3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

2007年10月

『スターダスト』

 石垣の塀に囲まれたウォール村に住む青年トリスタン(チャーリー・コックス)は、片思いしているヴィクトリアの為、行くことが禁止されている塀の向こう側へ流れ星を拾いに行く。しかし空から落ちてきたのは金髪の美女イヴェイン(クレア・デインズ)だった!一方、3人の魔女姉妹は流れ星の力で若さを取り戻そうと、流れ星を探していた。はたまたもう一方では、王位継承を狙う3人の王子が空に飛ばされたルビーを探していた。そのルビーが星にぶつかり、落ちてきたのがイヴェインだったのだ!
 予告編から想像していたのよりも、はるかに能天気なファンタジーだった。ストーリーは大味だが、キャラクターの描き方に微妙に茶目っ気と悪意がある。主人公のボンクラ加減も堂に入っている。今年公開映画のボンクラ主人公としては『トランスフォーマー』越えた感が。流れ星を捕まえるというのはまあよしとして、その星が若くてかわいい女の子だとわかったら、「じゃあ村に連れて帰って片思い中の女の子に見せよう!」というまさかのリアクション。魔法の紐でふんじばって連れ歩くんですよ!何か発想おかしくないかそれ・・・。
 塀を越えると魔法の国という設定には、じゃあそれ上空から見たら地理的にどうなるのとか、塀くらいで行き来を防げるわけないんじゃないのとか、まあいろいろ突っ込み甲斐はあるのだが、空飛ぶ海賊船(なんかFFシリーズぽかった・・・)とか、氷の谷の魔女の屋敷とか、あと主人公が住む人間の村とか、ビジュアル的には結構楽しい。何より、登場人物たちのキャラクターが立っている。といっても、トリスタンはわかりやすくボンクラだしエヴェインはわかりやすくツンデレであまり魅力を感じなかった。魅力があったのは空飛ぶ海賊船の船長ロバート・デ・ニーロと、悪い魔女ミシェル・ファイファーだ。デ・ニーロ演じる船長は、本当は心優しくフェミニン(笑)なのに、周囲に舐められないようマッチョを気取っている。なんと女装姿まで披露してくれるというサービス振り。いつになくノリが良かった。そしてミシェル・ファイファーはこの人が本作の主役なんじゃないのと思うくらいの名(迷?)演。本当は醜く老いているのだが、魔法の力で無理矢理若返っているという設定なので、ちょっと魔力を使うとしわとかシミとか出てきちゃうんですね。それを微妙なお年頃(笑)のファイファーに演じさせるという意地の悪さ!そしてそういう役を堂々とこなしてしまうファイファーの太っ腹さ!いやー、ファイファー見ているだけでも結構楽しかったです。

『キングダム 見えざる敵』

 サウジアラビアの外国人居住区を狙った爆破テロ事件解決の為、FBIチームが現地に乗り込む。キナ臭いドンバチ映画かと思ったら、結構しっかりと作っているし、シビアだ。後味は悪いので、すかっとしたい人にはお勧めしない。タイトルロールが中東とアメリカの関係を簡潔に説明しているので、しっかり見ておくとこの辺の事情を良く知らない人(私です)も後の理解がしやすいかも。
 主人公のFBI捜査官(ジェイミー・フォックス)はサウジアラビア側の警官の融通のきかなさや捜査方針の違い、ひいては文化の違いに辟易するのだが、サウジアラビアの警官にとってもそれは同様だ。お互いにぎこちない2人なのだが、官憲として事件を解決したいという職業意識でもって、何となく通じるものが生まれてくる。お互い探り探りやっている感じがいい。また、事件解決は武力ではなく地道な捜査によるものでなければいけないというところも、地に足が着いていたと思う。
 しかし最後、同じ言葉が2人の人物から発せられるのだが、それは2人の間に生まれた連帯感を全否定するものでもある。そして、一つのテロ事件を解明することはできても、彼らにはテロを止めることはできない、むしろ彼らがやったことは、また新たなテロを生むことだったのかもしれないと突きつけるのだ。人の善意とか共感とかが太刀打ちできない領域が提示されており、実に暗鬱とした気持ちになる。彼ら個人はテロを根絶したいと思っていても、彼らが属する組織の上の方はそうでもないのだ。
 首謀者特定の根拠が弱いんじゃないかとか、FBI隊員たちが不死身すぎるんじゃないかとかいう大味さは気になったものの、首謀者に迫っていく過程にはドキドキするし、火薬満載の爆破シーンやカーチェイスにもお腹いっぱい。派手な見せ場はあるが全体的にはシブいという、ちょっと面白い作品だった。

