フランス南西部トゥールーズで、38歳の女性スザンヌ・ヴィギエが失踪した。夫である法学部教授のジャックに殺人容疑がかかるが、決定打となる動機も証拠もない。一心で無罪とされたものの検察は控訴。彼の無実を確信するノラ(マリーナ・フォイス)はデュポン・モレッティ弁護士(オリヴィエ・グルメ)に弁護を頼み込む。自らも250時間に及ぶ通話記録を調べるうちに、新しい事実がわかりはじめる。監督はアンドワーヌ・ランボー。
実際の事件を元にした作品だが、作中の裁判の前提が色々微妙で気になってしまった。ヴィギエを有罪にするには物的な証拠がなさすぎて、ほぼ曖昧な状況証拠と警察の推測が根拠。また大量の通話記録も誰が何の目的で録音していたのか謎。事件が起きる前や直後のものもあるので、容疑をかけたから録音したというわけではないだろう。フランスの司法制度では珍しいことではないのか?実際もこういう条件だったのだろうか。だとするとちょっと奇妙な気がするが、マスコミのヴィギエ有罪論の過熱具合を加味し、陪審員制度下(この裁判は陪審員制度)なら有罪に持ち込めると踏んだのか?だとすると、被疑者のイメージ操作にばかり注力することになるのでは…。世間が「有罪」のストーリーを望んでいるのだ。
ノラもまさしくこの点を懸念してモレッティに弁護を依頼するのだが、彼女は彼女で裁判にのめりこみすぎている。自分の仕事や家族は後回しだ。社会正義の為とは言えるが、それ以上にノラはノラで「無罪」というストーリーを見たがり夢中になっているように思えた。手にした情報を自分が望むストーリーに都合がいいようにあてはめていく。それはマスコミや世間がセンセーショナルに煽るのと似通ってしまう。
モレッティが言うように疑わしきは罰せず、が法の原則だが、人間はそれでは納得できないのかもしれない。何か明瞭なストーリーを求めてしまう。警察の捜査やマスコミの推測もベースにはストーリーの想像があり、それは別に悪いことではないのだが、法の判断とは別物だ。裁判で問われるのはまず法に則ってどう判断されるかというところだろう。本作、何が真実なのかを描く作品ではない。法を適切に運用することはカタルシスとは往々にして一致しないのだ。