3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

2008年01月

『ジェシー・ジェームズの暗殺』

 アメリカに実在したアウトロー、ジェシー・ジェームズ(ブラッド・ピット)。南北戦争中に南軍のゲリラとして活躍し、戦後はギャングとして強盗や殺人でその名を轟かせていた。彼に心酔する青年ロバート(ケイシー・アフレック)は兄のつてを頼ってジェシー一味に加わり、ジェシーに近づいていく。
 予告編からは、ロバートがジェシーに成り代わろうとする話だという印象を受けたが、実際にはそうでもない。確かにロバートはジェシーに熱烈な憧れを抱いているのだが、彼になりかわりたいというより、彼のような有名人になりたいという気持ちの方が強かったように見えた。でなければ、ジェシーの死後に彼の最後を芝居にして上演したりはしないのではないか(ロバートは暗殺者である自分役、ロバートの兄がジェシー役だ。最初はジェシーに似ても似つかぬ兄が、だんだんジェシーに近づいていくというのは皮肉だ)。
 あこがれる対象がジェシーくらいしかいなかったと言ってもいいかもしれない。ジェシーは確かに「犯罪者には見えない顔」ではあるが、やっていることは殺しと強盗なわけで、褒められたものではない。しかもロバートが出会った頃のジェシーは仲間が裏切るのではないかという猜疑心に駆られ、神経質で激昂しやすく扱いにくいことこの上ない。なまじ鋭いからよけいに周囲がピリピリしているのだ。よりにもよって何故こんな男にあこがれるのか。下手したら自分の身が危ない。そういう危うさを帳消しにするようなカリスマ性があったということなのかもしれないが、ジェシーを演じるブラッド・ピットにはそれほどのものは感じられないので、疑問ばかりが膨らんだ。
 ところで、犯罪者であるジェシーがアイドル的な扱いをされ、彼を後ろから撃ったということでロバートが卑怯者扱いされて散々たたかれるというのも不思議ではあった。南部の人はよっぽど北部に対する鬱憤が溜まっていたのだろうか。
 映画の流れはいたってゆっくりなのだが、ジェシーとロバートの抜き差しならない関係は緊張感あふれまくりでスリリングだ。カナダでロケしたそうで、風景も美しい。半分は風景映画と言ってもいいかも。

『カフカ 田舎医者』

  カフカの同名小説を、「頭山」の山村浩二がアニメーション化。オタワアニメーション映画祭でグランプリを受賞した。雪の夜、急患の元へ呼び出された田舎医者。しかし患者を救う手立てはなく、己の無力さに途方にくれる。
 キャラクターのフォルムは自在に変化し、安定しない。夢の中で走ると足がもつれて前に進まずスローモーションに感じられることがあるが、その感じに似ている。主人公である医者の不安な心理がそのままフォルムに現れているの。手書きベースのアニメーションなので、輪郭線が均一ではなく常にゆらいでおり、妙に有機的でもある。人物も背景も生きている(しかし生き生きとではなく死にかけた感じで)感じがするのだ。そういえば背景には、顔のパーツが風景の中に点在していた。
 全体的に悪夢の中にいるような不穏さ、おちつかなさを感じる。村人とさっぱり話が通じなかったり、患者の少年が本当に死にかけているのか仮病なのかわからなかったり、いきなり裸にむかれて逃げ出したりとか、展開も悪夢っぽい。医者が自分が見ている悪夢から覚められずにいるようにも見えるのだ。
 さらに、狂言師・茂山千作一家による語りや不気味な合唱団によって、音の面からも不安感を掻き立てられた。ちなみに作家の金原ひとみが声優として参加しているが、意外とかわいい声なのね。

