3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

2007年05月

『スモーキン・エース/暗殺者がいっぱい』

 ラスベガスで人気のマジシャン、今はギャングまがいのことをしているエースは、FBIに司法取引を迫られていた。ギャングと親しいエースを押さえれば、マフィアの大物・スパラッザを逮捕しファミリーを壊滅することができる。スパラッザはエースを始末する為に凄腕の殺し屋を雇ったという噂が流れ、それに便乗しようとあっちこっちから殺し屋達が集まってきた。
 あらすじや、タイトルロールの雰囲気、登場人物紹介の字幕のノリからは、『パルプフィクション』的な、なにやら軽快なクライムムービーなのかしらと思っていた。多分、制作側も作り始めた時はそのつもりだったのだと思う。しかし、クライマックスに向かうにつれてどんどん陰鬱かつバイオレンスになってきた。登場人物も、最初はコミックぽくキャラをたてようとしていたみたいなのだが、だんだん当初の設計図からずれていってしまったような印象を受けた。サブタイトルで群像劇プラスおバカ映画かと思っていたら大間違いだった。こんなサブタイトル付けなければよかったのに・・・。
 監督は「NARC」で好印象だったジョー・カーナハン。「NARC」はけっこう重くて硬派な警察映画で、個人的にはかなりすきなのだが、もしかして何撮ってもこうなっちゃう人なのだろうか。クールさ・軽妙さを目指したものの、本来持っている漢気と硬派な気質がだんだん表面化してきちゃったみたい。そしてこの手の作品に必須のユーモアセンスに少々乏しい。制作側からの要求もあったのだろうが、お題と監督の資質とがちょっとミスマッチだったみたい。結局監督の資質に映画が引っ張られてしまった感じだ。
 最後に2つ用意されているサプライズのうち、1つは途中で見当がつくが、もう1つはちょっと蛇足だったかもしれない。そもそもこの人のものでないといけない必要はあったのかな?確かに安全性は高いかもしれないけど、調達するリスクを考えると・・・。シンプルに謎1つでよかったんじゃないでしょうか。もっとも、ミステリー、サスペンスとして伏線を楽しむという類の映画ではなく(そういう映画かと思ったんだけど)、とにかく派手にドンパチやって血肉が飛びまくるのが見所の映画と思った方がいいのだろう。その手のものがお好きな方には、銃撃シーンはかなり派手(まあどこかで見たような映像ではあるが)なのでお勧め。ただ、ドンパチを見てスカっとするには少々後味の悪さが残った。人間、個人の感情の前には大儀は吹っ飛ぶのでしょうか。

『赤い文化住宅の初子』

 兄と2人暮らしの中学生・初子(東亜優)は、高校受験を控えた中学3年生。同級生の三島くんは、一緒の高校へ進学しようと勉強を教えてくれる。しかし初子にはお金がない。ラーメン屋のアルバイトもクビになり、兄(塩谷瞬)も勤務先の工場で乱暴をしてクビになってしまった。学費が払えず進学できないことを、初子は三島くんに告げられない。
 貧乏っぷりが身にしみてきて哀しくなっちゃったよ・・・。初子は電気代を払えず電気を止められるレベルに貧乏なのだが、「貧乏で高校に進学できない」というシチュエーションは、今の中学生にとってどのくらいリアルなんだろうとふと思った。卒業式間近、就職が決まった初子の前で、同級生たちは「最近家庭の都合で就職って多いんだってねー。でも働きながら資格取って正社員にとか、大検とか、色々あるんだってねー」という世間話をしている。しかしその話の内容は、初子の現実とは程遠く、カッときた初子は教室から飛び出してしまう。このシーンの同級生たちの「知ってるけど分かってない」感じが残酷だ。初子に好意を寄せている三島くんですら、この時の初子の心情には思い至らない。努力すればなんとかなる、とも言えるだろうが、経済力の差って、やっぱり決定的なんだよなとしんみりしてしまった。将来に対する自由度が全然違うもの。
 初子は母親が好きだった「赤毛のアン」を何度も読み返す。アンは大概な妄想娘さんだと思うが、初子もしばしば妄想する。この映画は大体、どこが現実でどこが妄想かきちんとわかるように演出されているが、基本的に初子の主観による光景なので、ひょっとするとここも初子の妄想なのでは?とも思う所も。初子は「赤毛のアン」が嫌いだと言う。皆がアンのことを好きになって幸せになるなんて出来すぎている、これは猩紅熱で死にそうな孤児・アンが見た夢なんじゃないかと言うのだ。そのセリフを踏まえると、特に三島くんとのやりとりは、「そうだったらいいのにな」という初子の現実逃避なんじゃ・・・と勘ぐりたくもなるのだ。
 しかし初子は徹頭徹尾無力ではあるが、逃げているわけでもないように思う。貧乏に対しても不幸に対してもじたばたしないだけなのだ。こういうタイプの方が、妄想を日々の糧にして案外しぶとく生き残りそうな気もする。担任教師に「誰かが助けてくれると思ってるでしょ」となじられるが、そうでもないのでは。将来とか幸運とかに対する期待度が極端に低そうだ。とは言っても、人生諦めた中学生というのは見ていてちょっと辛い。侘しい空気が漂いまくっている中で、初子と兄があやとりをする場面で少しだけ和んだ。

