3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

2008年04月

『モンテーニュ通りのカフェ』

 パリ8区のモンテーニュ通り。劇場とオークション会場の向いにあり、様々な人が集まる小さなカフェ「ド・テアトル」。カフェの新入りギャルソン・ジェシカ(セシール・ド・フランス)はコンサートツアーに疲れた有名ピアニスト、生涯かけて集めた美術品を全てオークションに出そうとしているコレクター、舞台の初日を控えている女優に出会う。
 パリの風景は楽しく、かわいらしい映画ではあるのだが、何となく物足りない。狂言回し的な役どころであるジェシカが、かわいいことはかわいいが、身近にこんな人いたら結構うざったいかもなぁと思わせる(私はですが)キャラクターだというのも一因か。また何より、メインの登場人物であるピアニスト、コレクター、女優の3人が、それぞれ問題を抱えているものの、なぜ問題になっているのか、どうしたいのか、どうやって解決していくのかという過程が、割となぁなぁに処理されてしまう為、食い足りないのではないかと思う。ピアニストのエピソードはそこそこきれいに纏まっているが、コレクターのエピソードではいつのまにか息子の問題にすり替わってしまうし、女優のエピソードはドタバタ劇として終わってしまう。アプローチによってはもっと面白くなりそうだったのになぁ。特に女優のエピソードに関しては、彼女が単なる困った人に見えてしまって残念。なぜ昼メロ女優から脱却したいのか、本当はどういう人なのかという所がいまいち見えてこなかった。加えて、アート系映画に出たがっている割には映画好きとは思えないというのが、最大のネックだったと思う。
 そんな中、あこがれていた音楽の道には進めなかったが、劇場のスタッフとなることで音楽家たちを支え続け、今の仕事に満足していると言い切る年配女性が光っていた。自分のあり方に悩む人たちと比べると、足るを知り地に足を付けて人生を歩んでいる頼もしさがある。お気に入りの音楽に合わせて口パクで歌うのだが、これが堂に入っていてキュートだった。
 ところで、女優がクロワッサンにバルサミコを付けて食べていたのだが、どんな味になるのだろうか・・・。そんなに美味しいとは思えないのだが・・・。

『小説 こちら葛飾区亀有公園前派出所』

秋元治原作、日本推理小説作家協会監修
 大沢在昌、石田衣良、今野敏、柴田よしき、京極夏彦、逢坂剛、東野圭吾による「こち亀」トリビュート小説集。しかしどれもいまひとつ煮え切らない。こち亀のアクが強すぎるのか、それともこち亀がオールマイティすぎてトリビュートするにはとっかかりがないのか。この料理しにくさは正直意外だった。そんな中健闘していたのは、自分のフィールドに素材を引き込んじゃった京極。これ別にこち亀じゃなくてもいいよな!とは言ったものの、自分のスタイルが確立されているというのはやはり強みですね。自分のフィールドに引き込むという意味では東野も悪くはなかったが、これはこれで弾けすぎなような。原作の雰囲気に近いのは柴田だが、この人は文章力がちょっとなぁ・・・。あと、どの人の作品でも麗子の話し方がちょっと間違っているように思う。語尾伸ばし過ぎ。彼女はお嬢様なんですよ!