『迷子の警察音楽隊』

 エジプトのアレクサンドリア警察音楽隊の面々は、文化交流の式典のためにイスラエルにやってきた。しかし手違いで目的地と一字違いの辺鄙な町にたどりついてしまう。さほど流暢ではない英語でなんとかやりとりし、町の食堂の女主人に助けを求め、一夜の宿を提供してもらうが。
 エジプト人がイスラエルにやってくることの微妙さについては、知識として知ってはいてもあまり実感としては分からない。しかし、その辺の事情をよく知らなくても味わい深い作品だったと思う。見知らぬ土地で見知らぬ人と行きあい、わずかな交流が生まれるという、ロードムービーに近い雰囲気。ある限定された時間内のふれあいのやさしさと儚さがあるのだ。
 音楽隊の面々は、現地の人たちの厄介になるわけだが、積極的に関わろうとするわけではないし、お互い相手の文化に特に関心を示すわけでもない。「異文化を理解しよう」という意欲はあまり感じられないのだ。そもそもかろうじて共通語であるのは英語だが、さほど流暢なわけでもなく、当然会話は弾まない。初対面の一家とディナーに同席しなくてはならない気まずさたるや!こういった人間関係のぎこちなさの描き方がユーモラスで、彼らの居心地の悪そうな様子にニヤリとしてしまう。初対面の人と何か話さなくちゃならないのって、人によっては苦痛ですよね。
 しかし相手のことをよく知らなくても、何となく場を共有することはできるし、思いやりを示すことはできる。楽団最若手のイケメン青年が、見るからにDTなイスラエル人青年に女の子の口説き方をレクチャーするシーンはなんとも滑稽だが、微笑ましい。一方、楽隊長と女店主の関係も一見いい感じになるのだが、女主人は不倫相手への当てつけに隊長を利用する。しかし隊長は女主人の意を汲んで彼女に合わせる。ロマンスは生まれなくとも、2人の間に通じるものが何もなかったわけではない。むしろロマンスにしないところが大人。
 相互理解や異文化交流という方向へ持っていかず、ほのかな交流に留めたところに、監督の節度を感じた。人間はそんなにすぐに理解しあえるものではない、いやごく親しい人間であっても完全に理解することはできない(楽隊長とその妻子のように)。一晩一緒に過ごして絆が生まれるなんて虫のいい話だ。しかし空間を共有することで生まれてくる何かはある。その何かがこの作品を心地よいものにしているのだろう。

