3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

2007年11月

『木曜の男』

G.K.チェスタトン著、吉田健一訳
 無政府主義者の秘密結社に潜入した主人公だが、幹部たちの意外な正体が次々と明らかに。へ、へんな小説だなこれ・・・。ミイラとりがミイラに、いや同じ穴のムジナ?冒険小説かと思ったら、思想小説みたいになってくるし、だんだん悪夢のような展開に。チェスタトンてこんなのも書いてたのか。ロジカルな短編の印象が強かったから意外だった。飲食店のテーブルがぐるぐる回転しながら秘密のアジトへ下降していくという設定は素敵だと思いました。わーアニメみたい!

『アフター・ウェディング』

  インドで孤児院を経営するヤコブ(マッツ・ミケルセン)は母国デンマークの実業家ヨルゲン(ロルフ・ラッセゴード)から巨額の寄付金の申し出を受ける。ただし、直接ヨルゲンに会いに行くことが条件。久々に帰国したヤコブはヨルゲンの娘の結婚式に招かれる。断りきれずしぶしぶ出席したヤコブだったが、ヨルゲンの妻は彼のかつての恋人だった。
 登場人物達は、皆大分身勝手に見えるが、それぞれその人なりの家族愛により行動している。家族への思いに最も強く(ある事情により)動かされているのはヨルゲンなのだが、この人お馬鹿さんなんじゃないかしらという思いがずっと拭えなかった。彼は家族によかれと思い、ある計画を立て着実に手はずを整える。しかし、「そんなことより先にやっとくことあるだろ!」と突っ込みたくてしょうがなかった。そういうのは、妻や娘が自分で解決することで彼が手を回しておくべきことではないし、回しておいてもしょうがないという側面もある。そんなふうに気を回されても、妻子は後で辛いだけだろう。彼のやっていることは妻子に辛い思いをさせたくないからではなく、自分が辛い思いをしたくないからだ(妻子はどっちにしろ辛い思いをすることになるのだから)。また、そこまで準備万端にしておくというのは、妻や娘を随分と見くびったことのように思える。彼女らは彼が思うよりも多分タフだ。何より、人間は思いも寄らないことをしばしばやる。準備万端にお膳立てしても、相手がそのお膳立て通りに動いてくれるとは限らないのだ。もっと事務的なところから順次片付けていくべきでしょ!というかそれをやっておいてくれないと一番困る!
 対して、ヤコブの選択はどうか。彼の選択には賛否あるだろうが、少なくとも、相手にとって何が必要かは的確に見極めていたのではないか。子供は案外タフなのだから。

『4分間のピアニスト』

  囚人にピアノを教えるクリューガー(ハンナー・ヘルツシュプルング)は、かつては天才児と評判だったが暴力的で、刑務所内でトラブルばかり起こすジェニー(モニカ・ブライブトロイ)を知る。クリューガーはジェニーとのレッスンに臨むが。監督はクリス・クラウス。
 いわゆる師弟愛や音楽の素晴らしさを詠った作品ではない。予告編を鵜呑みにしたら期待はずれになってしまうかも。本作の音楽は確かに素晴らしいのだが、それが映画の主題ではないと思う。また、クリューガーには戦時中に辛い過去があり自分を責め続けているが、そういった問題が中心にあるわけでもないだろう。この映画は強烈なインパクトがあるが、その強烈は2つの才能が持つエゴのぶつかり合いによるものだと思う。
 クリューガーとジェニーにはそれぞれ才能があり、お互いにその才能を理解している。が、その才能は交わらない。音楽を媒介に2つのラインが一瞬触れ合うことはあるし、特にクリューガー側はもう一歩踏み込みたいという思いもある。しかし彼女(ら)の中の何かが、もう一歩、に抗うのだ。その抗う部分が彼女(ら)の人格、そして音楽の根幹にあるものなのかもしれない。「私の美しい音楽」と「あなたの美しい音楽」は違うのだ。
 クリューガーは他人の過去には興味がなく、ピアノの運送人が元受刑者でも構わないと言う。他人に興味が無いというよりも、自らの過去の経験から、ある種の諦観を持っているように見える。一方、彼女の重い過去に対して、ジェニーは「どうでもいい」と切って捨てる。こういう世代がドイツに出てきたのかという思いもあるが、それ以上に、この人たちは音楽以外に興味がないのだろう。看守がクリューガーに対し、「なんで私には冷たいんです」となじるが、一重に彼には才能がないからだ。突出した才能とは残酷なものなのかもしれない。
 ジェニーのピアノの吹替えをしているのは日本人ピアニストだそうだが、これが素晴らしかった。最後の4分間も素晴らしいのだが、私がより撃たれたのは、看守に重傷を負わせたジェニーが手錠をかけられたままで演奏する音だ。ジェニーの姿は後姿がちらりと写るだけで、騒然とした刑務所内に音楽が響く。音の荒々しい存在感が圧倒的だった。