『あのひととここだけのおしゃべり』

よしながふみ他
 漫画家のよしながふみが、やまだないと、福田里香、三浦しをん、こだか和麻、羽海野チカ、志村貴子、萩尾望都と対談した対談集。よしながふみのマンガは、とても面白いとは思うのだが、すごく愛着があるかどうかというと、理に勝ちすぎている(というかきちんとしすぎている)ところがあっていまひとつ愛着持てずにいる。しかしこんな対談読んだら、よしながのことを好きになってしまいそうではないですか!少女マンガややおい論はもちろん、仕事すること(特に女性が)についてううむと考えさせられた。よしながは、両親に女性が自立して生きていくには手に職をつけて経済力を付けなければだめと言われていたそうで、若いころから将来の生活について真剣に考えていたそうだ。私の親はお金と仕事のこととか、実社会における女性の不自由さとかを全く口にしなかったので(子供にお金の話をするべきではないと考えていた節はあるが、それ以上に親自身もあまり金や仕事に興味なかったらしい)、そういうことにはどうも疎くて、今だにフワフワしている。何か叱られちゃった感じ・・・。仕事という面で面白かったのは、こだか和麻との対談。いやーこだか先生プロだわ!すげー!ほんと頭下がります。あと、本人も「キモい」言ってますが、羽海野との対談は双方テンション高すぎてちょっとこわいことになっている。なんだその「運命の人に巡り合っちゃいました」状態は。基本的にどの対談でも、よしなががリードしている。頭の良い人であるという以上に、語り好きなんだろうなこの人(笑)。なお、対談相手が全員女性なのにもかかわらず表紙はイケメン2人というところに、よしながの業・・・じゃなくてサービス精神が垣間見える。

『女王国の城』

有栖川有栖著
 江神シリーズ新作。・・・って何年待ったと思ってんですかーっ!それはさておき、名探偵ものにおいて警察が介入してこない状況をどう作るかというのは一つのポイントだが、この手があったか・・・。新興宗教都市(というか村)ということで、陸の孤島プラス特殊ルール下というおいしい状況に!しかし、新興宗教やバブル崩壊直前の空気感という大きいテーマになりそうなネタを使っているものの、それが実際にテーマになることはまずないというのが、有栖川先生の素敵なところだと思います。大きなテーマなんていらん!肝心なのは謎、そして謎に対する解だ!というわけで「読者への挑戦」も搭載した正しくロジカルなミステリ。いかにもいかにもな見取り図が実はあんまり必要ないところはご愛敬。そしてアリスとマリアの視点が分けられている章立てに、これはきっとすごい叙述トリックがあるのでは!とわくわくしていたらそんなこともなかったところもご愛敬。あと、江神が抱えている問題にはさりげなく触れる程度なのが、抑制効いていてよかったと思う。堪能しました。

『ミリキタニの猫』

 監督であるリンダ・ハッテンドーフは、取り始めた当初はこういった作品になるとは思っていなかったのではないか。奇跡的ともいえる化け方をするのがドキュメンタリーの面白さではないかと思う。最初はもっとパーソナルというか、こじんまりとした作品になる予定だったのではないか。それが、撮影対象であるホームレス・ミリキタニ老人のバックグラウンドが明らかになるにつれ、国・民族の歴史とダイレクトに繋がっていく。
 本作の撮影対象は、NYに暮らすホームレスの老人・ミリキタニ。監督は、路上で絵を描く彼に興味を持ち、少しずつ撮影を進める。日系人である彼は、第二次大戦中に制収容所に入れられていたこと、その際に市民権も剥奪されたことがわかってくる。そして9.11。粉塵の舞う路上にミリキタニを放置できなかった監督は、自宅での同居に踏み切る。多分、監督はこの時、ものすごく迷ったのではないかと思う。ドキュメンタリーを作る際、対象との距離の取り方は重要だろう。関わりすぎると監督自身が作品の一部、撮られる対象とならざるを得ないこともある。作品を作品として見る距離感が失われるかもしれない。しかしその危険を冒して、監督がミリキタニと関わっていくことを選んだということがとても興味深いし、人と人との関わり方の可能性がちょっと垣間見えて、じんときました。
 映画の後半では監督もフレームの中に入ってくるし、どんどん発言し、ミリキタニの世話を焼いたりする。ミリキタニはミリキタニで、夜遅くに帰ってきた監督にガミガミ言ったりスネたりする。ちょっと気難しいおじいちゃんと孫みたいな感じになっていくるのがおかしい。ミリキタニがまとう空気は、監督と同居することで明らかにやわらかに変わってくるのだが、監督の方も変わっていく。彼女は元々、第二次世界大戦中のことや、もちろん強制収容所のことなどよく知らないし、特に興味もなかっただろう。しかしミリキタニの記憶を追うことで、歴史を辿らざるを得なくなってくる。もしミリキタニを撮らなかったら、日系人の歴史など知らなかったのだ。人の出会いの不思議さをしみじみと思った。
 ちなみにミリキタニはこの作品がヒットしたおかげで、おそらく約70年ぶりに来日することとなった。実に、人生何が起こるかわからない。