『パークアンドラブホテル』

 59歳の艶子(りりぃ)が経営する古いラブホテルの屋上は、誰でも出入りできる公園になっている。その公園を訪れる家出少女・美香(梶原ひかり)、孤独な主婦・月(ちはる)、そしてラブホの常連・マリカ(神農幸)。
 PFF出身、熊坂出監督の長編デビュー作。本作はベルリン国際映画祭フォーラム部門で、最優秀新人作品賞を受賞している。デビュー作でこれだけ撮れるのなら、次回作も楽しみ。とは言ったものの本作に満足できたかというとちょっと微妙だ。
 「ラブホの屋上に公園」というワンアイディアで作られたんじゃないかと思うくらい、このアイディアは魅力的だ。公園の向こうには決して美しくも活気に溢れているわけでもない風景なのに、見ていて妙に肌馴染みがいい。もちろんこういう風景(ふっつーのごちゃごちゃした住宅地とビル街)に全く興味がない人もいるだろうから、単に個人的な相性の問題だと思うが。
 3人の女性がからむ物語だが、3人の女性同士は直接的なかかわりは持たず、狂言回し的な存在である艶子を通して、エピソードをつなげている。美香と月のエピソードは、置かれた環境は全く違うが、孤独な女性という点で共通している。類型的なエピソードではあるのだが、類型だからこその安定感もある。食事のシーンや月の手帳等、細かいところの演出が悪くない(まあ、ベタはベタなんだけど)。特に食事のシーンはどの女性のエピソードでも入れようと決めていたようで、毎回ちゃんとご飯を食べているのがいい。美香と月のエピソードのオチは映画の最後で提示されるのだが、特に美香の顛末にはぐっときた。こういう道も選択できるくらいに彼女が大人になったんだなとぱっと分かる、きれいなオチだったと思う。
 さて、残る女性はマリカだが、彼女のエピソードはちょっと問題があったように思う。このエピソードはマリカだけではなく、それまで狂言回しであった艶子の内面を見せるものでもあるのだが、マリカも艶子も掘り下げ方が中途半端だったと思う。艶子が抱えているものについて、それまで殆ど伏線を敷いていないので、提示のされかたが唐突に思える。また、マリカについては行動がちぐはぐで、単に失礼な女にしか見えない。彼女はある目的があって様々な男を連れてラブホに通っているのだが、彼女がなぜそういう行為をしているのか、説得力が薄いのだ。それは女性に対する理解がちょっと浅いんじゃないですかと突っ込みたくなった。クライマックスともいえる艶子とマリカが公園でお弁当を食べるシーンで、セリフがいきなり説明過剰になるのも残念。そのセリフが説明していることを、このシーンに至るまでの映像で示してほしかった。あー監督ここで力尽きたのね・・・と何かものがなしい気持ちになった。あと、ラブホを舞台にする必要性があまりなくなっちゃってるのも惜しい。

『はい、こちら国立天文台』

長沢工著
 国立天文台の広報普及室で電話問い合わせを受けてきた著者によるエッセイ。天文台への問い合わせは、年間1万件を超えるとか。正直意外だった。でも本著を読んだかぎりでは、わざわざ天文台に尋ねるほどのことではないような質問も・・・。ちょっと自分で調べてみようよー。きてれつな自説を延々と説明する困った常連質問者もいるそうで、どこの世界でも困った常連さんているのねーと、ちょっと気の毒になってしまった。質問する時は具体的に!要領よく!みなさんお願いします(笑)。真面目な話、的確に回答できるかどうか、質問の上手さで結構左右されるものだと思う。

『フィクサー』

 大手弁護士事務所に勤めるマイケル・クレイトン(ジョージ・クルーニー)の専門は「揉み消し屋(フィクサー)」。ある日、事務所のベテラン弁護士で、大規模集団訴訟を担当していたアーサーが、依頼人である農薬会社を裏切った。マイケルは事態の収拾に乗り出すが。
 監督は「ボーン・アイデンティティー」シリーズの脚本を手がけたトニー・ギルロイ。本作が初監督作品(脚本も担当)となる。ボーンシリーズでも思ったのだが、私はどうもこの人の脚本と相性がいいらしい。あまりエモーショナルな盛り上げ方はせず、一見地味なのだが、その地味さがいい。さばさばとした歯切れのよさがあると思う。
 本作は社会派映画として宣伝されていたようだが、それはちょっと違うのではないかなと思った。本作の原題は「マイケル・クレイトン」。あくまでマイケルという1人の中年男の葛藤を追ったドラマなのだ。マイケルの職務は必ずしも社会的な正義と一致するものではない。しかし仕事である以上、依頼者に対しては責任があり職業的な正義としてはそれを全うしなくてはならない。そのジレンマの間で悩むのだ。どちらを選択してもどちらかを裏切ることになる。
 ここで上手いなと思ったのは、マイケルが見るからにやり手で波に乗っているのではなく、確かにやり手だが仕事に疲れ、家庭もうまくいっておらず、ギャンブル癖と事業の失敗とで多額の借金を抱えているという設定にある。もし彼が順風満帆だったら、迷わなかったんじゃないかと思うのだ。特に借金というのがやたらと説得力がある。お金がないときって、弱気になるよねー。「オレの人生こんなはずじゃ・・・」と思っちゃうよねー。そこへ「人としてどうなんだよそれ!」と問い詰められたら、そりゃあ揺れるわなと思う。決して品行方正というわけではない、スーパーマンでもない普通の中年男が人生の岐路に立つというところに面白さがあるのであって、彼が遭遇する事件事態が面白いというわけではないのだ。社会派映画と言うには、事件のスケールが微妙に小さいしその内容にもそれほど突っ込んでいない。
 一方、農薬会社の法務担当であるカレン(ティルダ・スウィントン)もまた、普通の人間だ。彼女は法務担当という重要なポストに就いたプレッシャーで押しつぶされそうになっている。追い詰められて、後戻りできない一線を越えてしまうのだ。マイケルとカレンという中年の男女が、ある一線を越えるというところで対照的な配置になっている。
 主演のクルーニーは、最近は渋い映画(『グッドナイト&グッドラック』にしろ『さらばベルリン』にしろ)に好んで出演しているが、本作も基本的に似たライン。この線のクルーニーが好きな方にはお勧めだ。今回は中年男の疲れた感じ、すりきれた感じが前面に出ているので、かっこいいクルーニーをお好みの方にはどうかなという気はするが。また、本作でアカデミー助演女優賞を受賞したティルダ・スウィントンは、地味な役柄ながらいい演技だったと思う。ナーバスになっている感じが、目の動きにすごく出ていたと思う。おなかのたるみも堂々と披露(多分、役作りのために付けたんじゃないかなと思う)しているのがえらい。でもちょっと切ない気持ちになりました。