『ボビーZ』

  元海兵隊員のティム(ポール・ウォーカー)は喧嘩っ早さとマヌケさが災いして刑務所暮らし。そんな彼に、伝説的麻薬王「ボビーZ」の替え玉となって囮捜査に協力しろという話が持ちかけられた。失敗すれば命はないが、成功すれば自由の身だと言う。一か八かで話に乗ったティムだが、コトの裏には彼のあずかり知らぬ謀略があり、ギャングや捜査官に命を狙われる羽目に。
 原作はドン・ウィンズロウ著『ボビーZの気だるく優雅な人生』だが、それなりのボリュームのある原作小説に比べて、映画は大変コンパクトだ。予告編含めて2時間足らずという、今時珍しい短さ。この点は大いに評価したい。娯楽映画は短くあるべきだと個人的には思う。
 そして映画としてどうかというと、かなりユルい(笑)。主人公が叙勲されたこともある元海兵隊員ということで、それなりに(というかかなり)強く、アクションもそこそこ派手(爆破シーンとかは微妙にショボいですが)。しかし、アクションとアクションの間のエピソードの繋ぎ方がとりとめなく、盛り上がりに欠ける。ダラダラしているのだ。また、冒頭でティムのマヌケ振りが強調されるが、いざ窮地に立たされると、それほどマヌケじゃないし少年を守って大奮闘したりするし、この人が何で何度も刑務所入しているのかよくわからんわーということになってしまう。ヒロインと惹かれあう理由もよくわからないし、ストーリーがちぐはぐなのだ。コントとアクションが交互に挿入されている感がなくもない。コントと言えば、クライマックスのコテージ内での格闘は、コテージの作りがちんまりしている(ティムが伸び上がって天井に頭ぶつけたりする)ので、人形の家で暴れているようなちぐはぐ感があり、よけいにコントっぽかった。
 ではこの映画がダメかというと、まあダメと言えばダメ、というか出来は良くないのだが、私は嫌いではない。ボーっと眺める分にはこのくらい隙がある方が気楽でいいのよ。カリフォルニアの風景もカラっとしていて明るい気分になるし、音楽も適度にダサくて気が置けない映画という感じ。よく出来た映画だと、盛り上がるし充実感は得られるけど、リラックスにはならないのよね。
 主演のポール・ウォーカーはいまひとつ印象の薄い2枚目なのだが、彼のインパクト不足を悪徳警察官役のローレンス・フィッシュバーンの顔力が補っていた。フィッシュバーンて、見れば見るほどすごい顔してるよなー。顔だけで一つの才能だと思う。また、子役の少年が、いわゆるかわいい子役ではなく、体型はぽちゃぽちゃだし顔は情けないしで、ルックスいまいちなのが却って新鮮だった。こんな子、南米のどこかの国にはきっと普通にいるぞ!顔も体型もヘタレなのに言動は結構しっかりしている所もキュートでした。
 ちなみに監督のジョン・ハーツフェルドって他に何撮ってたんだっけと思ったら、『15ミニッツ』の監督・脚本やってたのね。『15ミニッツ』は結構スリリングで面白かったのに、本作はなぜにユルユル映画になってしまったのだろう。

