女性だけの島で育った王女ダイアナ(ガル・ギャドット)は最強の者しか持てないと伝えられる剣に憧れ、母親の言いつけを破り強くなるため修行に打ち込んできた。成長した彼女は、自分に秘められた能力があることに気付く。ある日、島に不時着したパイロットのスティーブ・トレバー(クリス・パイン)を助けるが、彼はイギリス軍のスパイで、彼を追ってドイツ軍までが島に乗り込んでくる。外の世界では大きな戦争が起きていると知ったダイアナは、戦いを止める為にスティーブと共にロンドンへと旅立つ。監督はパティ・ジェンキンス。
 本作、アメリカでは大ヒットし、女性監督による女性が主人公のアメコミ原作映画としては画期的という触れ込みで、実際その通りではあったのだろうが、そんなに新鮮味は感じなかった。また、女性をエンパワメントするというフェミニズム的要素も、さほど強くない(女性にとって不快な要素はほぼないと思われるが。クリス・パインが逆サービスカット的に脱いでいるのは笑ったけど)ように感じた。ハリウッドの男社会性がそれほど強固ということなのかもしれないが、ワンダーウーマンというヒーローの背景をどう認識しているのかで、受け取り方が違うのかもしれないなぁとは思う。アメリカと日本だと、見えているものが違うのかなと。日本の場合は「戦闘美少女」的で絵として見慣れているのでぱっと見新鮮味がないというのはあるだろう(ただ、戦闘美少女に必ず付加されている未成熟な少女としての可愛らしさはワンダーウーマンには意図されていないので、そこは大きく異なるが)。
 ダイアナは物理的な力と、膨大な言語を操り百科事典並の知識を持ち合わせているという知的な力を持ち合わせている。しかし彼女は、人間の社会のことは知らない。ロンドンに出てきたダイアナは様々なカルチャーショックに見舞われるが、これは彼女が世間知らずというよりも、人間の世は彼女から見たら妙なことばかりで、なんでこうなっているの?という感じなのではないかと思う。なぜ肌を見せてはいけないのか、なぜ動きやすい服を着てはいけないのか、なぜ死にそうな人を助けに行くことが不利益と見なされることがあるのか。彼女の疑問はプリミティブなものなのだ。
 本作、ダイアナを1人の人間・女性として見るものではないのではないかとふと思った。彼女は性別云々以前に神により近い存在で、彼女がロンドンにやってくるのは、神が人間の世に降り立ったという状況により近いのだろう。本作が帯びている神話性(ダイアナの母が語るのは正に神話としての自分たちの発祥だ)は、主人公が神の物語だから当然と言えば当然ということになる。同時に、人間の世のことは神にとっては(特に本作が設定しているようなギリシア神話の神々にとっては)基本的にどうでもいい他人事だ。その他人事を捨て置けずわざわざ乗り出してくるというのがダイアナのやっていることなわけだ。彼女の「愛」は恋愛における愛ではなく、人間に向けられる神の愛に近いものなのではないか。それだったら、愛によって世界を救うというのが月並みでも大げさでもないなと腑に落ちる。人間の負の面を見た神がそれでも地上に留まるかどうかという神話として見れば、ラスボスへの違和感を含め、そういうことかなと思えなくもない。『バットマンVSスーパーマン ジャスティスの誕生』でも見られた宗教画のようなショットが本作でも使われているが、DCユニバースは神々の闘いというニュアンスを強めて、マーベルと差別化を図るのだろうか。