3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

2008年06月

『ザ・マジックアワー』

 異国情緒溢れるレトロな風景の為、しばしばロケ地となる港町・守加護。クラブの支配人・備後(妻夫木聡)は町を牛耳るギャングのボス・手塩(西田敏行)の情婦・マリ(深津絵里)に手を出し大ピンチに。伝説の殺し屋デラ富樫を5日間でつれてきたら助けてやると言われた彼は、売れない役者・村田(佐藤浩市)を殺し屋に仕立てることを思いつくが。
 三谷幸喜監督の新作映画となる。確かに手堅いし老若男女が楽しめそう、カメオ出演者も超豪華という娯楽大作ではある。が、三谷作品として傑作かといわれると微妙だ。三谷作品は大概テンポがいいが、本作は冒頭、備後が捕まって奇策を思いつくまでの流れがもたつき、おおげさなセリフ回しもイタイタしい。もちろん意図的に「いかにも」にしている(往年のハリウッド大作ぽくしたかったのだろうか)のだろうが、映画を見ている側のエンジンがかかりきっていない段階でこれをやられると少々辛い。撮影所の村田サイドに切り替わるとようやく調子が出てきてほっとする。
 村田はオールアドリブの映画撮影でギャングたちは俳優だと思い込み、ギャングたちは村田が本物の殺し屋だと思い込んでいるという、誤解の反復によるコメディ。村田と手塩の顔合わせシーンの「映画なんだからリテイクするだろV.S.この人なんで同じフレーズくりかえすの?!」を始め、三谷らしく畳み掛けるようなシチュエーションの数々は少々くどい。しかし佐藤浩市の怪演もあって、このあたりは素直に楽しかった。ザ・佐藤浩市ショーといっていいくらいの活躍だ。さらに備後と村田に相対する手塩役の西田が、意外にも抑えた演技で良かった。この人くどくてあまり好きじゃないんだけど、やっぱり喜劇が上手い人なんだなーと再認識した。また、最初は村田が闖入者であるが、最後には手塩が闖入者・部外者となり、偽者が本物を撃退するという反転の構図は派手でいい。多分、三谷は「偽者」である映画への愛情表現として、この構図を設定したのだろう。
 三谷が映画好きなのはわかる。しかし、これが映画賛歌なのだといわれると、それはちょっと違うんじゃないのと言いたくなる。映画って素敵!ということが映画賛歌というわけじゃないんじゃないのと。あと、三谷が賛歌するのはかつてのいわゆる名画であって、今なぜ映画なのかという主張にはなっていないのではないかと思う。
 本作に対して評価が辛くなってしまう最大の要因は、セットの造形だ。妙にメルヘンチックで作り物めいている。多分すごくお金がかかっているんだろうけど、何か安っぽくて興ざめしてしまった。こういうのを素敵な町並みと思うセンスにはちょっとついていけないわ。あと、三谷には女性の造形があんまり上手くない。本作のマリも、何をどうしたくてどう思っている人なのかがあまり見えてこず、最後の選択も唐突に見えた。


『アウェイ・フロム・ハー 君を想う』

 大学教授とその教え子だったグラント(ゴードン・ビンセント)とフィオーナ(ジュリー・クリスティ)は結婚して44年の円満夫婦。しかしフィオーナに認知症の症状が現れ始め、彼女は自ら介護施設に入居する。一ヵ月後グラントは見舞いに行ったが、フィオーナは彼が誰だかわからず、他の入居者男性に恋をしていた。
 冒頭の、フィオーナがフライパンを冷蔵庫にしまうシーンが、痴呆の始まりとして滑稽だが生々しくぞくりとした。演じるジュリー・クリスティがいい。年配とはいえ美しく、施設入居当初の端正な姿と、痴呆が進んでからの崩れ始めた姿との落差が痛々しかった。監督は女優のサラ・ポーチー。本作が初監督作品となるが、まだ若いのによりによってこんな渋いテーマを・・・。なぜこの題材をチョイスしたのか、そしてなぜこうも説得力を持って描けるのか不思議だ。
 さて、グラントにとってフィオーナの痴呆は、妻が自分を忘れ、自分の知る妻とは別の人間のようになっていく過程を目の当たりにするという苦行である。それでもグラントは妻を愛しており、彼女が自分を忘れたということを受け入れることが出来ず、諦めずに見舞いに通う。これだけなら涙が止まらない感動作となりそうなところだが、本作には出かけた涙がすっと引っ込む意地の悪さ、苦さがあり、単純な「泣かせ」になることを防いでいる。実はグラントは女好きで、教え子にちょくちょく手を出していたという前歴がある。なので、フィオーナに対して罪悪感があり、彼女の他の男への恋は自分への復讐なのではないかという疑念が頭を離れないのだ。この後ろめたさがあるからこそ、彼が下した決断はフィオーナのためだけというわけではないのでは、自分のエゴの為なのではという側面も垣間見えるのだ。これは、グラントが親しくなるある入居者の妻にしても同じことだ。配偶者を愛している、しかし(物理的・金銭的に)配偶者の為だけには生きられない。この単純にはいかないもつれた感じが苦さを生み、本作を奥深いものにしている。愛だけで片がついたらいいのにね。
 最後、グラントはある境地に至ったかと思いきや、平手打ちされるような事態が起きる。ちょっと前までは希望となったであろう事態が、彼をまた割り切れなさ、惑いの中に引き込むのだ。実に意地が悪い。しかしそれでも、2人が夫婦であった時間は確かにあったと確認できるという点では希望が残るとも言えるか。
 しかし本作最大の教訓は、タラシは老いてもタラシだということだろう。タラシ男が女性と接する時のスムーズさはいくつになっても衰えないらしい。モテ女性が老いた場合こうはいかないであろうことを考えると、ずるい!といいたくなるもの無理はないかと。


