3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

2007年09月

『ミス・ポター』

 世界一有名なウサギ、ピーター・ラビットの生みの親であるビアトリクス・ポターの伝記映画。ポター役はレニー・ゼヴィルガー、彼女の担当となった出版人ノーマンにユアン・マクレガー。監督は『ベイブ』のクリス・ヌーナン。
 大分ざっくりとした映画で、いわゆる傑作・名作の類ではない。しかしとても好感がもてる。特に30代独身女性には強くお勧めしたい。色々身につまされると同時に励まされました。ノーマンとの身分違いの恋というロマンス要素も大きいものの、それはこの映画の主軸ではないと思う。
 時代は1902年。ヴィクトリア朝の封建的な空気がまだ色濃く残る時代だ。この時代、女性、特に上流階級の女性が就業することはなかった。生活していくには結婚して夫に養ってもらうしかない。30歳過ぎて独身のビアトリクスは親のすねかじりに他ならなかったわけだ。ベストセラー作家として余裕で印税生活ができるようになっても、彼女の母親は彼女を一人前の人間とは認めなかった。女性が生きていく上での選択肢が限られていた時代に、作家として活躍し、後に湖水地方の農場を次々と購入して環境保全に取り組んだビアトリクスは、全く例外的な人物だったのだろう。先人がいない中、なんとかして自分があるべき姿であれるように格闘していく女性の姿がこの映画の軸にあるし、その格闘は現代にも通ずるものがあると思う。しかし、あの時代に生まれなくて本当によかった私・・・
 さて、劇中にはポター作品の絵を繊細に再現したアニメーションが挿入されている。ピーターやジェマイマたちが実際に動くわけだ。予告編を見た時は、この演出は余計なんじゃないかなと思っていた。自分が描いた絵に向かって「シッ!じっとしていて!」と話しかける30代女性って、ちょっとイタいでしょ。でも映画本編を見たら、必要な演出だったんだと納得した。劇中でも何度も触れられるのだが、ビアトリクスにはずっと友達がいなかった。彼女の考え方や作品に対する両親(特に母親)の理解も得られなかったし、社交界にも馴染めなかった。ノーマンやその姉が現れるまで、絵を描いている時だけが自分を解放できる時だった。彼女にとっては文字通り、自分の絵が支えであり友人だったのだ。現に、湖水地方へ移住してから、ピーターたちは出てこなくなる。彼女は自分がいるべき場所を見つけ、もう孤独ではなくなったのだろう。

『ブラック・スネーク・モーン』


 アメリカ南部の田舎町に暮らす元ブルースミュージシャンのラザラス(サミュエル・L・ジャクソン)は、弟に妻を寝取られ荒れていた。ある日彼は、血まみれになって倒れている若い白人女を見つける。その女・レイ(クリスティーナ・リッチ)はセックス依存症で、町では「誰にでもヤらせる」と評判だった。ラザラスは暴れる彼女を鎖で繋いで看病するが・・・って、え?!鎖?!それ拉致監禁じゃないの?!
 「L・ジャクソンが激ヤセしたリッチを鎖でつなぐ」という面ばかりが強調されるのでどんなキワモノ映画かと思ったら、どっこいこれが案外いい話なんですよ。妻に棄てられ女性不審気味のラザラスと、軍に入隊した恋人を愛しながらも他の男とセックスせずにはいられないレイの間に、徐々に親子とも恋人ともつかない感情が生まれていく過程は、割と王道ないい話。ラザラスが、一度は棄てたブルースへの情熱を取り戻していくのもいい話だ。妻に去られた面白みの無いおっさんが、ブルースを歌い始めるとめきめきセクシーに見えてくるというのも分かりやすいのだが、そのわかりやすさがいいじゃないですか。ちょっと元気になってくると、薬局の女性に不器用ながらアプローチする(しかしレイの存在であらぬ誤解が!)というのもいい。で、そのレイに関しても、なんとか立ち直り、人生の巻きなおしを図ろうとするようになる。2人がそれぞれ立ち直っていくというなかなか感動的な話ではあるのだ。
 しかし、いい話ではあるのにどこか奇妙な味わいがある。最大の要因はやはり「鎖」だろう。鎖が出てくる必然性って全然ないんだもんなー。クリスティーナ・リッチを鎖で縛りたいが為に無理矢理ひねり出した展開としか思えない。しかもリッチ、やたらと露出度高いしな・・・。リッチたんのセクシーショットをいっぱいとりたいよ!という監督の煩悩がひしひしと伝わってきます。煩悩まみれの設定をいい話に見せてしまえるのだから、クレイグ・ブリュワー監督の手腕は相当なものなのでは。
 もうひとつ奇妙な感じがするのは、非常に敬虔なキリスト教徒としての価値観が色濃く見られるところだ。これは私が日本人だからそう思うのかもしれないが。ラザラスの不倫した妻や弟への怒り、レイに対する説教(L・ジャクソンの説教俳優としての本分は、今回も遺憾なく発揮されていた)など、いくらキリスト教国家アメリカであっても、ちょっと古めかしすぎやしないかと思った。そういう保守的な価値観がベースにある一方で鎖・・・。うーん謎だ。相反する要素を無理矢理1本の映画に詰め込んだら、意外にいいものができてしまいましたという、ちょっとしたミラクルを見た感がある。
 ブルースを主とした音楽のチョイスはばっちり。サントラ買ってもいいです。ピーター・バラカンが褒めただけのことはある。L・ジャクソン自らギター弾いてブルースを歌うのだが、この人歌が上手かったんですねー。びっくりしました。なお映画題名もブルース曲からとったもの。L・ジャクソンは説教俳優の名に恥じない説教っぷりを今回も見せていますが、もっともらしく説教しているものの、実の所本人は結構情けない人というところが味だったと思う。出て行った妻の持ち物に当り散らすあたり、器の小ささがたまりません!そりゃあ奥さん出て行くよな!

