3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

2008年03月

『ペネロピ』

 「女の子はブタ鼻になる」という呪いをかけられたウィルハーン家に生まれたペネロピ(クリスティーナ・リッチ)。両親は彼女を世間の目から守る為、一歩も家の外に出さずに育て、「仲間が愛を誓えば呪いは解ける」という言い伝えを信じて両家の子息とのお見合いを繰り返していた。しかし皆、ペネロピの顔を見ると逃げ出してしまう。
 典型的な「お姫様が王子様に愛されて幸せになる」お話かと思いきや、一ひねりしている。自分を肯定することが自由になることという視点が現代的。シンデレラの時代は終わったのね・・・。また、王子様役のマックス(ジェームズ・マカヴォイ)にしても、課された課題がペネロピを幸せにすることではなく、まず自分の身を立てることだというのも、王子様の役割は終わったのかと思わせるところ。
 しかしそういう価値観を提示しておきながらも、最終的にはカップル成立=ハッピーエンド(当座のものであり将来のことは分からないとしてはあるが)という図式を崩さないのは片手落ちではないかと思う。その先を示してくれる映画が見たいのに~。異性のパートナー獲得以外のハッピーエンドを、説得力をもって描くのはまだ難しいのだろうか。世間の限界を見てしまった感があり、軽くがっかりです。ともあれ、楽しく幸せな気持ちになる映画ではある。特に女性にはお勧め。基本的に悪人が一人も出てこない(嫌な奴にさえも最後にフォローが入るという優しさ)ので、穏やかな気分で楽しめる。
 主演のクリスティーナ・リッチは、ブタ鼻をつけてもなおキュート。こんなブタ鼻娘なら逃げ出す必要ないじゃない、と思ってしまうのだが。また、ジェームズ・マカヴォイ(ナルニア国物語でタムナスさん役だった人)がまさかの二枚目さでびっくりした。ええ~っ!なんですかこのスウィートっぷりは!正直リッチよりもマカヴォイのキュートさに目が釘付けだった。小柄なところが同じく小柄なリッチとバランスが取れていてるのもよかった。キャラクターとして美味しい造形だったのは、ペネロピのスクープ写真を狙う記者レモン。彼がペネロピの実の姿を知った時の判断は泣かせる。彼がフリークスであるという設定がここで生きてくるのだ。ラスト、そっとカメラを下ろす姿にもぐっときた。
 衣装やセットなど、全般的に大変可愛らしくファンタジック。女の子は絶対こういうの好きだろうなーというディティールに満ち溢れている。ただ、ファンタジー度を上げる為に時代設定をぼかしたのが裏目に出ていた。レトロなカメラが使われている一方で、ICレコーダが使われているというのはちょっと変なのでは。

『いのちの食べかた』

 私たちが日々口にする食物は、どのように生産・加工されていくのか。ナレーションを一切排して、映像のみでその過程を見せるドキュメンタリー。地味な作品ながらロングラン上映を続けている。スルーしようかと思っていたけど、機会があったのでやっぱり見てみることにした。
 結論から言うと、確かに面白い。ともするとものすごく単調かつ地味になりがちな内容だが、絵として面白くすることで見る側を飽きさせない。シンメトリーな構図がやたらと多いのも、画面のデザイン的な面白さを重視しているからだろう。カメラも固定されているシーンが多く、横にスライド移動するくらい。
 この映画で映し出される食物の大量生産っぷりは凄まじい。まーよくもこう大規模にと感心してしまうようなシステマティックで効率化された製造。現代、世界の人口を支えるに足る食糧を作りだすには、その是非はどうあれこうしていくほかないのだということをつくづく感じた。映画題名は「いのちのたべかた」なのだが、家畜にしろ野菜にしろ、あまりにつつがなく育てられ収穫され捌かれていくので、生き物というよりも一つのマテリアルにしか見えてこない。特に牛や豚の機械による解体は、鮮やか過ぎて思わず感嘆の声をあげそうになった。ぎゅっと入れてすっと裂いてどばーっと中身を掻きだす。わースムーズ・・・。魚だと個体が小さいからもっとスムーズ。いやー見惚れちゃうね。そんなわけなので、おそらく映画の趣旨であろう「いのち」の認識にはむしろ至らないのではないだろうか。
 もうひとつ、この映画を見て食について真剣に考えるかというとそうでもないんじゃないかなと思った要因は、皮肉なことにこの映画の絵としての面白さにある。前述したとおり、見惚れちゃうような面白さがあるのだが、なまじ絵になってしまうだけに「わー面白い」以上の感想が出てこないのだ。絵として完成されていて、ウェットなもの、あいまいなものが入り込む余地がない。やっぱり「食べ物」だよなぁと思ってしまうのだ。