『平原の街』

コーマック・マッカーシー著、黒原敏行訳
『すべての美しい馬』の主人公だったジョン・グレイディの旅がついに終わる。舞台はメキシコ。グレイディは一貫して、どこにもない場所を探し求め、手に入らないものを求める宿命の人だったように思う。彼はアメリカでは既に失われた理想の土地を求めてメキシコにくるが、彼の思うメキシコの姿は、最早現実のメキシコの中にはない。また、彼が恋する女性も、実際には彼が思うところの女性ではなかったのかもしれない。時代おくれの人、この世にしっくりこない人としての彼が迎える結末は、やはりこういう形しかなかったのだろう。ラストは痛切だ。そしてメキシコの風土の描写が例によってすばらしく、この土地の前では人間1人の死などなんということはないという突き放された感じがする。


『休暇』

 結婚式を控えた刑務官の平井(小林薫)は、婚約者(大塚寧々)とその幼い連れ子を新婚旅行に連れて行きたいが、休みがなかなか取れない。そんな折、死刑囚・金田(西島秀俊)の刑の執行が決まる。平井は「支え役」を志願した。支え役をやると、1週間の休暇がもらえるのだ。監督は門井肇、原作は吉村昭。
 旅行中の平井と妻子のシーンから始まり、旅行に至るまでの経緯を交互に描く。時間が前後するので最初はちょっと混乱したが、何があってこうなったかが徐々にはっきりとしていき、だんだん平井の心情が映画を見る側に迫ってくる。新しい家族の誕生と死刑の執行という対立する2つの要素が、同時進行する。淡々としているが触れ幅は大きい。また、冒頭と最後の方とで電車の中のシーンが反復される。さらに、死んでいく金田と人生これからの平井の義息は、同じく絵を描くことを得意としている。対照の構図を意味合いを変えて繰り返すことで、人生の悲喜を感じさせる。
 刑務官の仕事、死刑が執行されるまでの過程を結構具体的に追っていて興味深かった。これはどうやって取材したのだろうか・・・。刑場の現場は見せてもらえないだろうから、関係者に取材したのか。刑務官といっても平然と執行に立ち会えるわけではない。また、死刑、そして受刑者に対する考え方も一枚岩ではない。平井が休暇の為に支え役を引き受けたと知って、彼の上司は激怒する。また、死刑執行を控えて平井の結婚式に出席した刑務官たちは、出された料理にまったく手を付けられない。定年間近のベテランであっても、支え役を終えた後は呆然とする。そして平井は、ことあるごとに悪夢にうなされる。
 受刑者とその関係者だけでなく、執行する側にもダメージを強いる死刑というシステムは何なんだろうなと考え込んでしまうが、本作は死刑制度の是非を問うものではない。1人の人間が何を捨て何をとるか、どこまで割り切るかという選択を迫られていく物語だと思う。刑務官としてだけでなく、子連れの女性と結婚する男性としても。子供に縁のなかった平井は、子供への接し方がぎこちなく、ひいては妻との関係もどことなくぎこちない。「あなたにも慣れてほしいの」という女性の言葉は、ああもう他人事ではないのだな・・・と思わせる力があって強く印象に残った。しかしだからこそ、それが金田の死を踏み台にしたものであっても、最後のシーンには希望が持てる。地味だが佳作。
 


