3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

2008年05月

『狩人の夜』

 デイヴィス・グラブの原作小説は以前読んだことあったのだが、妙に怖かった。その小説の解説に、過去に映画化されたことがあるということが書いてあったので、一度見たいと思っていたのだ。今回「ケイブルホーグ特集」(シネマヴェーラにて)で特別上映されると聞いたので、さっそく行ってきた。監督はチャールズ・ロートン。1955年の作品となる。
 狂信的な宣教師(ロバート・ミッチャム)が、死刑になった父親から大金を託された幼い兄妹、ジョンとパールを付けねらう。デイヴィス・グラブの原作小説は以前読んだことあったのだが、妙に怖かった。その小説の解説に、過去に映画化されたことがあるということが書いてあったので、一度見たいと思っていたのだ。今回「ケイブルホーク特集」(シネマヴェーラにて)で特別上映されると聞いたので、さっそく行ってきた。監督はチャールズ・ロートン。
 昔の映画と今の映画は、当然といえば当然なんだがテンポが違うなぁとしみじみと思った。昔の映画はカット割がこまかいのかしら(技術的にカメラを動かしにくかったからかもしれないけど)。ある状態から次の状態に移るまで、妙に時間がかかる。今の映画だったらもう1カット少ないんじゃないかなとか、全部1ショットで撮るんじゃないかなとか、テンポの違いがまだるっこしくなってしまった。1つのシークエンスの中で1つの現象しか起きていないことが多いし、今の映画を見慣れていると違和感がある。やはり50年以上前の作品てのは辛いか・・・。逆に、映画の文法が進化したんだなぁということは実感できるが。
 ところで本作の中では繰り返し「女はおろかだ」ということが言われる。ハリーは、まあ狂信的なキリスト教信者(と本人は思い込んでいるが、敬虔な信者は連続未亡人殺人事件とか起こさないよな)だからそういうことも言うだろうなーとは思うが、兄妹を助けてくれる気丈な老女クーバー(リリアン・ギッシュ)にまで言われるとちょっとひっかかる。そういう時代だったのね・・・。でも本作に出てくる女性が(老女以外)全員非常にイライラさせる人なのでうっかり納得しそうに。最大のイライラ原因はパールだ。ジョンの気も知らずにハリーに懐き、ジョンの足を引っ張るトラブルメーカーとなる。あーイライラする!ジョンにとって周囲の人がまったく充て当てにできないというかわいそうな状況なのだ。
 影を強調した映像が、ハリーの不気味さを引き立てていた。しかし最後はハリーよりも、ことの結末に盛り上がる一般市民の方が狂気じみて見えるという、ちょっとシニカルな部分も。また、ボートが川を下るシーンや水中死体など、局地的に「美しく撮るぞ!」という意気込みが見えるところが面白い。


