禁酒法時代のボストン。警官の息子として育ったジョー・コフリン(ベン・アフレック)は一匹狼のギャングとして強盗を重ねるようになっていた。ある賭場で知り合ったエマ(シエナ・ミラー)と恋に落ちるが、彼女はアイルランド系ギャングのボス・ホワイト(ロバート・グレニスター)の愛人だった。窮地に追い込まれたジョーは対立組織であるイタリア系ギャングのボス・ペスカトーレ(マックス・カセラ)の傘下に入る。彼はペスカトーレの指示でタンパに赴き、ラムの密造を仕切るようになる。原作はデニス・ルヘインの同名小説。監督・脚本はベン・アフレック。
 ベン・アフレックが監督・脚本・主演の3役をこなしているが、原作小説に対してちょっと腰が引けているのかな?という印象を受けた。彼が以前に監督を務めた『ゴーン・ベイビー・ゴーン』や『ザ・タウン』も原作小説があったが、原作の咀嚼と再構成が的確でいい手腕だと思っていたので、少々残念。私が期待しすぎてしまったというのもあるのだが、原作小説自体が、2時間前後の映画というフォーマットにあまり向いていなかったかもしれないなとは思った。ルヘインの原作はとても面白いのだが、数年にわたる主人公とアメリカ社会の変遷を描いており、どちらかというと連続ドラマ的な構造向きだったのではないか思う。本作、長篇ドラマのダイジェスト版のように見えるのだ。
 また、フィルム・ノワール、ギャング映画的な世界を作ろうとしているが、あくまで「的なもの」であり、そのものというわけではないように思った。ジョーが自分はギャングにはなりきれないと考えているからというギャングの世界との距離感もあるのだろうが、ギャング映画の雰囲気は醸し出しているけどドラマの見せ方が起伏に欠ける為に、なんだかイメージビデオのように見えるのだ。特に前半の舞台がボストンのパートはその傾向が強かった。舞台がタンパに移動すると、もっと動きが出てくる。原作の構成上しょうがないのかなーという気はするが。
 原作小説を読んだのは発行された当時なので、大分細部は忘れてしまっていた。だが、本作を見ているうちに、私はジョー、というよりもコフリン一族のことが最後まで好きになれなかったなということを思い出した。小説としてはとても面白いが、主人公には最後まで思い入れが生じなかったという作品だ。
 ジョーは自分は悪党だと言ってはいるが、自分は悪人だとは多分思っていない。実際、当時のギャングにつきものの殺人には強い抵抗があり、そのせいで上司の信頼を失ったりもする。ただ、彼がやっている「事業」はやはり暴力、殺人がついて回るものであり、自分で手を下さないだけで死人は出ているのだ。それで悪人ではないつもりでいるのって、ちょっと虫が良すぎない?と思ってしまう。悪党なら悪党らしくちゃんとやれよ!と。彼が初めて「ちゃんとやる」のが終盤のクライマックスということになるのだろうが、ちゃんとやってしまった以上、もうこの世界にはいられないという裏腹さがある。題名は「夜に生きる」だが、ジョーは夜を生き抜くこともできず、かといって真っ当な昼間の世界にも馴染みきれない、中途半端さをずっと孕んでいるのだ。