ベストセラー推理小説作家ワイク(マイケル・ケイン)の自宅に、離婚に応じない彼を説得する為、妻の愛人ティンドル(ジュード・ロウ)が訪ねてきた。ワイクはティンドルに、離婚を条件に高額な保険のかかった宝石を盗み出せと提案する。
監督はケネス・ブラナー。私、この人の映画はケバケバしいというか凝りすぎというかケレン味ありすぎというか、あまり品がなくて好きではなかったのだが、本作ではその品のなさがプラスに働いていたように思う。ちなみに、1972年公開の『探偵スルース』(ジョゼフ・F・マンキウィッツ監督)のリメイクとなる。前作ではマイケル・ケインがティンドルを演じている。ワイク役はローレンス・オリビエだった。私は旧作を見たことはないのだが、あらすじ等を目にする限りでは、ミステリとして良作だったようだ。リメイクされた本作は、中盤までは旧作と同じだが、中盤から大分異なっているようだ。
登場人物はワイクとティンドルの2人のみ。この2人の駆け引き、ひいてはワイクの妻を間に挟んだ愛憎がちょっと笑っちゃいそうになるくらいねちこい。このねちっこさはブラナー監督の持ち味でもあると思う。そして興味深いのが、この2人が似たもの同士であると強調されている点。前半のあるシーンで「あなた」と「私」が混同されていくあたりはあからさまだ。結局、ワイクもティンドルも同時に「私」であるのかもしれない。「私」を憎むのも愛するのも「私」であるという、強烈な自己愛が映画を貫いている。自分大好き!だが自分は一人しか存在できないのだ。
自己愛といえば、室内に鏡が多々ある、巨大なセルフポートレートがある、海外で翻訳された著作をずらりとならべているなど、特にワイクの自己愛は相当なものであり、同時に分かりやすい。室内のくどい照明(どこのクラブですかそれは)と監視カメラも、自分を映し出すためのライトでありカメラであり、自宅は自分のためのステージなのだ。一方、ティンドルの自己愛は、自身の身体に表現されている(彼が売れない役者だという設定も象徴的だ)というのが対照的で面白かった。
さてワイクの妻はインテリアデザイナーという設定なのだが、彼女がデザインしたというワイクの自宅は正直趣味が悪い。人が住む空間としてデザインされていない感じだ。これは嫌がらせなのか、はたまた部屋は自分の為のステージと思っているふしのあるワイクの本質を見抜いていたのか。
しかしブラナー監督、ジュード・ロウ大好きなんじゃないだろうか(笑)。舐めるように撮ってるもんなー。ロウもノリノリなんですが。
監督はケネス・ブラナー。私、この人の映画はケバケバしいというか凝りすぎというかケレン味ありすぎというか、あまり品がなくて好きではなかったのだが、本作ではその品のなさがプラスに働いていたように思う。ちなみに、1972年公開の『探偵スルース』(ジョゼフ・F・マンキウィッツ監督)のリメイクとなる。前作ではマイケル・ケインがティンドルを演じている。ワイク役はローレンス・オリビエだった。私は旧作を見たことはないのだが、あらすじ等を目にする限りでは、ミステリとして良作だったようだ。リメイクされた本作は、中盤までは旧作と同じだが、中盤から大分異なっているようだ。
登場人物はワイクとティンドルの2人のみ。この2人の駆け引き、ひいてはワイクの妻を間に挟んだ愛憎がちょっと笑っちゃいそうになるくらいねちこい。このねちっこさはブラナー監督の持ち味でもあると思う。そして興味深いのが、この2人が似たもの同士であると強調されている点。前半のあるシーンで「あなた」と「私」が混同されていくあたりはあからさまだ。結局、ワイクもティンドルも同時に「私」であるのかもしれない。「私」を憎むのも愛するのも「私」であるという、強烈な自己愛が映画を貫いている。自分大好き!だが自分は一人しか存在できないのだ。
自己愛といえば、室内に鏡が多々ある、巨大なセルフポートレートがある、海外で翻訳された著作をずらりとならべているなど、特にワイクの自己愛は相当なものであり、同時に分かりやすい。室内のくどい照明(どこのクラブですかそれは)と監視カメラも、自分を映し出すためのライトでありカメラであり、自宅は自分のためのステージなのだ。一方、ティンドルの自己愛は、自身の身体に表現されている(彼が売れない役者だという設定も象徴的だ)というのが対照的で面白かった。
さてワイクの妻はインテリアデザイナーという設定なのだが、彼女がデザインしたというワイクの自宅は正直趣味が悪い。人が住む空間としてデザインされていない感じだ。これは嫌がらせなのか、はたまた部屋は自分の為のステージと思っているふしのあるワイクの本質を見抜いていたのか。
しかしブラナー監督、ジュード・ロウ大好きなんじゃないだろうか(笑)。舐めるように撮ってるもんなー。ロウもノリノリなんですが。