東京オリンピック開催が迫る2020年。岡山県の港町に住む高校生のココネ(高畑充希)は、車の改造ばかりしている父モモタロー(江口洋介)と2人暮らし。ココネは居眠りばかりしており、夢の中では魔法使いのエンシェン王女が青年モモと冒険を繰り広げていた。ある日、モモタローが理由もわからないまま警察に逮捕されてしまう。ココネは父が残したタブレットを手がかりに、幼馴染のモリオ(満島真之介)の力を借りて父を助けようとする。監督・脚本は神山健治。
 本作、神山監督が原案・脚本も兼任しているのだが、原案はともかく、脚本には専任者を立てた方がよかったんじゃないかなと思った。神山監督がシリーズ構成やストーリーまで手がけた作品を見ているとしばしば思うのだが、具体的なストーリーやテーマのボリューム設定が、物語の外枠と一致していないケースが多いように思う。時間的な尺や世界設定に対して、中身の要素が飽和状態になるというか、変なねじれを生じさせやすい印象がある。面白くないわけではないんだが、微妙に楽しめない部分が残る。このあたりは自分との相性の問題かもしれないが。
 本作では、ココネの家庭が抱えてきた秘密・問題を、彼女の夢とリンクさせていく。現実の問題をファンタジーと重ねて紐解いていくという構造は、ファンタジー作品の一つのパターンとしてとてもいいと思う。ココネの夢の中の世界のスチームパンク感滲むディティールや、諸々の機械仕掛けのデザインもいい。スチームパンク的世界になぜタブレット?という疑問が沸くのだが、そもそもこの夢の世界が何から生まれたものか、という部分への伏線にもなっており、これも納得。
 しかし、この夢・ファンタジーの部分と、ココネの現実世界で起きているトラブルとの摺合せ、シームレス加工があまり上手くいっていないように見える。主人公の身近な(家庭や友人関係などの)問題がファンタジーの中に形を変えて登場する、という構図が定番だと思うのだが、本作の場合、現実世界の問題のスケールが妙に大きいのだ。しかも、そういう理由でそんな強引なことやります?というもの。この人はなぜわざわざ、こんなリスキーな方法をとる(しかも不慣れっぽいのに)の?話の趣旨としては、ココネの日常と夢の中の冒険だけで収められそうだし、その方がファンタジーとしては際立ちそう。夢は見る人にとってはごくごくプライベートなもの、世界にとってはささやかなことだ。しかしココネ(と家族)にとっては大冒険のように壮大なものになりうる。その対比がいいのではないだろうか。本作では現実世界の大企業の陰謀の方が壮大になってしまい、メリハリがないのだ。
 作中の大企業、組織の描写に説得力がないというのも、奇妙な印象になっている一因かと思う。フィクションとしてのデフォルメの度合いをどのへんに設定したのかよくわからなかった。ちょっとコミカルというか、取締役の頭悪すぎないか?会長にしても、その立場でそのタイミングでそこに拘るのっておかしくない?別のやり方があるんじゃない?と突っ込みたくなるのだ。フィクションであっても、こういう組織なんですよという説得力があればいいんだけど、そのあたりが曖昧で雑に見えた。