3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

2008年03月

『スルース』

 ベストセラー推理小説作家ワイク(マイケル・ケイン)の自宅に、離婚に応じない彼を説得する為、妻の愛人ティンドル(ジュード・ロウ)が訪ねてきた。ワイクはティンドルに、離婚を条件に高額な保険のかかった宝石を盗み出せと提案する。
 監督はケネス・ブラナー。私、この人の映画はケバケバしいというか凝りすぎというかケレン味ありすぎというか、あまり品がなくて好きではなかったのだが、本作ではその品のなさがプラスに働いていたように思う。ちなみに、1972年公開の『探偵スルース』(ジョゼフ・F・マンキウィッツ監督)のリメイクとなる。前作ではマイケル・ケインがティンドルを演じている。ワイク役はローレンス・オリビエだった。私は旧作を見たことはないのだが、あらすじ等を目にする限りでは、ミステリとして良作だったようだ。リメイクされた本作は、中盤までは旧作と同じだが、中盤から大分異なっているようだ。
 登場人物はワイクとティンドルの2人のみ。この2人の駆け引き、ひいてはワイクの妻を間に挟んだ愛憎がちょっと笑っちゃいそうになるくらいねちこい。このねちっこさはブラナー監督の持ち味でもあると思う。そして興味深いのが、この2人が似たもの同士であると強調されている点。前半のあるシーンで「あなた」と「私」が混同されていくあたりはあからさまだ。結局、ワイクもティンドルも同時に「私」であるのかもしれない。「私」を憎むのも愛するのも「私」であるという、強烈な自己愛が映画を貫いている。自分大好き!だが自分は一人しか存在できないのだ。
 自己愛といえば、室内に鏡が多々ある、巨大なセルフポートレートがある、海外で翻訳された著作をずらりとならべているなど、特にワイクの自己愛は相当なものであり、同時に分かりやすい。室内のくどい照明(どこのクラブですかそれは)と監視カメラも、自分を映し出すためのライトでありカメラであり、自宅は自分のためのステージなのだ。一方、ティンドルの自己愛は、自身の身体に表現されている(彼が売れない役者だという設定も象徴的だ)というのが対照的で面白かった。
 さてワイクの妻はインテリアデザイナーという設定なのだが、彼女がデザインしたというワイクの自宅は正直趣味が悪い。人が住む空間としてデザインされていない感じだ。これは嫌がらせなのか、はたまた部屋は自分の為のステージと思っているふしのあるワイクの本質を見抜いていたのか。
 しかしブラナー監督、ジュード・ロウ大好きなんじゃないだろうか(笑)。舐めるように撮ってるもんなー。ロウもノリノリなんですが。

『もめん随筆』

森田たま著
 著者のことは全く知らなかったのだが、女性エッセイストのさきがけとでも言うべき明治生まれの女性だそうだ。しかしセンスが現代的であまり古さを感じさせない。男女観などもっと古臭いかと思っていたら(結婚生活に関してはさすがに時代を感じるが)、そんなに違和感ないです。いつの世も女性は「男の人ってしょうがないわねぇ」とため息をつき、男性は「女ってわかんねー、てゆうか面倒くせー」とため息をつくものなのでしょうか。また、大阪と東京の女性像が大分違うことも新鮮だった。東京の方が、恋愛至上主義だったのね。今はオール東京化している感じがするけど、どうなのかなぁ。どのエッセイも、生き生きとしていてちょっとかわいく(歌舞伎座の天井桟敷に夏目漱石先生をお見かけしてキャー!となる、意外なミーハーぶりも)、べたついていない。柔軟な考え方の人だったのだろう。芥川龍之介に関する一編には胸を突かれた。芥川とは2度しか会っていないそうだが、その短い間で相手の芯の部分を見抜いているように思う。

『Y』

佐藤正午著
 少しずつ時間を巻き戻せるという男がやりたかったこととは。SFプラス恋愛小説のような長編。現在と、男の手記とをいったりきたりするプロットが面白くてぐいぐい読めたが、文体は村上春樹をくどくしたみたいでちょっとなぁ。若干イラっとするのは、この男は何度やり直しても満足することがないんだろうと見えてしまうからかもしれない。なんでそんなに何もかもほしがるのかなーと不思議にも思う。その執着はどこからくるの。あと、トリュフォーを引き合いに出すのは結構勇気いると思う。一歩間違うと失笑されそうだ。このへんのベタさというか隙だらけな感じというかは、天然なのか計算なのか。

