3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

2008年02月

『かつて、ノルマンディーで』

 1976年、ルネ・アリオ監督により『私、リヴィエールは母と妹と弟を殺害した』という、19世紀に実際に起こった事件を題材とした映画が撮影された。映画に登場する農民たちは、実際にロケ地近郊に住む素人の人たちだった。30年後、当時助監督だったニコラ・フィリベールは、再びロケ地であった村を訪れ、当時出演した人たちへのインタビューを試みる。出演者たちへのインタビュー、『私~』撮影の際に残された資料、そして『私~』本編の映像を交えたドキュメンタリー。
 インタビューの部分、ショットのつなぎの間が微妙に長い。この間が、時間の流れを感じさせる。映画に使われるのはごく一部だが、その向こう側にはもっと長い時間、多くの人たちの時間が流れていると感じさせる。過去の映像と現在の映像を交互に見せるだけで時間が流れたことは感じられるが、この間があることで、今正に時間が流れているという印象が深まる。映画の向こうに、映画を見ている私たちには見ることが出来ない、出演者たちが過ごしてきた人生があるという手ごたえを感じるのだ。
 『私~』は陰惨な殺人事件を扱っているものの、出演者達は皆懐かしそうに撮影のことを語る。実際の事件に関してフィリベールは特に考察を述べることはない。それは彼の役割ではなく、『私~』に出た人たちの役割だ。映画に出たことでものの見方が変わったという人もいる。そして映画をきっかけに人生を大きく変えた人もいる。主役を演じた青年(当時)のその後の人生、そして共演者たちとの再会には、思わずぐっときた。あの内気そうな青年がこんなに・・・!と他人事ながらほっとするのだ。出来すぎなようにも思えるが、こういうことが実際にあるのがドキュメンタリーのミラクルなのではないだろうか。
 さて、本作はかつて撮られた映画が中心にある、そしてその出演者達が中心にいるドキュメンタリーであるが、それは同時にかつて映画のスタッフであったフィリベールも本作の内容に関わるということだ。このことが、本作における監督の視線にブレを生んでいるように思える。これまでのフィリベール作品は、対象との親密がありながら常に一定の距離が保たれており、視線にブレがなかった。しかし本作では、フィリベールが撮る主体であり、撮られる対象の一部でもある。ドキュメンタリーは常に客観的であれとは思わないし、完全に客観的なドキュメンタリーはありえないとも思う。ただ、本作ではフィリベール自身がどこまで踏み込んでいいものか考えあぐねているように思えるのだ。対象も自分も突き放しきれないというか、距離感が曖昧で、見ている側も居心地が悪い。いっそもう一歩踏み込んでしまえばよかったのにとも思う。ラストのある「秘密」を公開するならなおさら。もし踏み込まずに留まるのなら、あのラストは蛇足だと思う。

『江頭2:50のエイガ批評宣言』

江頭2:50著
 「例え、どんなにつまらない映画があったとしても、批評するオレよりも映画のほうが上だ!」。まえがきより抜粋。映画に限らず製作現場を知っている人ならではの言葉だとは思うが、映画ファンとして胸に刻んでおかねばと思いました。私、恥ずかしながらエガちゃんが映画好きである、あまつさえ自分の番組内で映画評コーナーを持っているなんて知りませんでした。その番組内のコーナーを書籍化したのが本作。映画に対する態度が謙虚(すごいけなしている時もあるのだが、上から目線ではない)、かつ的確な批評をハイテンションでやってくれるので実にユカイ。下手な自称映画評論家よりはよっぽど切れがいいし映画好きだと思う。子供の頃の映画体験の話とか、ちょっと感動しちゃいましたよ。

『叱り叱られ』

山口隆他
 サンボマスターのボーカル、山口隆が、山下達郎、大瀧詠一、岡林信康、ムッシュかまやつ、佐野元春、奥田民生という大先輩たちと対談した。山口の暑苦しく率直過ぎる問いかけに、苦笑いしつつがっちり答える(時々かわす)先輩たち。いやー面白かった。とりあえず山下と大瀧、ムッシュの話だけで大分お腹いっぱいです。音楽で飯を食うことの楽しさと苦しさ(どっちかというと苦しさの方が多そうなんですが)が垣間見える。音楽好き必読。もっと音楽が聴きたくなる(この本に登場する人たちだけでなく、全般的に)。山口が苦手という人も多々いるだろうが、そのへんはぐっとこらえていただきたい。最初は対談相手が巨匠すぎて大分テンションが変なことになっているのだが、奥田民生あたりになると、やっと普通に先輩・後輩なノリになってくるあたりが微笑ましい。佐野元春は親戚のおじさんみたいな感じ(笑)

