3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

2007年04月

『BRICK ブリック』

  ブレンダン(ジョセフ・ゴードン=レヴィット)は、少女の死体を発見した。2日前、その少女―ブレンダンの元カノであるエミリー(エミリー・レイヴィン)がブレンダンに奇妙なメッセージを残した。彼女は何かにひどく怯えていた。トラブルに巻き込まれたらしい彼女を助けようと、ブレンダンは彼女の周辺調査を始める。
 孤独な男が昔の恋人を助けようと奔走する、古典的ともいえるハードボイルド映画なのだが、舞台が田舎の高校、探偵役が高校生というところが変わっている。ブレンダンはいつもひとりきりでいる、タフで一匹狼な探偵そのものだし、悪女(演劇部の花形女子生徒)、チンピラ(ヤク中の不良)、暗黒街の大物(町の麻薬ディーラー)、情報屋(オタク男子生徒)、警察署長(高校の副校長)、そしてファム・ファタール(コケティッシュな女子高生)と、ハードボイルドものではお約束なキャラクターが、すべて高校とその周辺という舞台に置き換えられているのだ。その置き換えにより不思議なおかしみが生まれている。暗黒街の大物といえばでかい高級車に乗っているというのがお約束だが、本作の麻薬ディーラーは改造ヴァン(内装がリムジン風)に乗っている。基本的に田舎の若者だからアジトは実家で、探りにきた探偵にふるまわれるのがミルクとコーンフレークとかリンゴジュースだったりする。作風はばっちりハードボイルドなので、こういう所が妙におかしい。
 しかし登場人物のセリフには、彼らが高校生であることがはっきりとわかる要素は少ない。高校生としての言葉は必要最低限に抑えてある。登場人物を成人男女に置き換えてもそのまま通用しそうなものだ。頑固なくらい、ハードボイルドの定型を守っている。ストーリーを楽しむというよりは、形式を楽しむ映画であるように思う。高校生がハードボイルド劇を演じている、ハードボイルドもののロールプレイングをしているようにも見えるのだ。
 ロールプレイングのように見えるというのは、登場人物の内面や性格について、具体的な描写がごく少ないというのも一因だろう。彼らは「~という役回りのキャラクター」であって、その内面はそう重要ではないのだ。しかしそれが物足りないというのではなく、逆にこの映画の持ち味になっている。ストイックとも言える不思議な魅力があるのだ。ミステリとしては(特に後半は)そう精緻なわけではないが、古き良きハードボイルド的な雰囲気は最後(探偵の末路についても)まで維持されていた。ハードボイルド好きとしてはうれしい映画。
 おそらく低予算製作だったのだろうが、ミニマムゆえの良さがある。舞台が地方の高校なのも、ロケ地が限定されて安上がりだからか(大人が主人公だとすぐに行動範囲が広がっちゃうし)。監督はライアン・ジョンソン。シンプルでセンスのいい映像だと思う。次回作も楽しみ。ブレンダン役のジョセフ・ゴードン=レヴィットは、メガネをかけているとぼさっとした印象なのだが、よく見ると結構かっこいいところがポイントだと思う。探偵として、クールだけどあまり強くないところも(頻繁にボコられる)ポイント。エミリーとの関係におけるブレンダンのある至らなさが、この映画で最も「高校生」らしさを匂わせるところかもしれない。

『神童』

さそうあきらの傑作音楽漫画が映画化された。監督は荻生田宏治。おちこぼれ音大生のワオこと菊名和音(松山ケンイチ)と、天才少女ピアニストの成瀬うた(成海璃子)のピアノを介した交流と、それぞれの苦悩を描く。
 決して造りの達者な映画ではない。前半はワオの受験という一大イベントに向けてストーリーの軸がぶれないので、緊張感が途切れずびしっと決まっていたと思う。しかし後半になると、ピアノは好きなのに空回りしてしまうワオ、深刻な問題を抱えるうたというふうに話の軸がばらけてしまった。別に軸が2本でもいいのだが、うたの抱える、ある問題の焦点がちょっとボケているので、彼女が辿りついた境地についても曖昧なまま、どうも印象が散漫になってしまうのだ。前半はかなり良かっただけに惜しい。
 しかし、この映画が面白くなかったのかというとそんなことはなくて、むしろ見ている間中、何か幸せな感じがした。ワオとうたの年齢を超えた、音楽を介した交流がいい。原作ではちょっと恋愛感情あり(主にうた側に)な関係だったが、この映画では性愛の匂いは殆どしない。純愛ですらなく友愛とでも言うべき、お互いを思いやる関係にぐっとくる。そして何より、音楽がいい。使用されているクラシック曲はもちろんだが、ハトリ・ミホによるサウンドトラックと主題歌に透明感があって、映画の瑞々しさを引き立てている。音楽の力ってやっぱり強いわ。そしてその音楽と一人で向き合うのではなく、誰かと寄り添うものとしての音楽という所に、この映画の優しさがあるのではと思う。本作の中の音楽は、登場人物のセリフにもあるのだが、生きるためのものなのだなと。
 主演の松山ケンイチと成海璃子は好演。松山ケンイチはかっこいいのか悪いのか大変微妙なルックスだと思うのだが、本作ではもさっとした感じがワオのキャラクターに合っていた。そして成海璃子がとても良い。きりりとした、ちょっと骨太な強さを感じさせる。いわゆる美少女キャラに付きまといがちな媚がない所に魅力がある。ちゃんとピアノを弾く人の手になっていたところもよかった。

