3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

2008年02月

『ぜんぶ、フィデルのせい』

 1970年代のパリ。9歳の少女アンナ(ニナ・ケルヴェル)は私立のカソリック校に通っている。父親(ステファノ・アコルシ)は弁護士、母親(ジュリー・ドパルデュー)は雑誌(マリ・クレール!)記者というインテリかつそこそこ裕福な暮らしだ。しかしカストロ政権化のスペインで反体制運動をしていた伯父が死亡し、伯母と従姉妹が転がり込んでくる。さらに仕事でチリへ行っていた両親が社会主義に傾倒した為、アンナの生活は一変してしまう。
 フライヤーや予告編からは、左翼かぶれの両親に子供が振り回される話という印象を受けるが、実は思想的・歴史的な背景はそれほど重要ではない。いや重要は重要なのだが、この映画の一部であって本筋ではない。両親がブルジョワ的な生活からの脱却を図った為、アンナは若い社会主義者たちや色々な国の女性たち(アンナと弟の子守にやとわれている)と接することになる。その中で、世の中には色んな人がいて色んな主義主張や宗教のありかたが存在するということに気付く、そして、それらは自分が今まで生きてきたカソリックの世界とは相容れないこともある、というを知っていく。彼女が自分で考え自分で選び取っていく、つまり成長していく過程が、この映画の最も重要なところなのではないかと思う。
 本作はアンナの視点でアンナの生活が描かれているわけだが、その視線の先には大人達の世界もある。最初、左翼かぶれのように描写されるアンナの両親だが、確かに拙いところはあるものの、彼らは真剣に社会を変えようとしている。アンナは賢い子で、大人達が窮するようなクリティカルな質問を投げかける。実際、元々裕福なカソリックの家庭に育った両親の行動には、矛盾も多い。母親は実家への遠慮があるし、父親は母親が中絶支援運動に参加していると知って激怒する。しかし矛盾のない人間などいないのだ。自分たちが育ってきた世界とあたらしい価値観とをなんとかすり合わせ、自分たちの思想を作っていこうと、当時の若い知識人たちが格闘する様は興味深かった。子供の成長物語であると同時に、両親である大人達の成長物語でもあるのだ。しかし当時の共産主義者は無邪気というか純真だったのね・・・。
 アンナも、大人にも矛盾や苦悩があるということを理解し、それら込みで彼らを許容しようとする。だからこそ、終盤の父娘のショットは感動的なのだ。

『12月の花嫁』

 北アイルランド映画祭で鑑賞。『ナッシング・パーソナル』『私が愛したギャングスター』のサディアス・オサリバン監督が1990年に製作した作品。
 20世紀初頭の北アイルランド。プロテスタント系長老派教会の村に暮らす娘サラ(サスキア・リーヴス)は、2人の息子のいる農家に母親と一緒に住み込みで働くことになった。しかし家の主である老人は、サラと息子たちを守る為に嵐の海で溺死した。サラはその後も農家に留まり、やがて子供を生む。父親は兄弟のどちらなのかわからない。村人からは白眼視されるが、サラは自分のやり方を曲げなかった。
 この時代、教会に通わないと眉をひそめられ、女性が未婚の母となることはタブー(父親がいないと子供は苗字をもらえない)、そして2人の独身男と同居し続けることももっての他だった。この3つを実行したサラは、相当度胸があり意思の強い女性だったということになる。彼女は農家の兄と弟、2人を同じように愛しセックスする。当時の女性としては型破りどころではなかっただろう。堂々と二股というのは現代でも認知されにくいよな(笑)。彼女と結婚せずに共同生活を続けた兄弟も、比較的考えの自由な人たちだったということになる。
 さて、サラはこのように強く(当時としては)自由な女性として描かれているが、そんな彼女が、自分の母親が暮らしていた家がカソリックの一家に明け渡されたと知った時、猛反発をする。「なんでカソリックなんかに!」と地主である農家の兄にくってかかるのだ。前述の通り、サラは教会には行かず牧師にも見放された人だ。信仰深いとはお世辞にも言えないし、彼女自身旧弊な教会には反発している。にもかかわらず、プロテスタントとカソリックの間にある壁を取り払うことはできないのだ。この壁の根深さに少々愕然とした。対して、サラよりは教会に反発していないと思われる兄弟の兄が、「あの一家はうちの小作農だから同じように食事をさせるんだ」と、さほど反発を見せていないのが興味深い。使用人という区分で一括りにされているのね。サラにとっては、扱いの差こそあれカソリック一家は使用人という同じ立場。その立居地の違いが興味深かった。 
 さて終盤、彼女はある決断をする。最後の最後でそれか!今まで何のために頑張ってきたのかと思うと・・・。なんか、女性としてはがっくりきました。やっぱり、この為にはしょうがないということなのか、それとももう十分だと思ったのか。彼女の子供が当時のごく一般的な価値観の持ち主として育っちゃってるのも、なんかがっくりです。あーあ。そこが限界なのかしら。
 ちょっと昔の文芸作品のような面持ちの映画だった。編集がざっくりとしていて思い切りが良いといえばいいのか、映画内の時間をシーンを切り替えることでぱっと飛躍させてしまうという印象を受けた。個人的には、このくらいスパスパ繋いじゃう編集が好きです。