『ミスト』

 アメリカの田舎町を濃い霧が覆った。幼い息子を連れてたまたまスーパーに買い物に来ていたデイヴィッド(トーマス・ジェーン)。そのスーパーに突然、中年男が駆け込んできた。霧の中に何かがいて人間を襲っていると言うのだ。
 原作はスティーブン・キング。監督・製作・脚本は『ショーシャンクの空に』『グリーンマイル』という感動系キング作品の映画化を次々と成功させたフランク・ダラボン。えーと、私、あまりこの人の映画好きじゃないんですよ。そこそこ面白い(手堅い)とは思うがすごくいいとは思わない。今作も何かB級ホラーぽいし、タイトルを知った当時はスルーするつもりだった。しかし一部の映画ファンの間に激震が走っているようなので、これはちょっと見ておくかと思って、勢いで見に行ったのだ。で、結論から言うと、これはすごい。「衝撃のラスト15分」とやらは伊達じゃなかった。原作とはオチが違うそうなのだが、ダラボンのアイディアを聞いてキングが悔しがったのも頷ける。ダラボンのダークフォースが炸裂!
 「よくわからないものが襲ってくる」というオーソドックスなホラーの形式ではあるし、モンスター強襲ものとしての怖さもちゃんとあるのだが、この作品の真の恐ろしさはそこにはない。本当に恐ろしいのは人間なのだ。スーパーという密室に閉じ込められた集団は不安に駆られ、いくつかの派閥に分かれて剣呑な雰囲気になったり、果ては狂信的なキリスト教信者である女性の妄言に呑まれていく。特に後者は、この女性を演じるマーシャ・ゲ・ハーデンの熱演もあって、実に怖い。「まーたそんなたわごと言っちゃって・・・」と彼女を困った人扱いしていた町の人々が、不安に駆られて徐々に彼女の言うことを信じ始めてしまうのだ。人間、不安だと手近なものに縋ってしまうものなのだろうか。人間の理性の脆弱さを突きつけてくる。モンスターは最初からなんだかわからないし怖くて当たり前だけど、とりあえず何だかわかっていたはずのものが分からなくなってくる方が怖い。更に、人間のよりどころであるべき宗教が、人を追い詰めていくのだ。しかも、宗教・神は元々理屈で説明しきれるものではないから、「いやそれは間違っているよ!」と反論してもあまり説得力がない(根拠のおきようがない)のね。このあたりのどんどん泥沼化していく過程が実にいやな感じ。
 そして噂のラスト15分である。本作は最後の最後に至るまで、私たちがなんとなく抱いている「人間らしさ」とはどこまで信じていいものなのか、それにいかほどの価値があるのかと突きつけてくる。信じられる確かなものがないというのは、なんと不安で怖いものだろう。そして人間の理性も善性も全否定(そんなものはない!というのではなく、かくも脆弱であるという意味で)な話である。「せめて人間らしく」という発想も全否定。このオチ、種としての人間レベルでは希望があるが、個人としては廃人決定でしょう。夢も希望もありゃしない!


『NEXT ネクスト』

 2分先の未来を見ることができるクリス(ニコラス・ケイジ)は、その能力を利用し、2流のマジシャン、そして地味目ギャンブラーとしてラスベガスで生計を立てていた。しかしある日、彼の能力を知ったFBI捜査官カリー(ジュリアン・ムーア)が、アメリカに密輸入された核弾頭を探す為、彼の能力を利用しようとする。一方クリスは、唯一2分以上先まで予測できたある女性(ジェシカ・ビール)との出会いを待ちわびダイナーに通っていた。
 原作はフィリップ・F・ディック。原作未読なのでどの程度原作に忠実なのかわからないのだが、原作ファンが見たら怒り出すんじゃないかという気がします、なんとなく。2分先までの予知能力というのは、使えるようでいて実際のところあまり使えないと思う。「2分先まで」という制約をうまく利用すれば万能になりすぎずにそこそこ面白い話になるのではと思ったが、何だかだんだん万能状態になってきちゃってがっかり。この設定が生かされていたのはカジノ脱出と脅威の「失敗しないナンパ」だろう。つまり、このくらいショボい規模じゃないと活きてこない能力なのね(笑)。だんだん、未来予測じゃなくて「複数の未来をシュミレートした上で選択できる能力」という側面の方が強くなってきちゃった。でもその選択て、超人的な情報処理能力と身体能力がないと無理だよなあ。そのレベルの情報処理能力と身体能力があれば、予測能力なくてもそこそこなり上がれるんじゃ・・・。
 突込みどころは多々ある作品だが、最大の突っ込みどころは、2分先限定の予知能力でどうやって持ち込まれた核のありかを突き止めればいいのかという点だろう。予測できたとしても対処できないよ!移動時間とかどうなるんだ!
 そして何しろオチがすごい。脱力感は満点だ。しかしそれもこれも、主演がニコラス・ケイジだと思うとなんとなく許せてくるから不思議なものだ。これが人徳ってやつか(たぶん違う)。