『ブラッド・ダイヤモンド』

これを見たらダイヤモンドが欲しいの!とはまず言えなくなる力作。不法取引され武器の資金となっているという「ブラッド・ダイヤモンド」問題を扱った作品だが、サスペンス映画としての娯楽性も高い。アフリカのシエラレネオ共和国。漁師のソロモン(ジャイモン・フンスー)が暮らす村は反政府組織RFUに襲撃される。村人は惨殺され、ソロモンの息子を含む子供達は兵士として徴収された。ダイヤモンド採掘所で強制労働させられていたソロモンは、巨大なピンクダイヤを掘り当てる。隙を見て逃げ出しダイヤを隠したものの、今度は政府軍に捕らえられてしまう。ソロモンと同じ刑務所に居合わせたダイヤ密売人のアーチャー(レオナルド・ディカプリオ)は、ピンクダイヤを奪おうとソロモンを釈放させ、彼に近づく。
 いやー面白い。影像にぐぐっと引っ張られる感じがする。何か『トゥモローワールド』見た時の感じと近いのだが、撮影が良いからかしら。やたらと逃亡シーンが多いのだが、この逃げるシークエンスがどれも迫力があって面白いのだ。戦闘状態の街中を走りまわるところとか、ぞくぞくします。ソロモンはアーチャーを信用していないし、アーチャーは真っ正直なソロモンにイラついているので、2人のやりとりは最初かみ合わないのだが、それがかみ合った時にぐっとくるものがある。いびつなバディものとしても面白いかも。
 ダイヤを巡るあれこれについても重く心に残るのだが、それ以上にシエラレネオが抱えてしまった政府軍とRFUとの内戦状態に鬱々となる。RFUのやり方が極端で、ジープに乗って村にわーっとやってきて、ばーっと村人を銃殺して、物資強奪と適当に人員確保して(要するに人攫いです)キャンプに帰っていく。もう無茶苦茶です。ダイヤ採掘所で「俺たちは人民の味方だ!」と演説しているが冗談にしか見えない。何よりきつかったのが、子供をさらって兵士に仕立て上げていく過程だ。自分たちは強い、正しい、バカにする奴は殺してしまえとどんどん刷り込んでいく。ソロモンの息子も兵士として教育されていくのだが、子役がなまじ上手なんでよけいにぞっとするしいたたまれない。実はソロモンに対するある人物の復讐にもなっているわけだが、復讐としては最上級にいやらしいねこれ。映画後半で、少年兵だった子供達を引き取ってリハビリさせている施設が出てくるのだが、何か魂の抜けたような子供もいて、全くいたたまれない。
 『ラスト・サムライ』に続くエドワード・ズウィック監督作品なのだが、やさぐれた文明人が異文化の中に入っていくというシチュエーションが好きな人なのだろうか。もっとも、本作では異文化というよりもソロモンという善良な個人との交流により、アーチャーが変わっていくという側面が強いか。そもそもアーチャーはアメリカ育ちじゃなかったもんな。アーチャーは金の為なら他国の内戦等屁とも思わない、むしろ内戦続いたほうが金になっていいなぁと思っている人間なのだが、そんな人間でも善いことをしたくなる瞬間というのが訪れ得る。生きて金を手にする為にはこれをやったらまずいなと思っているのだが、何かの拍子でふっとやってしまう、でも死にたくないよな金欲しいよなという、矛盾に満ちた所がすごく良かった。
 ディカプリオの演技は、多分ここ数年の主演作の中ではベストだったと思う。彼が、元凄腕の庸兵という役柄を演じるようになったのかと思うと、感慨深いものがあります。将来的にはイタリアマフィアのボスの役とか出来るようになってほしいし、多分なるんじゃないでしょうか。アクションが様になっていたのも良かったです。ちょっと死ななすぎだったけど。