『ゲゲゲの鬼太郎』

 ひょんなことから、「妖怪石」を手にしてしまった人間の姉弟を守る為、我らがゲゲゲの鬼太郎(ウェンツ瑛士)が行く!原作マンガでおなじみの妖怪たちは登場するが、ストーリーは全くのオリジナル。
 子供が森を探検しているという導入部分は、これは子供向け映画なんですよときちんと提示していて悪くなかった。妖怪の造形はマンガっぽく、あえてリアルさから距離を置き、「マンガ映画」という立居地に徹しようとしていたように思う。が、子供向けとはいえ、いくらなんでも脚本がひどすぎる。
 冒頭で、アミューズメントパーク造成の為に森が破壊され、お稲荷さんが壊されてしまったという設定が提示されるので、これは自然を大切にネ!的なメッセージに着地するのかと思ったら、あっさり放置。その他もろもろ、30分前に起きたことを速攻で忘れているんじゃないかと思うような展開に唖然とした。素人6人くらいでリレー式にお話作ったらこんなんなっちゃったよ、みたいな突貫工事的ストーリー。天狐様降臨に至っては、出てこられるならもっと早く出て来いよ!と誰もが突っ込んだに違いない。お前がちんたらしてるから話がややこしくなったんだよ!
 ただ、小ネタはそれなりに面白かったと思う。原作「鬼太郎」には、色々と突っ込みたくなる、もしくは妖怪ポストに質問のお手紙を投函したくなる所(髪の毛針の本数制限はあるのかとか)があると思うのだが、それらの突っ込みに対して自ら回答、ないしはボケをかますという不思議な映画だった。
 CGのレヴェルはそれなりで、懸念していた目玉のおやじの出来はなかなか。あと一旦木綿のクオリティは高い。その他の妖怪にも概ね満足です(まあ日曜朝の特撮ものと思えば・・・)。で、肝心の鬼太郎だが、私は悪くなかったと思う。メインキャラクターの中で最もオリジナル度が高いキャラクターになっていたが、押しに弱い(子供に一方的に懐かれて憮然とする)鬼太郎というのは新機軸ではないでしょうか。猫娘(田中麗奈)と最終的にはいい感じになるのだろうか・・・と思っていたら最後まで迷惑そうだったのもおかしかった。ただ、映画としてはかなりぐだぐだなので、純粋に面白い映画を見たい人、原作に思い入れのある人には全くお勧めしない。

『ハイスクールU.S.A アメリカ学園映画のすべて』

長谷川町蔵、山崎まどか著
 アメリカのいわゆる「学園もの」映画(というジャンル名はアメリカにはないそうだ。ハイスクールを舞台とする映画という程度のとらえ方みたい)について、このジャンルにめっぽう詳しい2人が語りまくる。カバーしている範囲の広さも知識の豊かさもすごいのだが、何より学園映画に対する愛がほとばしっている。注釈と索引の充実っぷりがすごい。データブックとしても使えそう。それにしてもアメリカのハイスクールってどこの帝国?みたいな強固なヒエラルキーがあって恐ろしい。地味な不細工は死ねというのか!ティーン向けの映画から、アメリカ社会が垣間見えて大変面白い力作。