『デス・プルーフinグラインドハウス』

 クウェンティン・タランティーノ監督待望の新作。しかし今回も趣味に走りすぎであります!本作では、60~70年代にアメリカで隆盛を極めた低予算インディーズ映画「グラインドハウス」の雰囲気を再現しようと試みており、ご丁寧にフィルムには傷加工をし色合いも古臭く、フェイク予告編までセットになっている。ちなみに、グラインドハウスは数本立てなのが通常だったそうで(現代日本で言ったらテレ東・昼間の映画枠と木曜洋画劇場を続けて見る感じだろうか)、本作もロバート・ロドリゲス監督作品『プラネット・テラー』とセットになっている。一部劇場ではセット上映された(つまり本来の姿で上映された)のだが、私には都合3時間強に耐える程の愛はないの・・・ごめんタランティーノ。
 女の子たちが元カースタントマンの殺人鬼(カート・ラッセル)に追われるというアクション&サスペンス映画であるはずなのだが、肝心のカーチェイスにたどり着くまでが長い!カーチェイスが始まると俄然ワクワクして、カースタントのアナログ加減も滅法面白いもんで、これができるなら早くやらんかい!って思った。で、それまで代わりに何をしているかというと、女の子たちが延々とダベるわけです。タランティーノ映画の登場人物達は男女関係なくよくダラダラとおしゃべりをするが、本作では特にそれが顕著だった。タランティーノは女性のおしゃべりには脈絡が無い(そして延々と続く)ということをよくわかってんなー。会話の内容は結構えがつないし、そもそも殆ど意味を成していない。でもその意味なさがガールズトークっぽくてよかった。会話がとりとめもないんだけど、意外に飽きないのね。タランティーノがガールズムービーを撮ると本作になるのかもしれない。女の子たちが、皆ほどよく下品でどちらかというとダサいのもかわいかった。
 さて、この映画の殺人鬼はけっこうひどいことをやる(まあ殺人鬼だから)し、それに対して起死回生をはかる女の子たちがやることも結構ひどい。お子さんには見せられない殴打に次ぐ殴打なのだが、見ているうちに爽快になってくるのはなんでなんだろう。暴力苦手なのに、鉄パイプ持ってボコる気満々になってきちゃうよ。エンターテイメントとしての暴力てのはどういうことなんだろうなーとつらつら考えたりもした(『キルビル』の時も思ったのですが。タランティーノの映画の暴力描写はちゃんと痛そうなのに笑っちゃうんだよね)。
 ところで、この映画には女の子がいっぱい出てくるが、タランティーノはおっぱいではなくお尻と脚の人だということがよくわかった。意味なくチアガールの恰好している(一応、撮影中のモデルという設定なんですが)子がいるのには笑った。脚だけ延々と撮ったり、下からの舐めるようなショットが結構あったり、まごうことなくお尻&脚映画。これでロドリゲス監督の『プラネット・テラー』がおっぱい映画だったらバランスがとれていていいんじゃないかと思う(けど、ロドリゲスもおっぱいの人じゃないと思うんだよな・・・)。
 