『アイロンと朝の詩人 回送電車Ⅲ』

堀江敏幸著
 このエッセイシリーズももう3作目なのか・・・。毎回、日々の小ネタ的なものから文学のこと、そして社会のことと硬軟とりまぜた内容。文章が端正で読むとほっとする。さて、著者はインスタントなものに対して強い抵抗のある人なのだということがよくわかる部分が多々あった。手順を踏んだものでないと信用できないみたい。ひょうひょうとした作風なのに、こういうところはすごく頑固ぽい(笑)。同様に、わかりやすすぎるものに対しても懐疑的みたい。煮え切らなさともとれるが、こういう慎重さは信頼できる。ところで、読んでみたい本がいろいろと出てくるのだが、日本語に翻訳されていないものが多くて残念。


『インシテミル』

米澤穂信著
 破格の時給につられてある実験の被験者のアルバイトをすることになった12人。奇妙な施設の中で1週間生活するというのがその内容なのだが、奇妙なルールが存在した。いわゆる館ものの本格ミステリ。ネタの出尽くした設定を、ルールで差別化しているところが上手い。この作家の作品には苦手意識があった(なんか、中学生的なメンタリティがね・・・)のだが、これは面白かった。しかし一般人はクローズドサークルという概念を持たず12体のインディアン人形を見ても危機感を覚えないとは!カルチャーショックだ!終盤の展開は本格ミステリの登場人物による本格ミステリに対する反乱ともとれるが、それもまた本格ミステリの枠の中のことという皮肉。


『死刑』

森達也著
 私は死刑制度についてあまり考えたことがなかったし(どちらかというと反対かなぁという程度)、どういう仕組みで執行されるのかもそれほど知らなかった。本作にもそれほど関心があったわけではないのだが、評判がいいので読んでみた。評判がいいのにも納得。読みやすいが読み応えがある。興味深いところが、死刑廃止論者・擁護論者どちらにも取材しているのだが、絶対に肯定・否定と言い切れる人はおらず、条件付きであったり迷っていたりする。著者自身、「さしあたって廃止派だけど取材の過程でどうなるかわからない」というニュートラルなスタンスであり、自分の意見が変わることを期待しているところもある。どっちなんですかと突き詰めていけばいくほどあいまいになっていくという不思議なことに。本文中でも著者が指摘しているように、死刑制度が論理だけでなく割り切れない情の部分にかかわってくるものだからなのだろうが、だとしたら人間が人間である以上結論は出ないのだろうか。しかし死刑ってなんだろうと考えさせられる力がある。取材相手の発言にはちょっとうなってしまうようなところが多々あった。話しなれている人が多いというのもあるのだろうが、インタビュアーとしての著者が優れているのだろう。煮え切らない、ナイーブすぎると感じられる部分もあるが、相手に対する違和感とか意見の相違等も率直に文面に書いており、そういう点でも相手(取材相手に対しても主題に対しても)誠実なんだろうなぁと思った。煮え切らない部分を煮え切らないんですよと言ってしまうのもひとつのタフさかなと。


『ランボー 最後の戦場』

 私、ランボーシリーズを1作も見たことなかったんですよ。本作が初めて。でもぜんぜん問題なかったです。タイの山奥で隠遁生活を送る、元アメリカ兵のジョン・ランボー(シルベスター・スタローン)。軍事独裁政権による少数民族迫害が続くミャンマーへ渡ろうとする、キリスト教支援団体をガイドすることに。目的地へ彼らを送り届けたものの、家に戻ったランボーの耳に、支援団体のメンバーが軍に拉致されたという知らせが入る。救援のため送り込まれた5人の傭兵と共に、敵の根城に乗り込むが。
 今のハリウッドで戦記ものでもホラーでもなく、ここまで暴力とスプラッタに満ち溢れた映画を撮ってしまうとは・・・とにかく血肉の飽和状態が尋常ではなく、えっスタローンさんどうしちゃったんですか!何に駆り立てられているんですか!と気になってしまう。一応ミャンマー情勢を下敷きにはしているが、スタローン(今回監督も務めてます)が強い問題意識を持っているかというと、そうでもないのではないだろうか。派手な戦争(というか虐殺)ができそうなシチュエーションはないかしらと探してみて、まあこれなら使えるんじゃないかと舞台設定を起用したという印象を受けた。
 戦争に嫌気がさしているらしいランボーだが、一度火がつくと容赦なく敵を皆殺しにする。また、アンチ暴力のはずだったキリスト支援団体のメンバーも、自分を、そして恋人を守る為暴力に手を染める。暴力が暴力をよび、そして何も生みださない(ランボーたちが活躍しても、事態はさして好転していない。支援団体のメンバーも何も成し得ない)。さらに、ランボーが軍の兵士を撃ち殺すのと、軍の兵士が村人を撃ち殺すのとは、やっていることは同じだ。ランボーも傭兵たちも、「仕事」に成功しても感謝されることはなく(人殺しは人殺しだから)、失敗すればとうぜん避難される。しかし彼らは暴力の中でしか生きられない。むなしいことこの上ない展開だ。
 しかし同時に、この映画には暴力ちょうたのしい!という視線も確かにある。血肉吹き飛びまくる展開に、ああもうスプラッタはおなかいっぱい・・・と思う一方で、いいぞもっとやれ!と思いかねない。というかちょっと思った。特に本作では軍の人々の背景、心情には一切触れられないので、よけいにランボーが意気揚揚と殺しているように見えるのだ。スタローンも、建前としては暴力はむなしいよ!なのかもしれないが、これは暴力と血肉が撮りたくてしょうがなかったんだろうなー。暴力をエンターテイメントとして眺めてしまうというのは、なんなんだろうなーとしみじみ思いました。

