3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

2007年09月

『不確定世界の探偵物語』

鏡明著
なんで「不確定世界」なのかというと、一人の大富豪が持つタイムマシーン「ワンダーマシン」が、富豪が理想とする世界を作るべく過去に干渉することで、現在がちょっとづつ変化してしまうからです。目の前の人がいきなり別人になったり、風景が変貌したりする。そんな世界の中では、過去を辿り証拠を積み重ねる探偵はナンセンスな存在とも言える。主人公の探偵の名が「ギブスン」であるのをはじめ、過去のSF作品へのオマージュに満ちている。SF小説ではあるが、ワンダーマシンの特性がミステリの特殊ルールとしても効果的なので、SFにはあまり馴染みのない私でも楽しめた。80年代の作品がようやく文庫化されたものだそうで、文章はさすがに古さが否めない(昔のTVドラマのテイストを感じるのは私だけか)が、プロットがいい。探偵がへなちょこで頭もあまりよくない(というか悪すぎる)ので、これは何かの伏線?!と思ってわくわくしていたら普通にヘタレなだけだった。えー。

『アズールとアスマール』

 双子のように育てられた、白い肌と青い目に金髪のアズールと、浅黒い肌に黒髪黒目の乳母の息子アスマール。しかしアズールは町の家庭教師に預けられることになり、乳母とアスマールは海のむこうの母国へ追放された。成長したアズールは乳母から聞かされた「妖精の国」である海のむこうの国へ旅立つ。しかしその国では、青い目は悪魔の印とされていたのだ。監督は『キリクと魔女』のミシェル・オスロ。
 アズールが白人、アスマールがイスラム系(らしい)という設定からも一目瞭然だが、異文化コミュニケーションが作品のテーマの根底にある。外国からの出稼ぎ労働者や移民が多いフランスでは、国内での文化摩擦は深刻な問題となっている。自分と違う文化圏の人とどう付き合っていくかというのは、観念的ではなくアクチュアルな問題(もちろんどこの国でもそうなのだが、日本とは切迫感が違うだろう)なのだ。
 アズールは最初こそ「こんな国いやだ!」と異国に拒否感を示すものの、好奇心旺盛に異国のことを知ろうとしていく。海の向こうは不思議の国だった・・・というよりも、不思議の国に見えるのはその国のことを知らないからで、知ってしまえば別に不思議でもなんでもないわけだ。最初に流れ着くのが貧民街、たどり着くのが富豪となった乳母の家(貿易で一山当てたという設定がすごい)というのも、不思議の国ではなく貧富の差のある普通の国ですよというところを見せていて、気配りが行き届いている感じ。
 異国に流れ着いたアズールと対照的なのが、何年もこの国に住んでいるというもの語彙の男クラプー。彼もまたアズールと同じように、ジンの妖精を追い求めてこの国にやってきて、失望した。彼はこの国に不平不満ばかり言うが、ポロリと「それでもこの国が好きだ、この街で暮らしていかなくてはならない」と漏らす。移民の心情を代弁しているかのような言葉で、ぐっときた。そして自分たちを追放したアズールの国をずっとうらんでいたアスマールも、最後に心情を漏らすのだ。
 おとぎばなしらしくハッピーエンドではあるものの、彼らの行く先には一抹の不安もある。個人レベルでは理解し合っていてもそれが国とか民族レベルになっていくとどうなんだろう、また理解し合っていたつもりでも、全く違う文化で育った2人がずっと一緒にやっていけるのかと。しかしそれでも、やらないよりはやったほうがいいんじゃないのという、捨て身のポジティブさみたいなものも垣間見られたと思う。ちなみにこのラスト、地域的な文化だけじゃなくて、一部階層も飛び越えている気がする。これでカップリング成立したらすごいぞー。あと、エルフの精が自分では何もせずにイケメン(資産あり)ゲットしているあたりは大変うらやましい(あれ?)。ルックスと経済力の前には文化の違いも吹き飛ぶのでしょうか。それはそれで大変わかりやすいが。