『ミルコのひかり』

 1971年、イタリアのトスカーナ地方に暮らす10歳の少年ミルコは、事故で視力を失い、全寮制の盲学校へ転入した。なれない環境の中ミルコが見つけたのは、テープレコーダーで色々な音を録音し、物語を作るという遊びだった。
 実話を元にした作品である。主人公の「ミルコ」のモデルは、イタリア映画界の名音響編集者ミルコ・メンカッシ。作中の主人公のミルコも映画が大好きな少年で、寮を抜け出して映画館に行ったりする。まず驚いたのが、当時のイタリアの法律では、視覚障害者は健常者と同じ学校には通えなかったといおうことだ。盲学校では生徒に一般的な教育の他、生活の為の職業技能を教える。それ自体は彼らが自立していく為にはもちろん必要なことだし、「規律が子供達を守る」という校長の主張にも正しい所はあるだろう。しかし、それだけを教えることは、彼らに大人になることを強制することにはならないか。いつまでも子供というのは困りものだが、無理矢理大人にならざるを得ないというのも不幸なことなのではないかと思う。やはり視覚障害を持っており、ミルコたちの学校の先輩に当たる青年が出てくる。彼は盲学校を卒業して大学に進学することも出来、今は製鉄所で働いている。物語の流れ上、彼の存在はそう必要じゃないんじゃないかと思ったが、最後、彼がミルコたちのお芝居を「聞いて」見せる表情で、何か腑に落ちた。彼がミルコたちの中に見ていたのは、あったかもしれない自分の子供時代なのだろう。そしてミルコたちにとっては青年が、もしかしたらありえるかもしれない自分の将来の姿なのではないか。青年はしっかり生活しているし恋人もいて、それなりに幸せそうではある。が、子供時代というのは、それとはまた別に換えられないものなのではないかと思う。
 健常者・障害者ということを越え、子供が自分の世界を発見していく過程の喜びがぐわっと伝わってくる。映像が美しいというのもあるのだが、子供達が楽しそうなんですねやっぱり。ミルコがやっていることは、彼が大人になって生活していくうえでは不要なことかもしれない(実在のミルコ少年は音響技師になったわけだが、物語としてはそうとも限らない)。しかしその経験は、彼が生きていく上で彼を支えるものにはなり得るのだ。ミルコの興味と才能を理解してくれる神父は、「君が持っているものを大切にしなければいけないよ、それで勉強もしてくれると嬉しいな」と言う。子供にとって、どういう大人とめぐり合うかというのも、人生を決定付けるものだなとしみじみ思った。

『僕がいない場所』

 養護施設で暮らす少年クンデルは、施設を脱走して母親の元へ向かう。しかし母親には恋人がおり、クンデルの居場所はない。川辺に留められた小船に住み着いたクンデルは、川辺の屋敷に住む裕福な少女と知り合う。
 ポーランド発の子供映画。子供たちは皆素人らしい(色々な学校や施設を回ってオーディションしたらしい)のだが、えらく上手いのでびっくりした(10歳くらいの子だと思う)。演技しているというより、彼(彼女)自身の中に役柄に近い部分がかなりあって、それをドロタ・ケンジェルザウスカ監督が上手く引き出したんじゃないかという印象を受けた。子供への演技指導は難しいと思うのだが、すごくいい表情を引き出している。主演の少年と少女が、子供っぽい顔をしている時と、非常に大人びた顔をしている時があって、その落差にどきっとする。いわゆる「マセた」表情ではなく、人生悟ってしまったかのような、疲れたような諦めたような目をするのだ。よくこんな顔引き出したなと思う。特に少女がいい。ボーイッシュな子で、お酒を飲んでバカみたいに笑ったかと思うと、真顔で「私のこと好き?」と聞いてくる。普段は少年のようだが、急に大人の女のような言動をする。この大人びた言動に関してはちょっとやりすぎかなという気がしなくもないが、彼女は決して美人ではなく、彼女の姉は美少女であるというあたりが切ない。将来何になるのと問われて「オールドミス」と答えるんですよ。それは切な過ぎるだろう!
 彼女はおそらく家庭内でも学校でもおミソ扱い(学校にいるシーンがちょこっとだけ出てくるが、あまり楽しそうではない)で、居場所がないのだろうということが窺える。少年はもちろん、母親から見放され居場所がない。居場所のなさが少年と少女の間に連帯感を生むのだ。大人と比べて、子供には居場所となるべき場所とか人とかの選択肢が大幅に少ない。そういう不自由さをしみじみと感じた。少年も少女も、幼い子供らしい部分と早くに大人になってしまった部分がアンバランスで危うい。そして少女の姉が、少女とはまた別の意味で大人であるという所にひやりとさせられた。
 子供の悲しみを描いた作品ではあるが、子供の生々しい姿と抽象化された姿が混在していて、良くも悪くもきれいにまとまっている。ちょっときれいすぎるかなという気もするが、あまり生々しいと気が滅入ってくるしな・・・。マイケル・ナイマンによる音楽も、救いのなさを中和していたと思う。

