呉明益著、天野健太郎訳
 「ぼく」が幼い頃、父や母が移動に使うのは鐡馬(ティーベ)=自転車だった。当時貴重品だった自転車は度々盗まれ、しかしその度に父母は何とか次の自転車を入手してきた。やがて父は失踪し、「ぼく」は成長して故郷を離れ、作家になっていた。自転車、オランウータン、蝶、象などが紡ぐ家族、そしてある時代の記憶。
 こういう、パーソナルな記憶からある国、ある時代の記憶へと拡大されていく構造の小説が最近増えているように思う。私がたまたまそういう作品に行き当たっただけかもしれないけど。「ぼく」は父親が乗っていた自転車の記憶を追い続ける。その中で、同じような古い自転車の情報を持っているカメラマンや、その知人、そのまた知人、そして彼らの思い出の中に存在する人たちの記憶を記録していく。「ぼく」の親やそのまた親の世代くらいの話も出てくるので、当然戦争の話も出てくる。戦争の時代の話はしたくない、しかし自分のことを話す上で戦争に触れずにはいられないということをある人物が言う。忌むべきものなのだが自分の人生の一部に取り込まれている。
 日本統治下で台湾にも空襲があったこと、動物園の動物たちの処遇など、読んでいて辛いのだが初めて知ったことだ。『かわいそうなぞう』など、日本の絵本や俳優の名前等がちらほら出てくるのがちょっとおもしろいのだが、植民地化されていた故のことなので複雑・・・。植民地化されることで、その前後との世代間の断絶が深まってしまうそうだが、「ぼく」は自転車を媒介にそれらをつなぎ合わせ虚実まじえた「物語」にすることで、失踪した、自分にとって謎である父親を再構築し、ちゃんと見送ろうとしているように思えた。「ぼく」の家族の話であり、台湾の現代史でもある。

自転車泥棒
呉明益
文藝春秋