『接吻』

 (内容に若干触れています。そして長い。)
 最後にタイトルが出るあたりが渋い。『UNloved』の万田邦敏監督作品だが、脚本は妻である万田珠美との共同。ものすごく面白かったです。今年公開の邦画の中ではおそらくベスト級。新作待ち続けていた甲斐があったよー。必見です。
 28才のOL京子(小池栄子)は、無差別殺人犯・坂口(豊川悦司)が逮捕される様子をTVで見ていた。坂口の微笑みに何かを感じた京子は、裁判を傍聴し差し入れを持ち込み、彼とコンタクトを図ろうとする。坂口の弁護士である長谷川(仲村トオル)は彼女を心配するが。
 主演の小池にしろ仲村にしろ、文節をはっきりとくぎった、やや棒読みともとれる台詞回しなので、ともすると演技が下手ととられるかもしれないが、演技をしていないかのような自然な演技のみが、上手い演技とは限らないだろう。万田監督は『UNloved』でも役者に似たような台詞回しをさせていたので、意図的にやらせているはずだ(クラシカルな映画ともいえるかもしれない。はっきりと「これは映画ですよ」というメッセージが発せられているというか)。映画は絵と音声(言葉)で構成されるが、万田監督は言葉寄りの人なのだと思う。言葉によって明晰に説明し、曖昧さを排そうとしているようだ。映像にしても、思わせぶりなところがあまりなく、状況を順序だてて説明していくことに集中しているように思う。絵としても言葉としてもわかりやすく整理されているのだが、それが却って京子の行動のわけのわからなさを際立てるのだ。
 情や曖昧さを排して構成していくことで、最終的に何かよくわからないどろっとしたものが生じてくるという、矛盾した現象が起きていて非常に面白い。恋愛映画というカテゴリーになるのだろうが、情のぶつけあいというよりも、それぞれがよりどころにする思想というか、ロジックのぶつけ合いに近い。これも『UNloved』でも同様だったように思う。
 京子は坂口の中に自分と会い通じるものを見出す。そして坂口も京子を受け入れていく(かのように見える)。しかし皮肉なことに、それが契機となり、坂口は「京子が考えるところの坂口」から変化していくのだ。京子は社会に対立する存在、社会に参加できない孤立した存在としての坂口に自分を投影し、共に世の中と戦う同士として愛するのだが、京子と接することで感情を動かされた坂口はむしろ社会、世の中に近づいていってしまう。孤高の人ではなく、罪におののく一般人となってしまうのだ。一般的には感動的なシーンである弁護士・長谷川の会見での言葉が、京子にとっては絶望に他ならないという皮肉。そもそも、孤独であるということによって坂口と通ずるものがあると考えていた京子だが、坂口とのかかわりによって彼女自身孤独ではなくなってしまう。彼女が推し進めようとするものと、それによって彼女(と坂口)が蒙る変化が矛盾しているのだ。矛盾をなくそうとすると、彼女が最後に選択するような手段をとる他なくなってしまう。
 さて、本作は「感情移入、共感は難しい」と言われているようだが、そうだろうか。確かに京子の愛は強烈でさほどシンパシーは感じないものだったが、彼女が世の中に対して抱いている「絶対許さない」という感情、そしてそれに誰かを巻き込んでやろうとする感情はわかるような気がするのだ。世界に上手く参加できないというか、どうやっても一人になってしまっていつも自分ばかりが損をしているのではないかという(ある意味被害妄想的なのだが)意識には妙にシンパシーを感じるのだった。『UNloved』でもやはり女性は社会の底辺に位置していたのだが、それに対して不満や怒りは抱いておらず、むしろ彼女に思いを寄せる男性が勝手に憤るという構造だったのとは対照的で興味深い。
 各所で既に話題になっているが、小池栄子の鬼気迫る存在感がすばらしい。こんなに女優としてのポテンシャルのある人だったのかとびっくりした。表情はさほど変わらず、笑顔は表面だけ貼り付けたものみたいなのだが、そこが怖い。マイナスオーラがばんばん出ているところがすごく良くて引きつけられた。


『散文売りの少女』

ダニエル・ペナック著、平岡敦訳
 出版社に勤める「天然スケープゴート」マロセーヌは、妹の婚約者が殺される事件に巻き込まれる。同時に、自社が抱えているベストセラー覆面作家の身代わりになることに。いきなり殺人事件が起こるのでこれはミステリ?と思って読んでいたのだが、奇人変人(死体も)がぞろぞろ出てくるドタバタコメディと言った方がいい。そしてなんとタイトルの「散文売りの少女」は本編とあまり関係がありません!少女と書物の組み合わせを期待した読者はがっかりすることだろう。確かに読書家ならぐっときてしまいそうないいエピソードなんですが、なくても話は成立するエピソードでもあるのね(笑)。何故タイトルにもってきたのか全くもって謎です。なお、マロセーヌのシスコンっぷりは堂に入っている。「お、お兄ちゃんは認めないぞそんな結婚!」というベタなシチュエーションが見られます。

