トニ・ヒル著、村岡直子訳
 1970年代末、バルセロナ郊外の貧困地区で育ったビクトルとフアンペ。聡明な両親の元で育ち学校でも人気があってビクトルに対し、いじめられっ子のフアンペと母親は常に父親の暴力にさらされていた。対称的な2人だがなぜかうまが合い、常に一緒に行動するほど仲良くなっていく。しかしある事件が起き2人は離れた。そして37年後、ビクトルはホテル経営者として成功し、フアンペは罪をかぶり日陰者の人生を送っていた。2人が再会したことで、過去が甦り始める。
 ビクトルとフアンペだけではなく様々な人物の立場から描かれる群像劇的な側面が強いことに加え、過去と現在の記憶がフラットに入り混じっていく構造で、これはいつ・誰のことを指しているのか曖昧な部分がある。なかなかするっと読ませてくれないのだが、文章(というか訳文がということになるのだろうが)に詩情がある。文脈があえて混乱する、あっちにいったりこっちに行ったりする方が、曖昧なものである「記憶」を巡る作品の文体としては合っているのかもしれない。
 子供時代のビクトルとフアンペはある事件に関わってしまうのだが、そこには当時の子供たちの社会の構図が関わっている。いじめっ子に対抗する手段がなく、親や教師に訴えることは恥であり「密告」だという意識(そもそも当時は大人側にいじめや差別、障害に対する認識が薄かった)が事態を悪化させてしまうのだ。直接事件に関わったのはビクトルとフアンペだが、そこに至るまでの見て見ぬふりをしていた子供たち、そして大人たちは果たして責任がないと言えるのか。この構図は現代のパートでも、ある高校生たちの間で反復される。いじめのターゲットになった者はそれを誰にも言えず、具体的にどう助けを求めていいのかわからず一人で追い詰められてしまう。読んでいるとそこまで一人で抱える必要はないのでは、こうすればいいのに等と思う所もあるだろうが、それは大人だから思えることだ。聡明であってもそれはあくまで子供の視野・知識量での聡明さで、その枠外で対処するのは難しい。そこをフォローするために大人がいるのだ。ただ、そのフォローが間に合うとは限らない。そこに悲劇がある。過去の事件と現在の事件の大きな違いは、現在は見て見ぬふりを「しない」人がいるということだろう。そこにささやかな救いがある。
 本作は大部分がある人物の語りのよるもので、その人物が過去に何をしたのかもわかってくる。過去にしたことに関しては個人的には責められないと思う。が、現代でしていることについてはうっすらとした邪悪さを感じた。それをなぜあなたがやるのか、何の為にやるのかという点でひっかかるのだ。記されたものはあくまでその人物にとっての物語であり、登場する人たちにとってのものではない。自分の物語に(関わった当事者とは言え)他人を巻き込んでいいのかと。しかも本当に重要なことは、おそらくその人物の語りの外で起きていたのだ。

ガラスの虎たち (小学館文庫)
ヒル,トニ
小学館
2020-04-07