3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

2007年12月

2007年ベスト本

今年はあんまり読書に積極的ではありませんでした。もう読書と映画のブログじゃなくて映画ブログでいいんじゃないか。そんな中から一般書5冊、ミステリ系5冊チョイス。しかし今年はほんっとにミステリ読まなかったなー。

《一般》
1.『囚人のジレンマ』リチャード・パワーズ
 家族史であり疑似現代アメリカ史である。スケールがぶわっと広がる終盤にぐっときた。

2.『ハイスクールU.S.A アメリカ学園映画のすべて』長谷川町蔵、山崎まどか
 大変な労作です!映画好きは必読。学園映画にそれほど詳しくない私でもものすごく面白かった。そこからアメリカ社会の変遷が垣間見られるからか。

3.『ぼくの美術貼』原田治
 美に対する確固とした志向による美術エッセイ。著者のポップなイラストのイメージからは意外な題材が多かった。

4.『それはまた別の話』和田誠、三谷幸喜
 映画好き2人による、名画に関する対談。監督・演出を本業(和田誠の本業はイラストレーターですが)にする人たちが見るとこう見えるのか!と目から鱗落ちまくり。映画をもっと好きになる。

5.『獣の奏者』上橋菜穂子
 読み始めたらやめられない面白さ。しかし主人公の業の深いことよ・・・。そして著者の業も深いんじゃないかと。


《ミステリ系》
1.『長いお別れ』レイモンド・チャンドラー
 再読したらやっぱりよかったー。私は清水訳派。

2.『ロング・グッドバイ』レイモンド・チャンドラー
 でも村上春樹訳も情感があって捨てがたいのだった。

3.『女王国の城』有栖川有栖
 本格ミステリにケレンはいらねーんですよ!チャンドラー新訳がなかったら今年ベスト1だったのに。有栖川先生ごめんなさい・・・

4.『血と暴力の国』コーマック・マッカーシー
 一般書でもよかったんだがミステリ部門がさびしいので入れさせてもらった。神話のような恐ろしさが。

5.『ボストン・シャドウ』ウィリアム・ランディ
 (邦訳)2作目で既にベテランの風格。血のしがらみを書くと上手い。重いけど。

2007年ベスト映画

2007年に見た映画から、洋画5本、邦画5本をベストとして選びました。あくまで私個人のベストなので、他の人にとってどうなのかは微妙。

《洋画》
1.『リトル・ミス・サンシャイン』
 家族みんなでワゴンを押すシーンがたびたび出てくるのだが、出てくるごとに押すタイミングが上手くなっているのがすごくいい。期せずして家族のペースが揃っていってしまうのだ。

2.『グッド・シェパード』
 マット・ディモンはいい役者ですね。本来の自分とは違う自分を生きることになってしまった悲しさが漂う、がっしりと手応えのある良作。

3.『デス・プルーフ・イン・グラインドハウス』
 もう各所で言い尽くされているかと思うが、映画の神様が降りてくる瞬間を見てしまった。終わり方最高です。

4.『エレクション』
 暴力に満ちたシリアスな作品なんだけど行き過ぎてすごい変なことに。続編早く公開してください。頼みますほんと。

5.『4分間のピアニスト』
 譲歩しない天才同士のぶつかり合い。とても映画らしい映画だったと思う。音楽が素晴らしかった。


《邦画》
1.『東京タワー』
 予想外の良作。陳腐さをすれすれで回避していた。まさかこれに泣かされるとは思わんかった。

2.『河童のクゥと夏休み』
 見た目は地味だが中身はすごい。原監督には、子供にばんばんトラウマを与えていっていただきたい。

3.『不完全な2人』
 人間観察が細かすぎて怖い。役者の力を信じてないとこういう作品は撮れないんでしょうね。

4.『叫』
 いやー相変わらず黒沢清は変だなぁ!見ている間はそれほど面白いと思っていなかった気がするのだが、忘れられない。

5.『キサラギ』
 脚本の妙に加えて、役者同士の歯車が奇跡的にびしっとかみ合っていたように思う。あと香川照之は相変わらず己のパブリックイメージを投げ打っていて最高だと思った。