『酔いどれ詩人になるまえに』

 チャールズ・ブコウスキーの自伝的小説『勝手に生きろ!』を、『キッチン・ストーリー』のベント・ハーメル監督が映画化。ブコウスキー(アメリカ人)原作なのにアメリカ・スウェーデン合作映画というのは何だか不思議だ。ブコウスキー(映画内ではチナスキー)役はマット・ディロン。ブコウスキーの小説を読むと、この人酒とタバコと女ばっかりでろくでもない人なんじゃないかと思うし、実際そういう人だったらしいが、それでも作品には(全てに対してではないにしろ)ぐっとくるし、作品内のブコウスキーのキャラクターもどこか憎めない。
 映画はブコウスキーの作家修行時代、と言えば聞こえはいいが、投稿作品はどの出版社でも採用されず、生活費を得る為の職も長続きせず、昼間から酒を飲んでフラフラしているという、社会的にはろくでなし決定な時代にスポットをあてている。でも、彼を心底「駄目な奴」と思えないのは、彼が他のこと(仕事や女性関係)にはいい加減極まりないが、書くことだけは絶対やめず、何度も何度も原稿をポストに投函し続けているからだ。書くことに対してだけは筋が通っているというか、誠実であり続けようとする姿勢が垣間見られるのだ。言葉を綴ることが自分の生き方であるという確信はブレない。ブコウスキーは多作な作家で作品の質もまちまちだが、元々何であれ書かずにいられないタイプの人だったんじゃないだろうか。もちろん、ブコウスキーが後に作家として評価されたからそう思うという側面は強いのだが、これが無名の作家志望者の話だったとしても、己の才能に見切りを付けられないイタい奴だとは思いながらもちょっと胸打たれる、少なくとも憎めないなぁとは思うんじゃないだろうか。いや、今だったらニートとして一くくりにされるのかもしれんけど。
 マット・ディロンがブコウスキーってどうなんだろうと思ったが、これが意外にいい。あまり人としてちゃんとしていない(笑)雰囲気が良く出ていたと思う。歩き方に特徴があったが、ブコウスキー本人がああいう歩き方をする人だったのかしら。ナチスキーが女に対して意外と優しい(というか躊躇した感じがある)、と同時にすごく突き放した所があるのも、ほどほどのルックスのディロンが演じると妙に説得力がある。また、ナチスキーの彼女役のリリ・テイラーも、すごくよかった。下着姿見ているともの悲しくなるところとかねー、疲れた空気感が出ていて。
 あと、音楽のチョイスも、ほどほどに寂れた感じがしてよかった。サントラ買ってもいいと思う。

『厨房で会いましょう』

 主人公は天才料理人、ヒロインはその料理に見せられた人妻。料理が絡む関係ではあるが、実の所、料理そのものはさほど大きなウェイトは占めていない。そもそもコーラとチョコレートのソースなんて実現可能なの?
 エデン(シャルロット・ロシュ)はグレゴア(ヨーゼフ・オステンドルフ)の料理が食べたくて彼に近づく(そして最後まで彼の料理を絶賛する)が、いくら料理が美味しくても、虫の好かない奴の所へ毎週のようには通わないだろう。料理はあくまでとっかかりであり、彼女は彼の人柄に好感を持った。彼と一緒にいるのが楽しかったからこそ、彼に会い続けたし、彼女と夫の関係が好転したのも、美食の賜物と言うよりも、グレゴアと会うことで、変な言い方だが夫との関係の煮詰まり度が下がったからではないかと思う(他に友達いなさそうだったし)。
 一方、グレゴアにとって料理は一人で高みを目指すものだった。しかしいわゆる高級食材を使った美食というだけではなく、食べる人のことを考えて作るというのも料理の一つの要素だと気付いていく。どんなに美味しい料理を作れても、食べる人の姿が見えないと空しい。それが彼の最後の選択に繋がるわけだが、このオチはよかったんじゃないかしらと思う。彼が一人で作っていた料理より、こっちの方が食べてみたいと思った。
 さて、グレゴアとエデンにとって不幸だったのは、彼女の彼に対する好意と、彼の彼女に対する好意の種類が違ったことだ。彼は彼女に恋していたが、彼女は彼に友情を求めた。男性からしてみたら好意に付け込むひどい女ということになるのかもしれない。確かに、エデンはグレゴアの感情や周囲の目に対して無頓着すぎるし、2人を襲うトラブルも、彼女のうかつな行動が引き起こした側面が大きいだろう。しかし、異性に友情を求めるのは(たとえ相手が自分に恋愛感情を持っていたとしても)そんなにいかんことなのか、と釈然としないところもある。少なくとも、夫にぎゃんぎゃん責められる筋合いはないと思うのだが・・・。そのね、恋愛とか夫婦関係以外の関係もほしいわけです。そのへんわかってよーという気もする。また、夫がもっと妻子のことを考えて行動していれば、エデンとグレゴアの関係が深まることもなかったんじゃないかと思う。
 そうそう、エデンの夫がグレゴアに嫉妬する様は大変見苦しい。女の嫉妬は怖いかもしれんが男の嫉妬の方がみっともないかもしれない。相手に突出した才能があるからまた拍車がかかっちゃってるあたりも、こいつ器が小さいなぁと。相手がグレゴア以外の一般人だったら、確実に訴えられてるよ。まあこの場合、訴えられたほうがダメージ少なかったかもしれんが・・・
 予告編ではほのぼのした、ハートウォーミングな雰囲気だったが、むしろ苦い作品だった。あと、妙なユーモアがあって、深刻になりすぎないところはよかったと思う。エデンの夫もその友達も下衆な奴ですが、描き方におかしみがある。