『ミキボーと僕』

 北アイルランド映画祭で鑑賞。「明日に向かって撃て!」が公開された1970年代初頭のベルファスト。橋の「こちら側」にはプロテスタント、「あちら側」にはカソリックが暮らしていた。プロテスタント地区に住む少年ジョンジョは、カソリック地区に住む少年ミキボーと仲良くなる。映画にあこがれた2人は「義兄弟の契り」を交わし、オーストラリア目指して冒険の旅に出た。
 監督はテリー・ローアン。今回の北アイルランド映画祭で唯一、大手制作会社(ユニバーサル)が製作に関わっている。ユニバーサル映画だから「明日に~」の映像を使えたのね。さすがにエンターテイメントとしての完成度は高く、商品として安定しているという印象。子供の影を使ったタイトルロールが洒落ているのにはぐっときた。もちろんアイルランド情勢が背景にあるので、他国の人(製作国はイギリスですが)には若干わかりにくいところもあるかもしれないが、子供映画として十分に楽しめる。
 悪ガキと良い子のやりとりや、ミキボーの家族のユニークさ等、コメディ部分が楽しい。特にミキボーの双子の姉、ノリのいいお母さんは素敵なキャラクターだ。また、「明日へ向かって撃て!」からの抜粋、オマージュが盛りだくさんなので、映画好きにも嬉しい。ミキボーが強盗(笑)に入った銀行で、老夫婦と銀行職員が交わす会話にはニマニマしてしまった。どこの世界にも映画好きがいるなー。
 楽しい映画なのだが、シビアな現実が待ち受ける。2人の少年の友情の顛末はショッキングだが、これが当時の現実なのだろう。もう救いがない・・・。しかし最後にもう一オチある。これでわずかに救われるのだ。人生確かに変わったんだと。

『9人のゲイ、殺される』

 北アイルランド映画祭で鑑賞。ベルファストからロンドンへ上京したケニー(グルン・ムルハーン)は、失業手当で暮らしていた。しかし彼が証券会社社員だと信じ込んでいる同郷の友人バイロン(ブレンダン・マッキー)が彼を頼ってやってくる。手元不如意な時はゲイバーで「バイト」していたケニーは、びびるバイロンを連れまわす。バーの名物ゲイ「クィーン」が殺されたのは金銭がらみにちがいない、その金を横取りしようというのだ。
 主人公2人がアイルランド出身という設定だが、北アイルランド映画祭の中では最もアイルランド色の薄い作品だった。むしろロンドン(の多分郊外)のゲイ・コミュニティ内の話という要素が強い。といっても全くシリアスな話ではなく、ドタバタコメディなのだが。ノリは良くポップで元気のいい(多少若さが暴走してから回ってますが)作品で結構好き。ただ、ギャグのネタはオール下半身ですが。率直に言って下品なので、その手のネタが苦手な方にはお勧めできない。
 最初はゲイバーにつれていかれて「マジですか~」的反応をしていたバイロンが、なんだかんだ言ってどんどん馴染んでしまうのがおかしい。「だって仕事だろ」って・・・。ケニーよりよっぽど肝が据わっているというか順応が早いというか割り切りがいいというか。それなのに純朴な田舎の青年というのがかわいすぎる。ケニーもバイロンもそれなりにルックスがいいので、なかなか目の保養にはなりました。楽しかった!
 しかし放置されたままのタクシー運転手が超気になる・・・腐臭とか・・・。あと、字幕なくても「あーこれはおネエ言葉ね」という喋り方のニュアンスはわかるのが不思議。

