ピント教授は現代のミューズ像を探るという「ミューズ・アカデミー」を開設する。享受の妻は「恋愛は詩がねつ造したもの」と言って夫のミューズ像を否定。生徒たちと議論するうち、愛や欲望も巻き込み彼らの関係も議論も変化していく。監督はホセ・ルイス・ゲリン。
 疑似ドキュメンタリー風の序盤なのだが、見ているうちにやはり明らかにフィクションであり、劇映画的な演出がされていることがわかってくる。特に音の編集の仕方(車内での会話が車の外でもよく聞こえるとか)で「フィクションですよ」という念押しをしている。しかし何よりフィクションだなーと思ったのは、ピントの講義の内容のうすっぺらさ、つまらなさだ。ミューズ云々はともかく、彼の言う「現代のミューズ」像がヘテロ男性にとっての女性像に留まっているところからして前時代的で(じゃあヘテロ女性の表現者やゲイ男性の表現者はどうなるんだということになる)、よくこの人大学で教えてるなと思うくらい。自分個人の性愛指向と、(一般的な)詩作におけるインスピレーションとをいっしょくたにして話すので、講義を真に受けるのがばからしくなってくる。もちろんゲリン監督はそのあたりはわかった上でピントにこういった言動をさせているのだろう。議論の進め方やかなり無理筋な時もある反論の仕方からしても、すごく頭がいいというわけではないという設定なのだろう。ピントは詩人としてそれなりの評価を得ているようだが、生身の女性に誘発されないと創作が進まない程度の才能ということか。
 聴講生の多くは女性なので、ミューズ像を女性に押し付けるかのようなピントの発言には反感を示す学生もいる。ピントのちょっとずれた講義によって、むしろ学生同士の話し合いは深まっていく。またピントの意図に反して全く別の方向に詩作のインスピレーションを感じ始める学生もいる。ピントの愛人は羊飼いの歌を研究しており、羊飼いの1人に異性としても強く惹かれる。羊飼いたちの歌は口頭伝承のようなので、彼はピントがあやつるようなレトリックや記述される為の言葉とは真逆の存在と言える。ピントが彼らの詩を否定するのも無理はないということか。
 恋愛はフィクションだと言っていたピントの妻が、あれこれいいつつもピントへの執着を自認してしまい、若い愛人をけん制するあたりは滑稽でもあるし、もの悲しくも、ちょっと怖くもある。いきなり話が形而下に戻ってきたな!