『老年期 生き生きとしたかかわりあい』

E.H.エリクソン、J.M.エリクソン、H.Q.ギヴニック著、朝長正徳、朝長梨枝子訳
 発達心理学者であるエリクソンによる、80年代の報告者たちへの聞き取り調査を元に、老年期の心理構造に迫る。老年期になると、それまで構築したものが瓦解していくという不安が生じる、また肉体的にもこれまでのようには動けなくなってくる。そのギャップを埋め、これまでの自分と、大きく変化しつつある自分とを統合する為、老年期特有の行動が生じるのだと言う。80年代の研究であるが(私が読んだのは97年の新装版)、現代でも十分通じる内容。ああこういうロジックが働いているのねと頭においておくと、身内の年配者にもイライラせずに接することが出来るかと思ったが・・・実際はなかなか難しいです(苦笑)。本著最後にアメリカの高齢化社会化について論じた章があるのだが、現在の日本にそのまんま当てはまる部分が多々あった。アメリカ社会を後追いしているというのは本当なんだなーと実感。

『中谷宇吉郎随筆集』

樋口敬二編
 著者は雪と氷の研究で知られる物理学者。名前は知っていたけど、その文章を読むのは初めてだ。いやー、いいですねーこれ。寺田寅彦の弟子だそうだが、文の上手さも師匠譲りなのでしょうか。自分の研究、芸術、師である寺田寅彦の思い出等題材は様々だが、何れも飄々としたユーモアがあり、明解。一方で趣味の水墨画の話になると、知人から借りた上等な墨を返したくなくてぐずったり、いい道具がほしくて堪らなくなったりと、お茶目な面も垣間見える。結構負けず嫌いだったみたいです。心は熱く、頭は冷たい。太平洋戦争前後の文章も含まれているが、情勢を見る目は冷静、というか冷めている。また、兵器開発における科学者の責任について、技術(とそれを生み出した科学者)に罪はないということはないと考えているのが興味深かった。

『THE MANZAI 4』

あさのあつこ著
 ようやっと4巻ですが、話がまったく進まん!主人公である歩が一人でぐるぐる考える子な為、一人称の弊害が出てしまったか。同じ意味の文が何度も反復されるのは勘弁してほしい。恵菜が歩ビジョンだと完璧な美少女なんだが、実際こんな子がいたら結構煙たがられるよなー。実は困ったちゃんな子なんじゃないかという雰囲気があるところはちょっと面白い。それにしてもかゆくてかゆくて悶え死にそうだった。ちょっとこの先ついていくのは無理かも・・・

『自殺するなら、引きこもれ 問題だらけの学校から身を守る法』

本田透、堀田純司著
 思い切った題名だが、別に無闇に引きこもりを進めているわけではなく、学校に行った方がいいとは思うが、死ぬほど辛い思いをして通い続け、挙句の果てに自殺するくらいだったら登校拒否して引きこもった方がなんぼかマシだよという意味だそうです。いじめにまけるな!と言うのは簡単だが、現代のいじめは子供の負けん気くらいでなんとかなるレベルではないことも多々あるので、死ぬほど辛いんだったら学校に行かないという選択肢もあると、個人的には思っています。学校に行けない当事者というより、子供が学校に行かなくなってパニックになっているご両親に勧めたい本。学校行かなくても人生終わったりしないですよー。ただ、あくまで不登校初心者(笑)向けなので、物足りない点や不備も多い。本田は「人と接しなくてもいい職業」というのをいくつか挙げているが、どんな職業でも人と接しなくていい職業というのはまずないだろう(作業自体は一人で大丈夫でも、打ち合わせとか交渉とかがある)。コミュニケーション能力はどんな場であれ要求されるというのは念頭においておいた方がいいかも。学校でなくてもいいから、集団の中で行動する体験はしておいたほうがいいですよー、と元不登校児が言ってみる。