『有栖川有栖の鉄道ミステリ・ライブラリー』

有栖川有栖編
 鉄道ミステリと言っても、いわゆる時刻表ものなどではなく、鉄道が出てくるミステリーっぽい作品、という割と間口の広いくくりになっている。SF+幻想小説風味なフィリップ・K・ディック「地図にない町」や西岸良平のマンガ「江ノ電沿線殺人事件」といった幅広いセレクトが楽しい。気楽に楽しめるところがいい。寝る前に1編読むとちょうどいい感じだ。ちなみに私のお勧めは、ある意味バカミスなオースチン・フリーマン「青いスパンコール」。この死に方、浮かばれなさそうだわ・・・

『シッコ』

 『ボーリング・フォー・コロンバイン』『華氏911』が大ヒットした、ドキュメンタリー作家マイケル・ムーアの新作。今回の題材はアメリカの医療保険制度だ。アメリカは欧米諸国の中では唯一国民皆保険制度がない。保険料を払えない人は医療保険を受けられないのだ。しかし、今回ムーアがスポットを当てるのは貧困ゆえに医療保険を受けられず苦しむ人たちではなく、医療保険に加入していたが保険を受けられずにいる人たちだ。
 アメリカが抱える医療保険問題は多少聞いたことはあったものの、ここまで深刻だとは恥ずかしながら知らなかった。驚くことに、この映画で取り上げられるケースの当事者達は決して赤貧というわけではなく、一定水準の生活(中の下~中くらい)はしている、下手するとそこそこいい生活をしているということだ。これでもダメなのかよ!と憤り通り越してあっけにとられてしまう。保険会社ぼろ儲けだよ!アメリカの中流層よりもイギリスの下層の方が健康状態がいいってのには笑ったけど、笑い事じゃない。
 演出としてはオーソドックスながら効果的なのが、カナダ、イギリス、フランスの国民皆保険制度の紹介だ。わざとらしいといえばわざとらしいのだが、なんでこんなに違うの?!とショックを与える効果は絶大。地続きのカナダへは、わざわざカナダ人と偽装結婚して医療を受けに行くアメリカ人もいるくらいだ。医者不足や診察待ち時間の長さ、医療現場での外国人労働者への依存など決して問題がないわけではないイギリスでも、「国民皆保険がなくなったら革命が起きる」と断言されるし(低所得者には病院への交通費が支給されるというのにはたまげた)、ましてフランスでは在仏アメリカ人が罪悪感を感じるレベルの福祉の充実ぶりだ。安心して病気になれない経済大国って何よ、という気持ちになってくる。欧米諸国を紹介した後、アメリカの仮想敵国であったキューバにたどり着くというのがまた皮肉だ。キューバが医療大国というのは初めて知ったのだが、対外的(いや国内もか)には赤字大国なのに医療保険は充実しているのだ。あと、ヨーロッパ、特にイギリスでは「(富を)もっているものがもっていないものを援助する」という意識が結構強いみたいですね。これは貴族社会の名残なのかしら。
 ムーア監督の映画は構図としては非常に分かりやすく、問題を提起、敵を定めて証言を集め追及、というスタイルだ。主義主張にしても全くややこしいことはなく、素朴な疑問に基づく身近なものだ。そもそも知っている人は知っているような題材だ。しかしムーアは自分が取り上げる問題に最初から興味がありそうな層は、映画の客層としては想定していないのだろう。彼の作品を簡略化しすぎ、物語化しすぎという批判はあるかもしれないが、その問題を知らない人に何かを訴える方法としての映画という意味で考えれば、彼のやり方は非常に上手いし首尾一貫している。この「わかりやすさ」(そして面白い)はムーアの最大の強みではないだろうか。わかりやすいというのは、簡略化しているというよりも、論旨の組み立て方、その論旨を見せる為の素材の選び方・並べ方が上手いということなんだなぁと、構成力の高さを再認識した。『ボーリング~』での売り物だったアポなしインタビューこそ今回はないが、この人別に突撃取材しなくても面白いわ!と。
 さて医療保険制度とは別に非常に印象に残ったのが、アメリカの社会主義嫌い。正直、未だにここまで根強い恐怖があるとは思っていなかったので、大変興味深かった。国が保険制度を決めるのは社会主義的、という論旨には首を傾げてしまう。国民の健康を守るのは国の勤めの一つなんじゃないの?だって(映画の中にも出てくるが)初等教育や図書館は無料でも社会主義的とは言われないのに・・・。ちょっと病的な域に入ってるんじゃないかという印象を受けた。