『ツォツィ』

 南アフリカのスラムに暮らす「ツォツィ(不良)」と呼ばれる少年(プレスリー・チュエニヤハエ)は、仲間と強盗して稼いだ金で生活をしていた。ある日若い女性が運転していたベンツを強奪したツォツィだが、車の中には赤ん坊が残されていた。紙袋に赤ん坊を入れ、途方に暮れるが。
 実に生きの良い映画だった。編集が上手いのか音楽の使い方が合っていたのか、映画にリズム感がある。少年が歩く、もしくは走るシーンがまた効果的だった。ツォツィの内面の変化を丁寧に追っているので、こっちの感情も一緒に引っ張られる。すごくエモーショナルでみずみずしい。監督はギャヴィン・フッド。本作で2006年アカデミー賞外国語映画賞を受賞しているが、受賞は納得だ。
 映画が始まって間もなく、少年達があっさりと人を殺す。ちょっと学のある少年は殺しを責めるが、他の少年達は取り合わない。ツォツィ達が飛びぬけて悪辣というわけではなく、そうでもしないと生き抜けない環境におかれているという点で、いわゆる普通の少年犯罪よりも大分深刻だ。少年達は刹那的で生きることに何も期待していないように見える。
 最初、ツォツィは表情に乏しく(意図的に目に光が入らない=目が空洞に見えるように撮影していたように思うが)、台詞も少ない。虚無的であると言ってもいいかもしれない。しかし、赤ん坊を拾い、赤ん坊に授乳してれた女性(ツォツィが脅して授乳させるのだが)と接するうちに、表情がだんだん増えてくるのだ。ツォツィは赤ん坊が乳を吸うのを見ている時に、初めて子供っぽい、リラックスした表情を見せる。この過程に、なんだかはっとしてしまった。ツォツィは最初から孤児だったわけではなく、両親と一緒に暮らしていた。暴力的な父親が病気(おそらくHIV)の母親をなじり、犬を蹴り殺すのを見て、家を飛び出したのだ。彼が赤ん坊を手放さないのは、赤ん坊に対する愛着であるのと同時に、自分の幼年時代をもう一度やり直したいという気持ちの表れではないかと思う。授乳される赤ん坊を見るツォツイの視線は、何かに憧れている人のものに見えるのだ。ラスト、それまで封印していたものが一気に流れ出したようなツォツィの姿には鳥肌が立った。演じるチュエヒアハエの渾身の演技は必見。
 一概に南アフリカと言っても富裕層と貧困層との差が激しく、どうにも見ていて憂鬱だった。格差是正と言っても、ここまで広がってしまうとどうしようもないのではと。ツォツィが富裕層が暮らす高台から、スラム街を見下ろすシーンが印象的だった。
 ツォツィの赤ん坊に関する無知さにもはっとさせられる。オムツのかわりに新聞紙を当てたり、練乳を赤ん坊に与えたままにして蟻まみれ(怖い!)にしてしまったり、何より紙袋に赤ん坊を入れて持ち歩くというのが軽くショックだった。紙袋って、発想になかったな・・・

『オール・ザ・キングスメン』

 1949年にアカデミー賞で3部門受賞した作品(ロベール・ロッセン監督)のリメイクになるのか?リメイクというよりも原作本(ロバート・ベン・ウォーレン)が同じという方がいいのか。1949年、ルイジアナ州。新聞記者ジャック(ジュード・ロウ)は、汚職を告発したものの周囲から相手にされなかった役人ウィリー(ショーン・ペン)と知り合う。やがてウィリーは州知事選に担ぎ出され、労働者階級の支持を受け見事に当選する。しかし権力が拡大するにつれ、ウィリー自身も汚職にまみれていく。
 最初は素朴さを持っていたウィリーが、知事になって再登場すると、やたらとふてぶてしく尊大な態度になっている。ショーン・ペンがこれでもかというくらい演技力を見せつけているのだが、正直言って熱演しすぎでうっとおしい。むしろ演技の引き算をしてほしいかも。演説シーンのパフォーマンスは特に派手なのだが、現代にこんな熱っぽい演説をしたら、聴衆は却ってひいてしまいそうだ。当時はああいった大袈裟なパフォーマンスの方が説得力あったのかしら。一方、記者役のジュード・ロウは、結構育ちはいいが荒んだ所のある(しかし甘さが抜けない)男を好演していた。だらしない感じがするところが合っている。
 汚職を糾弾していた側が、権力を握るなり同じ穴のムジナとなる皮肉。そして怖い(というか厭な気持になる)のは、彼が流されて同じ穴に入ったのではなく、明らかに自分の意思で同じ穴に入ったというところだ。もっとも、ウィリーは民衆の利益になる政治をするという姿勢は変えていない。しかしその一方で私腹を肥やし、目的のためなら汚職も恐喝も辞さない。結果が正しければその過程に難があってもかまわないのか?難しいところだと思う。結果は出してるんだから文句はないだろうと言うウィリーにたいして、ジャックは反論できない。
 ウィリーという政治家が物語の中心にいるが、主人公であるのはむしろ、ウィリーの周囲をうろつくジャックだ。彼はウィリーを支持し、側近となるが、安易に関わったせいで厳しい選択を迫られる。ウィリーが常に意志的なのに対し、ジャックは極力決定的な選択は避け、ことを曖昧なままにしようとする。性格も育ちもルックスも対照的に見えるのに、なぜウィリーと関わったのか。ジャックは自分が上流階級出であることにどこか引け目を感じている。労働者階級から支持されるウィリーの側に立つことで、ある種の贖罪、いや自己弁護をしたつもりになっていたのかもしれない。しかしウィリーは本来彼の住む世界とは敵対する立場にある。彼の親しい人々も、ウィリーのせいで傷ついていく。事態が泥沼状態になるまでなぜウィリーとの縁を切れなかったのか、不思議でもある。ショーン・ペン演じるウィリーには、そこまでの魅力を感じないのだ。単にジャックの優柔不断さが招いた悲劇とも見えるのだ。
 ところで、ジャックはウィリーを支持することで罪悪感を紛らわしていたのかもしれないが、ウィリーはジャックを側におくことで優越感に浸っていたようにも思える。自分にはないもの(家柄とかルックスの良さとか教養とか)を全て持っている人間が自分の為に働く、というのは、下品ではあるが一種の快感ではあるだろう。
 