『ライラの冒険 黄金の羅針盤』

 人間が自分の魂の分身である「ダイモン」と呼ばれる動物を連れている世界。学寮に暮らす孤児の少女ライラ(ダコタ・ブルー・リチャーズ)は聡明で美しいコールター夫人(ニコール・キッドマン)と知り合う。一方、町では子供が誘拐される事件が相次いでおり、ライラの友人らも姿を消した。コールター夫人に引き取られることになったライラに、学寮長は黄金の真理計を渡す。
 フィリップ・プルマン作の長編ファンタジー小説が、クリス・ワイツ監督により映画化された。原作は3部作から成るが、本作はその第一部を映画化したもの。かなりのボリュームがある原作を約2時間に収めているからか、ストーリーはかなり駆け足。(私は原作既読なものの詳細忘れかけてて良く分からないのだが)大分端折っているところがあるのではないか。原作に多少触れていれば大体の流れは追うことができるが、熱烈な原作ファンにとっては大雑把すぎて不満かもしれない。逆に、原作を全く知らない人にとっては、世界設定が掴みきれるかどうか微妙だ。良くも悪くも大味な印象だった。
 もっとも、「この世に近いけれどちょっと違う世界」を演出する匙加減は悪くはない。特に、小物や乗り物などのプロダクトデザインは、この世界での動力源はこういうもので、こういう方向に科学技術が進歩していて、という世界観を垣間見させてくれると思う。全体的には大雑把だが細部は細やかだ。ロンドンをモデルにした風の町並みや、(FFを思わせる)飛行船や自動車のデザインも魅力的。実写映画というよりもアニメーション(実際、CGだらけなわけだし)の雰囲気に近いと思う。
 この作品の魅力の一つに、外付けの魂とでも言うべきダイモンの存在があるが、ダイモンと人間本体との対比は効果的だった。ライラがコールター夫人に懐くシーンで、2人は抱き合っているが、お互いのダイモンを見ると、コールター夫人のダイモンがライラのダイモンを一方的に抱きしめていて苦しそうなのだ。人間の、自分でも気付かない心の動きがダイモンに現れているということが分かる描写だった。
 主演のブルー・リチャーズは適役。美少女だが、いわゆるかわいい子役ではなく結構性格悪そうな所が実にいい。クマをたぶらかすところとか、堂に入ってます。

『君のためなら千回でも』

 2000年のサンフランシスコ。若き作家アミールの元に、今は亡き父親の旧友から「すぐに故郷へ帰れ」と電話がかかってきた。アミールは1970年代のアフガニスタンで過ごした少年時代を思い出す。彼は親友のハッサンといつも一緒だった。
 2000年代、1980年代、1970年代と物語が3パートに分かれている。特に70年代、子供の頃のパートが生き生きとしている。ハッサンは凧揚げが得意で、アミールと一緒に凧揚げ大会で大活躍するのだ。この大会の情景は、ちょっと少年漫画ぽくて血が騒いだ(笑)。聡明だが臆病なアミール、友情に溢れ忠実なハッサンという2人の少年のキャラクターもよくたっていて、絵的にも魅力がある。だからこそ、アミールのハッサンに対する裏切りの許されなさが際立つのだ。マーク・フォスター監督は、「チョコレート」にしろ「ネバーランド」にしろ、情感溢れるが苦味のある作風を得意とするが、本作でも少年時代のパートに関してはそれが生かされていたと思う。
 しかし少年時代のパートがよくできているだけに、アメリカに渡ってからの80年代、そして再びアフガニスタンへと向かう現代のパートは、ちょっと物足りない。特にアフガニスタン行きの展開は(時間配分においても)唐突すぎ、いくらなんでもそりゃあ都合がよすぎないかと思ってしまった。ちょっとバランスが悪いところが勿体無い。
 予告編などでは時を越えた友情の物語という側面を強調しているが、むしろ、自ら壊してしまった友情に対して時を越えて落とし前をつける、贖罪するという側面が強い。しかも贖罪相手は既におらず、延々と贖罪し続けなくてはならないというキツい話なのだ。最後のアミールの言葉は、前半でのハッサンの言葉を反復したものだが、「終わらなさ」を象徴するようで苦い。イノセンスと、それが失われるということに関心が強い監督なのでは。
 また、アミールはハッサンに対して自分の罪を贖罪するだけでなく、父親の罪をも贖罪することになる。「盗みは最大の罪」と言っていた父親がある意味での盗みをやっていたとは皮肉な話だ。父親と息子の物語でもあるのだ。アミールは必ずしも父親の期待に沿う息子ではなく、むしろハッサンの方が父親にとっては理想的な男の子だったのだろう。その態度がアミールを卑怯な行為に追い立てたとも言えるのだ。親の因果が子に報い・・・ってのとはちょっと違うかもしれないが。