『ジプシー・キャラバン』

 スペイン、マケドニア、ルーマニア、インドから来た、タラフ・ドゥ・ハイドゥークス、エスマ、アントニオ・エル・ビバ・フラメンコ・アンサンブル、ファンファーラ・チョクルリーア、マハラジャという5つのロマのバンドが、一緒に6週間の北米ツアーを行った。その様子を追ったドキュメンタリー。監督はジャスミン・テラル。
 私は恥ずかしながら、ロマの発祥がインドにあることを本作を見て初めて知った。南欧や東欧諸国に多いというイメージがあったので。日本でもエミール・クストリッツァやトニー・ガトリフ監督の映画のイメージが強いのではないだろうか。ちなみに本作に出演しているタラフ・ドゥ・ハイドゥークスはサリー・ポッター監督『耳に残るは君の歌声』に出演している。その絡みで、『耳に~』で共演したジョニー・デップがインタビューに答えているのだが、タラフ絶賛気味だった。確かに、ロマのミュージシャンの間でも一目置かれる存在ではあるようで、他のバンドが「共演できて光栄」と言っていた。
 ツアーの最初の頃は、移動中にしろ練習風景にしろ、なんとなく不穏な空気が漂う。同じロマとは言っても地域が違えばスタイルは違う。インドのロマとスペインのロマでは音楽の種類が大分違う。しかも、ロマの皆さんは良く言えば誇り高く、悪く言えば自己主張激しく頑固。それぞれの見せ場を作る為にスタッフが苦労した様子がしのばれる。しかし面白いことに、2週間、3週間とツアーが進むにつれて、段々一体感が出てくる。他民族によるオーケストラ企画を追った『ヴィットリオ広場のオーケストラ』を見た時も思ったのだが、段々集団内での役割分担が出来てくるのが面白い。リーダーとしてぐいぐい引っ張る(時に引っ張りすぎ)人、クールな人、場をなごませるムードメーカーなど。集団で何かをやるというのは、当事者はどうあれ端から見ていると面白いなーと思う。
 あと、これも『ヴィットリオ~』と共通しているのだが、インドのミュージシャン(本作ではダンサーも)がえらく陽気でお茶目で、ぎすぎすした空気を和らげるムードメーカーになっている。特に本作に出演しているダンサーの青年(女装して踊る。伝統的にそうなのかしら)が、かなり意識して空気を和らげようとしていた。大御所女性歌手2人の間がなんとなくピリピリしているのを察しているのか、双方とそれとなくコミュニケーションを取ろうとする。うーん空気読むなぁ。ツアーメンバーの中でもこの青年が特にコミュニケーション能力に長けているというか、コミュニケートしようという意欲が見られたので、印象深かった。インド人の気質というより個人の性質なのだとは思うが(それにしてもインドのバンドの人たちは陽気でしたが。国民性というよりはカースト上の特質なのかもしれない)。
 どの国のロマであれ、喜びも悲しみも感情がすごく強いなという印象を受けた。テンションが高いので苦手とする人もいるかもしれないが、圧倒される。感情の発露の激しさは、どの国のロマも共通している。このツアーは、ロマの姿を一般に知ってもらおうという企画であると同時に、ロマ同士の連帯を深めようという意図もあったそうだ。連帯していくのはロマの本分にそぐわないような気もするが、現代のロマには必要なことなのだろう。ツアーは思わぬ事件を経てクライマックスへ。ドキュメンタリーは、ある程度は設計できるけど、こういう思わぬ大ごとが起きてしまうところに面白さ(といってしまうには悲しい出来事だけど)がある。最後に全員の名前がちゃんと分かるのがうれしい。いい音楽映画。

『鉛の兵隊』

 アンデルセンの童話をアニメーション化した、1970年のソ連の作品。20分とごく短い作品だが、美しい。『雪の女王』と同時上映だったのだが、デザインは本作の方が優れているのではないかと思う。鉛の兵隊がかわいいのよー。現代でも通用しそうなかわいさ。
 本作の上映によせて、爆笑問題の太田光&光代夫妻がコメントを寄せているのだが、若いころに何度も何度も見返したのだそうだ。その気持ちがなんとなくわかる。私は子供の頃、この物語を読んだのだが、当時は厭な話だと思って、好きではなかった。だって救いがないでしょー。持ちあげといて突き落とすなんてあんまりだ!しかし今回改めて本作を見たら、最後ちょっと泣いちゃいましたよ。うわ恥ずかしい!
 この物語は悲恋ものというよりも、本当に美しいもの、何かキラキラしたものを知ってしまった人の喜びと悲しみを描いたものだったのかもしれないと思う。知らなければ平穏に暮らしていけたのかもしれないが、知ってしまった以上前に進むしかないという。なんかもう、切ないですよ。
 