『キングス』

 北アイルランド映画祭で鑑賞。2007年、トム・コリンズ監督作品。70年代、北アイルランドから職を求めてロンドンにやってきた若者6人。30年後、仲間の1人ジャッキーが死亡する。それぞれの思いを胸に、かつての仲間が通夜に集まる。
 中年男が友人の葬儀で飲んだくれる映画といえば、ジョン・カサヴェデス監督の『ハズバンズ』が思い浮かぶ。本作は、ホロ苦さは共通するものの、もっとショボショボした気持ちになってしまう。30年たつと、仲間内でも成功してそれなりに羽振りのいい奴と、電気代にもことかく奴が別れてしまい、かつてのようには接することが出来ない。劣等感や優越感、罪悪感などが交じり合っている。この「もう昔のようではない」というのが実に切ない。一見友情もののようだが、むしろかつてあったと思っていた友情が失われていく物語であるとも言える。
 さて、死んだジャッキーに対してもそれぞれに思う所があり、彼らの回想を交えて徐々に全景が見えてくる。ジャッキーの死の顛末だけでなく、彼ら全員が渡英してからどのような人生を送ってきたかということも見えてきて、ちょっとミステリ的な面白さもあった。
 人生半ばを過ぎた中年男の悲哀に加え、彼らは故郷を出て移住してきた身だ。今更アイルランドには帰れず(帰れるのは死んだジャッキーだけだ)、かといってイギリス人にもなりきれない。ここ(ロンドン)が俺たちの故郷だと言ってはみてもどこか寂しげだ。根無し草のままでいるしかない寄る辺なさ、もの悲しさがある。こういった感情は、アイルランドからの移民に限らず、世界中の移民、出稼ぎ民に共通の感情ではないかと思う。
 ちなみに本作は全編ゲール語。一部ゲール語という映画はあるが、ほぼすべてというのは珍しいそうだ。あと、特に通夜が始まって以降の展開・演出(特に画面内の人の出し入れ)が舞台演劇ぽいなと思っていたのだが、実際に元々舞台演劇だった作品だそうだ。

『オマー』

 北アイルランド映画祭で鑑賞。オマーは北アイルランドの地方都市。この町で1998年、「真のIRA」を名乗る組織による爆弾テロが起こり、29名が死亡した。犠牲者の1人である少年エイデン・ギャラガーの父親マイケル(ジェラルド・マクソーリー)は、他の遺族と共に遺族会を結成し、事件の犯人究明と法的な措置を求める運動を開始するが。実在の事件、人物をモデルとし、2004年に製作されたドラマ作品。監督はピート・トラヴィス。
 オマー事件はマイケルの予想を超える展開を見せ、個人の力ではどうにもできなくなってしまう。今だに決着のついていない事件のようだが、この事件そのものよりも、遺族の心情の方が心に残った。ブラディ・サンデー遺族のその後を追ったドキュメンタリー『デリー・ダイアリー』を見た時にも思ったのだが、遺族が望むベターな決着と、政治的にベターな決着とは往々にして異なるのかもしれない。マイケルが自嘲するように、和平を望んではいても、和平交渉にとって邪魔者となってしまっていることも、ないわけではないだろう。そして遺族の中でもそれぞれ被害者に対する姿勢が異なる。社会的な正義を求める人もいるし、死者は戻ってこないのだから静かに死を悼みたい、政治家や警察に訴えかけるよりも家族を支えてほしい等、様々なのだ。
 終盤、マイケルが妻に漏らした心情はぐさりときた。遺族会運動に打ち込む夫に妻はついていけず、家族の心はバラバラになっていく。しかしマイケルはマイケルで、妻や娘と共感できない。家族全員がエイデンを愛していたが、悲しみを共有することはできないのだ。実は、これがこの作品のキモとなっている部分ではないかと思う。もっとこの部分がクローズアップされてもいいような気もするが、そうするとオマー事件と言う題材からは離れていってしまう。うーん、痛し痒しか。
 真面目にきちんと作っている印象のドラマで、終盤の展開がやや急だが緊張感が途切れず面白かった。脚本にはポール・グリーングラスが参加しているそうだ。

『強盗たちも恋に落ちるのか?』

 北アイルランド映画祭で鑑賞。ブライアン・カーク監督による8分のショートフィルムだ。2人の男が銀行強盗をしようと車の中で待機しているが。
 銀行強盗のうち年配の男が、恋人とのひと時を回想するのだが、その恋人がぼってりとした中年女性で特に美人でもないというところにぐっとくる。彼女の為に大金を手にするか?彼女を思って犯罪を踏みとどまるか?しかしどうにも切ないしもの悲しいなー。恋に落ちてもオチがこれじゃあ・・・。ほろにがいハードボイルド風味な短編。