『きれいな猟奇 映画のアウトサイド』

滝本誠
 題名の通り、猟奇的な映画ばかりを扱った映画評論集。まずは『ツイン・ピークス』からでしょう!というわけでデイビッド・リンチへの愛にあふれています。これを読むとリンチ作品見てナイン・インチ・ネイルズ聴かなくちゃならない気になってくる。掲載誌がバラバラなのにも関わらず妙な統一感があるのは、内容の偏りっぷり故か。ミステリ・ハードボイルド・ノワール映画が好きな人は必読でしょう。著者の饒舌な語りがまた楽しいのだが、注釈までもが饒舌すぎてちょっと読みにくかった。面白さは抜群なんですが。英語タイトルは「THIS SWEET SICNESS」。この病は治りそうもない。

『孔雀の羽の目がみてる』

蜂飼耳
 日常の風景、本にまつわる話、旅にまつわる話と3部にわかれたエッセイ集。全く異種と思われていたものが一編の中に投入されて、ちぐはぐなような気もするが、やはりどこかでイメージが繋がってくるという所は、著者の本業である詩にも似ている。文章そのものに魅力のある一冊だった。思いがけなく「アラン島」(J・M・シング)の話が出てきたのがちょっとうれしかった。

『霧舎巧傑作短編集』

霧舎巧著
 デビュー前の作品も含めた本格ミステリ短編集。でも傑作というのはちょっと言い過ぎかも。’94年の作品である「手首を持ち歩く男」はさすがにちょっと苦しいし、他作品も文章がつたない。しかし書き下ろし「クリスマスの約束」を読むとなるほど、と。さすが伏線の鬼。しかしこの人の本領はやはり長編にあると思う。短編だと、得意とする伏線があまり活かせないのが物足りなさの一因か。文庫版解説が本格ミステリビギナーにもわかりやすいものなのでお勧め。

『めぐらし屋』

堀江敏幸著
 死んだ父親が暮らしていたアパートに片付けの為に出向いた蕗子。そこに「めぐらし屋さんですか」と尋ねる電話がかかってくる。父親はいったい何をしていたのか。著者は「何物でもない人」「どことも言えない場所」に対する愛着、思い入れを持っているように思う。蕗子の父親は世間一般から見たら決して人生の成功者というわけではないだろうが、本人の中では充足しているのだ。内向きとも言えるだろうが、そういう姿勢のまま他者とゆるやかな関係を結んでいく姿は、むしろ好ましい。そっと生きることの美しさがあると思う。