『夕子ちゃんの近道』

長嶋有著
 アンティークショップの2階に間借りする「僕」と、店長、大屋さんと双子の孫娘、近所に住む瑞枝さんの交流。著者らしく温度は低めで淡々としているが、今までの作品の中ではもしかして一番人の優しさがあるかもしれない。ただ、親密さから生じる優しさではなく、他人だからこその距離を置いた優しさなのだが。また、最後まで人の繋がりが途切れないのも著者の作品にしては珍しい。こういう薄らとした温かみの方が、親密な関係よりも助けになる時期は確かにある。ちなみに夕子ちゃんはオタ(コスプレっ子)なのだが、皆それに触れないようにしているのが妙にリアルで笑った。

『人のセックスを笑うな』

 地方の美術大学に通う19歳のみるめ(松山ケンイチ)は、リトグラフの講師で39歳の人妻ユリ(永作博美)に恋をする。みるめに片思いしている同級生のえんちゃん(蒼井優)は焦りを隠せない。同じく同級生でえんちゃんに好意を持っているらしい堂本(忍成修吾)も絡んで、奇妙な四画関係は続く。
 井口奈巳監督は、前作『犬猫』でもそうだったが、カメラをどう置くか、ということに対して非常に強いこだわりを持っていることが分かる。これ以外はないだろうくらいにびしっと決まった構図をとってくる。あと、画面の中で複数の人が動き回る状態を好む傾向があるのかなと思った。だから奥行きの深いロングショットの構図になるのか。この人の映画を見ていると、最近の邦画にいかに役者の顔のクロースアップが多いか(そしてそれが退屈であると)良く分かる。ロングでセリフがよく聞き取れなくても(これは意図的なものだとは思うが)何やってるのか、どういうシチュエーションなのかちゃんと分かるのだ。
 ただ、各所で指摘されているようだが、長すぎることは長すぎる。切るタイミングを逃したんじゃないかと思えるところが何箇所かあった。みるめとユリがいちゃつくシーンも、役者2人の素が出たように見えて面白い所があるのだが、もっと短くてもいい(ただ、短くすると、バカップルを見ている時のいたたまれなさ、居心地の悪さが失われてしまうだろう。痛し痒しというところか)。あと、最後の字幕は蛇足だと思う。そんなことしなくても客は分かっているのでは。また、そういう解釈をするかしないかは観客の自由で、無理に誘導するべきではないのでは。
 さて、みるめとユリがストーリーの中心ではあるのだが、監督の意識はかなりえんちゃんに注がれている、というか監督がシンパシーを感じているのはえんちゃんではないかと思った。えんちゃんはみるめのことが好きなのだが、素直に好きとは言えない。ついぶっきらぼうにしてしまうしふざけてしまう。行動パターンが子供(しかも小学生男子)なのだ。その様はイタいを通り越してうっとおしい。もう、あの潰れたような声の出し方とかね、あまりのウザさにぞくぞくしましたよ私は!演じる蒼井優がこれまた上手いので、始末におえない。
 映画を見る前は、奔放そうなユリの方が自分としては苦手なタイプなのではと思っていたのだが、えんちゃんのウザさの前にはそんなもん吹っ飛びました。むしろユリOK。全然OK。確かに身近にいてほしくはないタイプだが、客観的に見ているとえんちゃんみたいな不器用なタイプの方がうっとおしいんですね。監督はこのうっとおしさ、イタさをよーくわかっているに違いない。みるめとえんちゃんが観覧車に乗るシーンとか、すごかった。ここでの彼女の振る舞いがもう最悪なわけです。いやーみるめえらいよ。一応ちゃんと接しているわけだし。普通ひくわ。

『自分探しが止まらない』

清水健朗著
 帯だけ見るとおっ若者叩き本か?と思いそうだけど、そういう本ではない。また、自分探しをすべて否定しているわけでもないと思う。著者が注目しているのは、「自分探し産業」とでも言うべきものが若者から金銭・労働力を摂取していく、ひいてはワーキングプアを生み出していくのではないかという点だ。自分探しブームと雇用形態の変遷をつなげて考察している点が大変おもしろかったしタイムリーだと思う。さて、自分の周囲の若い人たち、そしてメディアに出てくる人たちを見ていると、皆働くということに随分過大な期待をしているんだなぁ、好きなことを仕事をすることが正しいこととされているんだなぁと思うことが多い。しかし何々が好きであるということと、何々に関わる仕事をするというのは、全く別のことではないかと思うのだが。特に思いいれはないがそこそこ出来ることだから仕事にする、というスタイルでも全く構わないではないか。働くことと夢とが直結している、していなければいないという思考は、働くことへのハードルをどんどん上げていくだけだと思うのだが。