『アメリカン・ギャングスター』

 1960年代~70年代のアメリカを舞台にした、ギャングのボスと刑事の攻防。フランク・ルーカス(デンゼル・ワシントン)は長年仕えたギャングのボスの死後、旧来のギャングのやり方とは異なる麻薬ビジネスで、めきめき頭角を現す。一方、刑事のリチャード・ロバーツ(ラッセル・クロウ)は汚職がはびこる所内で唯一、公正明大な態度を貫き、却って白眼視しされていた。そんな彼は麻薬操作チームのリーダーに任命され、徐々にルーカスへ迫っていく。
 監督はリドーリー・スコット。私、スコット監督の映画を初めて面白いと思いましたよ!本作はトーン控え目で、結構渋い雰囲気なのがよかった。派手なアクションもカーチェイスもないが、ギャングと刑事の2本のラインがじわじわ近づいていく(しかも、ロバーツはともかくルーカスはロバーツの存在を全く知らないまま)過程がスリリングだ。ただ、あくまで「過程を追う」ストーリーなので、ネタのわりには淡々としている。まあそこがいいんですが。
 ルーカスは「高品質・適正価格」な商品(麻薬)の供給を、独自の生産・運搬ラインを確保することで可能にする。ギャングというよりやり手のビジネスマンの発想だし、彼の風貌も知的でスマート、ヤクザ者には見えない。麻薬の供給ラインを確保しのしあがる過程は、ギャング版プロジェクトXと言ってもいいくらいだ。現代的なビジネスセンスを持った人なのだ。一方では家族を大切にしファミリービジネスを確立させるという古風な面もある(しかしこれによって外部からの干渉を防ぐことが出来たのだ)。一族に富と幸せをもたらす一方で、敵には情け容赦なく、彼が売った麻薬で中毒者たちが死んでいく。
 一方、ロバーツは職務には忠実で正義感が強い。絶対買収されないことを買われて捜査チームに抜擢されたのだ。しかし同僚からは総スカンをくらい、それに耐えられなかった元相棒は麻薬に溺れていく。更に女癖が悪く妻とは離婚訴訟中。妻は「賄賂を受け取っても家族と一緒にいてほしかった」と彼をなじる。これは本人やりきれないだろうなーと思った。浮気は自分のせいだけど、仕事に対する誠意まで却下されたら立場ないわ。
 2人は対照的な立場にあるが、仕事に忠実・誠実であるという点では実は共通している。もしかしたら似ている、分かり合える相手だったのかもしれない。ということを提示しあるオチがくるから、おーおーそうでしょうとも!と気分が盛り上がる。これ実話が元なんで、出来すぎた話という突っ込みは不可。

『魁!!男塾』

 これが映画『魁!!男塾』の感想であーるっっっ!!・・・って皆やりたかったでしょ。私もやりたかった。戦国時代に産声をあげた、真の男を育てる私塾「男塾」。滅多やたらに強い桃太郎(坂口拓)、富樫(照瑛)、虎丸(山田新太郎)、そして軟弱男の秀麻呂(尾上寛之)ら新入生たちが、男塾をのっとろうとする関東豪学連に戦いを挑む。原作は宮下あきらの同名マンガ。映画では油風呂に入ったり500キロの錘を下げ続けたりと相当無茶苦茶やっていますが原作はもっと無茶苦茶&超展開です。監督・脚本・主演は「VERSUS」「地獄甲子園」の坂口拓。
 率直に言って、決してクオリティの高い映画ではない。特に脚本と編集に難があるように思う。各エピソードの時間配分や組み立て方、場面転換のしかたがぎこちない為、特に前半は映画の勢いにブレーキをかけてしまっていている。また、役者の演技も上手くはない。肝心要のアクションも、CGを極力使わない心意気は買うが、出来不出来のバラつきが大きかった。冒頭、桃太郎が暴漢にからまれている秀麻呂を助けるシーンは、パンチが敵に当たっていないのが見え見えでちょっと冷めてしまったし、妙に正面からのショットが多いのも物足りない。やっぱり、拳なり足なりががっつりヒットするところが見たいのに・・・。
 しかしこの映画がダメ映画かと問われると、そうとも言えない、というか言いたくない。ああ坂口拓は男塾が好きなんだろうなぁ!桃太郎になりたかったんだろうなぁ!というのがひしひしと伝わってくるのだ。原作が過剰もいいところな作品だから、もっと突き抜けた笑える映画にすることも出来ただろうし、CGやVFXを使いまくることも出来ただろう(予算が許せばだけど)。しかしあえてそれをやらず真っ向から取り組んでいるところがよかった。終盤の大詠唱なんて、結構ぐっときます。アクションも、終盤は大分いい感じになっている。ラスボス・伊達役の人の動きが案外いい。坂口はもちろんそれなりに動ける人なんで、タイマンで見ると見栄えがするのだ。思うに、坂口は一人VS大勢よりもサシで勝負するアクションの方が好き&得意なんじゃないかしら。
 しかし本作のMVPは坂口ではなく照瑛であろう。アクションシーンはそれほど多くないのだが、その他の所での富樫っぷりがあまりにはまっていて唸った。そうそうそう富樫はこんな奴!彼の恋バナエピソードなど映画の文脈上全く不要なのだが、これ切れなかったんだろうなー。