『雪の女王』

 1957年に作られたソ連の名作アニメーション。アンデルセンの童話「雪の女王」を映像化したものだ。若かりし頃の宮崎駿に多大な影響を与えたというが、確かにヒロインの性格的なキャラクターにもデザイン面にも(特に髪の毛の造形)にもそれらしいところが見受けられる。しかし宮崎駿は若いころから一途でひたむきなヒロインが好きだったんだなー(笑)。
 私、「雪の女王」というお話自体は好きなのだが、ゲルダというヒロインはあまり好きではないかもしれないということに、本作を見て気付きました。ひたむきな人が苦手なのだろうか・・・。加えて、気丈なヒロインというイメージはあったけれど、こんなに他人に助けてもらっているとは思わなかった。どんどん周囲を巻き込んでいくのね。彼女は頻繁に「ありがとう」と口にする。素直に人に頼る・お願いする心を持っていると自然と助けてもらえるのよという教育的配慮でしょうか。いやでもゲルダが美少女でなくブサイクだったら誰も助けてくれなかったかもしれん、健気な美少女って無敵だよな・・・と苦々しい思いもぬぐえないのだった(笑)。ゲルダよりは山賊の娘の方が断然かわいいと思う。乱暴なのにさびしがり屋で不器用。もう元祖ツンデレと言っても過言ではなかろう。「いってしまえ!」ってかわいすぎる。
 それはさておき、アニメーションとしては確かに面白い。よく知っているお話なのにもかかわらず、ぐいぐいひきこまれてしまう。動きにうねりがあるし、ストーリー展開も意外とスピーディー。うーん手堅い。バラの庭のあたりはもうちょっとじっくり見たかった気もする。そしてせっかく勢いにのってきたところで、語り手役の眠りの精がしゃしゃり出てきて流れをぶち切るのよ!何故!この妖精が物語に入っていく案内役のような役割なのだが、まだるっこしくて正直いらないと思った。

『グミ・チョコレート・パイン』

 大槻ケンヂの同名小説をケラリーノ・サンドロヴィッチが映画化。2007年、38歳の賢三(大森南朋)は転勤先でリストラされ、地方から故郷である東京郊外に戻ってきた。実家に溜まっていた郵便物の中から、高校時代に好きだった美甘子(黒川芽衣)からの「あなたのせいなのだから」と記された手紙を見つけ、賢三は高校時代を思い出す。1986年、高校生の賢三(石田卓也)はアンダーグラウンドなロックと映画を愛する冴えない少年だった。
 これといった特技もなく、クラスでも目立たず当然モテず、サブカルチャーを愛し、技能人やファッションの話題で盛り上がるクラスメイトを見下し、「オレはあいつらとは違う」と自意識を膨らませる。もー本当は羨ましいくせに!過去にも現在にも未来にも確実にいる(いた)であろう文系青少年。そのかっこ悪さを存分に描いているので、同じような10代を過ごした人(特に男性)はいたたまれなくなるかもしれない。男の子が好きな女の子を思って悶々とするあたりは笑えるんだけど妙にリアリティがある。オナニーに妙な俺ルールがあるところとかね(笑)。趣味の話で盛り上がっているだけなのに「この子俺に気があるのでは?!」と錯覚してしまう(というかあえてそう思い込む)エピソードには、あーあるある!と頷いてしまった。
 そしてさらに意地が悪いことに、現在38歳の賢三はリストラされたサラリーマンで、かつての親友たちとは大きく水を開けられている過去を顧みても恥ずかしく、現在を見ても情けない。いたたまれなさの包囲網ばっちりである。見る人によっては心がぽっきり折れるのではなかろうか。逆に言うと、その他の人にとってはあまり感じるところのない作品かもしれない。というのは、映画としては少々拙い感じがするから。尺が長いように感じたし、主人公がスクリーンのこちら側(観客)に語りかけるという構図にも、いやそれはちょっと恥ずかしいんじゃ・・・と思ってしまった。見る側の資質(80年代に青春を送ったか、鬱屈した青少年だったか)にかなり頼った所のある作品だと思う。
 現代の賢三のエピソードを交互に挟むことで、ノスタルジー映画にしなかったところはよかった。これがなかったら本当に80年代回顧映画みたいになっちゃう。そして、現在の賢三は冴えないが、それを決して否定してはいないところもいい。青春は終わりかつての親友とは疎遠になり、当時の夢は何一つ叶わなくても、それが不幸というわけではない。実家に帰って間もない時の賢三は、何となくとってつけたようなおっさんぽい服装なのだが、最後、思い出のライブハウスを訪れる時は、素が出てきたというか、前よりしっくりと馴染んだ服装をしている。若返ってるし。あ、楽になったんだなという感じがするのだ。過去が確実に現在に続いていると明示するラストシーンは鮮やか。・・・しかしこれを予告編で使っちゃうかー!?

