また、どのシーンもやたらと奥行きを強調する構図だ。背後が壁の場合は、わざわざドアを開けて向こう側の部屋を映したり、窓の外に向かいのアパートの室内が見えるようにしたり、はたまた遠くの高速道路が見えたりという徹底ぶりだ。全部が全部そういう構図なので、ずっと見ているとだんだん目が変な感じになってきた。
 描かれているのはさえない、それでもなんとなく幸せとも言える日常なのだが、撮影の仕方にクセがあるからなのか、不思議な浮遊感があって、夢の中の情景のようだ。断片的なシーンをつなぎ合わせていてとりとめがないところも、夢に似ている。あるいは、映画全体がある町の人たち全員が見た夢なのでは?という雰囲気もある(実際に見た夢の話をする町の人も2人いる)。
 町の人たちが見た夢、という印象は、ラストシーンにより強められたものかもしれない。もしかしてこの町はもうなくなってしまっていて、町の人たちが見た夢だけが残っているんじゃないかと。監督がそういう意図を持っていたのかどうかはまったくわかりませんが。



『アフタースクール』

 ネタバレはしていないつもりですが、本作をこれから見る予定の方は読まない方がいいかもしれない。

 中学校教師の神野(大泉洋)の元へ、元同級生の島崎だと名乗る男(佐々木蔵之助)がたずねてきた。同じく同級生の木村(堺雅人)を知らないかという。神野は産気づいた木村の妻(常盤貴子)を、木村のかわりに病院へ送り届けたばかりだった。しかし島崎が見せる写真には、木村が妻ではない女性(田畑智子)と一緒に映っていた。さらに島崎は、2人とも行方不明だというのだ。
 『運命じゃない人』がカンヌでも高く評価された内田けんじ監督の新作となる。よかったなぁメジャーで撮れるようになって。前作で予算がなくて出来なかったこと(キャスト、美術、音楽など)を全部やってみたという印象を受けた。特に、前作でセンスのなさが露呈した音楽の使い方が格段に改善されていてほっとした。
 前作では、この人から見たらこうだけど、あの人から見たらこんなんだった、という構成力を駆使した立体パズル的な面白さがあったが、今回も同様。ただ、本作の構成はむしろ、工藤官九郎脚本の『木更津キャッツアイ』に似ているなあと思った。野球の試合と同じく9回までの「表」と「裏」に別れているというあれです。本作も(9回にはわかれてないけど)映画の前半と後半では見える景色ががらっと変わる。
 前半で敷いた伏線を後半で回収しまくっていく脚本には、粗がないわけではない(といったものの、私もほかの方に指摘されて初めて気がついた)。しかし、上手く回収しているところが印象に残るのであとはあんまり気にならないんですね(笑)。前作よりもむしろシンプルになっていると思うが、やはり脚本のポテンシャルが高いと思う。ぜんぜん飽きなかった。前半がもたつくという声も聞かれるが、引っ張りまわされている感にかえってわくわくして楽しかった(あと、私はあのくらいゆっくりやってくれないと伏線を確認できない・・・)。
 さて、予告編では「この3人には裏がある」という点を強調していたが、実はこのうち1人は観客が見ているままの人物で、裏があるのは2人だ。この配置の妙。キャスティングが上手かったというのもある(オチがわかってからなるほどなーこうきたかーとうなった)。俳優の持ち味を活かすのが上手な監督なんだと思う。また、裏があるといっても、表と裏とはぜんぜん別人!という意味ではないところがいい。その行動に隠された意図があったとしても、パーソナリティとしてはブレていない(3人とも実はそう)のだ。ラスト、教室での2人のやりとりにそれが集約されている。「裏がある」という言葉が既にフェイクの一つになっているところに唸った。人間、そう変わるものではないんじゃないの、という視線にちょっとほっとする。
 前作『運命じゃない人』では、ラストにこれは何か裏が?とかんぐってしまうところがあったのだが(そういう演出というより、意図通りに演出できなかったのだと思う)、今回はそのへんスッキリ終わらせている。後味もいい。小ぶりな作品だが、気分転換にはもってこいなのでお勧め。ただ、内田監督が3作目はどういう作風でくるのか心配ではある。1,2作目のような路線のままだと、袋小路に入っちゃいそうなんだよなー。
 


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