リチャード・フラナガン著、渡辺佐智江訳
 太平洋戦争中の1943年、日本軍はビルマ戦線への物資輸送の為、タイ側のノンブラドッグとビルマ側のタンビュザヤまで、415キロの鉄道線路を建設していた。労働力として駆り出されていたのは連合国軍捕虜とアジア各国から徴用された労務者たち。捕虜の待遇は劣悪で死者が続出し、「死の鉄路」と呼ばれるほどだった。」オーストラリア陣捕虜で軍医のドリゴ・エヴァンズは地獄のような環境を生き延びようとするが、1通の手紙が彼の希望を砕く。
 捕虜としてなすすべもない日々、人妻であるエイミーとの激しい恋、そして戦争を生き延びたその後と、ドリゴの人生がランダムに語られていく。エイミーと過ごした日々はごくわずかなのだが、焼きつきそうに強烈に輝いている。全く助かりそうな目が見えない、どん詰まりなビルマの状況とあまりにも対照的で、双方の印象をより強めていく。エミリーとのロマンスも、捕虜としての悲惨な経験も、ドリゴにとってはそれを知らなかった頃には戻れない、深い楔を打つような体験だった。全く別種の体験ではあるのだが、どちらの体験も彼の上を過ぎ去らない、出来事としては終わってもじわじわとむしばんでいく。晩年の彼の姿からは、何が残って何が失われたのか見えてしまうところが何だか痛ましいのだ。全てがこぼれおちていくようなこころもとなさ、はかなさが増していくあたりは、芭蕉の句と呼応しているようにも思う。
 捕虜の境遇の劣悪さの描写がなまなましく、体の壊疽した部分を切断し続けざるを得ない所とか、特に肛門が飛び出ている(尻の肉が削げ落ち切ってしまっているということだろう)ところとか、かなりきつい。また、日本軍人たちの描写は戦犯を免れた人たちの典型とでもいうもの。戦犯になるのを恐れながら、経年するうちに当時の記憶を徐々に繭でくるんでごまかしていく、ごまかしたものが自分にとっての真実となってくナカムラや、自身の行いに全く疑いを持たないその部下。また在日朝鮮人として上官の指示に従い戦犯として処刑されるチェ・サンミンら。責任の度合いの大きい者たちは最終的に責任を問われず、処罰しやすい所から処罰されていくという本末転倒が、歴史として既に知っていることではあるが苦々しい。