『4ヶ月、3週と2日』

 1980年代、チャウシェスク政権下のルーマニア。ルームメイトのガビツァ(ローラ・ヴァシリウ)の妊娠中絶の為奔走する、女子大生オティリア(アナマリア・マリンカ)の1日。監督はクリスティアン・ムンジウ。本作で2007年カンヌ国際映画祭パルムドールを受賞した。
 何となく地味そうな作品だなーと思っていたが、良かったです。パルムドームも納得。中絶という大きなファクターが関わっているものの、その是非を問う作品ではないと思う。むしろ、若い女性であるオティリアの不安や焦燥を追体験するサスペンスとして楽しめた。手ブレた映像も臨場感を強めている(といっても、ブレさせる必要のない所でもブレさせているのは気になった)。何しろ当時のルーマニアでは中絶は違法だから、バレたら逮捕される(もっとも、女子学生らの間ではモグリの中絶は常識だったらしいですが)。緊張感満点なのだ。
 さらに、緊張感を煽る要素となっているのがオティリアのいらつきだ。本作品内では、オティリアとガビツァ、オティリアとその恋人という2つの人間関係が中心にある。しかしガビツァも恋人も、オティリアとなんだかかみ合っていないのだ。ガビツァは自分の中絶なのに闇医者とのコンタクトもホテルの確保も金策もいい加減だ。オティリアがまさに捨て身で彼女の尻拭いをしている感じなのだ。なんでそこまでして彼女に尽くしてしまうのか。でも、こういう人本当にいるよなー。ガビツァのキャラクター造形には妙に説得力がある。要領のいい人には敵わないよな・・・。
 一方、オティリアの恋人は彼女を愛しているが、彼女にたいして責任が取れるのかというと微妙だ。「私が妊娠したらどうするの」という真剣な問いかけに対してろくな返事ができない彼の姿は、滑稽を通り越してがっくりしてしまう。お前、本当に役に立たないな!オティリアはガビツァに対してはなんだかんだいいつつ面倒をよく見ているが、恋人に対しては当たりが結構キツいという、人間関係のパワーバランスが妙に面白かった。
 やたらと町が薄暗く車が少ないとか、ホテルの非サービス業的経営とか、日用品の入手方法とかに、当時のルーマニアの社会情勢を垣間見ることが出来て興味深かった。また、恋人の家族・親戚との食事での会話からは、当時の価値観、若い女性が置かれていたポジションが窺える。なんか、妙に腹立ちますが(笑)

『虎よ、虎よ!』

アルフレッド・ベスター著、中田耕治訳
 難破した宇宙船に一人取り残されたガリヴァー・フォイルは、通りがかったものの素通りし自分を見捨てた宇宙船「ヴォーガ」への復讐を誓う。’56年に発表され、日本では長らく在庫切れの状態が続いていたがこの度ようやく再版。フォイルの、現実逃避か破滅願望ではないかというくらいの、なりふり構わないクレイジーな行動に加え、彼と関わる女性たちの喜怒哀楽の激しさ(特に怒りのスイッチの入り方が唐突過ぎる)、更にジョウントと呼ばれる瞬間移動能力の相乗効果で、感情面でも物理的な場面転換においても、展開が速くめまぐるしい。どんどんテンションを上げてくるのだ。ラストの超展開には思わず突っ込み入れたくなります。現実を受け入れずにいたフォイルが、とうとう別の現実を作り上げてしまったとも見える。しかし、そもそもバウンドがそういう性質という設定なら、とっくに世界崩壊しているんじゃ・・・。傑作だといわれるとちょっと微妙だが、『岩窟王』を下敷きにしてあるだけあって、私怨小説としては破格の面白さだと思う。

『トゥヤーの結婚』

 モンゴル自治区で羊を放牧して暮らすトゥヤー(ユー・ナン)一家。夫・バータルは井戸掘り中に事故に遭い下半身が不自由なので、トゥヤーが女手一つで夫と2人子供を養っている。妻の苦境を見かねたバータルは離婚を勧め、トゥヤーも応じる。しかし彼女が再婚相手に出した条件は、自分と子供に加えてバータルも養うということだった。
 監督はワン・チュアンアン。2007年ベルリン国際映画祭では金熊賞を受賞している。一見地味だけどいい映画ですよこれは!素朴なようでいて、構成も映像もきっちり計算されていると思う。モンゴルのだだっ広い風景はそれだけでキャッチーなのだが、丘の向こうから羊の群れがわらわらと姿を現すシークエンンスや、ラクダ(馬じゃなくてラクダで移動するんですよ!)の上から羊の群れを見下ろしているショットなど、構図がちょっと面白いなと思えるところが多かった。
 トゥヤーは実にたくましく、一家の柱としてずんずん突き進んでいく。当たりがきつい所もあるが、それを単にきついだけには見せず、どこかかわいく見せているのは演じるユー・ナンの魅力もあると思う。多分全くのすっぴん(どころかメイクダウンしているかもしれない)で最初は特に美人には見えないのに、だんだんきれいに見えてくるのが不思議だ。バータルの姉も、美人ではないが肝の据わったおばさんという雰囲気で頼もしい(笑)。対する男性陣も個性豊かだが、しっかりしたトゥヤーに比べると少々頼りない。強い女性に頼りない男性というコントラストは典型的だが、ユーモラスで、暖かい視線が注がれているのでほっとする。全般的に、嫌な人間が出てこないのだ。こんなにいやみのない作品が金熊賞を取ったのは久しぶりではないだろうか。
 さて、トゥヤーは強くさばさばしているが、自分の選択に全く平気でいるわけではない。飄々としているバータルも同様だ。お互いたくさんのものを飲み込んできている。だからこそ、ラストシーンにぐっとくる。そしてトゥヤー夫妻だけでなく、親子の愛、兄弟の愛、隣人の愛、男女の愛など、色んな人の「愛」があるのだが、それを甘ったるくなく描いている。愛のありかたがタフだというところに一番感銘を受けた。人間に対する視線に、基本的に愛着と信頼感があると思う。