『黄色い涙』

 永島慎二の同名マンガを原作とした、犬童一心監督の新作映画。1974年にNHKで原作を同じくするドラマが放送されたのだが、犬童監督はこのドラマを好きだったのだとか。主演はアイドルグループ・嵐の5人。
 漫画家の村岡栄介(二宮和也)が暮らす6畳一間のアパートに、ひょんなことから知り合った歌手志望の井上章一(相葉雅紀)、画家志望の下川圭(大野智)、作家志望の向井竜三(櫻井翔)が転がり込んだ。近所の酒屋の店員・勝間田祐二(松本潤)や章一に思いを寄せる食堂の娘・時江(香椎由宇)に心配されつつ、彼らの共同生活が始まった。
 舞台は1963年の東京。セットにはかなり力が入っているので、当時の東京を知っている人にはとても懐かしいかもしれない。舞台が私の地元近辺なもので、(当時のことは当然知らないのだが)感慨深いものがあった。夢はあるけどお金はなく、そこいらのものを質屋に入れて食費に当てるという生活。しかし、貧乏臭さや悲壮感よりも、若い男の子ががやがや集まって楽しそうだなぁという雰囲気が強い。バーチャル貧乏とでも言いましょうか、実際に若い男の子が何人も部屋に転がり込んでいたら、もっと部屋が汚れるし、何か臭ってきそう(ごめんね男子諸君)な雰囲気がありそうなものだ。この映画は「貧乏」「汚い」という設定ではあるが、どこか小ぎれいでミニチュアールめいている。これが物足りない、ぬるいという人もいるかもしれないが、意図的にこぎれいにしているのだろう。原作が永島慎二とは言え、嵐が主演である以上アイドル映画であることは免れないし、観客の大半は嵐ファンの女の子だろう。リアルに貧乏くさく汚れていたら、ファンはひいてしまう。嵐ファンをひかせず、アイドルを立てつつアイドルのファン以外も楽しめるようにするという、犬童監督のさじ加減を見た。
 ただ、映画としてはちょっと冗長で、メリハリに欠ける。基本的に小さいエピソードの連続という構造なので、流れがだらだらとしてしまっているのだ。これは脚本の問題だろう。悪くはないのだが・・・。しかし展開上のメリハリはいまひとつだが、犬童監督はここぞという所で役者が魅力的に見えるショットを入れてくるので、それで映画がもっている感じがした。意外にアイドル映画には向いているのかしら。
 4人の男の子が同居する、いわば夏休み的な夏の日々は楽しげだ。しかし夏休みはいつかは終わる。この物語を通り一遍のアイドル映画と隔しているのは、これが基本的に夢敗れた人たちの物語だからだろう(映画の設定は『トキワ荘の青春』に似ているが、この点が大きく違う。トキワ荘の面子は将来のスターだもんね)。細々と自分のマンガを描き続ける村岡以外は、皆夢を捨て、生活の為にごくごく普通の職に就く。後味はほろ苦い。しかしそれを敗者とは呼ばないのがこの映画の優しさでもある。夢を捨てることが不幸になることというわけではない。ただ一人夢を語らなかった勝間田の故郷での姿が、それを雄弁に物語っているのだ。夢を追うこと、夢を諦めることを否定も肯定もしない姿勢が、むしろ誠実だったと思う。若いお客さんを意識してのことだろうか。
 嵐の5人はなかなか健闘していたと思う。ハリウッド映画に出演してしまった二宮は最早安全パイだろうが、ドラマ出演のイメージのあまりない相葉、大野も味があったと思う。特に大野が意外に良くてびっくりした。多分彼本来のキャラクターによるところも大きいのだろうが、天然でどんくさい(褒めてます)役柄にはまっていた。あと櫻井が潔く半ケツを披露しているので、ファンの皆さんはぜひ(笑)。

『主人公は僕だった』

 国税局職員のハロルド(ウィル・フェレル)は同じような毎日を繰り返す平凡な男。しかしある朝彼は、自分の行動を逐一読み上げる女性の声を聞く。その声は彼はもうすぐ死ぬと告げるのだ!どうやら彼は、何かの小説の主人公になってしまったらしい。運命を変えるべく奔走するハロルドだが。
 この手の余命タイムリミットものというと、ダメ人間だった主人公がやりなおそうとするというパターンになりそうだが、本作は主人公が至ってちゃんとした人間だという所が面白い。いい仕事(イメージは悪いかもしれないけど)に就いているし、きちんと仕事をこなして、自分の家も持っている。全然ダメじゃない。むしろ、ちゃんとしすぎていてルーティンから外れられないのだ。外れ方がわからないと言った方がいいかもしれない。とはいっても自分の命がかかっているから、ハロルドはあれこれやってみるのだが、やることが奇天烈なことではなく、やっぱりちゃんとしているのが面白いし、そこがいいなぁと思った。
 彼がやってみるのは、ギターを買う、友達とご飯を食べる、気になる女性と話をしてみるというちょっとしたことだ。しかし、そのちょっとしたことをやってみるだけで日常が輝き始める。月並みな主張ではあるのだが、ウィル・フェレルが大真面目な顔で演じると、これがやたらと説得力がある。私は今まで、フェレルをいまいち好きではなかったのだが、本作の彼はとてもよかった(セリフに関しては、字幕もよかったんだと思う)。話し方の丁寧な人というのが、ちょっと新鮮だった。ギター弾くところとか案外キュート。
 残念だったのは、作家(エマ・トンプソン)側のエピソードとの絡みが不消化だったこと。その解決方法は、作家としてのプライドとは相容れないんじゃないかしらと引っかかった。もうひとひねりほしかったなぁ。ハロルドが悟りきってしまうというのも唐突だったし。ハロルドと作家とが対面してからの展開が、少々バタバタしていたように思う。監督は『チョコレート』『ネバーランド』のマーク・フォスター。なかなか良心的な作品でした。
 

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