『ペルセポリス』

 1978年、イラン・イスラーム革命直前のイラン。9歳の少女マルジは両親と祖母にかわいがられ、何不自由なく暮らしていた。しかし、反政府主義者だった伯父は再び投獄され、自由な発言も出来なくなっていく。マルジの将来を案じた両親は、彼女をウィーンに留学させる。マルジはウィーンで大人の女性になっていくが、故国は戦争に突入していった。
 イラン現代史という背景とは切り離せない作品ではあるが、どちらかというとマルジという1人の女性の、パーソナルな物語としての側面が強いと思う。彼女が経済的に恵まれ、思想的にもオープンな環境で育っており、一般的なイラク市民の範疇に入るのかどうかよくわからないということもあるが、それ以上に、彼女が筋を通そうとすることが「マイケル・ジャクソンは悪魔の手先ではない」(革命後の社会は極端に伝統的イスラームに基づいているので、ロックはご法度なのです)(マルジは少女時代にもこっそり闇市で(よりにもよって)アイアン・メイデンのアルバムを購入していたりする)といった、あくまで個人の欲求から来ているもの、大義名分を背負ったものではないからじゃないかと思う。大学の授業で先生をやりこめたりするのも、私にとってそれはおかしい、という立場からきているので、気合は入っていても気張った感じはしないのだ。留学中のマルジの恋の顛末と失恋後の変貌っぷりや、帰国後の結婚の顛末も、万国共通でありそうな話で笑ってしまう。このあたりは、普遍的な青春映画ぽいのだ。
 興味深かったのは、マルジが感じる居場所のなさだ。ウィーンに留学している間に疎外感に苦しむのは、イスラーム文化圏からヨーロッパ文化の中に放り出されたらごく自然なことだと思うのだが、帰国後も疎外感に苦しむという点だ。彼女は海外にいたことで、イラン・イラク戦争の一番厳しい時期を体験せずにすんだ。しかし帰国した時、戦争体験を回避したことに罪悪感を持つ。加えてヨーロッパ文化に触れてしまった彼女は、最早イスラーム文化に馴染みきることは出来ない。ヨーロッパにいても部外者であるしイランにいても部外者。ラストは不安さと寂しさを漂わせる。彼女はおそらくこの先も、どこへ行っても疎外感を感じるだろう、彼女が自分の居場所を見つけるのはまだ先のことだろうと旅の長さを感じさせるのだ。
 所で、革命後や戦後のイランの状況は、一歩間違えたらコメディになりそうな極端なものだ。しかし国民が結構しぶとく酒やロックを捨てずにいるのがユカイ。いや実際は深刻な状況なのだが、全般的にユーモアがあるので救われている。ちなみにイラン・イラク戦争にフランスも絡んでいたことに言及されないのは、フランス映画だからなのかしらやっぱり。