『遠くの空に消えた』

 森と草原に囲まれたとある村に、空港建設の話が持ち上がっていた。村の住民たちは建設に大反対する中、やり手の建設会社社員(三浦友和)が派遣されてきた。一方、建設社員の息子(神木隆之助)は酪農家の息子(ささの友間)と仲良くなる。ある日2人の少年は、UFOを待っているという不思議な少女(大後寿々花)と出会う。
 物語の舞台はちょっと昔の日本が舞台らしいが、いつと特定されているわけではない。高度経済成長期のいつかという雰囲気だ。舞台となる場所もなんとなく田舎(ロシア語の看板があったり、酒場にロシア語を話す女性がいたりするので、北海道をモデルにしているのかもしれない。ちなみにロケ地は主に北海道)という程度。ちょっと昔の日本に似たアナザーワールド、という雰囲気が強い。匿名性だけではなく、村人たちのちょっとヨーロッパの田舎風な服装や、東欧の民族音楽ぽい村の楽隊の音楽、なんとなしにファンシーな家々や酒場の内装も、アナザーワールドぽさを強めている。
 どこか日本離れしたファンタジックな風景は見ていて楽しいのだが、ちょっとやりすぎかなとも思った。牧歌的メルヘンな部分と、空港建設とか、はたまた建設に同意したら村八分とかいう生々しい部分との乖離がはげしくて、世界観をどっち寄りにすればいいのか迷ってしまう。日常をもっと地に足がついた感じにした方が、終盤の「奇跡」が引き立ったと思うんだけど。牧歌的な部分も終盤も悪くないだけに勿体無いのよ。
 もっとも、映像的には魅力的なところがいっぱいあった。「この絵が撮りたい!」という監督の思いがほとばしっている。クライマックスの、少年達が夜の草原を疾走するシーンにはぐっときた。絵を取りたい気持ちが先走りすぎて映画がアンバランスになっている気がしなくもないのだが。
 パッケージングとしては、お子さんの他にも若い女性が好みそうな雰囲気ではあるが、実際の所、これは男の子映画ですね。冒頭でいきなり立ちションシーンがあるし、「う●こち●ち●」系の小学生男子が喜びそうなネタが案外満載だった。まさか夢精ネタまであるとは・・・。しかもクライマックスのある計画に村中の子供が参加するのだが、よく見ると男の子ばかり。そしてその計画は一人の女の子(普通に学校にいたら確実に「イタい子」扱いで女子からはハブられるであろうところも男子のドリームっぽい)の為のものだ。女子の出る幕ございません。行定勲監督の「男子」な部分が全開になった作品なのだろう。
 主演の神木くんは当然のごとくかわいい(細い!)のだが、中性的な美少年っぷりが堪能できるのは年齢的に本作が最後だろう。そういう意味では貴重な1本。そして、共演のささの友間が予想外によかった。走りっぷりがいい!

