松家仁之著
 1982年、建築家の村井に憧れ村井設計事務所に入所した「ぼく」は、浅間山のふもとの山荘に滞在する。村井設計事務所では毎年夏になると、事務所機能を軽井沢の別荘に移転する慣わしなのだ。村井はフランク・ロイド・ライトに師事し、大規模ではないが質実で美しい建物を生み出してきた。そんな村井が、国立現代図書館設計コンペへの参加を決める。意外な選択ではあったが、所員たちは秋のコンペに向け仕事に打ち込む。一方、「ぼく」は先生の姪に惹かれていく。
 本作の舞台である浅間山のふもと、軽井沢から更に標高の高い土地にある「夏の家」は、実在の町を舞台にしている。旧軽井沢からの車でのルートや、今は廃線になった鉄道の駅、その駅を臨む交差点など、手に取るようにわかるご当地小説としての側面がある。私もモデルとなった町に毎夏通っているので、自分の中の夏休みの記憶と結びつき、何とも懐かしい。鳥の声や変わりやすい山の天気等ちょっとした描写に、ああそうそう!と頷いた。「落ち葉がクルマにまきあげられているのを見た時の、胸をしめつけられるような感じ」という表現には、まさにそういう感じだと深く頷いた。
 とはいえ「夏の家」はある時期が来たらそこを去ることがあらかじめ決まっている場所であり、それ故滞在していてもどこか寂しさが漂う。その寂しさは、「ぼく」にとって(他の所員にとっても)村井設計事務所は長く留まるものではないだろう予感ともつながっている。「ぼく」はまだ若く過渡期で、「夏の家」はいずれ立ち去る場所になっていく。また村井や彼と親しい人たちが既に高齢であり図書館設計が最後の大きな仕事になるであろうことが、終わりの気配を強める。
 「ぼく」と周囲の年長者たちとのやりとり、自然風景と建築の描写、建築の基盤となる村井の思想等、奥行のある作品だが、女性たちとの関係性の描き方のみ妙に薄っぺらい。昔のあまり出来の良くない文芸小説みたいだ。殆どの登場人物が「苗字+さん」で表される中、2人の女性のみが敬称なしの名前のみで表されるのがひっかかった。「ぼく」との関係性を示唆するためではあろうが(うち一人は他の登場人物の親戚で苗字が同じだし)少々あからさますぎるし、他の人に対しては普段呼びかけているような表記(一人称小説だから)なのに、この2人のみ心の中では呼び捨てか…という不自然さ、というより無自覚の失礼さを感じた。少なくとも一人称「ぼく」パートでは敬称付の方が自然なのでは。

火山のふもとで
松家仁之
新潮社
2013-03-29


光の犬
仁之, 松家
新潮社
2017-10-31