17世紀、キリスト教が禁じられ信者が弾圧されている日本で、ある宣教師が棄教したという噂がポルトガルに届く。その宣教師の弟子である若い宣教師ロドリゴ(アンドリュー・ガーフィールド)とガルペ(アダム・ドライバー)は真相を確かめる為に日本への密入国を試みる。中継地のマカオで、遭難していたという日本人漁師のキチジロー(窪塚洋介)を案内人にし、ようやく日本にたどり着くが、日本でのキリシタン弾圧は2人の想像を超えるものだった。原作は遠藤周作の小説『沈黙』、監督はマーティン・スコセッシ。
 3時間近い長尺の作品だが、見ている間はあまり長さを感じなかった。今更ながら、スコセッシってやっぱり映画作り上手いんだな・・・。私は彼の監督作はあまり好きではないのだが、本作はとても面白かったし、自分にとって2017年のベスト入りしそうな作品だった。スコセッシがキリスト教信仰について真剣に悩み、考え続けた結果生み出されたことがよくわかる。映像も美しい。空の空撮や、霧に包まれた山海の美しさ等どこかエキゾチックな雰囲気もあり、昔の日本映画にオマージュを捧げるようなシーンも(夜の海を小船で行くシーンとか、あっこれ見たことあるけど何だったっけと気になった)。主なロケ地は台湾だが、さほど違和感はない。原作では長崎近辺が舞台だったと思うので、もうちょっと南下した土地の雰囲気になっている。そのせいか、全体的に空気がしっとりとした感触。また、音楽は抑制されており、冒頭とエンドロールで虫の声と風や波の音だけが響く様が印象に残った。「沈黙」というのは、言葉が聞こえない・人の中に入ってこないということであって、世界自体には音が満ちている。人間が繰り広げる物語は過酷なのだが、それを取り巻く風景は依然として美しくしいのだ。
 信仰心の篤いキリシタンたちは踏み絵を踏むことを拒み、拷問され、処刑されていく。また、ロドリゴが信仰を守っている限り彼らも信仰を貫こうとするのだと、キリシタンを弾圧する大名・井上(イッセー尾形)は「お前(ロドリゴ)が彼らを不幸にしている」と言う。井上の言葉はロドリゴの隙につけこむ詭弁(そもそも彼らを迫害することにしたのは幕府、大名だし命令を下しているのは井上だ)なのだが、ロドリゴはその言葉に揺さぶられてしまう。そもそも、元々キリスト教がなかった土地で布教をすること自体、一種の暴力的な行いとも言える。通訳の武士(浅野忠信)は「お前たちが来なければ(農民たちは)こんな目に遭うこともなかった」と言う。それは言いがかりなのだが、ロドリゴは反論できない。信仰は弱い者を支え、救済する為のものだったのに、彼らを却って過酷な目にあわせてしまう。では何の為の信仰なのか。踏み絵を踏んだら棄教者としてキリスト教会からは蔑まれるが、そこまで強いることが教会に出来るのか。最初は信仰と正義に燃えていたロドリゴだが、自分達の信仰が日本のキリシタンたちを救ったのか、また日本で土着化した信仰はキリスト教として正しいと言えるのか、自信を無くしていく。
 一方、キチジローはキリシタンだが信仰を捨てなかった家族のようにはなれず、何度も踏み絵を踏み「転ぶ」。彼の信仰はもろくいい加減なように見える。しかし、その度にロドリゴを追い、聖職者としての赦しをこうのだ。そのしつこさにロドリゴは嫌悪感も示すが、切実に信仰と赦しを必要としているのは、キチジローのように「良き信徒」になりきれない心の弱い人たちではないのか。一貫して揺るがない信仰、その果てとしての殉教を求めるのは、弱い人たちを切り捨てることになりかねないのではと思えてくるのだ。
 終盤の「その後」のエピソードは、ロドリゴが教会に所属する神父ではなく、個人として神と向き合い続けた結果であるように思う。個人対神という構図が大元にある以上、教会から離れても彼はクリスチャンであり続けたと言えるのではと。ただそれだと、教会の存在意義とは何かという疑問が出てきてしまうが・・・。こういう作品を、クリスチャンであるスコセッシ監督が撮った(そもそも原作小説に強く感銘を受けたということ)ということがとても面白い。