サイレント映画全盛期。活動弁士を夢見る青年・俊太郎(成田凌)は、泥棒の片棒を担がされ、小さな町の映画館・靑木館に流れ着く。靑木館は隣町の映画館に人気も人材も取られて閑古鳥が鳴いていた。雑用係として働き始めた俊太郎は、ふとしたことで弁士を任され、その語り口は評判になっていく。しかしかつての泥棒仲間が彼の正体に気付く。監督は周防正行。
 面白くないわけではないが、どうにも野暮ったさが否めなかった。こんなにもたついた映画を撮る監督だったかな?序盤の子供時代パートでの子役の演技がちょっとわざとらしいて「ザ・子役」な感じで興が削がれたというのもある。一度気が削がれるとなかなか映画に乗っていけないものだな…。俳優の演技が全体的にオーバー目なように思った。また、ドタバタ感が強すぎ、動きを使ったギャグなどもおおむね滑っている。かつての「活劇」を意識したのかもれいないが、現代の映画に慣れた目には少々煩い。過去の世界を描き、過去の名作らにオマージュを捧げるとしても、現代に公開される映画なら「今」の見せ方にしないと違和感が強い。せっかくいい俳優をそろえているのに、キャラクターばかり増えすぎてストーリー上あまり機能していないのも辛かった。
 活動弁士が俳優なみのスターとしてもてはやされた時代を舞台にしているが、私はそもそもこの活弁というシステムがあまり好きではないのかなと思った。もちろん、実際に体験したことがないからしっくりこないというのもあるだろうが、弁士の語りによって映画の面白さの度合いや方向性が大きく異なってしまうというのにひっかかる。あそこまでわかりやすさを前面に出してしまっていいのだろうかと。作中で永瀬正敏演じる往年の名弁士は、かつての朗々とした語りは放棄している。フィルムを見ろ、フィルムを見れば十分にわかるというのだ。それでこその映画だろう。語りによってフィルムに映ったもの以上の意味合いを載せてしまっていいのだろうかという疑問がぬぐえない。