『素晴らしい一日』

平安寿子著
 昔付き合った男に貸した金を回収しようとしたヒロインが、なぜかその男と一緒に借金しに回るハメになる表題作をはじめ、6編を収録。どれもさくっと読めた。文章が読みやすいってことは上手いってことですよね。お近づきにはあまりなりたくない、ちょっと難ありな男女ばかり出てくるが、不思議と不愉快にはならないところにも、著者の匙加減の上手さを感じる。一歩間違うとドロドロした話になりそうなところ、努めてからっと、ユーモラスであろうとしている。

『ラスト、コーション』

タイトルは日本語訳した方が意味合いがきちんと伝わったんじゃないかなー・・・。『ブロークバック・マウンテン』のアン・リー監督作品。第64回(2007年)ヴェネツィア国際映画祭で、金獅子賞と金オゼッラ賞(撮影賞)を受賞した。ちなみに撮影は『バベル』『ブロークバック・マウンテン』のロドリゴ・プリエト。確かに映像は緊張感があって美しかった。
 日本占領下の上海、1942年。抗日組織のスパイ・ワン(タン・ウェイ)は、傀儡政府の特務機関員であるイー(トニー・レオン)に暗殺目的で近づく。ワンはイーの愛人となり情報を組織へ流すが。
 敵同士である男女が恋愛のフリをしているうちに本当に愛の泥沼にはまっていってしまうという超メロドラマ。いやーきちんと作ったメロドラマって楽しいですね!ワンとイーの間の、お互いに信用していないがずぶずぶハマっていく緊張感、バレてるのバレてないの?!という緊迫感がたまらない。このへんは主演2人の気迫と演出の上手さが相まって大変面白かった。お互いにあーやばいやばいと思っているのに転がりだすと止まらない。
 しかし一方で気になるのが、ワンという女性像だ。彼女の人生は「演じる」という行為と深く関わってしまった。彼女は大学時代に憧れの男性・クァンの誘いで演劇を始め、予想外の演技の才能を見せる。抗日活動に加わったのもクァンが抗日活動に熱心だったからだ。香港での計画が失敗し、上海で危険を承知の上再度スパイとなったのも、彼の存在あってこそ。「彼の役に立つ女」を演じていたわけだ。そして更に、イーの愛人という役柄を演じる。どんどん演技を重ねていくのだ。
 一方で、イーもまた素を出すことを禁じられている、演じる人であった。演じる人同士、その演技の向こう側に触れたいがなんともできないというもどかしさが、過剰なセックスに象徴されていたようにも思う。体の手ごたえと心の手ごたえが一致しないのだ。
 さて、ワンは映画好きで、特にハリウッドのロマンス映画を好む。つまり、自分が好きな映画に出てくるヒロインのような役柄を、自分自身が日々演じているわけだ。とすると、彼女がイーにのめり込んでいったのは、彼が「ヒロインな私」を演出してくれる最高の道具だったからでは?彼女は結局劇的なヒロインをやっている自分が一番好きだったのでは?演じ始めると止まらなくなっちゃったんじゃないかと。そう考えると、皮肉なことではあるが、最後まで「悲劇のヒロイン」を演じられて本望だったのではないかとも思えるのだ。
 などと意地の悪い見方をしてしまうのは、香港での仲間同士の「夏合宿」があまりに能天気で、ワンを含め、彼らの末路に同情する気にもならないからかもしれない。本気で国の将来を憂いていたのはクァンだけ、そしてそのクァンも、理想にばかり燃える頭でっかちな青年という印象が否めない。この人のボンクラっぷりは見事だった。いつまでも夢見る青年のようで、当初幼い顔だったワンが、結局彼よりもずっと歳をとった雰囲気になっていくのだ。
 

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