『カンナさん大成功です!』

 身長169㎝体重95㎏というビッグサイズのカンナ(キム・アジュン)は、人気「歌手」アミのゴーストボーカル。音楽プロデューサーのサンジュン(チュ・ジンモ)に片思いしているが、彼が「カンナは才能はあるけどブスでデブ。利用してやればいい」と話しているのを聞いてしまう。ショックを受けたカンナは決死の覚悟で全身整形を受け、美女に生まれ変わってサンジュンに近づくが。
 テンポがよくて楽しいラブコメ。韓国映画の強みはメロドラマだけでなくこういうところにあるんじゃないかしら。直球の笑いを恐れていないもんなー。美人になったカンナに男たちが見とれてえらいことになるってのはやりすぎかと思うんだけど、ギャグとしてはこれでいいのか。また、カンナが整形後もデブだった頃の動きのクセが抜けずに、なんか妙な動きになっているのはおかしかった。美人の振舞って、美人だと言う自覚があってこそなのねと再認識しました。今まで男性を誘惑したことなんてないので、サンジュンへのアプローチもやりすぎかやらなさすぎでとんちんかん。美人は1日にしてならずか。
 ただ、どんなに動きが妙でも美人は美人なので、何をやってもキュート。あーあ美人は得だなぁ。楽しいコメディなのにいまひとつ後味がすっきりしないのは、紆余曲折あっても結局人間見た目よと言いきっちゃっているからかもしれない。人間中身が大事というのは建前だとわかってはいても、あからさまに言われると「返品」としてはやっぱりつらいのよ。映画内で整形の是非はぼかしているが、どう見ても整形肯定だよなこれ・・・。
 ただ、見た目がよければ全て勝ち組というわけでもない。少なくともカンナが飛び込んだ芸能界では見た目だけでは苦しかった、というのを実証しているのがアミ。彼女はルックスはいいが歌は下手。でも歌手でいたくてゴーストボーカルを使っている。カンナがいなくなると同時に落ち目になっていく彼女はなんだかかわいそう。見た目は整形でなんとかなるけど、才能ないと使い道ないってことね。それはそれでシビアだ。
 

『ダーウィン・アワード』

 「ダーウィン賞」とは、その年の最もバカな行動で死亡し、自らの劣悪な遺伝子を断つことによって人類の遺伝子プール改善に寄与したじんぶつに与えられる賞。この賞のチェックを趣味にしていた警官マイケル(ジョセフ・ファインズ)は、優秀なプロファイラーでありながら血を見ると失神してしまう体質が仇となり、殺人犯を取り逃がしてしまう。辞職に追い込まれたマイケルは、ダーウィン賞受賞者が保険会社に多大な損失を与えていることに目をつけ、自らを保険会社に売り込む。保険調査員シリ(ウィノナ・ライダー)とコンビを組んだ彼は、ダーウィン賞的なケースの調査を開始する。
 シリは「ダーウィン賞受賞者って早死にするけど人生楽しそう」と言うが、確かに悲惨と言えば悲惨な死に方なのに、妙に幸せっぽい。特に好きが高じて悲劇(いや喜劇か)となったメガデスファンなどある意味あっぱれ。マイケルが彼らを英雄視するようになっちゃうの無理ないか。しかし、マイケル自身ダーウィン賞受賞できそうな、ちょっといきすぎた用心深さ(しかしほどんど役に立たない)を持つ。同じ穴のムジナだからシンパシー湧いちゃううのね・・・。興味のあることに没頭しすぎると人生失敗しちゃうかも、でもその失敗って本当に失敗なのか?それはそれで筋の通った人生なんじゃないの?という能天気さが心地よい。
 映画としてちょっと残念なのは、終盤になってダーウィン賞があまり関係なくなってしまうところ。このオチだったらダーウィン賞的事件を追っていく必要ってあまりないのでは。普通に犯罪捜査コメディでよかったんじゃないかしら。ともあれ、ダラダラしたところも含め結構楽しかった。
 あと、同じく映画としてちょっとな、という点は、マイケルを題材にドキュメンタリー映画を撮っている学生がずっとはりついている所。学生のカメラからの視点になったりもするのだが、それが映画の文脈上あまり必要がない。もっとギャグにからんでくるのかと思ったらそうでもないし、伏線にもあんまりなってない。面白そうだから投入したけど活かせませんでした、みたいな中途半端なことになっている。ただ、普段は何を言ってもカメラを外さないしマイケルに協力もしない学生が、もっさり系なマイケルが意を決して女の子をナンパしようとすると、いきなり協力的になるあたりは笑った。何か感じるところがあったのでしょうか(笑)。
 ついでに、メタリカが意外にちゃんと出演しているのには驚いた。セリフあるんだ!あと、ビリー・ジョエルってやっぱりダサいってことになってるんですね。でも女の子口説くのにウィルコが最適かどうかは微妙だな・・・。

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