『ゴールデンスランバー』

伊坂幸太郎著
 面白いことは面白いけど、いや伊坂ならもっとなんとかなるはず、と思ってしまうのはファン(一応ね)の欲目でしょうか。伊坂の小説は、いわゆる悪役が本当に悪人なのが物足りない。悪の存在が絶対的すぎて、隣人のちょっとした悪意で大変なことに、というような展開はまずない。しかし悪はそんなに確固とした存在ではなく、ごくごく善良だと思っていた人がふっと悪意を見せる、というようなところに存在することが往々にある。また、主人公が自分が悪意をもつことからは守られている。常に安全圏にいるのだ。「チルドレン」のような作品だったらそれでいい(というかその方がいい)のだが、本作のような作品ではどうか。加えて、「魔王」に引き続き、大きい力、「空気」に対抗するという図式なのだが、そういった力・空気は自分のはるか上の方に存在するものではなく、自分自身がそれを形成するのに無意識に加担ているという意識がほとんど感じられない。やっぱり主人公は安全圏なのか。もちろん伊坂はそんなこと承知の上で作風を固めているのだろうが、このままでいいのかなという感じはする。何より、大学時代の思い出が、人をある地点に引き留めうるほどに輝かしいというところに全く共感できませんでした(笑)。

『AVP2 エイリアンズV.Sプレデター』

 エイリアンさんたちとプレデターさんが地球にやってきて、アメリカの田舎町でガチンコ勝負するので、地元民がばんばん巻き添えになるお話。ジェノサイドに次ぐジェノサイドです!年の瀬にふさわしく景気良く血の雨が降るゼ!
 普通、この手の登場人物が順番に死んでいく話は、アーこの人そろそろいっちゃうなという死亡フラグが順次立つものだが、本作ではフラグを確認する間もなくどんどん死んでいく。超スピーディー。加えて老若男女分け隔てなくどんどん死にます。えっこんないたいけなお子さんが!とびっくりするくらい。しかも死に方がすべてエグい。ああ死は誰にでも平等に訪れるって本当なのねと思わず納得しそうになります。
 そもそもフラグ確認できるような親切な演出をする意欲が毛頭感じられない。これは伏線になるんだろうなという小道具(暗視双眼鏡とか下水に落とした車のキーとか)が出てくるものの、しばらく経つとあっさりフェイドアウト。伏線らしい複線がほとんど見られない。エイリアンたちとプレデター(今回1体のみ。すごく大変そうです。プレデター界にどんな異変があったのでしょうか)がひたすら戦い、人間がとばっちりくってどんどん死ぬ様が撮りたいというまっすぐな情熱により作られた映画なので、その他の要素はない。やりたいことが非常にはっきりとしている、ある意味潔い映画。脚本があってなきようなものなので、映画としては決してほめられたものではないのだが、妙に憎めないというか、妙な爽快感はある。3作目作る気満々なのがうっすら見えるのも憎めない。
 ちなみに、一般的なアメリカ人てやはり核爆弾の威力をよくわかってないんだろうなーということがなんとなくわかる作品でもある。作品の趣旨と全く関係ないですが。

『再会の街で』

 歯科医のアラン(ドン・チードル)は、20年ぶりに大学のルームメイトだったチャーリー(アダム・サンドラー)を見かける。声を掛けてもチャーリーの反応は要領を得ない。彼は9.11で家族全員を亡くし、家族の記憶を封印し世捨て人のような生活をしていた。
 大切な人を亡くした悲しみをかみ砕いていく過程を描きたかったのだろうが、観客の共感を呼ぶのはチャーリーの辛さではなかったのではないだろうか。同じ現実逃避であっても、アランが抱える、家族を愛していないわけではないが平凡な日常が物足りない(女ばかりの家庭の中のお父さんてちょっと辛いですよね)、自分だけの時間を持ちたい、もう一度青春時代のように遊びまわりたいという欲求の方がずっと実感こもっているのだ。多分映画を作っている側が、アランの境遇にたいして「わかる、わかるよ~。オレも実生活から逃げたいんだよ~」と思い入れが強くなってしまったのではないだろうか。だからついつい、チャーリーの一人暮らしの描写が妙に楽しそう(徹夜でTVゲームやったり、スクーターで夜のNYを走り回ったり、テイクアウトの中華をむさぼったり)になってしまったのかも。これじゃあ辛いんですよと言われても説得力が・・・。
 また、チャーリーの家族を奪った悲劇が9.11にしてしまったのは失敗だったと思う。9.11だと、事件がはらむ意味が多岐にわたりすぎるのだ。その事件の背後にあるあれこれをいろいろ考えてしまうのだ。チャーリーの妻の母親は「悪魔が娘を殺した」と言うが、実際には悪魔がやったわけではない。単純に悪と割り切ると事件の本質から離れていってしまうだろう。下手に実際の事件を使うより、交通事故とか天災とか、不慮の事故的なものにした方が普遍的でよかったんじゃないかと思う。
 家族への愛ゆえに苦しむチャーリーと、家族への愛はあるがそれが生むしがらみを疎ましく思うアラン。2つのストーリーの軸のバランスがいまひとつ取れていなかった。非常に魅力的なシークエンス(スクーターに乗っているところとか、チャーリーの「町中の女の子が娘に見えてしまう」というセリフとか)が多々あるので残念でならない。もうちょっとで名作だったと思うんだけどなー。70年代~80年代のロックを中心とした挿入歌のチョイスもいい。この時代に青春を送った人にはたまらないものがあるのでは。映画原題は「REIGN OVER ME」。The Whoの名曲だが、映画のテーマを如実に表しているので下手に邦題付けない方がよかったんじゃないか。