『エディット・ピアフ ~愛の賛歌~』

 歌手・エディット・ピアフの生涯を、「愛の賛歌」「バラ色の人生」等名曲盛りだくさんで映画化した作品。監督・脚本はオリヴィエ・ダアン。主演のマリオン・コティヤールが、若いピアフから晩年のピアフまで一貫して演じている。若い頃はともかく、腰が曲がりリウマチに悩まされるようになった晩年の演技がすごい。コティヤール自身はさほどふけ顔というわけでもなく、むしろキュートな顔立ちなのだが、ここまで老け役ができるのか!と唸らせられるものがあった。
 しかし本作は、役者、そしてもちろん音楽は見ごたえ・聞き応えがあるのだが、エピソードの組み立て方がいまひとつ分かり難かった。時間軸に沿った流れではなく、若い頃と晩年とが交錯するような形で次々とエピソードが明かされていき、徐々にピアフの全体像が見えてくるという、ちょっとミステリ的な構造なのだが、この構造に監督の手腕が追いついていないように思った。終盤に、ピアフの人生にとって非常に重要であったろう事件が明らかになるのだが、これ普通だったらものすごく盛り上がる所なのに、そこに至るまでにあっちこっち引っ張りまわされるので、一つ一つのエピソードのインパクトが薄れてしまったように思う。どのエピソードに関しても、もっと上手い見せ方があるんじゃないかなぁと惜しい。
 また、彼女を支える仲間たちも誰がどういう人なのかあまり説明されない(一応説明はあるんだけど、さらっとしすぎて忘れちゃうのよね・・・これは私の記憶力の問題でもあるが)。最後まで「えーとこの人誰だったっけ?」とすっきりしないところもあった。エピソードにしろキャラクターにしろ、印象付けや、この人はこういうポジションの人ですよという説明があっさりしすぎだったように思う。ピアフの人生について詳しい人なら別に問題ないのかもしれないが、ピアフという歌手について名前程度しから知らない状態で見ると、ちょっと厳しいかなと思った。
 さて、この映画を見る限りでは、ピアフは実に面倒くさい、困った人だったようだ。下品だしわがままだし、晩年まで悪癖を改めようとはしない。子供時代は恵まれず、若い頃も大変苦労した人なので、これだけ苦労していたらちょっとは学習するんじゃ・・・と思うんだけど全然学習しないし、年取っても人間が全く丸くならない(笑)。周囲の人間は大変だったと思う。しかし不思議なことに、彼女の傍には常に彼女を愛し、支えてくれる人たちがいる。子供の頃には身を寄せていた売春宿の娼婦たちが、若い頃は妹分が、歌手としてのし上がっていく過程ではスタッフたちが。やはり、才能だけでなく何か人間的な魅力があった人だったのかもしれない。彼女には生涯最大の恋人・ボクサーのマルセルがいたが、彼よりも仕事のスタッフらの方が、彼女を愛し理解していたように見えるのだ。
 前述した、終盤で挿入される重要なエピソード。(ネタバレになるので曖昧な言い方になりますが)ここで得られなかったものを埋め合わせる為に人に愛を注ぎ込み、注ぎ込まれたいという感情に突き動かされていたのかとも思うし、これがひっかかっていたから無茶苦茶な生活を続けていたのかとも思うと、何か腑に落ちるところはある。最後に腑に落ちさせる構造になっているだけに、途中の見せ方のヘタさがなお残念。