『ハルさん』

藤野恵美著
 妻・瑠璃子さんに先立たれ、生活力皆無の人形作家ハルさんと、一人娘ふうちゃんの日々。ハルさんはふうちゃんが持ち込む謎に頭を悩ます。いわゆる「日常の謎」ものの連作だが、ミステリとしてはとてもライトで他愛ないといってもいい。ただ、いやみがないので読みやすかった。著者は児童文学作家だそうだ。本作も小学校高学年~中学生くらいをターゲットに入れているように思う。娘が大人になるまでの物語でもあるのだが、むしろ父親が父親として成長していく物語としての側面の方が強い。最初から、娘の方が人間できているような(笑)。

『クローバーフィールド/HAKAISHA』

 人がまるで虫のようだ!というムスカ様マインドに溢れたパニック映画。NYに何かでかいものがやってきて街をばんばん壊して人がどかどか死ぬ。
 災害現場に残されたビデオテープ、という設定で作られた映画なので、画面は家庭用ハンディカム風にブレまくる。「酔った」という感想も多く目にした(私は全然大丈夫だった。酔うほどのブレではないと思う)。しかし、素人くさい映像を演出しながらも、主要登場人物が何をやっているのか、「何か」は一体どういうものなのか、見せるべきところはちゃんと見せている。時々アングルが決まりすぎていて、それどう見てもプロの仕事だよ!と突っ込みたくなるのはご愛嬌。この手の「擬似ハンディカム映画」としてはかなり良くできているのではないかと思う。
 ただ、「えっこれだけ?」という物足りなさも否めない。かなり早い段階から話題作・大作として宣伝されていたので肩透かしをくってしまったというところもあるかもしれない。映画の面持ちが、大作というよりも良くできたB級といった感じなのだ。それなりの費用がかかっているだろうし、続編の予定もあるとの話だが、いまひとつ地味。本作を見て続きを見たくなるかというと、微妙だ。「何か」を最初からばばーんと見せるか、もしくは最後の最後までほとんど見せないかのどちらかだったら、もっと衝撃があったのではないかと思う。
 もっとも、このいまいち感は、私が怪獣映画にもパニック映画にもそれほど関心がないからだろう。エンドロールの音楽に如実に現れているが、明らかにゴジラを意識しているのだ。その方面に造形が深い人が見れば、色々と発見があって面白いのかもしれない。
 金持ちも貧乏人も、老若男女ばんばん死亡していくというある意味人類皆平等な映画だが、主人公カップルのラブストーリーは不要だったと思う。ビデオに残っていた数日前の映像と災害時の映像を織り交ぜるところなど、ちょっと作為を出しすぎたんじゃないかと。それをやると、実録風にした意味が薄れてしまう。ロマンス部分だけ普通のハリウッド映画なのだ。人間に対して冷淡に徹した方が、この作品の持ち味が出たんじゃないかと思う。
 