『モードの方程式』

中野香織著
 ファッションアイテムやスタイルにまつわるコラム集。おしゃれな人じゃなくても楽しめます。しかしモードって本当に変化が早い!2,3年前のネタだともう古いなーと思ってしまう。連載当時はいいのだろうが、書籍化するのが悩ましいジャンルだなぁ。もっとも、このコラム集はオーソドックスなアイテムが成立するまでの歴史や、流行の背景となった社会状況などを取り上げているので、風化はしにくいのではないかと。へー、ほー、と感心するネタも多々あった。こういうマメ知識を知っておくと、洋服見る目がまた変わってきそう。

『月と菓子パン』

石田千著
 酒場とお惣菜がよく出てくるエッセイ集。食べ物が地味でおいしそうー。仕事して、家事して、ご飯食べて、散歩してという日常の事柄を綴っているが、言葉数が多すぎず、感情も控えめな所に好感が持てる。自分がどう思ったこう思ったということはそれほど書いていないのに、著者の姿がくっきりと立ち上がっている。しかし町の話も食べ物の話も、どこか古風なところがあり、現代の日本というよりも一昔前の日本のような雰囲気。昭和な香りがどこからか漂ってくる。著者が下町住まいということもあるのだろうか。

『時の娘』

ジョセフィン・テイ著、小泉喜美子訳
 リチャード3世は本当に悪王だったのか?2人の王子を殺したのか?入院中で暇を持て余しているベテラン警部が謎に挑む。歴史ミステリ+アームチェアディテクティブの名作と名高い本作だが、確かに面白い。私は歴史ものはとにかく苦手なのだが、歴史の知識があまりなくても(全くないとちょっときついかもしれないけど)楽しめた。歴史の再解釈を行ってはいるが、訳者解説にもあるようにミステリの文脈でそれが行われているから、ミステリに慣れ親しんでいる身にはとっつきやすいのだ。肖像画だけで人柄を決めてしまうのはちょっと苦しいが、これがとっかかりになってるからなー。うーん。あと2人の看護婦や警部の友人の女優など、女性キャラクターが生き生きとしていてちょっといい。

『オーシャンズ13』

 とうとうシリーズ3作目。オーシャン(ジョージ・クルーニー)の仲間、ルーベン(エリオット・グールド)が心筋梗塞で意識不明になった。凄腕、しかしあくどいことで有名なホテル王バンク(アル・パチーノ)に裏切られたのがショックだったのだ。オーシャン一味はルーベンの敵討ちをするべく、バンクが新設したラスベガスのカジノホテルを標的とする。しかしそのカジノは、最新鋭のセキュリティが導入された難物だった。
 オーシャンズっていったい何人まで増えるんだ・・・。ともあれ、毎回同じ面子を集められるところがすごい。ブラッド・ピットとマット・ディモンを押さえておくだけでも大変だと思うのだが。キャストの豪華さは、ソダーバーグのブランド力、ジョージ・クルーニーの人徳の賜物なのでしょうか。クルーニー、いい人ぽいもんなー。異性よりむしろ同性から慕われるタイプっぽい。このシリーズ見ていて毎回思うのだが、皆クルーニーのこと大好きだろ!そんな和気藹々オーラが漂っております。クルーニー愛され映画と言っても過言ではない、かもしれない。
 身内のお遊び的映画とたたかれることも多いシリーズだが、これだけ豪華な遊びなら、それはそれで見ていて楽しい。11にしろ12にしろたたかれるほどひどい作品だとは思わないし、私はこのシリーズ大好き。元々「~大作戦!」みたいな話は好きなのだが、このシリーズは辛気臭さや貧乏臭さが全然なくて、能天気に(それなりに伏線を追いつつ)楽しめるからストレス解消にはうってつけ(私にとってはですが)だ。今回は前作にくらべると、「それ本当に必要あったの?」という無理な見せ場は少なくなっているので、シリーズのファン以外もそこそことっつきやすくはなっているかも。
 毎回の「お約束」的小ネタも増えている。ラスティは常に何か食べている(そして毎回変な変装をする)とか、ライナスがおミソ扱いであるとか、ラスティの着メロセレクトが微妙とかね。そうそう、オーシャンとラスティはよくTVを見ているのだが、今回は感動系バラエティ(タイトル忘れてしまった・・・多分全米ではメジャーな番組なんでしょう)を見て2人が涙ぐむというシーンが。多分アメリカでは、この番組を見てうるうるするのはダサいという共通認識があるのだろうということがなんとなくわかって、ちょっと面白かった。さらに共通認識といえば、マット・ディモンは(ルックス的に)あまりイケてないという共通認識もあるようで(ライナスがバンクの片腕の女副社長を落とす!と息巻くのを皆全然信用しない)あーそのへんの感覚は私がズレていたわけじゃなかったんだとちょっと安心した(笑)。