『スマイル 聖夜の奇跡』

 ダンサーを目指していたものの膝を痛めて夢破れた修平(森山未来)は、故郷の北海道に帰り小学校教師として就職。恋人・静華(加藤ローサ)にもプロポーズする。しかし静華の父親(モロ師岡)は結婚に大反対。自分がオーナーを勤める弱小ジュニアアイスホッケーチームを優勝させれば考えてやってもいいと言う。アイスホッケーはずぶの素人な修平だが、勢いで承諾してしまう。
 監督は俳優の陣内孝則。長編映画としては2作目となる。正直全く期待しておらず見る気も全然なかったのだが、実は傑作ではという噂を耳にして急遽見てきました。結論から言うと確かにいいですこれ!傑作まであともう一歩。私、陣内を完全に舐めていました。申し訳ない。
 弱小チームがアイディアと努力でのし上がっていくという、ベタと言えばベタなストーリーだ。実際、映画としての新しさはさほどない。しかし、映画はどういう所で盛り上がるか、映画の何が楽しいのか、映画のケレンを熟知した人が作っているということがわかる。陣内孝則がこんなに映画リテラシーの高い人だったとは・・・。冒頭、映画の看板を手描きしているシークエンスにも映画に対する愛情が窺える。クサかろうが出来すぎだろうが、そう来たら盛り上がるしかねーだろ!的展開にはやはり燃えます。笑いのセンスがちょっと昔のコメディ映画みたいでクドいので(ちょっとやりすぎな所もあるし)それが苦手という人もいるかもしれないが。
 最大の勝因は、ポイントであろうアイスホッケーのシーンにちゃんと迫力があること。子役にホッケーを教えるのではなく、ホッケー経験のある素人の子供に演技をつけたそうだが、それが正解だった。撮影や編集にも助けられているのだろうが、元々体が動く人がやると勢いが違うのね。子供は皆いい顔をしていた。主役格の男の子はこれはモテるだろうなぁという雰囲気だし、彼に片思いをしているヒロインじゃない方の(笑)女の子も、美人じゃないけど妙な迫力があっていい。
 主演の森山未来は、ヘラっとした部分と一生懸命な部分のバランスがとれていて好演だったと思う。修平がタップダンサーである必要は全く無いし、ホッケーの指導にタップダンスが出てくる必要も全く無いのだが(笑)、これは森山にあてがきしたのだろうか(森山はダンス経験者)。ホッケーにタップダンスってどんな無茶な組み合わせだよと最初は思ったのだが(だって試合見ながら踊りだすんですよ)、怖ろしいことに段々引き込まれて違和感感じなくなってしまった。映画自体のノリが良いというのもあるのだが、タップダンスのリズムある動きは映画と相性が良いのかもしれない。
 ただ、最近流行りの難病設定を出してしまったのは本当に残念だ。難病の美少女に関するエピソードは全くいりませんよ!これがなければ傑作レベルだったかもしれないのにー。子供達一人ひとりの家庭にまつわるエピソードだけで十分だった。大きい不幸を持ち出さなくても、既にホッケーで優勝を目指すという大きなミッションが設定されているのだから、映画としては十分盛り上がるはず。