『小春日和』

野中柊著
 小学生の双子の姉妹、小春と日和はタップダンスの発表会がきっかけで、CM出演することになった。ちょっと昔(オイルショックがあって、ザ・ピーナッツが解散するころ)の神奈川と東京を舞台にした家族小説。小学生女児・日和の視点で物語は進むが、少女小説というよりは家族小説と言う方がふさわしいように思う。両親や祖母、祖母のボーイフレンドの配置が上手く、それぞれの人物造形が浮き上がってくる。タップダンスのようにリズミカルで軽やかな小説だった。家族小説にありがちな窮屈さが薄いのね。最後にさーっと視線が大人のものに繋がっていくところも上手い。ちゃんと成長物語にもなっているのだ。

『パラレル』

長嶋有著
 ハードカバ-で出た当時に一度手に取ったのだが、途中で飽きちゃって読むのをやめてしまった。今回改めて文庫で読んでみたら、えらい面白いじゃないですか(笑)。私の脳内で何が起こったんだ。それとも、この小説の機微が分かる程度に大人になったということでしょうか。それほど仕事に熱心ではない、かといって不真面目ではない人の仕事との距離感の描き方に妙に実感がある。主人公の仕事との距離感が、離婚した妻との距離感(別れたけど別に嫌いじゃないしむしろ愛着はある)にちょっと似ているように思った。作品タイトルはこの距離感を的確に表している。並ぶけれど交わらない。また、以前読んだ時はいけすかない奴だと思った津田に妙にシンパシー感じた(笑)。しかし長嶋作品はすごく面白いのだが、何がどう面白いのか説明しにくいわー。何なんだろうねこの面白さ。

『潜水服は蝶の夢を見る』

 ELLEの編集長ジャン=ドミニク・ボビーは(マチュー・アマルリック)は突然脳溢血で倒れ、全身麻痺になってしまう。動かせるのは左目のまぶたのみ。しかし瞬きで文字を指定し意思を伝える方法を学び、手記執筆を試みる。この手記を、『夜になるまえに』のジュリアン・シュナーベル監督が映画化したのが本作。つまり実話が元です。
 撮影の素晴らしさが印象に残る作品だった。青と緑を基調とした(ジャンの病室の壁が青緑っぽいことに加え、海辺がよくでてくる)画面に赤や黄をアクセントとした衣装が映える。監督の前作『夜になるまえに』も映像が美しかったが、色のバランスにとても気を遣っているなという印象を受けた。誰もいない砂浜でカラフルな服を着た子供達が遊びまわるシーンなど、とてもいいです。フランスの子供服って本当に色がきれいでかわいい(いや映画とはあまり関係ないですが)。また、特に前半ではショットの多くがジャン視点(一人称カメラとでも言うか)になっている。彼が動かせるのは目のみなので、目が動く範囲しか画面には映らない。また、視界がぼやけたりゆがんだりする。にもかかわらずどういう状況なのか観客にちゃんと分からせるあたりが上手い。対して、ジャンが瞬きによる会話を覚えてからは、カメラが三人称となって、彼とその周囲との両方が映るシーンが格段に増えるのだ。ジャンの精神の広がりがそのまま映像に反映されていて、気分がダイレクトに伝わるのだ。
 さて、ともすると感動的な闘病ものと捉えられそうなストーリーだが、ジャンのキャラクターがそれを一味違うものにしている。彼は女好きで、体が動かなくなってからもスケベ心を失わない。カメラがジャン視点になっている時に目の前に女性がいると、絶対胸や太ももに視線がいくのだ(笑)。言語療法士に優しい言葉をかけて「女って単純」とほくそ笑んでいたりもする。また、元妻に恋人へのメッセージを読ませるという大変デリカシーのないこともやらせている。基本エゴイストだし、いけすかない奴だ。しかし彼の強固な意志と想像力、そして自分への突っ込みを忘れないドライなユーモアが、彼を魅力的にしているのだ。だからこそ最後まで家族や友人が支えてくれたのだろう。
 もっとも、もし彼が健康なままだったら、家族(特に子供。元妻は彼にまだ未練がありそうだ)は遅かれ早かれ彼から離れて行ったのではないだろうかとも思える。家族に何もしてあげられなくなって初めて家族への愛を実感するというのがなんともシニカルだ。一貫して変わらない父親との愛情関係とは対照的。父親との電話で、初めてジャンの感情の揺れがはっきりと見た目に出るのだ。親としての属性よりも、子としての属性の方が強い人なのかなと思った。

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