『実録連合赤軍 あさま山荘への道程』

 1972年、あさま山荘事件へいたるまでの連合赤軍のメンバーを追った若松孝二監督の力作。多分、今年の映画雑誌各誌の日本映画年間ベスト10には、軒並み上位ノミネートされるだろう。公開当初からすごいすごいという話は聞いていたが、確かにすごい。3時間を越える超大作だが、密度が濃く、実際の上映時間ほどの長さを感じなかった。
 本作が盛り上がってくるのは、中盤、山岳ベースでの山ごもりが始まってからなのだが、一種の集団密室劇のような怖さがあった。ご存知のとおり「自己批判」「総括」の名を借りたリンチが行われるのだが、彼らが特殊だったから起きた事件ではなく、密閉状態に10数人適当に突っ込んどいたらこうなるんじゃない?的な嫌な普遍性を感じた。山岳ベース内の感じが何かに似ていると思って見ていたのだが、はたと思い当たった。小学校の学級会だ。下校する前に今日1日の反省会をやって「~君がなんたらしたのがいけなかったとおもいまーす!」って言う、あれ。委員長(森)と副委員長(永田)が筆頭になって調子こいてる生徒をいじめるわけです。
 それは冗談としても、彼らの言動がやたらと幼いのは気になった。確かにむずかしい単語をいっぱい使っているが、無理して使っている感じなのだ。特に森の言葉の上滑り感は、見ていていたたまれなくなった。言葉に実態がないというか、自分の言葉でしゃべっている感じがしないのだ。おそらく遺書なのであろう、映画の最後に出てくる書簡まで一貫して空疎だった。本当にこんな感じだったとすれば、何故周囲が付いてきたのか謎である。何か、カリスマみたいなものがあったのだろうか。若松監督は「森にも永田にも特にカリスマはない」と確信的に描いているように思うが。普通の、ちょっと頭いいくらいの若者たちがとんでもないことをしたという点が怖ろしく、また、この事件が今日性を持つ点でもあるのだろう。多分今後もこういった形の事件は起こるのではないかと思わせるのだ。
 リンチ映像は生々しくどシリアスではあるのだが、それと同時に一歩間違えばコメディのようでもあった。前述した通り、メンバーの言動が未成熟すぎるのが最大の要因だろう。「水筒忘れたことを自己批判しろ!」というくだりには吹きそうになった。本作を見ている間、私の並びの席に座っていた若いカップルが頻繁に笑いをかみ殺していたのだが、無理はない。客観的に見るとおかしいが、当人たちはいたって真面目というのが、おかしいと同時に怖ろしいのだ。
 それにしても永田の造形が、シリアスなドラマ的にもコメディ的にも大変面白かった。女性メンバーへの攻撃は女性としてのコンプレックス故というのが定説になっているようだが(私、あまり詳しくないんですが)、その辺は本作でも踏襲されている。踏襲されすぎていて笑いそうになった。女性メンバーの不用意な言動を見聞きしたときの顔が「キラーン」と効果音加えたくなるような見事な顔なのだ。加えて、妙な委員長気質・仕切り屋系優等生気質が発露されている知ったような口ぶりは、「あーいたいたこういう小学生女子!」と大変イタい気持ちにさせてくれる。
 もう1人スポットのあたる女性として遠藤がいるが、彼女は何で連合赤軍に参加しているのか不思議なくらい普通の女性として描かれている。活動を続けていたのは重信(彼女だけ扱いが別格で、人間のしょうもない側面が見えないのは釈然としない)への友情と憧れからだったように見える。そして、このへんが上手いなぁと思ったのだが、ルックスがすごくいいというわけではなく中の上がいいところなのだ。この人もどちらかというと、同性に対してコンプレックスを抱える側の女性ではないかと思えるのだ。
 

『電気グルーヴの続・メロン牧場 花嫁は死神 (上下)』

電気グルーヴ著
 電気グルーヴが掲載紙を転々としつつ続けていた(なぜか活動休止中も続けていた)ロッキング・オン・ジャパン編集者との対談集。8年ぶりに続編が出た。しかしなんで買っちゃってるんだ私・・・そしてなんで1作目も手元にあるんだ私・・・。音楽とはほとんど関係なく、くだらなさと下品さはアーティスト本の範疇を軽く凌駕する。ネタ(特に下系)の豊富さがはんぱないのだが、その中でも瀧の「小室哲哉・KEIKO夫妻の披露宴に行った話」は後半の瀧の妄想内展開も含めて白眉だ。あと、よっぱらったときのエピソードが色々ひどすぎる(笑)。ところで卓球が、「ライブでメモ取ってるやつの気が知れない」という趣旨の発言をしているのだが、確かにあれは不思議だ。あとでブログとかにセットリストとか感想とか上げるんだろうけど、メモってる時間がもったいないと思う。そこは踊っとかんと!

『8月の路上に捨てる』

伊藤たかみ著
うーん、これで芥川賞取れちゃうのか・・・。悪くはないけど良くもないという一番コメントしづらいパターンではないだろうか。自販機ルートドライバーの水城さんと組んで働くバイトの敦。敦は元は脚本化志望だったが、妻に支えられる生活にだんだん飽きてうっとおしくなってくる、しかし妻の方が敦がまだ脚本家を目指していると信じて尽くす女化している、同時に自分に対しても焦りを感じてとんちんかんな勉強等を始めているというあたりは、結構生々しい。が、妻とのドロドロ(というより妻の中のドロドロ)をもっと読みたかった。

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