『相棒 劇場版 絶体絶命!42.195㎞東京ビッグシティマラソン』

 警視庁特命係の杉下右京(水谷豊)と亀山薫(寺脇康文)が活躍する、人気TVドラマシリーズがとうとう映画化。監督は和泉聖治、脚本は戸田山聖司。2人ともTVシリーズも手がけている。TVドラマの映画化というと、映画ファンからはあまりいい顔をされない。本作に対しても公開前から危惧する声が多かった。しかし相棒なら、相棒なら何かやってくれるはず・・・!とひそかに思っていたのだが、あっさり裏切られました。あれー。
 SNSを利用した連続殺人事件、チェスの棋譜による犯行予告、そしてクライマックスのマランソン中継と大爆破。1つ1つの素材は面白そうなのだが、個々の要素の方向性が違いすぎて、ひとつの映画としてはうまくかみ合っていないように思う。犯人像と落差がありすぎるし、犯人の目的からすると、連続殺人を起こす必要性は薄く、またチェスによる予告は予告される側にとってハードルが高すぎる。マラソン関係だけで十分犯行目的が達せられそうなのに・・・。映画といえば大々的な事件!爆破!テロ!黒幕!と意気込みすぎてしまったのか。バラして何本かのテレビ版2時間スペシャルに使えばよかったのにと思うと、もったいなくてしょうがない。あと、キャスティングで犯人が分かっちゃうのはイタい。
 見ていて、「これはTVで見てもギャップなさそうだなぁ」と思った。普通映画をTVで見ると画面の小ささ(民放の場合はCMも)が物足りなく感じるものだが、本作はTV画面でみてもあまり問題なさそう。むしろ、映画館のスクリーンで見ていることに違和感を感じた。何か、TVドラマを無理無理スクリーンサイズに引き延ばして上映しているみたいなのね。何をもって映画っぽいと感じるのか、難しくて私にはよくわからないのだが、少なくとも映画はスクリーンで上映することを前提にしてはあるだろう。本作ももちろんスクリーンで上映することを前提で撮ってはあるのだろうが、撮り方がTVの撮り方なのではないかと思う。派手な空撮やアクションがあってもどこかTVっぽい。これは何なんだろうなー(カメラが俳優に寄りすぎというのも一因かなとは思う)。
 もっとも、シリーズのファンとしてはそれなりに楽しめた部分もある。なにしろ水谷豊をスクリーンで見られるなんて、この先あるかどうかわからない(あるとすれば相棒劇場版2だ)。長年シリーズを続けてキャラクターが固まっている強みは、やはりあると思う。登場人物のキャラが立っていなかったら相当辛い映画になったのでは。あと、TVシリーズのときはあまり意識しなかったのだが、寺脇康文の下僕体質を再認識した。今回すごくよく走っているのだが、走っているのではなく走らされている感がすばらしい。また、「相棒」の特徴として、監督や脚本家が持っている問題意識をストーリーにぐいぐいねじ込んでくるという力技があるのだが、本作でも健在。というよりいつにも増したねじ込みっぷりだった。いやいやこれがないとねー。
 なお、本作の一番の功労は、水谷豊のドラマ以外におけるTV出演が、公開前後に激増したことだろう。何この祭り。まさか過去の歌番組の映像までひっぱりだしてくるとは・・・。杉下右京ではない水谷豊を存分に見ることができたので、この点にだけは感謝だ。


『軍鶏 shamo』

 親殺しの罪っで少年院送りとなった成瀬亮(ショーン・ユー)は、空手教師としてやってきた囚人・黒川に教えを受け、強くなっていく。退院後、ヤクザで空手の大家である望月が主宰する総合格闘技「リーサルファイト」に出場することになるが。原作は橋本以蔵のマンガ。それを香港のソイ・チェン監督が映画化した。舞台は日本、登場人物の名前も日本名だが、演じているのは香港映画界の俳優でセリフは北京語。それを日本語吹替えで上映するという、『頭文字D』に続く不思議な現象が起きている。吹替えに関しては嫌がる人もいるだろうが、これはこれで面白くていいと思う。
 原作は未読なのだが、想像していたよりも主人公がナイーブだった。これじゃああまり「軍鶏」って感じじゃないなぁ・・・。情も愛も振り切って戦いに邁進してこその軍鶏じゃないですか!妹を探し続けていたり、恋人のことを一応心配してみたり、親友もいる。強さを求めることに関してはクレイジーという設定らしいのだが、そのわりにはまともで、主人公のキャラクターがぶれていたように思った。女も友もいらん!もっと狂気を!しかし、終盤で真相が明らかになると、彼が少年院の中で狂気を深めていったのではなく、狂気を装うことを選択したのではと解釈できる。が、そうすると彼が「踏みつけにされるのはもう沢山だ」とひたすら強さを求めるのとは文脈が違っちゃうんじゃないかしら・・・。このあたりの、主人公の強さと狂気に対する掘り下げ方があいまいなままで残念だった。掘り下げ方によってはもっと凄みが出て面白くなったと思うのだが。
 ともあれ、アクションの切れは総じて良くて満足。各キャラの強さの対比がちょっと妙なことになっている気もするが・・・(途中で出てくるイケメンヤクザがあっさりやられすぎ)。ショーン・ユーはそんなに大柄ではないと思うのだが、かなり体を張っている。あどけない顔と目がイってしまっている顔とのギャップもいい。ちなみに、亮のライバルのファイター・菅原役を格闘家の魔裟斗が演じている。ユーも相当体を作って頑張っているのだが、魔裟斗と並ぶと華奢に見える。やっぱり本職の人は体つきが違う。魔裟斗、演技はさっぱりできないのですが、動きのキレは流石でした。あと、「それどこですか」と突っ込みたくなる背景が多々あるので、そのへんのアバウトさも必見。