『エンジェル』

 1900年代初頭のイギリス。食料品店を営む母と2人暮らしの少女エンジェル(ロモーラ・ガライ)は自分が生まれた環境を嫌い、自分は貴族の娘だと夢想しロマンス小説執筆に明け暮れていた。ある日彼女の原稿が出版社の目に留まり、彼女は一躍ベストセラー作家に。富も名声も手に入れ夢に見たような暮らしを始めるエンジェルだったが。
 監督は女よりも女のことがよくわかるフランソワ・オゾン。本作は初の時代物、コスチュームプレイものになるが、華やかで見た目も楽しい。エンジェルが選ぶドレスやインテリアは彼女が想像するところのゴージャスなものなので、実際には少々下品でとんちんかんなものなのだが、そこをぎりぎり下品に見せない美術の手腕も見所だ。ヒロインが傍若無人で結構嫌な女なので、撮りようによってはもっと意地の悪い作品になりそうなものだが、今回はオゾン特有の意地の悪さはなりを潜めている。オゾン作品初心者にもお勧めかもしれない。
 さて、ロマンス小説により金持ちになったエンジェルだが、自分以外のこと、時代の流れには無頓着だ。なので、一度流れを掴み損ねるとあとは転落するばかり。彼女の小説が売れたのは、彼女の妄想と世間のニーズとがっちりマッチしていたからで、それがずれたら、他人の妄想なんて見苦しいだけだから見向きもされない。作家にとってイマジネーションは重要だろうがそれだけでは生き残れない。衰えるイマジネーションを支える文章力と取材力とプロデュース能力が必要、要するに大人としてダメな人は生き残れないのです!というかなり夢のない結論に辿りついてしまいました。多分フランソワ・オゾンは、妄想で飯が食えるとは思っていないのでしょう。大人の計算て大事だよ!
 エンジェルの徹底してオレ目線でしか物事を見ない姿勢はいっそ清々しい。彼女は第一次大戦に強い拒否感を示し、それは利己主義に基づいた平和主義にも見える(実際、戦意高揚ムードの中で自宅を負傷者収容に提供することを拒むのは勇気がいると思う)のだが、別に平和主義思想を掲げていたわけではないだろう。彼女が戦争に反対したのは、夫が戦地へ赴いてしまったからで、もし戦争によって自分にメリットが生じれば、あっさり戦意高揚に励んだはず。世界の中心はいつも自分なのだ。
 所で、オゾンの意地の悪さがなりを潜めていたと前述したが、終盤一箇所、これは意地が悪いなと思った所がある。ネタバレになる為詳細は伏せるが、どんなに優雅な暮らしをしても生まれ持ったものは変えようが無い、育った環境は買えないということか。

『ジャーマン+雨』

 天涯孤独でブサイクな女の子・よし子(野嵜好美)。町を離れていた彼女が急に戻ってきた。「かっこいいドイツ人がいるっていうから」というのがその理由。そのドイツ人に近づくために植木屋に弟子入りしたり、歌手デビューを目指してオーディションを受けたり、小学生にリコーダーを教えたりと、とんちんかんではあるがパワフルなよし子の日々。
 監督はこれが長編2作目となる横浜聡子。日本映画界に将来が楽しみな才能がまた一つ出てきたのは喜ばしい限りだ。なにしろ生き生きとした、躍動感に溢れた作品だった。よし子は考えるより先に動いてしまうような女の子だし、彼女の周りの小学生たちがこれまたよく動く。子供を撮るのが上手い。どの程度演技指導しているのかわからないが、ごく自然に遊んでいるように見えるのね。ドッジボールにしろマンガ読むにしろ、遊びの本気度が高いように見える。多分、実際に遊ばせてドキュメントを撮るように撮ったのだろうが、自然に遊ばせること事態が難しいはずだから、子供とのコミュニケーションに長けた人なのではと思う。
 よし子は人のトラウマ話を聞いて、それを歌にする。同級生も小学生もドイツ人もそれなりにトラウマとか悩みとかを持っているが、皆あっけらかんとしている。よし子自身も実は家族にまつわる蟠りを持っているが、多分それをトラウマとは考えていないし、それをものともしない。現実と上手く折り合いが付けられない、社会に溶け込めない人ではある(子供であるとも言う)のだが、それで内向きになるのではなく、見当外れではあってもばんばん外へ向かっていくのが、ちょっと最近の日本映画にはいなかったヒロインだなぁと思った。それがなんぼのもんじゃい!と吹っ切っていく力強さが頼もしい。
 各所での監督へのインタビューを読むと、内省的なだけの作品は作りたくなかったとのことだが、そのやり方でOKですよ!ばっちりだと思います。深刻なことを深刻な顔をして語ったりしない姿勢には好感を持てる。深刻な悩みがあっても、お腹は空くしお金はほしいしモテたい、お前トラウマ云々より先にやることあるだろ!という実も蓋もないところが実に清々しかったです。
 よし子と、彼女の友人である女子高生・まきとの関係もなんとなく良い。特に仲がいいというわけではなく、よし子がルックスの良いまきを自分の代わりにオーディションに行かせたり、まきはまきでドイツ人とあっさりできちゃってたりと、色々火種はあるのだ。しかしそれを双方あっさりスルーし、なんだかんだ言ってもつるんでいる。よし子はまきにおそらくコンプレックスを感じているが、そのことでまきに嫌がらせをすることはない(扱いはかなりぞんざいだが)し、まきはまきで、最終的にはよし子を心配している。このうっすらとややこしい関係が実に女子っぽくて、いい味出していた。