『L change the WorLd』

 レニー・クラヴィッツ先生の曲は相変わらずカッコイイぜ・・・ってそこかよ!それはさておき、大ヒットした『DEATH NOTE』『DEATH NOTE the last name』(原作はもちろん漫画『デスノート』)のスピンアウト作品となる。前2作内の流れに対するフォローは全くないので、一見さんお断りな作品(といっても、本作単独で見ようという人はあんまりいないと思うが)。監督は『リング』の中田秀夫。『~the last name』終盤からその後の、L(松山ケンイチ)の23日間の物語。Lの元に、新種のウイルス兵器が用いられたテロの知らせが入る。
 ストーリーに関しては各方面からえらい突っ込みを受けているのでどんなもんかと思ったが、確かに突っ込み甲斐がありすぎて、いちいち指摘していくときりがないし完全にネタバレになってしまうのでここではすべて割愛する。タイで大々的にロケを組んでいるが、ロケに費用をかけるくらいだったらもうちょっと脚本をなんとかした方がよかったんじゃないかと思う。
 しかしこの映画に私が全く失望したかというと、実はそうでもない。この映画の主目的は松山ケンイチ演じるLの可愛らしさ(可愛いという事にしておいてくれ)を堪能するところにあるからだ。もーどうせLのファンしか見に来ないんでしょって気もするしな。他のキャストは正直ぱっとしないしナンちゃんに至っては喋るたびに噴出しそうになって困ったけど、松山の奮闘で相殺。いやーえらいよ松山。
 ただ、キャラクター映画としても少々勿体無いことになっている。Lというキャラクターを語る上で肝心であろう、ワタリとの関係の描かれ方が不十分なのだ。映画タイトルから察するに、本来ここがポイントだったのでは。また、ワタリとLを含む「子供達」との関係に触れておかないと、Kにとってワタリがどういう存在だったのかということも分からず、その行動にも納得がいかないだろう。大変もどかしい思いにさせられる。
 さて、原作マンガと映画とはストーリーも設定も色々な点で異なる。私が興味深く感じたのは、父的なものの存在の有無だ。原作ではライトにしろLにしろ、親の存在が非常に希薄(ライトには両親はいるがあくまで記号としての親であり父親としての昨日は持たない)だが、映画デスノートの方では父親が父親として関わってくるのだ。本作ではLが主人公なので、父親的なものはワタリになる。
 更に、原作マンガには、主人公(Lもライトも)が全く成長しない(最初から成長の余地ないくらい強い)という特徴があった。しかし本作では主人公=Lが成長する。彼は子供達を守ることで、父なき世界の中で自分が父的なものになることを引き受ける=彼にとっての世界を変える、となる。この点で映画版デスノート3作は、原作と大きくスタンスが異なると思う。要するにこの映画で最も重要なシークエンスは、擬似家族による屋上のピクニックなのではなかろうか。
 ・・・っていう予定だったんじゃないかなー当初は。如何せん脚本がそれを見せる粋に全く達していない。成功していたら結構な泣かせ映画になったんじゃないかと思うのに。

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