『アイム・ノット・ゼア』

 ミステリアスなミュージシャンといわれるボブ・ディラン。トッド・ヘインズ監督の新作は、そのディランの伝記映画・・・とはちょっと違うのかもしれない。ディランを6人の俳優が演じることで話題になったが、実は誰も「ボブ・ディラン」とは名乗っていない。ディランの曲と人生をモチーフとした、あるスターの物語ともいえると思う。
 ディラン(としておきます、一応)を演じるのはクリスチャン・ベイル(成功を収めたが突然信仰に目覚めた時期をドキュメンタリー風に)、ヒース・レジャー(映画スターとしてもてはやされるが離婚)、ケイト・ブランシェット(フォークからロックへ転向し旧来のファンにたたかれる。モノクロのパート)、ベン・ウィショー(尋問される詩人。ここもモノクロ)、マーカス・カール・フランクリン(ギター片手に旅する少年)、そしてリチャード・ギア(山に身を潜める世捨て人)。年齢も人種も性別も違う6人だが、それぞれ味があった。特に前々から評判だったケイト・ブランシェットのディランぽさはすごい。顔の造形もしぐさも一番似て見えた。ディランのいい加減な部分、軽薄を装う部分が上手く出ていたのではないかと思う。ブランシェットはやはり存在感がある役者だなと(演技力がこれみよがし・がんばってコピーしすぎてモノマネっぽくなっちゃう向きがなきにしもあらずだが)実感した。
 私はボブ・ディランの曲は好きだが、彼自身についてそう詳しいわけではない。この映画を見る限りでは、随分多面的というか、趣味趣向をコロコロと変える人だったようだ。もっとも、彼の中では一貫してブレないものがあってそれに基づいて行動している、しかし外見的にはコロコロ変わっているように見えているのかもしれない。この映画では、彼の音楽、ライフスタイルはどんどん変わっていくように、演じる人も時制もバラバラだ。ディランが若くなったり年をとったりする。見ていて混乱しそうかなと思ったのだが、実際に見てみると、意外にもすんなりと見ることができた。おそらく、編集が的確なんだろう(正直意外・・・)。各俳優のパート間での切り替えに違和感がなかった。後半になるにつれ、ディランの内面世界、ファンタジーの度合いが高くなり、放浪するものとしてのスタート位置に戻るという構成もきれいにまとまっていた。もっとも、映画そのものがいいというより、ディランの曲のよさによって映画が底上げされている部分が大きいと思うのだが。
 一つ大きな難点として、ユーモアのセンスがあまりよくないという点が気になった。コミカルなシーンが野暮ったいのだ。特にロックスター・ディランを演じるブランシェットのパートでそれが目立った。贋ビートルズとか、奇妙な追いかけっことか、機関銃乱射とか、ベタすぎる。他の部分とトーンが合っていないので妙に浮いていた。ブランシェットがなまじ上手い役者なので、演出の下手さが際立ったように思う。