『赤朽葉家の伝説』

桜庭一樹著
 山陰地方で製鉄所を営む名家の女三代記。あらー、桜庭上手くなってるわー。正直驚きました。普通に大河ドラマになっている。共感できる部分がなくてもきちんと面白く読めるのだ。これは勝負に来ましたね的な、著者にとって記念碑となる作品では。ただ、最後のミステリ要素は無理やりつけられたようで、必要を感じなかった。また、時代が現代に近づくにつれ徐々に生彩を欠いてくる。ストーリーやキャラクターのどこか神話的な性格と、時代背景とがかみ合わなかったように思う。語り手の自覚により神話から一つの家族の物語への引き下ろしを意図したのかもしれないが、そうするには各女性キャラクターが強烈すぎる。時代の雰囲気の描写が紋切形なのも、なぜ今これなのかとちょっと疑問ではある。

『魔のプール』

ロス・マクドナルド著、井上一夫訳
探偵リュー・アーチャーは、自分の不倫を告発する手紙の差出人を探してほしいという依頼を受ける。しかし依頼者の女の態度はどこか煮え切らず、彼女の家族も変わり者ぞろいでぎこちない。そして殺人事件が起きる。シリーズ初期の作品だからか、まだ路線が定まっていない感じがする。アーチャーが妙にタフぶっていたりアクションがあったりと、タフなヒーローが活躍する普通のアクション小説みたい。しかし家族の問題に対する関心はこのころから一貫していたようだ。エディプスコンプレックスやらエレクトラコンプレックスやら、現代ではすっかりポピュラーとなった(というかもはや陳腐化しつつある)言葉が新しいものとして持ち出されているあたりに時代を感じた。流行ってたのねー。

『ヴィットリオ広場のオーケストラ』

 近年のイタリア映画を見ていると、イタリアへの移民の多さを実感することがしばしばある。不法入国問題が関わる『13歳の夏に僕は生まれた』もそうだし、主題として扱っているわけではないものの主人公が東欧諸国からの移民である『題名のない子守唄』もそうだった。イタリア国内では移民が労働力として欠かせなくなっており、同時に元々居住していたイタリア国民は移民に働き口を奪われ、軋轢も生じる(映画の中にも、地元民の就職先確保の為の移民排斥を訴えるデモが映される)。ローマのヴィットリオ広場周辺は特に移民が多く、60以上の民族が暮らしているそうだ。その相互理解の為、ミュージシャンのマリオと映画作家のアゴスティーノ・フェッレンテ(本作の監督)は、広場にある古い映画館「アポロ劇場」を再生させようと、多民族・多国籍によるオーケストラ結成を目論む。しかし資金不足、メンバー不足、メンバー間のいざこざなど問題は山積だった。
 主催する2人が、かなりの見切り発車で企画を進めてしまうのには驚いた。メンバー足りない、お金も足りない状況でイベント出演にOKしてしまう。なんとかメンバーが揃ってもリハは1週間だけとか、楽天的なのかやっつけ仕事なのかわからない。これはイタリアの国民性なのだろうか。日本だったら、まず資金とか期間とかの目処がついてから着手しそうだ。
 そういうわけなので、オーケストラの練習風景、音楽的なところがメインのドキュメンタリーなのかと思っていたら、実際はメンバーが揃うまでに結構な分量を割いている。マリオとアゴスティーノがどんどん「もうダメ・・・」という顔になっていくのがおかしくも情けなくつい同情してしまった。また、もっと短期(1年くらい)のプロジェクトを追ったのかと思ったら、何と5年。映画の中に垣間見られる以上に難航していた様子が窺われる。それでもなんとかものにしちゃうやる気(資金なんて最初はスタッフの自腹ですよ)がすごい。やる気で実務的な問題がなんとかなってっちゃうという事例だったように思う。
 さて、音楽は国境を越える、言葉は通じなくても音楽で分かり合えるとよくいわれるが、本当にそうだろうか。確かにある程度は異文化同士でも通じるかもしれない。本作の中でも、楽譜なし(譜面に起こせない音が多いし譜面読めない人もいるので、アウトラインを録音したものを聴いて覚えるのだ)、人によっては言葉もよく通じない中、なんとかオーケストラは形になっていく。しかし音楽にもやはり、言語と同じように文法がある。あまりに基礎の文法が違うと、すり合わせすら困難なのではないかと思う。本作に出てくるオーケストラのメンバーの母国は欧米と中近東がメイン。ローマには中国系の移民も多いそうだが、東アジア地域のメンバーはいない。候補者がいたのかどうかは分からないが、中国とか韓国あたりの音楽だと、音楽の文法が違いすぎて一緒にやれそうもなかったというのもあるのではないかしら。
 ついでに、どんなに音楽の技能が高くても、プライドが高すぎたり神経質すぎたりすると、オーケストラでやっていくのは無理なのねということも分かるドキュメンタリーだった。どのジャンルであれ、集団で何かをやるには、ある程度のおおらかさやコミュニケーション能力が必須なのね。才能があればいいってもんじゃないのか。
 