『ぐるりのこと』

梨木香歩著
 自分の周囲のことだから「ぐるりのこと」。タイトルのチョイスがいい。著者の作品を読むと、小説であれエッセイであれ、この人はこんなに繊細で明敏なのに、同時に妙に鈍感なところがあって不思議だと毎度思う。今回もそう思った。ぐるりとゆっくり見渡していきたいと考えているわりには妙に思い込みが強かったり(基本的に一途な人なのかしらと思う)、自分のナイーブさと自分への厳しさに縛られているようなところがあって、アンバランスだ。そこが面白いといえば面白いが、読む側も著者の思考に就き合わせられるわけなので、振り回されて疲れる。ちなみに、イギリスのセブンシスターズという場所を散歩したときのエッセイが収録されているが、セブンシスターズはいいですよー。昔行ったことがあるのだが、また行きたくなってしまった。

『チェシャ・ムーン 探訪記者クィン』

ロバート・フェリーニョ著、深井裕美子訳
 探訪記者って何かと思っていたら、トップ屋とかゴシップ系特ダネ記者のようなものらしい。主人公である記者・クィンは基本マッチョなキャラなんだが、暗い過去やら家族関係やらの設定を加えすぎているように思う。設定の一つ一つが濃い味で、お互いに効果を消しあってしまっている。対して、新進気鋭のカメラマンや熟年売れっ子司会者など、女性キャラクターは皆生き生きとしている。キャラ立ては上手いが、正直言ってストーリーは少々弱い。ショウビズ界が舞台だからか、微妙に雰囲気がチャラいのがおかしかった。ちょっと、昔のトレンディドラマみたいな感じがした。