『ショートバス』

  『ヘドヴィグ・アンド・アングリーインチ』のジョン・キャメロン・ミッチェル監督の新作。『ヘドヴィグ~』にはいたく感動したのでと楽しみでもあり、心配でもあった。過激な性描写ばかりが評判になっていたので、映画としては実際どんなもんなのかなと。
 結論から言うと、映画としては『ヘドヴィグ~』より構成が甘くて完成度は低い(『ヘドヴィグ~』もいわゆる完成度の高い映画というのとはちょっと違うと思う)。投入したエピソードと提示している問題とを繋げきれず、散漫な印象を受けた。セックスシーンが露骨という触れ込みなだけあって、ボカシだらけなのには笑ってしまったし。それでも所々ぐっとくるのは、自分が抱えている、ここをつつかれると弱いという所とリンクするからなのだろう。
 『ヘドヴィグ~』にしろ本作にしろ、紹介記事や広告では自分探しストーリーとしての側面を強調しているが、むしろ「世の中に自分の半身といえる存在などいない、でも欲さずにはいられない」という葛藤の方が強いように思う。本作に出てくる人たちも、パートナーがいる人は相手との関係で悩むし、いない人はなぜパートナーができないの?と悩む。セックスを含め、誰かと真剣に付き合っていくことは結構面倒くさいし、楽しいこと以上に不愉快なことも多い。元々一人でいるのが好きな人ならなおさらだろう。いくら愛し愛される人とであろうと、他人と意思・習慣のすり合わせをし続けるのは結構しんどい。あーこんなに面倒くさいんだったら一人のままの方がいいかも・・・と思ったりもする。それでも誰かとつながりたい、人と接するべきというのが監督のポリシーのようだ。孤独を否定するのではなく大切にしているが、孤独に耽溺してはだめだという強い意思を感じた。
 セックスに対して開放的(って言う言い方もなんだかなー)な作品ではあるが、奔放なセックスをしている当人たちはむしろいたって真面目だ。真面目すぎると言ってもいいかもしれない。特にオーガズムを感じたことが無いという恋愛セラピストが、夫とのセックスに奮闘したり、体を鍛えたり、ほかの人たちをリサーチしたりする努力は、こっけいであると同時に痛々しくもある。そんなに真面目にとりくまなくてもいいのにー。この人にはむしろ、いいかげんにセックスしてもOKよというアドバイスが必要なのではないかしらと気になってしまった。
 さてこの映画でちょっと問題だなぁと思ったのは、暴力とセックスとを対立するものとして位置づけていることだ。舞台は9.11以降のニューヨークなので、反テロ・反暴力となるのはごく自然なことだろう(元NY市長というキャラが登場するが、キュートなおじいちゃんです)。しかし、暴力とセックスは本当に常に対立するものなのか?ヒッピー文化全盛の60年代じゃあるまいし、あまりにセックスに対して楽天的な見方ではないだろうか。セックスは暴力の延長線上という側面も持っていると思うのだが。ラストの祝祭的シークエンスも美しくはあるが、ちょっと無邪気すぎるように思った。

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