『グラブ街の殺人』

ブルース・アレグザンダー著、近藤麻里子訳
 18世紀ロンドンを舞台とした時代ミステリ(その為かやたらと古めかしい文体だ)のシリーズ2作目。盲目の名判事サー・ジョン・フィールディングと彼の助手の少年ジェレミーが、出版業者一家惨殺事件に挑む。多重人格、新興宗教等、素材は結構今日的だ。ミステリとしてはもちろん、少年の成長物語としてもすがすがしくて良い。今回はジェレミーと同年代の少年(今でいうところのストリートチャイルド)が登場するので、そういった側面がより強くなっている。何より、ディー判事のジェレミーに対する態度が面白い。ジェレミーの能力をかってはいるがクールで、確固とした一線がある。階級社会故ということもあるだろうが、保護者としての適度な距離感がある。甘やかさず、同時にフェアであろうとするところがいい。ジェレミーの方も、何とかディー判事とフェアにやりとりできるようになりたいと悪戦苦闘するところがほほえましいのだ。

『弱法師』

中山可穂著
 能の演目を下敷きにした小説集。どの作品も形は違えど愛に関する物語だ。・・・が、この小説の登場人物たちは、私とは別のお星さまに住む人たちなんだと思いました。作品としては良いのだろうなぁというのは分かるが私の中にこの小説を読むためのアダプタがないらしく、登場人物たちの感情の強さとに辟易とするばかり。もう笑うしかない。私はこの小説を読むべき人間ではなかったみたいです。著者のファンの皆様ごめんなさい・・・。

『ジェイン・オースティンの読書会』

カレン・ジョイ・ファウラー著、矢倉尚子訳
 5人の女性と1人の男性が読書会を開く。各章ごとに読書会で取り上げるオースティン作品と話本筋の展開がリンクしているらしいのだが、オースティン作品を知らなくても十分楽しい。それぞれのキャラクターの背景の明かし方が上手い。「私たち」という誰とも取れない一人称が、6人の間を漂う(若干辛辣な)目として機能しているのだ。ただ、だからどうなのよという感も。男女(というか主に女)の姦しいおしゃべりだったら、別にオースティンもってこなくてもいいのでは。読書家の鼻もちならない部分(「~を読んでいないなんて信じられない!」とかね)がちょこちょこ描写されているのだが、これは人の振り見て我が振り直せってことでしょうか。

『スマイリーと仲間たち』

ジョン・ル・カレ著、村上博基訳
 現役を退いたスマイリーが、宿敵カーラとの最後の対決に挑む。ライバルでありながら(いやだからこそか)お互いの鏡像のように似通っている2人。弱点まで似通っていたとは笑えない。スマイリー自身の視点による文章はそれほど多くはなく、いろいろな人から見たスマイリーの姿を通してストーリーが進む。スパイ小説ではあるが、スリルやサスペンスよりも、体制や組織に翻弄される人間の悲しさ、そして翻弄されつつもその中で必死で子供を守ろうとする親の姿が心に残る。しかしサーカスの皆さんはスマイリー大好きね。

『食うものは食われる夜』

蜂飼耳著
 詩集です。動物的な衝動みたいなものを感じさせる。その一方で、自分の中の動物的なものに対するいらだちみたいなものも感じる。ユーモラスな所と、泥臭い所があって力強い。
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