小説家志望の青年イ・ジョンス(ユ・アイン)は同郷の幼馴染シン・ヘミ(チョン・ジョンソ)と再会し、彼女がアフリカへ行く間、猫の世話を頼まれる。帰国したヘミは、現地で知り合った裕福な男性ベン(スティーブン・ユァン)にジョンスを紹介する。ある日、ヘミと共にジョンスの家を訪れたベンは、時々ビニールハウスを燃やしていると秘密を明かす。原作は村上春樹の短編『納屋を焼く』、監督はイ・チャンドン。
 TV版を放送した後に、それより約1時間ほど長尺の劇場版が上映されるという特殊な形状の作品。両方見てみたが、途中までは同じなのに、劇場版である本作を最後まで見ると全く別の作品になっていた。原作小説に近いはTV版の方だが、劇場版はそこから更に飛躍している。少なくとも村上春樹はこういうラストは書かないんじゃないだろうか。私はそこが良いと思った。
 結構な長さの作品なのだが、時間の流れはゆるゆるとしている。ヘミの身に何かよからぬことが起きたのは状況証拠からはほぼ間違いないだろう、しかし決定打も「犯人」への正攻法での追及も叶わない。疑惑と不安だけがずっと漂っている。それが煮詰まって爆発するのがラストだが、それによってヘミが救われるというわけではない。
 ヘミがベンとその仲間、昔でいうところの高等遊民的な人たちから、何となく軽い扱われ方をしているのを見ると、辛くなってくる。ヘミにとっての大切なものが、彼らにはどうということのない、ちょっとした時間つぶしのように扱われているのだ。そしてそういう扱われ方をしたのはヘミだけでなく、彼女の前にも後にもいるだろうことがまた辛い。若くて特に何も持たない(と彼らが見なす)女性は消費されて飽きられたら終わり、というわけだ。ヘミの元同僚が唐突に「女が住める国はない」と口にするけど、つまりそういう話でもあるように思った。ベンは明らかにヘミを暇つぶしに使っているが、彼女を「愛している」というジョンスも、結局彼女の記憶を創作のネタとして消費しているのではないかと思う。
 ジョンスはベンをギャツビーに例え、自身の家庭をフォークナーの小説に例える。フォークナーを読むと自分の家族を思い出すって結構強烈な家庭環境ではないかと思うが・・・。確かにジョンスの両親は厄介な人たちで(ここはTV版ではよくわからない)、彼の中に蓄積されている鬱憤は相当のものだろうと想像できる。この家に生まれなければこの田舎から出て行けたのに、振り回されずに済んだのにという気持ちがずっと尾をひいているのではないかと思う。一方、ギャツビーであるベンがジョンスのことを小馬鹿にしているかというと、意外とそうとも言い切れない。少なくとも、ヘミを扱うような軽さでは彼に接していないように思う。ベンの捉えどころのなさや意味ありげな物言い、ふと秘密を明かしてジョンスの興味をひくような態度は、むしろメフィストフェレス的な、ジョンスを自分側の世界に引き入れようとしているようにも見えた。2人の結末も、ベンはジョンスの中に自分の共犯者的要素を見ていたのではないかと思う。方向は違えどヘミを消費するという点では、共犯者と言えるのかもしれない。


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ユン・ジョンヒ
紀伊國屋書店
2013-01-26