『眠れる美女』

 深く眠りについた裸体の娘が老年の男たちを待つ館。一緒に眠るだけ、決して娘に悪さをしないことがルールだ。川端康成の小説「眠れる美女」を、ドイツのヴァディム・グロウナ監督が映画化した。まさかドイツ映画になるとはねー。
 原作にはかなり忠実である。特に前半、主人公(映画ではエドモンド(ヴァディム・グロウナ))が一夜を共に過ごす娘たちのルックス描写や出てくる順番も原作通り。違和感がない。国が違っても共通する女性の美しさが原作で描写されていたということだろう。また、部屋の内装(日本家屋か洋館かの違いはあるが)や、主人公と女主人とのやりとりもほぼ原作通りだと思う。主人公がやたらグタグタ言うのはドイツ映画だからか(すいません変な偏見があって)と思っていたら、原作でもグタグタ言っているんですねこの人。そういう所も原作どおりなのだ。これにはちょっと驚いた。
 ただ、本作が映画として面白いかと言うと、残念ながらそうでもない。うっすら退屈になってきた。映像はベルリンの町並みの重っ苦しい雰囲気が活かされいて悪くはないのだが、流れがかったるい。原作の文章を活かそうとしたのだろうが、言葉数が多すぎる、で、言葉を載せる為のシークエンスも多すぎるのだ。もっと短くできる作品だと思うのだが。映画なんだから映像でわかるように作ればいいのに、説明しなくていいところまで説明していたように思う。また、原作のエロティシズムはあくまで活字媒体だったからこそのエロティシズムだったんだなぁとしみじみ思った。あのー、残酷な物言いだとは思うのですが、実写でヨボヨボしたおっさんと美少女がヌードで寄り添っていても、なんかグロテスクに見えちゃうんですよ。老年の体をエロティックに撮る事は可能だと思うのだが、この監督にはそういう手腕はなかったように思う。むしろ主人公と館の女主人との、じりじり様子見ながらみたいなやりとりの方にエロティシズムが匂った。
 原作との最大の違いは主人公の処遇なのだが、これは失敗だったと思う。明確なオチをつけてはこの作品の魅力は半減してしまうのでは。妙に理屈っぽく、クライムムービーみたいになってしまったのが残念。

『世界ぐるっと朝食紀行』

西川治著
私は1日の食事の中で朝食が一番好きなので、もうにっこにこしながら読みました。おいしそう!写真家であり文筆家である著者が1960年代から2000年代に渡って、世界中の朝食を食べ歩いた記録。著者は実によく食べる人だが、いわゆるグルメではなく、なんでも美味しくいただける様子なのが気持ちよかった(もちろん、あまり美味しくないものもあるのだが)。食材や調理法に対する偏見もあまりないらしい。また、調理場につきもののハエなどに対しても「昆虫として完成された形」とあまり嫌悪感を示さない。平然と食べる。食に対する姿勢がフラットだ。このフラットさというのは、おそらく食だけでなく異文化全体に対して著者が持っている姿勢なのではないかと思う。こういうタイプの人だから世界各国を飛びまわれたのでしょうが。ちなみに、最後の方になぜかSMAPのくさなぎ君が登場してびっくりしました。
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