『トランシルヴァニア』

 トニー・ガドリフ監督作品のヒロインは、総じて気が強く性格が悪いと思うのは私だけか。それが気に障ると同時に魅力的でもある。全然上品じゃないんだけどね(笑)。私は本来、感情のテンションが高い映画は苦手なはずなのだが、ガドリフ監督の作品は、女性も男性も喜怒哀楽が激しく、特に女性が情熱的であるにもかかわらず、何故か惹かれる。音楽がいい、というのも一因か。
 ふいに姿を消したロマのミュージシャンである恋人ミランを追い、トランシルヴァニアまでやってきたジンガリナ(アーシア・アルジェント)。お腹にはミランの子がいるのだ。しかしミランにはすげなくあしらわれ、ショックを受けたジンガリナは友人の言葉も聞かず飛び出した。フラフラの彼女を助けたのは、ロマ相手の商売もしているらしい旅の男・チャンガロ(ビロル・ユーネル<私、この人の顔がなんか好きなんです)だった。
 なし崩し的ロードムービーとでも言うべき、不思議な作品だった。チャンガロは元々旅する男だが、ジンガリナと行き会ってからは彼女に引っ張られるように移動し続ける。しかもジンガリナが結構性格悪い(笑)。「こいつよくわかんねーしめんどくせー」と思いつつ、その性格の悪さを許容してしまう男と彼をいつのまにか翻弄する女という組み合わせが愉快だった。
 私はロードムービーが好きなのだが、この映画も移動中の場面がなかなかいい。予告編でも使われていた、自転車で走るジンガリナの脇をチャンガロが笑いながら車で走るところ。このシーン、通りがかりの老人が車に同乗しているのだが、「ロマの女が自転車に乗っている所を初めて見た」と驚くところがおかしかった。ロマの女性は自転車乗らないの?そうそう、老人が良く出てくる作品だったが、皆とても味のある顔をしている。多分、プロの俳優ではなくて素人なんだと思うのだが、存在が濃い。ジンガリナのお産に駆けつけるおばあちゃん達とか、強烈です。ジンガリナが「魔女!」と怖がるだけのことはある。
 ジンガリナは最初、自分を棄てた男を諦められずに追って縋るようなキャラクターなのだが、教会でまじないを受け、ロマの女の恰好をしてから急に強くなる。監督の前作『愛より強い旅』でも、ヒロインが自分のルーツに立ち返ることで回復していく、というパターンだった。それはちょっと単純すぎるんじゃないかと思ったのだが、ガドリフ監督にとって自己のルーツを確認するというのは、それほどに重要なことなのだろう。また、本作の方がファンタジックな部分があり、服装によってキャラクターが変化していくというのもすんなり受け入れられたと思う。

『明るい瞳』

 
 田舎町で兄夫婦と同居しているファニー(ナタリー・ブトゥフ)は情緒不安定で、周囲からは変わり者扱いされている。兄嫁の浮気現場を目撃したファニーは怒りを爆発させ、家を追い出されてしまう。監督はジェローム・ボネル。
 あらすじ書いてみるとファニーが可愛そうな子みたいだけど、本人に悪意はないにしろ、こんな人身近にいたら厄介そうだなぁという人ではあるので、むしろ兄の苦労にしみじみとしてしまった。ファニー自身も、兄に迷惑かけているというのが分かっている(でも迷惑かけてしまう)というのがまたしみじみとさせる。このへんの、ヒロインを単にかわいそうな子にしないところのバランスがよかったと思う。兄は小学校教師と言う地域社会との繋がりの強い職なだけに、こりゃー気苦労も多いわ、と同情してしまうのだ。
 予告編を見た限りでは、なんだかメルヘンぽいのかなと思っていたのだが、その印象は半分当たって半分外れだった。ファニーは自分を受け入れてくれる人とめぐり合う。ファニーは他人とのコミュニケーションがうまく取れない人だが、巡り合った彼とは、言葉は全く通じない(フランス語とドイツ語だから)のになんだか通い合うものがあるのだ。彼と巡り合ったところで物語が終了したら、本当にメルヘンと言っていいところだ。でも監督はそうはしなかった。着地点は意外にほろ苦い。彼と一緒にいれば幸せかもしれないが、そこは一種のユートピア、夢の国であって、生身の人間である彼女が暮らすべき場所ではない。自分が生活する「この世」に帰らなければならないのだ。しかし、彼女が「この世」で生きていくことを選択したことに、ささやかな希望が見えてくる。
 森の中の空き地や小道の感じがとてもよくて、山へ行きたくなってしまった。あんな森の中を散歩したい。自然が人を癒すというのはあまりに紋切形だし、素朴すぎるきらいはあるとは思うが、やっぱり山とか海とか、たまに行くといいもんですよ。

『神様がくれた指』

佐藤多佳子著
 出所したてのスリとギャンブル狂の占い師がひょんなことから行き会う。文章はちょっと野暮ったいものの、読みやすく引き込まれる。小説の基礎体力が高いとでもいいますか、ストーリーの組み立てにしろ、状況説明しろ、わかりやすいのだ。相変わらず手堅いなぁ。ただ、主人公2人共が、新しい一歩を踏み出したようであっても自分の業からは逃れられない、結局変われないんじゃないかという気配がし、どうもホロ苦い。あと、重要なキャラクターとして女性2人が登場するのだが、この2人がどっちも私の得意ではないタイプで辟易した。「愛をください」オーラを出している人にはイライラしますよ!特にスリの幼馴染の女性。こういうタイプが一番しぶとくて美味しい所を持っていくんだよなー、でも男はこういうタイプにコロっと落ちちゃうんだよなー、お前ら皆騙されてるから!と思った。いや私怨とか、そんなことないですよ!本当に!
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