 

『転々』

 84万円の借金を抱える大学8年生の文哉(オダギリジョー)のアパートに、借金取り・福原(三浦友和)がやってきた。福原は自分の「東京散歩」に付き合えば借金返済のため100万円やると話を持ちかけてきた。目的地は霞ヶ関。しょうがなく付き合うことにした文哉だが、福原は実は妻を殺した、と告白する。
 三木聡監督は、確実に腕を上げている。小ネタ使いの上手さは相変わらずなのだが、構成力がぐんぐん上がってきている。一見ゆるーい映画なのだが、実はきっちり計算されていて、間延びした部分が以前より少なくなっていた。長い尺での計算がだんだんハマってきたような印象を受けた。見せないことで想像させる部分や引き際のよさなど、映画の切れ味が良くなったんじゃないかと思う。
 さて、文哉は実の父母を知らず、福原は実子を幼い頃に亡くしたという噂がある。この前フリだけでこれは擬似親子ものだなというのは分かる。しかしこの2人に加え、福原と以前一緒に「ニセ家族」の仕事をしたことがあるという女(小泉今日子)とその姪まで加わってくる。女の家で夕食を取る4人は実の家族のように見えるが、自然にそうなったというよりも4人が勤めてそう装っているのだろうというところが垣間見られる。いかにもなお父さん、いかにもなお母さん、いかにもな息子と、いかにもな娘。
 親のいない文哉や、子供を亡くし妻を殺したという福原はもちろん、福原とニセ夫婦をやったときの写真をずっと部屋に飾っている女も家族とは縁の薄い人間だ。さらに女の姪も、女の家にばかり出入りしているということは、おそらく実の両親とはあまり上手くいっていないのだろう。そんな人たちが集まって擬似家族をやっているというのが、ほのぼのしつつも、もの悲しい。加えて、彼らは元々赤の他人だから勤めて家族っぽく振舞ってみるわけだが、「家族っぽく」という行為、つまり文哉が言う所の「はしゃいだ方がいい気がした」というのは実際に血の繋がった家族であっても、多かれ少なかれやっている(それが良いとか悪いとかとは関係ない)ことだと思う。ニセ家族の中に家族の本質が垣間見られる感があってどうにも切ない。あったかもしれない虚構の過去映像のくだりでは、ベタだとわかっていても目頭が熱くなりそうだった。監督ってばずるーい。
 三木監督は最近、意識的にこういった寂寥感、ペーソスを取り入れようとしているように思う。そして、ユルさやうら寂しさを孕みつつも、基本的に人生に対して肯定的なところは変わっていない。なんだか(小ネタの安定度も含め)安心できる作風だ。エンドロールで流れるのは鈴木慶一withムーンライダーズ『髭と口紅とバルコニー』。これがまたいいのよ。なお作中でもムーンライダーズの曲が使われてます。