『弾道の詩行』

 北アイルランド映画祭で鑑賞。アルスター地方の詩と文学に対するオマージュ的なドキュメンタリー。シェームス・ヒーリーやトム・ポーリンなど、現代の詩人、文学者による作品の朗読やインタビューに、過去のアイルランドの映像を織り交ぜて構成されている。
 日本で言ったらNHKぽい雰囲気(ETV特集とか)。アイルランドの文学の一端に触れることはできるが、詩の翻訳の難しさを痛感する作品でもある。多分、英語圏の人が受ける印象とは全然違う印象を受けているんだろうなーと思ってしまうのだ。また、アイルランドの歴史をある程度知っていないと、詩の意味やなぜその部分が抜粋されたのか分からないので、ある程度知識のある人が見た方がより味わえるだろう。私はちょっと退屈してしまいました。アイルランド文学を勉強している人にとっては、一つの資料となりそうだが。

『シェルショック・ロック』


 北アイルランド映画祭で鑑賞。イディオッツ、ザ・アンダートーンズ、スティッフ・リトル・フィンガーズなど、1970年代のアイルランドパンクシーンを映したドキュメンタリー。1979年のジョン・T・デイヴィス監督作品となる。
 1960年代に勃発したアイルランド紛争が背景にあるそうだが、そのあたりにはあまり深くは触れられない。当時人気だったパンクバンドたちの演奏や彼らへのインタビュー、また当時の町並みやファッション等の情景を収めているので、資料としては貴重かもしれない。
 ただ、ドキュメンタリーとして面白いかというと、残念ながらさほどではない。パンクスたちに対するインタビューには中途半端な、「言わされている」感を感じた。彼らが自分自身の言葉で喋っているのとはちょっと違うんじゃないかと思う。そもそも、彼らは語るべき言葉を持っていないんじゃないかという印象を受けた。言葉が足りないから音楽にぶつけるんじゃないかなと。ライブシーンがあまり魅力的に撮れていないのは、致命的だったと思う。そもそも、パンクはリアルタイムで聴かないと機能しないタイプの音楽なのでは、同時代性が占める部分が非常に大きいのではないかと思った。この映画を見て、映画内の演奏や音楽二心打たれるかというと、ちょっと微妙だ。音楽ドキュメンタリーって難しいなー。
 とりあえず、当時のパンクバンドは演奏下手でもOKだった、今のバンドは素人でも結構演奏が上手いということはわかる(笑)

『おやすみベイビー』

 北アイルランド映画祭で鑑賞。『デリー・ダイアリー』のマーゴ・ハーキン監督が1990年に撮ったドラマ作品だ。1984年のデリーに暮らす15歳の少女ゴレッティ(エマー・マッコート)は女友達とダンスチームを組んだりディスコに繰り出したりと青春を謳歌していた。ゲール語教室で気になっていたキーランと恋に落ちるが、キーランはイギリス軍に反抗した容疑で収容所に入れられてしまう。しかしゴレッティは妊娠したらしいことに気付く。
 前半は80年代のガールズムービーっぽいポップな雰囲気で、女の子同士のかしましいガールズトークも楽しい。このきゃいきゃいしたノリは万国共通なのか。しかしゴレッティの妊娠が判明してからは、一転して不安で重苦しい雰囲気になる。現代の視点から見ると、何故ゴレッティは妊娠したらしいのに病院にいかないのか、中絶するにしろ出産するにしろ何かの手立てをとらないのかと非常にもどかしい。しかし、当時のアイルランドでは中絶は非合法だった(83年にアイルランド共和国で中絶の是非を問う国民投票が行われ、中絶反対票が多数だった)。本作の時代設定がされている1984年には、15歳の少女が妊娠・出産した上衰弱死、その14歳の妹が自殺するというセンセーショナルな事件も起きていたそうだ。そういった背景を考えると、ゴレッティが親に相談できず精神的に追い詰められていく心境は分からなくもない。ちゃんと避妊しろよといいたくもなるが、避妊もタブーだったのかしら(ゴレッティたちが暮らすのはカソリック地域)。
 ゴレッティの同級生が、妊娠した他校の女子生徒のことを「あばずれ」と呼んでいたり、ゴレッティが「妊娠するよりガンになった方がマシ」と漏らしたり、当時の不本意な妊娠に対する見方が窺える。もちろん、イギリスやアメリカでも10代の妊娠・出産や中絶は白眼視されていたとは思うが、少なくとも中絶という選択肢はあったろう。一方でシンディ・ローパーやカルチャークラブを聞いて踊り狂い、お酒やタバコを楽しむ青春という点ではイギリスやアメリカと何ら変わらないという対比が不思議でもある。
 観客に問題を丸投げするような、歯切れの悪い形で物語は終わるのだが、あえてそうしたのだろう。公開された当時は賛否両論で、監督の元に非難の電話ががんがんかかってきたのだとか。

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