イーユン・リー著、篠森ゆりこ訳
16歳の息子ニコライが自殺した。母親である「私」はもう存在しない息子との対話を続ける。言葉遊びや反抗期の子供らしい皮肉を交えつつ、2人の対話は季節を越え続く。
「私」とニコライの対話にはしばしば言葉遊びが交えられる。小説家である「私」は言葉に敏感であり、ニコライもまた「私」の使うちょっとした言い回しや単語に素早く反応し、往々にして攻撃する。母と子という立場の違いと合わせ、「私」は中国からの移民であり英語はネイティブではない、たいしてニコライはアメリカで生まれ育った英語ネイティブ。母親の英語の発音がおかしいと指摘することもある。親子という関係とは別に、ここには文化的なギャップがあるのだ。
ニコライは時に手厳しく母親を非難し、反発する。2人の対話は続くが、この対話をしているニコライはもちろん、「私」の頭の中にあるニコライだ。こういうことを言ったらニコライはこう反応するであろう、こういう理屈を持ち出すだろう、という想像でしかないとも言える。しかし「私」の脳内であっても「私」とニコライの対話は平行線を辿り、愛情は合っても理解し合っているとは言えない。ニコライがなぜ自殺をしたのかも言及されることはない。「私」はもちろんなぜなのか考えに考えたのだろう。ただ、対話相手としてのニコライがそれを明かすことはなく、「私」にとってわからない部分を残した存在であり続ける。永遠に謎のままで、「私」はこの先もその謎を問い続けなくてはならないというのがとても辛い。終わりがないのだ。「私」はそこから逃げるつもりも終わらすつもりもないのだろうが、そこがまた辛い。