『文章教室』

金井美恵子著
 主婦やその夫と娘、プロの小説家や文学部の大学院生らの日々と恋愛模様。地の文と、主婦である絵真の手記、実在する/しない書物からの引用からなる。引用元がわかればもっと面白いんだろうな・・・。不勉強なもので・・・。絵真の手記や、小説家の作品を「引用」することで、この人たちの自己愛が垣間見える。事実をうまーく隠ぺいしてフィクションに転嫁しているのだ。そういう構造が内部にあるフィクションという、入れ子のような小説。しかし人のダメダメなところとか、いいわけがましいところを書くと、著者は実にうまい。名人芸ですね。それが読みたくて読んじゃうのだが。あと、服のブランドとかアイテム名とかが具体的なのが楽しい(85年の作品なので、80年代臭にみちみちていますが)。


『Mr.ブルックス 完璧なる殺人鬼』

 実業家のアール・ブルックス(ケビン・コスナー)は美人の妻と娘と共に順風満帆な生活を送っていた。しかし実はかれは連続殺人犯。今夜もセックス中のカップルを殺してご満悦だった。しかしこのカップル、カーテンを開け放してことに及ぶ習慣があった為、盗撮していた向かいのアパートの男に、室内にいるブルックスの写真も撮られてしまったのだ。
 殺人鬼にケビン・コスナー、彼を追う捜査官にデミ・ムーアを起用。そして映画自体はB級臭がプンプン。これは「かつての大スターが今は・・・」というしょんぼり気味の映画なのだろうかと思っていたら、意外にも面白い。1800円で見たらモヤモヤするかもしれないが(笑)、サービス料金で見ればそれなりに満足感が得られそうだ。映画前半は正直言って流れがかったるいなーと思っていたのだが、ブルックスの娘が絡みだす後半は、俄然おもしろくなる。
 ブルックスは確かに連続殺人鬼ではあるのだが、同時に良き夫であり、娘を愛する父親である。彼はこれまでのその両面を両立させていたのだが、娘が起こしたトラブルによって、殺人鬼として保身を図ると娘が窮地に立たされ、娘を守ろうとすると殺人鬼としての立場が危うくなるというアンビバレンツな状態に陥ってしまう。また同時に、社会的な道義を通すかあくまで娘を守るかというアンビバレンツも生じる。同義的にって、そもそもあんた殺人犯だよ!と突っ込みたくなるが、本人至ってまじめである。殺人鬼であるという点以外は、かなりきちんとした人物である。「娘のことを考えるとここはひとつガツンと言わねば・・・」と父親らしく思うと同時に、「あー人殺してー」と思っているわけです。このギャップがユニークだった。
 通常のサスペンスドラマ(主人公が犯人の場合)だと、主人公が行う犯罪が中心にあるのだろうが、本作の場合、殺人事件事態はあまり重要ではない。見ていて「えっどうするの?どうするのよ!」とワクワクするのは、むしろ父親として彼がどうするのか、というところなのだ。殺人鬼としての彼は父親としての彼に勝つのか負けるのか両立するのか?
 さて、ブルックスの脳内人格としてウィリアム・ハートが出演していて、もう殺しの誘惑には屈しないぜ!と決意するブルックスをYOU殺っちゃいなよ!とけしかけるのだが、いわゆるジキルとハイドではなく、脳内兄弟というか、頭の中を整理するためのディスカッション相手というところもちょっと面白い。人格が分裂しているというわけではないのでストーリー上あまり必要のない存在ではあるのだが、2人(客観的には1人)でくだらない冗談言ってケラケラ笑っているところとか、ビジュアルとして面白かった。


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