『独裁者の城塞 新しい太陽の書4』

ジーン・ウルフ著、岡部宏之訳
 とうとうセヴェリアンの秘密が明らかになるシリーズ最終章・・・と思ったら最終巻てまだ翻訳されてないの?!えっこれ完結してないの?!しかし完結したよといわれればそうかと納得してしまいそうな第4巻。1巻から読んでいて、ずっと物語内の時間の流れ方に変なところがあると思っていたのだが、そういうことだったか!セヴェリアンが独裁者になることは1巻で既に提示されている。彼が上り詰めていく成長物語としての側面もあるのだが、普通、青年の成長物語というと主人公がアイデンティティを確立していく過程になっていると思うのだが、本作の場合アイデンティティが膨大な情報に上書きされていき、結局「自分は何であるか」という境地にはたどり着けない(と言うと大げさか)。スケールは大きいが、そこに若干の悲哀も感じるのだ。太陽が昇り沈むような循環が物語のシステムとなっているので、独裁者となったものはやがて打ち倒されるだろうと予感されることも、悲哀を感じる一因か。ont>

『警士の剣 新しい太陽の書3』

ジーン・ウルフ著、岡部宏之訳
 愛する女性ドルカスと別れたセベリアンは、調停者の鉤爪を返す為にペルリーヌ尼僧団を追う。なんだか、だんだんSFぽくなってきた!SFに疎い私でも、あっこれはSFで言うところのアレですよね?!とわかるところが。ウルフは懇切丁寧な説明は全くしてくれないので、なんとなくそうなのかなーという程度ですが。そして読者に対して親切ではないので、こことここの間に何があったの?これはあれのことでいいのか?と何度も躓きつつ読むことに。今巻では一人称の主体がすりかわるところもあるので、えっ今どっちだっけ?とうっかり読み飛ばすと混乱しそうになった。読者に高いスキルを要求する作家なのね。SF・ファンタジーに疎い身にはちょっと辛いが、それもまた楽しい。今巻では少年セヴェリアンとの出会いと別れという泣かせどころも(本作では一番ウェットな部分ではないだろうか)。ところで、特に2巻3巻では結構セクシャルなエピソードが多いようにも思う。そういう意味では正しく少年の成長ものとも言えるか。


『調停者の鉤爪 新しい太陽の書2』

ジーン・ウルフ著、岡部宏之訳
 「調停者の鉤爪」とは、主人公セヴェリアンが手に入れた宝石。人の傷を癒すなど、不思議な力があるらしい。1巻に引き続き旅を続けるセヴェリアンは、とうとう反逆者ヴォルダスに再会する。本作の中には様々な挿話が出てくるが、これはあの神話のことでは?あの場所のことでは?などと私たち読者側の世界とリンクする部分がぽつぽつあって、物語世界のスケールがぐっと広がる感じがする。私はそれほど博識ではないので一部しかわからなかったのだが、詳しい人が読めばもっと面白いのでは。ストーリーとしてはとりとめもなく広がっていく印象を受けた。セヴェリアンの一人称なので彼の意識があちらこちらに飛ぶというのも一因だろう。決して読みやすくはないなぁ・・・。ともあれ、これをどう締めていくのか気にはなる。


『拷問者の影 新しい太陽の書1』

ジーン・ウルフ著、岡部宏之訳
 新装版で買うつもりだったのだが、古本屋で旧版全4巻が揃っているのを発見しついまとめ買いしてしまった。これで相性悪かったらそれこそ拷問。どきどきしながら読みます。「共和国」の秩序を乱すものを処罰する「拷問者組合」。かつてひょんなことから反逆者ヴォルダスを助けたことのある少年セヴェリアンは、組合の徒弟となる。しかし1人の女性の自殺に手を貸し、組合を追放される。ジャンルとしてはSFだそうだが、1巻の段階では擬似中世を舞台としたファンタジー小説ぽい。この先SFぽくなってくるのかしら。セヴェリアンという主人公はいるものの、むしろ彼の目を通して惑星ウールスという世界のありようを描くことに意識が向いているように思う。ちなみに本作はセヴェリアンの手記をジーン・ウルフが翻訳したという体裁になっている。セヴェリアンは作家ではないので当然読みにくい(笑)。でもそれも計算のうちなんですよねウルフ先生?


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