『さらばベルリン』

 第二次世界大戦終結直後のベルリン。ポツダム会議を取材するためにドイツへやってきたアメリカ人記者ジェイク(ジョージ・クルーニー)は、自分の運転手を務める米兵タリー(トビー・マグワイア)の愛人が、かつて自分の愛人だったレーナ(ケイト・ブランシェット)だということを知る。レーナの夫はドイツで著名な化学者の秘書だった。アメリカもソ連も彼を探しているらしい。そんな中、タリーが死体で発見された。
 スティーブン・ソダーバーグ監督の新作はレトロなモノクロ映画。「カサブランカ」や「第三の男」へのオマージュと言ってもいいであろう、40年代の名画を模したサスペンス映画だ。ポツダム会議という歴史上の一大イベントが背景にあるものの、歴史もの映画としての側面は薄く(この点あまり配慮していないようで、ドイツからはブーイングが出たらしいが)、あくまで「男と女」の話だ。かつての名画のように、男(マグワイアじゃなくてクルーニーね)はシブく女は謎めいて美しい。
 一方で、今日的かもしれないなぁと思ったのは、男があまりタフじゃないところだ。タリーは早々に殺されちゃうし、ジェイクはあっという間にボコられる(ジョージ・クルーニーがアトビー・マグワイアにボコられるというのも何だか奇妙ではあるなぁ)。タフで無口な男のかっこよさというものが、もう説得力を持たない時代になったのかもしれない。対して、タリーのこすっからさ、チンピラ臭さは、このタイプはいつの時代も一定数いるよなと。トビー・マグワイアが演じると、タリーに向けられた「子供みたいな人」という言葉にやたらと説得力がある。
 タイトルロールやサウンドトラックまで過去の名画っぽくした、こだわりを感じる作品だが、昔の映画になじみのない観客にはどう見えるのだろう。ご丁寧に音声にノイズまで入れてあるのだが、そのへんの遊びをわからない観客、またそういう遊びをしゃらくさいと思う観客も多そうだ。よくも悪くも見る人を選ぶ作品かもしれない。スターを使ってどうどうとそういう遊び満載の映画を撮れてしまうところが、ソダーバーグの強みだ。ほんと、この人いいポジションにいるよなー。趣味を本気でやったような作品。

『ストレンヂア 無皇刃譚』

 私がアニメーションを見る場合、ドラマやキャラクター造形よりも、絵がどう動くかに一番意識がいくらしいというのがすごく良く分かった。本作は映画としての比重が、後半に進むにつれどんどんアクション寄りになっていって、バランスとしてはあまりよくないのだが、その歪なところすら愛おしいです。物語なんて、「強い用心棒が子供を守ってめっさ強い奴と戦う」というただただそれだけだ。しかし、物語をシンプルに留めたことでビジュアルのインパクトが印象に残り、却ってよかったんじゃないかと思う。アクションが突出しているのに派手派手しい雰囲気にはなっていないところもいい。 
 安藤真裕監督にとっては長編初監督作品だが、アクション作画に定評のある人なだけあって(いやー本当にいいんですよこの人の作画!なんかもーぞくぞくすんのアニオタとしては!)キャラクターの動きには見ごたえがある。いわゆる名作・傑作の類ではないが、これをやりたいんだ!という意気込みが感じられる好作だった。特にちゃんばら映画を真面目にアニメーションでやろうとしているところには好感を持った。私は実写の時代劇はあまり見ていないのだが、アニメーションで剣を使ったアクションシーンをやろうとすると、(多分実写でもそうだと思うんだけど)一定のパターンに収まりがち、というかこれだけ古今東西アクション映画があったら、もうネタが出尽くしてしまっているだろうと思うのだが、本作ではまだ何か面白い見せ方があるんじゃないかと試行錯誤している様子が垣間見られる。実際、アクションシーンが良く練られていて、唸ったところも(前半の、古寺内での立会いとか、終盤の塔の高低を利用した上下運動とか。設定上、装置が大きすぎると思ったのだが、このアクションシーンのためだったか)。空間把握のセンスがいいんじゃないかと思う。
 キャストは、主人公「名無し」にTOKIOの長瀬智也。声優初挑戦だそうで大丈夫か?と思っていたが、息の入れ方とかが案外上手い。ぶっきらぼうな感じが出ていて悪くない。そして名無しと対決する異国の剣士に山寺宏一。いやーあれだね。わかってたけど本気の山寺は男前すぎますね。中の人が山ちゃんだとわかっていてもときめきますね。 

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