ミシェル・クオ著、神田由布子訳
 ハーバード大学で法律を学んでいた著者は進路に悩み、ロースクールへの進学を保留して教育支援団体で活動を始め、ミシシッピ川畔の町ヘレナの学校スターズに派遣される。スターズは貧困地区の落ちこぼれ生徒が集められる学校で、校内は荒れており生徒も教師も勉強に無関心だった。著者は理想が砕かれ諦めかけるが、自由作文を授業に取り入れ、読書の楽しさを生徒たちに教えていく。生徒の中でも特に能力を発揮したのが大人びたパトリックだった。しかし著者が学校を去った後、パトリックは殺人を犯し刑務所に入れられてしまう。
 ヘレナはさびれた町で貧困エリアであり、教育の立ち遅れが激しい。著者は読書を通して考える力を身に着けさせようとするが、早々に挫折してしまう。学校だけではなく地域に流れる諦めの空気に流されそうになるのだ。そこで気を取り直すきっかけになったのがパトリックだ。パトリックは大人っぽい落ち着きのある少年で、読書を通して自分が何を感じ、考えているかと言う文章の表現力も伸びていく。パトリックに限らず、ちゃんと気にかけてくれる大人がいるだけで子供の力の伸び方が変わるのだ。生徒たちが教室の壁に貼った自分たちの作文を眺める様は微笑ましいが、これまで自分の能力を肯定される機会がなかったのだろうと思うと切ない。
 ただ、こうやって伸ばした力が生徒たちのその後の人生を切り開くのかというと決してそんなことはない。生徒たちのその後が作中でもちらりと出てくるが、教育とは何なんだろうという無力感がすごい。また著者は刑務所内のパトリックに定期的に面会に行き、2人で読書会を続けていく。パトリックの読む力・文章表現の力が徐々に伸びていき、そこから自分のこと、家族のことへ思考を広げていくようになる過程は清々しい。しかし彼が殺人を犯したこと、そこから再起していくのは非常に難しいという境遇は変わらない。生まれた環境で人生のおおよそが決まってしまうというのが、残念ながらパトリックらが直面している現実で、教育がそこに切り込んでいくことはできないのだ。本作、教師である著者の負け戦の記録とも言える。
 では著者とパトリックとの読書に全く意味がなかったかというと、そんなことはないだろう。本を読むことは他者に思いをはせること、自分の外側の世界に気付いていくことでもある。本著終盤でのパトリックの言葉の数々は、こんな遠くまで来たのか!と唸らせるもの。その可能性を目の当たりにすることができたということが、著者のその後の活動を支えたのではないかと思う。ただ、教師という職業の怖さも感じた。生徒たちにとっては「先生」はずっと「先生」なのだと、パトリックの振る舞いから痛感する。しかし教師にとって個々の生徒と関わっていられる時期はほんのわずかで、彼らのその後の人生を支えられるわけでもない。先生と呼ばれるほど自分はたいそうな物なのか、と言う問いが常にないと自分を見失いそうでもある。