優しい母と家政婦と暮らしていた少年デイヴィッド。しかし母が再婚し、横暴な継父によってロンドンの瓶詰工場で働かされる羽目になる。成長したデイヴィッド(デヴ・パテル)は母の死を知り口上から脱走。唯一の肉親である伯母ベッツィ(ティルダ・スウィントン)と彼女の同居人・ミスター・ディック(ヒュー・ローリー)を頼る。名門校に通い法律事務所に通い始め、順風満帆な人生に思えたが。原作はチャールズ・ディケンズの『デイヴィッド・コパフィールド』、監督はアーマンド・イアヌッチ。
なぜこの邦題にした?私は邦題が現代とかけ離れていても(文脈が大幅にずれていなければ)そんなに気にしない方なのだが、本作は普通ににデイヴィッド・コパフィールドのままでよかったのでは(映画原題は「The Personal History of David Copperfield」)。そこを変える・伏せると、かえって映画の意図が伝わりにくい作りなのだ。
本作はユニークな人々の姿や言動を少年デイヴィッドが、そして作家となるデイヴィッドが書き綴った自分の人生の物語という構造になっている。小説として書いたのはこういう筋だが実際にあったのはこういうこと、といったメタ構造にもなっている。このメタさは「デイヴィッド・コパフィールド」はディケンズが自分の体験を元に書いた作品であり、そういう出自の作品の映画化である、という理解がないと意図が伝わりにくいだろう。観客がデイヴィッド・コパフィールドという作品を知っていること前提で作られているのだ。ということは題名でデイヴィッド・コパフィールドだと打ち出しておかないと、映画の意図する見せ方からずれてしまうのではないだろうか。原作知っているからこその面白さがある作品なのではと思う。
出演者の民族が様々な点は現代ならではのユニークさだった。親子でも白人と黒人だったりで、一貫性がない。その自由奔放さが本作の寓話としての側面、普遍性を強めていたと思う。不自然に見えないのは本作全体が舞台演劇のような作り物感、「演じている」ことをあえて強調するような作りになっているからかもしれない。