ウィリアム・トレヴァー著、栩木伸明訳
 センスはあるが手癖の悪い少年にレッスンするミス・ナイチンゲール(「ピアノ教師の生徒」)、かつて友人同士だったがある出来事により決別した2人の女性(「カフェ・ダライアで」)、記憶障害をもった絵画修復士と娼婦が出会う(「ジョットの天使たち」)。人の生の陰影を繊細に描く10篇を収録した著者最後の作品集。
 トレヴァーの作品、ことに短編は当たりはずれが少なく常に一定のクオリティを維持しているという印象があるが、この作品集も同様。どの作品も人生の日陰の部分に触れるような、ひやっとした手触りで油断できない。ちょっといい話になるのかと思いきや、放り出されるような心もとなさが漂う。本作に収録された作品にはしばしば、最初の章で「男/女」など漠然とした呼称で表されていた人物が、次の章では固有名詞を与えられ、さっきのあの人物はこの人のことだったのか、と腑に落ちるという構造が使われている。起きている事柄のあちら側とこちら側、複数の面が見えてきて全体像が浮かび上がってくるという、それゆえにそれぞれの側からの誤解やすれ違いも露わになる。この構造の完成度が特に高いのが「ミセス・クラスソープ」だろう。彼女がどういう人だったのか、周囲が思いをはせるのは彼女が消えてからなのだが。いなくなって初めてその人のことを考えるというと、「身元不明の娘」も同様だろう。こちらはもっと痛ましいシチュエーションだが、ろくに知らない相手に対して痛ましいと思うのはおこがましいのではという思いにもなる。
 個人的に好きな作品は「冬の牧歌」。ベタなラブロマンスが展開しそうなところ、どんどん温度が下がっていく。男女の心が離れていく様と同時に、ある場所でしか成立しない感情・関係の儚さとそれ故の忘れ難さが印象に残った。風景描写がとても美しく、確かにこの場所でならそういう気持ちになるか…という説得力がある。また「女たち」は少女と中年女性2人との、はっきりしているようなしていないような関係性のぼかし方でどこか不穏。女子学生たちのやり取り(あの本はつまらなかった、これは面白かったんなど)が生き生きしていているのも楽しい。

ラスト・ストーリーズ
トレヴァー,ウィリアム
国書刊行会
2020-08-09


アイルランド・ストーリーズ
ウィリアム・トレヴァー
国書刊行会
2010-08-27