ツェワン・イシェ・ペンバ著、星泉訳
  1924年、宣教師のスティーブンス夫妻は、キリスト教の布教のためチベットの奥地ニャロンを訪れる。ニャロンの領主であるタゴツァン家当主の妻の出産の手助けをしたことで周囲の信頼を得、やがて土地にもなじんでいく。タゴツァン家の息子テンバとスティーブンス家の息子ジョン・ポールは共に成長し、深い友情で結ばれた。一方でチベットを併合しようという中国の圧力は強まっていく。
 チベットがたどる悲劇的な運命を、ある集落に暮らす人々、そしてアメリカから来た宣教師たちの眼を通して描く。スティーブンスはキリスト教布教の意義について説得する。が、己の正しさを疑わない彼の主張はあまりに無邪気で単純だ。チベット僧は他の宗教に対して寛容ではあるが、自分たちの信仰を否定されていい気はしないだろう。チベット人達にとっての正しさや信仰の意味について、スティーブンスは想像をしない。複雑さを複雑さのまま受け入れるチベット人達の方がある意味老獪に思えた。実際、スティーブンスのキリスト教布教はさして進展しない。が、彼は医療の知識と技術によって地域に尽くし、その一員として生きる。スティーブンスの当初の思惑とは異なるが、むしろキリスト教的な生き方なのでは。
 キリスト教布教どころではなく自分たちの正しさを押し付けてくる、かつ力を持っているのが中国。まずは国民党軍、そして国民党軍を駆逐した共産党軍の手がチベットに伸びてくる。彼らのイデオロギーのあり方や絶対的に自分たちが正しいという姿勢は、国政というよりも信仰に近い。宣教師よりも話が通じないのだ。テンバたちと共産党軍の戦いは熾烈を極めるが、最初から勝ち目のない戦いであるとわかっているので読んでいて辛かった。テンバらの勇気や信念は彼らを逆に追い込んだのではとも思ってしまう。
 チベットの風土や文化が興味深いのだが、個人的に少々苦手な部分も。チベット仏教の寛容性や複雑さが描かれる一方で、父系社会文化はマチズモが強く荒っぽい。特に男性は単純な「強さ」にこだわる。子供時代のテジンらはある行為で仲間に勇気を示すがそれって馬鹿馬鹿しくない?と思ってしまった。そういう文化だといえばそれまでなのだが、こういう価値観の中では生きたくないな…。

白い鶴よ、翼を貸しておくれ
ツェワン・イシェ・ペンバ
書肆侃侃房
2020-10-05


月と金のシャングリラ 1
蔵西
イースト・プレス
2020-04-17