『ボーン・アルティメイタム』

 記憶をなくしたCIAの特殊工作員ジェイソン・ボーン(マット・ディモン)を主人公としたシリーズ完結編。自分に関する記事を新聞で見たボーンは、その記事を書いた新聞記者に接触を試みる。しかし記者は、ボーンが関わっていたという「トレッドストーン計画」に代わる「ブラックブライアー計画」の取材を進めており、CIAからも目を付けられていた。ボーンは彼から話を聞こうとするが、記者は目の前で射殺された。ボーンはCIAに接触を試みるが。
 いきなりボーンとロシア警察との追いかけっこから始まり、休む暇なくどんどんストーリーが展開する。たるみの無い構成が上手い。前作までの流れの説明は一切ないが、登場人物のセリフなどからちょこちょこ垣間見えて、特に前作ラストとのつなげ方は、なるほどそうきたか!と唸った。あーそういうことだったのねー。脚本がしっかりしているのだろう。タイトにきっちりまとめましたよ!という感じ。
 このシリーズはボーンの秒速(本当に早い!)アクションが見所だが、派手なドンパチは以外に少ない。迫力のカーチェイスはあるものの、メインは接近戦・肉弾戦で、銃器もそれほど特殊なものは(多分。詳しくないので)出てこない。手近な武器でとっさに戦うというスタイルが一貫している。その「手近感」が実に楽しい。小物が上手くアクションシーンへの伏線になっているのだ。アクションがそれなりに痛そうだというのも面白い所。ボーンは敵の首を羽交い絞めにして落とすという戦法をしばしば取るのだが、首を絞められている敵の手の伸ばし方、あがき方が、3作どれも妙にリアルなのだ。ついつい見入ってしまった。それにしてもボーンを演じるマット・ディモンが、これだけアクションのできる俳優になるとは思わなかった。1作目よりも筋肉付いてるし、いやーえらいわー。『グッドウィルハンティング』からは想像も出来ん(笑)。
 さて、本作の主人公であるジェイソン・ボーンはやたらと強くて、ピンチになっても「ボーンだから大丈夫!」と安心して見ていられるヒーローだ。しかし彼はどこか切ないキャラクターである。自分が誰だかわからない(3作通してずっとわかっていないという思い切った設定)と同時に、誰だかわかったとしても、分からなかった時よりもダメージが大きい、自分は大変な悪人ではないのか、ひどいことをしてきた奴なのではないのかという不安が常に付きまとう。わけわかんないまま組織に追われ命を狙われる被害者だと思っていたら、実は加害者の側であったのかもしれない。そんなアンビバレンスな部分が彼を共感できるキャラクターにしていたと思う。だから、本作クライマックスでの、悪人であった自分を引き受けるボーンの覚悟には、ちょっとぐっときてしまう。
 ボーンはCIAに復讐戦を挑むわけだが、CIAも一枚岩ではなく、それぞれに含む所あるという多面的な描き方も、バランスが取れていてよかった。映画の構造としてもちょっとづつ全体が見えてくる感じでわくわく感ばっちりです。ちゃんと小物感抜群の悪役も出てくるしね(笑)。ところで本作に出てくる盗聴システムって実在のものなんですよね確か。いやー怖ろしい世界になったものです。

『数に強くなる』

畑村洋太郎著
 子供の頃から算数・数学が苦手で、今でも数に弱すぎ仕事に支障を来すもので、泣く泣く本書を読んでみた。・・・あれ?結構面白い・・・。著者によれば、難しい計算ができることよりも、「おおよそどれくらいあるか」という見当がつくようになることのほうが、数に強くなる上では大事らしい。食事の時間から逆算して段取りよくご飯を作る、というのも「数がわかる」ということなんだそうだ。そのくらいなら私にもできるわ、とほっとしたものの、読んでいくうちにだんだんわからなくなってきました(笑)。数に強くなるためというより、苦手意識を薄めるための本か。ところどころに、すべっているのかいないのかわからない変なユーモアがある。「ローストビーフ」て。
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