クリスチャン・ザイデル著、長谷川圭訳
脚の冷えに耐えかねて、試しに女性用ストッキングをはいてみた著者は、女性の世界にはこんなにいいものがあるのか!と衝撃を受ける。徐々に女性が身に着けるものに関心が向くようになり、全身女装してみたらどんな気分かという「実験」に着手する。
冷えるがモモヒキ的なやつは苦手という著者。男性用ストッキング的な物はドイツにはないのか・・・(日本にはありますよね)。それはさておき、著者は女装している間、特にメイクや着こなしに慣れてからは、男性の恰好をしている時よりも解放感を感じ、それが女装に対する愛着に拍車をかけていく。著者は、「男性」として振舞えという社会的な要求、男性同士のコミュニケーション(このあたりは、著者がTV業界で働いていたという職場環境も大きかったのかも)に大きなプレッシャーや不快感を感じていたのだと気付いていく。そして女性ってなんて自由で素晴らしいんだ!と感激するのだが、この時の「女性」とは、あくまでもヘテロ男性(著者は女装はするが性的嗜好はヘテロで妻もいる)である著者が思う所の「女性」にすぎない。女性の良い(と著者が思っている)面しか見えていないのだ。しかし、女性として振舞ううちに、徐々に女性も社会が要求する「女性」を演じているのであって決して自由ではない、やはりプレッシャーに脅かされているのだと思い当たる。著者が女装をやめると、女装時にちやほやしてくれた女友達は一斉に遠ざかっていくのだが、外見、装いによるカテゴライズって相手が同一人物だとわかっていても、なされてしまうのだ。著者のアプローチは少々一方的だし、聞き取りをする女性達の傾向にも偏りがある(全ての女性がいわゆる女性ならではの装いを好んでいるわけではないだろう)。やはり「男性」側の見方にすぎないきらいはあるのだが、自分たちが自覚している以上に「~らしさ」「~のように見える」ことに縛られているという立証実験として、著者の心身の変化も含め面白かった。自分のメンタルの変化について、ちゃんと専門医に意見を求めにいくところはジャーナリストっぽいし、医者がその問いに真面目に答えるところは誠実。冗談扱いしないのだ。
脚の冷えに耐えかねて、試しに女性用ストッキングをはいてみた著者は、女性の世界にはこんなにいいものがあるのか!と衝撃を受ける。徐々に女性が身に着けるものに関心が向くようになり、全身女装してみたらどんな気分かという「実験」に着手する。
冷えるがモモヒキ的なやつは苦手という著者。男性用ストッキング的な物はドイツにはないのか・・・(日本にはありますよね)。それはさておき、著者は女装している間、特にメイクや着こなしに慣れてからは、男性の恰好をしている時よりも解放感を感じ、それが女装に対する愛着に拍車をかけていく。著者は、「男性」として振舞えという社会的な要求、男性同士のコミュニケーション(このあたりは、著者がTV業界で働いていたという職場環境も大きかったのかも)に大きなプレッシャーや不快感を感じていたのだと気付いていく。そして女性ってなんて自由で素晴らしいんだ!と感激するのだが、この時の「女性」とは、あくまでもヘテロ男性(著者は女装はするが性的嗜好はヘテロで妻もいる)である著者が思う所の「女性」にすぎない。女性の良い(と著者が思っている)面しか見えていないのだ。しかし、女性として振舞ううちに、徐々に女性も社会が要求する「女性」を演じているのであって決して自由ではない、やはりプレッシャーに脅かされているのだと思い当たる。著者が女装をやめると、女装時にちやほやしてくれた女友達は一斉に遠ざかっていくのだが、外見、装いによるカテゴライズって相手が同一人物だとわかっていても、なされてしまうのだ。著者のアプローチは少々一方的だし、聞き取りをする女性達の傾向にも偏りがある(全ての女性がいわゆる女性ならではの装いを好んでいるわけではないだろう)。やはり「男性」側の見方にすぎないきらいはあるのだが、自分たちが自覚している以上に「~らしさ」「~のように見える」ことに縛られているという立証実験として、著者の心身の変化も含め面白かった。自分のメンタルの変化について、ちゃんと専門医に意見を求めにいくところはジャーナリストっぽいし、医者がその問いに真面目に答えるところは誠実。冗談扱いしないのだ。